アイル

この恋は叶わない-3

 アルスラーンが完全な性分化を迎えてその熱に耐えているのとほぼ同時刻。
 王太子府を抜け出ていつものように妓館へと向かう夜道を歩いていたダリューンは、妙な胸騒ぎがするのに道半ばで足を止めると顎に指先をそえながら「ふむ」と小さく声を漏らした。
「何やら……胸騒ぎがするな」
 もともと迷信だとかそういったものは大して信じていないダリューンではあったが、自身の勘に関してはまた別だ。この勘のおかげで戦場で危ない目に会った際に、救われたことも何度かある。
 それに何よりこの胸騒ぎは、王太子府から――つまりは主君であるアルスラーンから離れるにつれて大きくなるのだ。
「……考えるまでも無いな」
 主君に何か事が起こった時に、自身がいないということが有りでもでしたら、悔やんでも悔やみきれない。ダリューンはすぐに身体を反転させると、元来た道を足早に戻り出した。
 妓館に向かうことにはその動機も相まって少なからず気乗りしていないところもあったので、その決断は実に早いものであった。

 ダリューンの私室は、有事が起きた時のことも考えてジャスワントと同じくアルスラーンの私室の近くに配置されている。
 つまり建物正面の出入口から離れた安全な場所にあるのだが、そこまで戻るまでの間にどこにも異常が無いのを確認するように周りの気配を伺いながら黒衣の騎士は足を進めた。
 そしてあと数歩で自室に到着するというところで、ここに来るまでの間に気になることは特に見当たらなかったのに、どうやら先ほど感じた胸騒ぎは自身の杞憂だったらしいと胸を撫で下ろす。しかし直後に廊下の奥の方から蠱惑的な香りが漂ってきているのに気が付き、さらにその香りがまるで身体に纏わりつくような異質なものだったのに戸惑った声を思わず漏らした。
「……なんだ?」
 香り自体は嫌な感じは全くしない。
 いや、むしろその反対だ。
 甘いだけでなく清涼さを含んだその香りは、主君であるアルスラーンを彷彿とさせるもので、ダリューンを魅了してやまない。しかもその香りの発生源が問題で、この廊下の奥にある部屋は……アルスラーンの私室なのだ。
「――っ、ちょっと待て」
 思わず身体がそちらの方に向いてしまい、そこではっと我に帰ったダリューンは、額に手を添えながら冷静に状況を整理し始めた。
「この香りは……初めて嗅ぐものだな」
 ギーヴと違ってダリューンはそもそも香り物なんぞに興味は無いので詳しいことはさっぱり分からないが、ここまで好ましく感じる香りならば少しくらい記憶に残っているはずだ。しかしそれが無いということは、そういうことだろう。
 そして香りと言われて一番に思い付くのは、香油だろう。しかし皆が寝床につくはずのこんな時間に、香油なんぞの香りが漂っているのがそもそもおかしな話なのだ。
「やはり……妙だな。確認しに行くか……?」
 一度気になりだすと、気になってたまらなくなる。とはいえ、こんな夜更けに主君の部屋へ臣下が向かうなど敵襲でも無い限りは絶対に有り得ない。
 しかしダリューンはあれやこれやと理由にもならない言い訳をいくつも頭の中で考えながら、最終的には半ばその香りに吸い寄せられるようにアルスラーンの部屋へ向けて歩き出していた。


「――アルスラーン殿下?」
 ダリューンがアルスラーンの部屋の扉の前で中の様子を伺うように声をかけたのは、申し訳程度に残っていた理性と、臣下の誰よりも高い忠誠心のおかげに他ならない。
 もしそのいずれかが欠けていればそのまま中に押し入っていたかもしれないと、万騎長(マルズバーン)であるダリューンが肝を冷やす程度には扉の前は部屋の中から漏れ出す淫靡な空気に包まれていた。
 そしてその時アルスラーンは部屋の隅で棚にぐったりと寄りかかっていたが、まさかの救いの声が扉の外から聞こえてきたのに目を薄っすらと開け、身じろぎをしながらダリューンの名を小さく呼んだ。
 残念ながらその声はあまりに小さく、ほとんど吐息の状態だったのでダリューンの耳に届くことは無かった。しかし部屋の中にいるアルスラーンの気配が常とは明らかに異なるのにダリューンが気付かぬはずもない。
 主君の異変に気が付くやいなや、ダリューンはそれまで淫靡な空気に少しばかり飲まれていた意識を一瞬にして奮い立たせると、それこそ扉を蹴破らんばかりの勢いで部屋の中へと飛び込んだ。
「殿下っ!如何なさいましたか――…………っ、これは」
 ダリューンが部屋の中へ入ると、窓辺近くに置いてある棚に寄り掛かる格好で主君が座りこんでいるのが目に入って慌てて駆け寄る。
 しかしその一瞬後に甘い香りに全身を包まれて撫で上げられているかのような錯覚に陥ると、アルスラーンの前に膝を付いた。そして甘い香りに誘われるように、目の前にある小さな身体に覆いかぶさり――そこでダリューンはハッと目を見開くと口元を押さえて後退り、主君に何てことをしようとしていたのだと自身を内心で叱咤しながら、アルスラーンとの距離を少し取った。
 そこでもう一度目の前にいるアルスラーンを見たダリューンは、あることに気が付いて思わず声を漏らした。
「まさか――」
 ――殿下はオメガ性なのだろうか。
 そう直感的に感じたのは、本能としか言いようが無い。
 ちなみに今さら言うまでもないだろうが、ダリューンは見た目通りアルファ性であり、アルファ性としての本能が「目の前の人物はオメガ性に違いない」とダリューンに告げていた。そしてそれと同時に、ダリューンはまだ王都エクバターナの宮廷にいた頃にあった、とある出来事を思い出していた。
 その出来事というのは、こうだ。
 とある日の宴会の席でのこと。いつものように酒を浴びるように飲んでいたクバードは、酔っ払いながら「アルファ性のヤツはオメガ性に会えばすぐに分かる!」とかなんとか、嘘か真か分からぬ話を気分良さそうに大声で話していたのだ。
 とはいえ性別に関する話は下世話な部類の話しなので、ダリューンは聞こえないフリをしていたのだが――なるほど、あの話しは真実であったらしい。
 ダリューンは今まで一度もオメガ性に出会ったことは無かったが、クバードの言っていた通り、アルスラーンがそうであると今一瞬にして分かった。
 しかし今までずっと一緒に旅を続けてきたのに何故気付かなかったのだろうかと考え、主君の年齢を今一度思い出す。そしてどこか気だるげな現在の様子から、ちょうど性分化の頃合いに差し掛かった所なのではないかという結論を導き出した。
 そしてそこでタイミング良くアルスラーンが薄っすらと目を開いたので、ダリューンは一度考え事をするのを止めた。
「ダリューン……町へ行ったとばかり思っていたのだが……」
「――殿下の一大事にも関わらず、すぐに駆けつけることが出来ず申し訳ございません」
 ダリューンにとっては、耳が痛い話しだ。
 町に行くときはいつもなるべく物音を立てないように注意していたのだが、アルスラーンが窓辺近くに倒れていたことから察するに、体調を崩す直前に外を眺めていて、その時に外を歩く姿を見られていたのだろう。
 これは誤算だったと思いつつ、やはり主君相手に隠し事はするものではないなと素直に頭を下げると、アルスラーンは気にするなというように片手を上げた。
 とはいえ、正直なところアルスラーンは内心あまり面白い気分で無かったのは確かだ。しかし今は、体調が悪いのを取り繕うことすら出来ずにいたので、ダリューンがそれに気が付くことは無かった。
「いや、謝ることは無い。私の方こそ迷惑をかけてしまってすまない。薬を飲めばおさまると思うのだが……床に落としてしまってこのザマだ」
 そう言うとアルスラーンは力なく笑う。
 そこには普段の快活な様子が一切見受けられないので、ダリューンにしてみるとそんなアルスラーンの台詞はまるで説得力は無い。したがって眉を寄せて心配そうな顔をし、とりあえず現在の状況を把握するために口を開いた。
「薬で御座いますか……失礼ながら、医者は殿下のこの症状のことを知っているのですか?」
「勿論だ。どうやらこれまでの疲れがここに来て一気に出てしまったようなのだ。だから偏頭痛がするのだと医者に話して……それで定期的に鎮痛薬をもらっているのだが、先ほどその薬を床に落としてしまってな。情けない。
 ああ、しかし医者を攻めないで欲しい。こんな風に妙に熱っぽくなってしまったのは本当に今日が初めてなのだ。今までは大したことの無い痛みだったから、こんなに下らないことでおぬしらを心配させるのは本意では無いと言って医者には口止めしていたのだ。」
「左様でございましたか……我々こそ、気付くことが出来ず申し訳ございませぬ」
「いや、不甲斐ないのはこの私だ」
 ただ結果としてやはり心配をかけてしまったから次からは気を付けるとアルスラーンは口にしたが、ダリューンはそれに「とんでも御座いません」と慌てて返答しながら深々と頭を下げて悔やんだ。
 何故なら、宮廷付きの医者ならばともかく、ギランの医者がアルスラーンの症状が性分化に差し掛かっていることを示しているのだと気付かないのも無理は無いと思い至ったのである。
 となると、本来は傍に仕えているアルファ性の者達――ダリューンの他に、ナルサスやギーヴ、そしてファランギースも恐らくはそうであろう――が主君の変化に気付かなければならなかったのだ。そうすれば、性分化の際に生じる痛みや倦怠感などの様々な症状を抑える専用の薬を主君に出すことが出来たのに。
 しかし終わってしまったことはいくら悔いても仕方が無い。ダリューンはとりあえず主君の身体に起こっている事実を説明しなければと、下に向けていた顔を再び上げた。

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