アイル

この恋は叶わない-8

 性分化してから数日ほど経過すると、アルスラーンの身体はようやく安定して落ち着いた状態になった。
 そしてそろそろ普段通り外を出歩いても良いと医者に許可をもらった日のこと。それを小耳に挟んだアルフリードは、せっかくだから殿下の復帰祝いをしたいと言い出し、それもそうかとその日の夜はささやかながらも宴会が執り行われることになった。
 ちなみにこれまたアルフリードの発案でアルスラーンには直前までそのことを知らされず、夕方に話があるからと部下に連れられていった大広間に宴会の席が設けられていたのに酷く驚き、そこでアルフリードが楽しそうな表情をしながら種明かしをすると、嬉しそうに笑顔を浮かべながら皆に礼を言った。

 宴会がはじまってからほんの一時間も経過すると、酒をある程度飲んで興が乗ってきたらしいギーヴがいつもの調子でファランギースにちょっかいを出しながら琵琶(ウード)かき鳴らしだす。そしてそれをアルスラーンが苦笑しながら眺めていると、アルフリードが蜂蜜水の入った水差しを手に持って近付いて来た。
 アルスラーンはあと少しで杯の中身が無くなりそうだったので有難うと言いながらそれを差し出すと、アルフリードはニコリと微笑んで水差しを傾け、場を持たせるようにそういえばと口を開いた。
「あたしはベータ性なんだけど、普通にしている分には殿下の性とは見分けがつかないものなんだね。アルファ性の人たちは色々と露骨だから何となく勘で分かるんだけど……あっ!今のは殿下が今までと変わらず話しやすくて嬉しいって言いたかっただけだから他意は無くて、あ、あれ?これも失礼に当たるのだろうか……申し訳ないです、殿下。あたしはどうもこういうことにはナルサスみたいに頭が回らなくて……」
 アルフリードは慌てたように水差しを床の上に置いて頭を下げ、それを見たアルスラーンは苦笑しながら頭を上げてくれと声をかけた。
「以前と変わらないと教えてくれて、私は嬉しいよ」
 だからこれからも今までと同じように頼むと笑いかけるとアルフリードは「そんなのお安い御用です」と言ってはにかむように笑い、床に置いていた水差しを再び手に取るとアルスラーンの傍から離れて行った。
「アルファ、か……」
 アルスラーンはアルフリードに中身を注いでもらった杯を傾け、彼女の言っていたことを声には出さずに吐息だけで小さく呟くと、ギーヴの奏でる琵琶(ウード)の音色にその声はすぐにかき消えていく。その音色につられるように目線を周りに向けると、そこには何人ものアルファ性と思われる者達がいて、アルスラーンの小さな声に反してその存在感は実に輝かしいものであった。
 アルスラーンが性分化した直後はまだ感覚も安定していなかったのか、ダリューンとナルサス相手に性別を聞いてしまうという失礼極まりないことをしてしまったが、今は皆の醸し出す雰囲気と時折微かに香るアルファのフェロモンの芳香によってその者の性別をほぼ確実に判別が出来るようになっていた。
 そしてこの部屋に来てすぐに感じたことだが、ダリューンはやはり他のアルファ性の者とは違って、何故かアルスラーンの身体を刺激して熱くさせるのだ。
 しかしそれが「番」だからなのか、あるいはナルサスが言っていたことを気にしすぎているせいなのか、そこら辺は未だに判然としないなとアルスラーンは考えながらダリューンの座っている席に目線を向けると、そこはいつの間にかもぬけの空だった。
「――殿下、ダリューン卿は先ほど席を外されましたよ。なに、ご心配なさらずともすぐに戻りましょう」
「っ、……ああ、ギーヴか」
 いきなり横から話しかけられたのに驚いて声のした方に顔を向けると、いつの間にか傍に来ていたらしいギーヴが赤色の液体――葡萄酒(ナビード)の入った杯と琵琶(ウード)を両方の手に持ち、驚かせてしまって申し訳御座いませんと軽く頭を下げながらアルスラーンの近くへ歩いて来た。
「ギーヴとこうやって話すのはほんの数日ぶりなのに、随分と久しぶりな気がするな。寝台の上にずっといたせいだろうか」
「殿下が寝台の上で、少しでも私のことを思い出して寂しいと思って頂けていたのならば、このギーヴ、感激の極みなのですが。実は間に何度か殿下をお見舞いしたいとナルサス卿やダリューン卿に持ちかけたりもしたのですよ?しかしあの二人、おぬしはそういう方面では一切信用が無いと言ってちっとも話しを聞いてくれぬのです」
 ギーヴは 酷い話しだと思いませぬかとやや芝居がかった様子で一気にまくしたてると、口を潤すように酒を一口飲む。そしてその声が聞こえていたらしいナルサスが、少し離れたところから「事実であろう」と突っ込みを入れ、そのやりとりにアルスラーンは声を立てて笑った。
 さすが女性の扱いが上手いだけあって、ギーヴは話術が巧みな男である。
「まあそれはともかくとして、殿下もひとまずは普段と変わりないようで何よりで御座います」
「ああ、先ほどアルフリードにも似たようなことを言われた」
「左様でございますか。……とは申しましても、油断はされない方がよろしいでしょう。今も殿下からは少しばかり良い香りが漂っておりますし……香りに敏感な者が俺の他にいないとは限りませぬ」
 ギーヴはそう言うとアルスラーンの方に少しだけ顔を寄せる仕草をし、数日前に発情しかけた際の残り香であるアルファ性を魅了してやまない芳香を楽しむようにクンと鼻を鳴らした。
 ちなみにもちろんギーヴもアルファ専用の抑制剤を飲んでいたが、元々この楽士の嗅覚は人一倍鋭いので、敏感にそれを嗅ぎ分けたのだ。
 そしてそうやって互いの距離が近付いたせいだろうか。先ほどからギーヴの方から漂っていたアルコールの独特な香りとはまた異なる情熱的な香りがほんのりアルスラーンの鼻をかすめ、思った通りギーヴらしいその香りにアルスラーンは小さく微笑んだ。
 対してギーヴは、それまで色々なところを旅してきたが、こんなにも自身を魅了する香りを間近で嗅ぐのは初めだったので、これは危険な類の物かもしれぬという感想を抱いていた。
 しかしそうは言ってもたかが香りだ。それにアルスラーンの周りには常にダリューンが侍っているので、こんなに間近で嗅ぐ機会もそう無いだろうと考えると、今の内にその香りを堪能しようとさらに身体を近付け――それが運の尽きだ。
 アルスラーンと身体が触れ合うくらい近くまで身を寄せたギーヴは、無意識に手を伸ばすとどうやら芳香の発生源らしい項まで指をゆっくりと這わせてしまい、そこで自身の耳に突然走った鋭い痛みに珍しく飛び上がった。
「――い、っ!」
「おぬし、いくらなんでもそれは不敬であろう」
「あ……え?ファランギース殿?」
 ギーヴは未だ自身の置かれている状況が掴めないのかパチパチと瞬きをし、脇に立って耳を摘んでいるファランギースを見上げるが、麗しの女神官(カーヒーナ)はギーヴの方は一切見ておらず、部屋の出入口の方を見つめながら呆れたようにため息を吐いた。
「ダリューン卿の剣の餌食になりたくなければ、早急にその手を引っ込めることじゃな」
「ん?……おっと、これはこれは」
 ファランギースに促されるがままに出入口の方に目線を向けると、ダリューンが腰に佩いた剣の柄に手をかけた状態でギーヴを射殺さんばかりの勢いで睨み付けていた。辛うじてその刀身が姿を見せていないのは、ここが宴の席であり、尚且つ主君の御前だからだろう。
 それを見た後にギーヴは目の前のアルスラーンの方へ再び目を向け、そこで何故か自身の手が主君の項に這わされていたのに目を見開いた。
「おっと……これはなんと」
 無意識下での行動だったとはいえ、さすがのギーヴもこれは不味いと慌てて手を引っ込めると素直に頭を下げた。
「私の不注意で殿下にはとんだご無礼をお掛け致しました。大変申し訳ございません」
「いや、大丈夫だ。私もどうやら迷惑をかけてしまったようですまない」
 なるほど、オメガ性の香りというのはアルファ性をこのように惑わせてしまうのかと初めて知ったアルスラーンは、自分自身でもきちんと気をつけなければならないと心に深く刻む。
 その間にファランギースはアルスラーンに一礼をすると、ギーヴに「おぬしは罰として殿下が自室にお戻りになるまでずっと琵琶(ウード)を引いておれ」と言いながら部屋の隅の方へ引きずって行き、その後にさり気なくジャスワントが続いた。
 そしてその場が一段落したところで、入れ替わりにダリューンが早足にアルスラーンの元へと歩み寄ると目の前に跪いた。
「殿下、私が席を外していたばかりにすぐに対処出来ずに申し訳ございません」
「ありがとうダリューン。しかし私がぼんやりとしていたのも悪いのだからギーヴをあまり攻めないでやってくれ」
 アルスラーンが頼むと言いながら眉尻を下げて困った表情をすると、ダリューンが慌てたように再度頭を下げて「滅相も御座いません」と口にした。
「しかしこの状態は……困りましたなぁ」
「ああ、ナルサスか。困る、というと?」
 とりあえずギーヴとダリューンの衝突は避けられそうだとアルスラーンが胸を撫で下ろしていると、それまで少し離れたところで酒を楽しんでいたナルサスがアルスラーンの元へと歩み寄り、近くに置いてあった円座へと座るとダリューンとアルスラーンの会話へと割り込む。
 ついでにちゃっかりとナルサスに付いてきたアルフリードもその横に座ると、それを監視するかのようにエラムが彼女の隣に腰掛けた。
「抑制剤を飲んでいるギーヴがこの有様とは、少々予想外だなと思ったのです。殿下にはご不便をお掛けしてしまうので大変心苦しいのですが、アルファ性の者とはあまり近付き過ぎないようによう極力お気を付け下さいませ」
「そうだな……ナルサスの言う通りにしよう。それにしても、私はもう発情期とやらは完全に治まったと思っていたから少し意外であった。自分自身では匂いは分からないし、結構不便なものだな……」
 試しに腕を鼻に近付けてクンと鼻を鳴らしてみるが、やはりさっぱり分からない。むしろアルスラーン自身の香りよりもダリューンの香りの方がほんのりと香って来て、項の辺りがジクリと疼く。
 そして案の定アルスラーンはそれに少しばかり気を取られて、ナルサスが話している最中にも関わらずぼんやりとしてしまうのであった。
「しかしこれら全ての苦労も、アルスラーン殿下が番を見つけられれば全て解決で御座います」
「――っ!?」
 アルスラーンがぼんやりとダリューンの方に意識を向けているのに気が付いたのか、あるいはナルサスも少なからず酔っていたので軽いノリでの発言なのか。
 藪から棒に飛び出したナルサスのとんでもない台詞に、アルスラーンは一気に現実に引き戻されると頬をほんのりと赤らめ、ダリューンも大きく肩を揺らすとその拍子に少しばかり杯から零れ落ちて指を濡らした酒を、慌てて拭った。
 恐らく、言葉での攻撃ならぬ口撃で、ナルサスの右に出る者はいないだろう。彼の表情は相変わらず普段と全く変わらないので、どこまで本気なのか分からないのがまた曲者なのだ。
 ただ番云々という話しは、数日前に寝所で同じくナルサスから話されてはいたので、今のアルスラーンにはある程度耐性がある。したがって、アルスラーンは床に置いていた杯を手に取ると中の蜂蜜水を一口飲み、何とか平静を装いながら鷹揚に頷いた。
「――そっ、そうであったな。うん」
 ダリューンが番かもしれないとナルサスに指摘されてからというもの、アルスラーンは日を追うごとにダリューンのことを考える回数と時間が増え、今では自分自身でもはっきりと分かるくらいに彼のことを意識している。つまりは先日ナルサスが仕掛けた罠に思いきりかかった状態というわけだ。
 そこで再びナルサスに駄目押しの攻撃を食らい、ダリューンへの思いを見抜かれたように直感的に感じた年若い王太子の顔はいつもより明らかに火照っている。加えて王太子という立場上皆がよく見える場所に座っているので、皆からも彼の表情がよく見えるのだ。
 つまりはアルスラーンがいくら平静を装ったところで、それは全くの無駄骨であり、それに気が付いていないのはアルスラーン本人だけであった。
 しかし事態はこれで終わらない。
 それまで黙ってアルスラーン、ダリューン、そしてナルサスの様子を見ていたアルフリードが何かに気が付いたのかパッと顔を上げて両手を叩くと「あっ!」と大きな声を上げた。
「ああ、分かった、分かったよナルサス。どうもアルスラーン殿下とダリューン卿の様子がおかしいと思っていたけど、もしかして……いやもしかしなくても、二人とも実は好きあっているのか!」
「なっ、おぬし突然何ということを言い出すのだ!そもそも殿下と私など身分が違いすぎるし、失礼であろう!」
 もちろんダリューンは腰を浮かせてアルフリードに抗議をするが、アルフリードは目を輝かせながら横にいるナルサスにどうだ!と言わんばかりに話し掛けていたのでダリューンの言葉を聞いている様子はまるで無い。
 それではと、ダリューンはその隣に座っているエラムにその娘をなんとかしてくれぬかと目で必死に訴えるが、エラムはエラムで「ナルサス様にくっつきすぎだ!」とアルフリードに噛みついていたので、やはりダリューンの意思が伝わることは無かった。
 さらに間の悪いことに、部屋の隅の方でファランギースとジャスワントに両脇を固められていたギーヴが首を突っ込み「ダリューン卿も満更でも無いようですぞ、殿下!」なんてはやし立てるのだ。
 無論ダリューンは、口だけとはいえまた殿下にちょっかいを出すとは懲りぬ奴だと「余計な口を出すな」と牽制をしたものの、監視役とはいえ隣にファランギースが座っていて気分が良いのか、ギーヴの舌が止まりそうな気配はまるで無い。
 そして一連の臣下達のやり取りを見て、事態が収束するどころかあちこちに飛び火してますます悪化しているのに焦ったアルスラーンは、両手を力無く胸元まで上げながら何とかおさまって欲しい一心で咄嗟に口を開いた。
「あ、いや!ダリューンには番とかそういうことは気にして欲しく無いのだ。それにダリューンには相手が……――ッ!?」
「ほう、相手が……そうなのか?ダリューン」
 一応言い訳しておくが、アルスラーンがうっかり余計なことまで口走ってしまったのは、慌て過ぎてしまったためだ。しかし思わず口を滑らせてしまった内容が、自分自身のことならまだしも、ダリューンのプライベートなことであったので、アルスラーンは何てことを言ってしまったのだと、そのままの体勢でピシリと固まった。
 そしてアルフリードの相手に難儀していたナルサスは、ここぞとばかりにアルスラーンの発言を拾うと顎に手を当てて考えるような素振りを見せながらダリューンの方にちらりと目線をやる。しかしその目は思いきり笑っていたので面白がっているのが丸分かりだ。
 無論ダリューンにとっては身に覚えの無い話しなので、目を見開いてアルスラーンの方を見つめ、目が合ってしまったのに驚いたアルスラーンは慌てて下を向く。とはいえそのまま黙っている訳にもいかないので、アルスラーンは今の問題発言について言い訳をするようにもごもごと口を動かした。
「そっ、その、すまない!うっかり口を滑らせてしまった。今のは聞かなかったことにしてもらえぬだろうか……」
「いえ、そういう訳には参りません」
 ダリューンにしては珍しくきっぱりと断ってきたのにアルスラーンはうっと息を飲む。しかし続けて発せられた予想外の言葉に、ポカンと口を開いた。
「私はその相手とやらに一切身に覚えが無いのですから」
「えっ」
 さらに「もちろん、剣に誓って」と付け加えられたらもう何も言えない。
 ダリューンはそもそも嘘を言うような性格では無いので、彼がそう言うのならばそうなのかとアルスラーンは素直に納得する。
 しかしそうだとしたら、数日前に見た町へ向かうダリューンの姿は何だったのだろうと考えながら視線を何となく部屋の隅に向け……そこに座っていたギーヴと目が合った瞬間、彼が毎夜のように妓館に通っているのを思い出したアルスラーンは、ああそういうことかと合点がいった。
 今までアルスラーンは女性に大して興味が無かったのですっかり失念していたが、ダリューンだって成人の男性なのだ。
 つまりは、そういうことなのだろう。
 正直に言うと面白い気分では無かったが、特定の相手では無いし、そこまでアルスラーンが口を出す権利は無いというのは分かっている。それにその事実が分かっただけでも良かったでは無いかとアルスラーンは自分自身を納得させると、ほっと小さく息を吐いた。
 そしてそこでタイミング良くナルサスが手に持っていた酒杯を床の上に置き、皆を見渡した。
「――さて。それでは夜も更けて参りましたしそろそろお開きと致しますか、殿下」
「あ、ああ、そうだな。皆、今日は有難う。久しぶりにとても楽しかった」
 アルスラーンが頭を下げると、皆一様に嬉しそうな表情を浮かべる。それを胸に焼き付けながら、心の隅でダリューンとの件を追及されなかったのに胸を撫で下ろしていたアルスラーンであった。
 しかし少々不自然に宴の終わりを告げたのは、あのナルサスだ。
 直後にちゃっかりとジャスワントでは無くダリューンを指名して「殿下を頼む」と笑顔で言葉を続けたあたり、策士であった。

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