アイル

この恋は叶わない-2

 それからおよそ三か月経った六月末。アルスラーンの誕生月まで約三か月に迫った頃のことだ。
 アルスラーン一向はギランの海賊を倒した後、戦いに明け暮れていたそれまでの日々が嘘のように平和な日々を王太子府で送っていた。
 しかしそんな平和な日々とは裏腹に、アルスラーンの身体の内部は確実に変化しており、その証拠に項の辺りに時折走る鈍痛の頻度が高くなるのに王子は少しばかり頭を悩ませていた。
 とはいえアルスラーン自身は、それらの症状はこれまでの旅路の疲れが出たのだろうと軽く考えていた。したがって今のような平穏な日々が続けばそのうちおさまるだろうと楽観的に考えおり、あまりに痛みが酷く辛いときだけ医者に偏頭痛がすると言って鎮痛効果のある粉薬を出してもらっていた。
 そしてそんな考えであったので、たかだか偏頭痛ごときで臣下の者達の気を煩わすのは悪いと考え、医者にこの件は誰にも言わないで欲しいと口止めをしていた。よってアルスラーンの身体に起こっている異変を知る者は医者以外一切いなかった。
 さらに不幸なことに、ギランの医者はアルファ性とオメガ性という特殊な性の性分化の際に現れる特異な症状――現在アルスラーンが感じている、項周辺の鈍痛が一番有名なものだ――を、知識としては知ってはいたものの実際に症状を目にしたことは一度も無く、加えてアルスラーンはそれらの症状を「偏頭痛がする」と言っていたので、まさか王太子が性分化を迎えつつあるとは夢にも思っていなかった。
 これが宮廷付きの医者であればまた大きく話しは変わったのかもしれないが、こればかりは仕方の無いことである。

 ちなみに、始終アルスラーンの脇に控えているダリューンと人の機微に敏感なギーヴに限っては、アルスラーンの様子の変化に少なからず違和感を抱いていた。
 もう少し具体的に言うと、ギランに来てからは特に、日を追うごとに主君の纏う空気がどこか色気を帯びたものに変化しているような気がしていたのである。
 そんな調子であったのでダリューンは無意識にその姿を目で追ってしまい、そしてそんな自分自身の行動にいたく戸惑い、一方のギーヴはこれはあと数年もしたら化けるだろうなあと頭の中で大それた感想を抱いていた。
 とはいえ、ギーヴはともかくとして根が真面目なダリューンは自身の主君に対して邪な感情を抱ていてしまっているのを許せるはずも無い。したがってこれはいけないと慌てると、ギランへ来てからしばらくすると彼にしては珍しく頻繁に妓館に通うようになった。
 その変化は些細なことであったものの、何しろ相手は毎夜のように妓館に通っているギーヴでは無く、戦士の中の戦士(マルダーンフマルダーン)として名高いダリューンだ。
 もちろんダリューンはなるべく他の者に悟られぬようにひっそりと行動していたものの、アルスラーンの身を守るために人が出入りする箇所には必ず衛兵が配置されていたので、全ての人間に隠し通すのは到底無理な話しである。よってすぐに衛兵から官女達に話しが伝わり、噂好きの彼女達にかかればあとはあっという間だ。
 ダリューンの噂は王大使府の中で密やかに、しかし確実に広まり、「ダリューン卿は、町にどうやら良い人がいるらしい」という事実とは少々異なる噂が囁かれるようになった。
 噂というものは、とかく事実とは異なって広がるものなのである。

■ ■ ■

「今日もダリューン卿は町に行かれるのかしら」
「ああ、たしか良い人が出来たとか」
「そうらしいわね。ダリューン卿は誠実そうな御方ですから、お相手が羨ましいわ」
「そうねえ」
 ある日の昼下がりのこと。
 アルスラーンはいつものようにナルサスから兵法学や政治について学んだ後、自室に戻って一休みしようと廊下を歩いていたところで、官女達の噂話しの中に自身の忠臣の名前が聞こえたので思わず足を止めた。
 幸いにしてアルスラーンが立ち止まったのは曲がり角の手前だったので双方共に姿は見えず、官女達は噂話しに花を咲かせたままアルスラーンの立っている曲がり角を通り過ぎていく。そして完全に気配が消えたところで、アルスラーンは両手で抱えていた書物を抱きしめるように腕に力を入れた。
「ダリューンに……良い人」
 つまり今の官女達の会話を分かりやすくいうと、ダリューンに恋人が出来たということだろう。
 普段のアルスラーンであれば、謀らずも立ち聞きしてしまったのにまず反省し、聞かなかったことにしようと考えていただろう。しかし今はそれどころでは無い。
 官女達の言っていたことを反芻し、内容を理解した途端に腹の奥底が締め付けられているような感覚に襲われたのに、アルスラーンは思わず顔を俯けてしまう。そしてそんな自分自身の狭量さに、さらに気分が滅入るのを感じた。
 ダリューンだって結婚するには適齢、いや少々遅いくらいだ。それにいつも尽くしてくれている臣下にそういう存在が出来たというのは喜ばしいことのはずなのに、何故こんなにも複雑な気持ちが広がるのか。
 しかもこんな時に限ってそんな気持ちに追い打ちをかけるかのように項に走った鈍痛に、アルスラーンは呻くような声を漏らすと重い足を引き摺るようにしながら自室へと戻った。

 部屋へ戻ると、アルスラーンは窓辺に置いてある棚の引き出しを開けて以前医者からもらった薄紙に包まれた粉薬を箱から引っ張り出し、口の中へとそれを流し込んだ。それからしばらくの間円座に座って大人しくしていると、項の痛みが徐々に引いていくのに小さく息を吐く。
「薬も……あと残り一袋しか無かったな。明日の朝にでも新しい物を貰いに行くか」
 本当は今日行きたいところだが、生憎と今日はこれからダリューンに剣の稽古を付けてもらう約束なので無理なのだ。
 そんな訳で、アルスラーンはしばらくすると剣を片手に中庭へ向かいダリューンといつも通り稽古に励んだ。しかしその内容は久しぶりに散々な結果であり、ダリューンに心配されるほどであった。
 とはいえその原因は、明らかに直前に聞いた官女の噂話しのせいである。したがってアルスラーンはその理由を話すことも出来ず、ダリューンに集中出来なくてすまないとただただ平謝りするしかなかった。


 その日の夜のこと。アルスラーンはいつものように寝台に入ったものの、ダリューンのことを色々と考えてしまいなかなか寝付けずにいた。
 もちろんしばらくの間はなんとか寝ようと瞼を閉じて頑張っていたものの、こういう時は寝ようとすればするほどに余計に目が冴えるものだ。
 アルスラーンもその例に漏れず、ますます目が冴えてしまったのに最終的に寝るのを完全に諦めると、寝台から起き上がって部屋の窓辺からぼんやりと夜空の星を眺めながら、妙に高ぶった気持ちを落ち着けることにした。
 そして何となく目線を空から地面の方に向けた時のことだ。
 眼下に見覚えのある姿が映ったのに目を大きく見開き、思わず声を上げそうになっていた。
「――ッ!」
 ダリューンと名を呼ばずに済んだのは、咄嗟に片方の手の平で自らの口を覆ったからだ。
 我ながら良い反射だとほっと胸を撫で下ろしたアルスラーンであったが、ダリューンの物と思われる黒い影は塀に向かって歩いており――それはつまり、昼に官女達が話していた「良い人」とやらに会いに行くに違いないという考えに至ると、アルスラーンは気分が一段と急降下し、複雑な気持ちが心の奥底から湧き上がるのを感じた。
「いつまでも見ているのも……野暮というものか。明日にはこの気持ちが喜びに変化していればよいのだが……」
 はっきり言ってそんな自信はまるで無いが、自分自身へと言い聞かせるように繰り返しその言葉を頭の中で反芻していると、その間にダリューンの姿が完全に見えなくなる。
 そこでアルスラーンは無意識にキュッと唇を噛みしめ、項あたりでブチリと何かが切断されるような音が脳内で響いたのに眉間に皺を寄せた。そしてそれと同時に項に鋭い痛みが走り、直後、それまで押さえ込まれていた何かが解放されるかのようにジワジワと首筋から熱い鉄を溶かしたかのような熱が溢れ出すのを感じた。
「う……あ、」
 何が何だかさっぱり分からないが、ただ一つ言えることはこれまで数か月間悩まされてきたどの痛みとも異なり、首筋が酷く痛む。そしてそこから発生した熱が少しずつ身体全体に広がり、まるで身体を浸食しているみたいだということだ。
 さすがにあまりに急激な変化にこれは尋常では無いと感じたアルスラーンは、誰かを呼んだ方が良いだろうかと顔を上げる。しかし、今は痛みと熱のせいで歩くのも大声を出すのもままならない。
 それならと、とりあえず医者から予め予備として貰ってあった残りの痛み止めの薬を飲み、少し落ち着いてから医者のところへ行くかと考え直した。
「たしか、医者から貰った薬がまだ一つだけ残っていたはずだ……」
 アルスラーンは壁に手を付いて足を引きずるようにしながら壁際に置いてある棚へと歩み寄ると、引き出しの中から薄紙に包まれた粉薬を取り出して口の中へと流しこもうとする。しかし首筋の痛みのせいで指先に上手く力が入らず、薬が手から滑り落ちて床に中身をぶちまけてしまったのに、思わずへなへなとその場に座り込んでしまった。
「な……なんということだ」
 しかし零して駄目にしてしまったものは、もうどうにもならない。したがって深い深いため息を吐きながら棚に寄りかかり、しばらく大人しくしていればそのうちこの奇妙な熱と痛みもおさまるだろうかと望み薄な希望を抱きながら諦めたように目を閉じた。

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