アイル

騎士の慕情-1

アルスラーン一向がギランでの騒動を一段落させた七月初旬。それまでの嵐のような毎日とは一転して、皆穏やかな日々を過ごしていた。
 そしてそんなギランでのとある日の夜のこと。
 アルスラーンは部屋の扉を少しだけ開けると、扉の前に立って暇そうに大欠伸をしていたギーヴを手招きした。
 ちなみに毎夜のように妓館に通っているギーヴが何故そんな場所にいるのかというと、その日の晩の護衛当番が彼だったからである。
「ギーヴ、今夜も少しだけいいだろうか」
「――っと……これはこれは殿下」
 ギーヴは欠伸を見られたのに気が付いたのだろう。すぐに居住まいを正すと、女性に向けるようなキラキラとした笑みを浮かべながら大げさな身振りでアルスラーンに歩み寄った。
 もしここにダリューンが居たら間違い無くそんなギーヴの態度に嫌味の一つ二つを口にしただろう。だがアルスラーンとしては、こんな夜にやることも無くぼんやりと廊下に立っていれば眠くなるのも当然だろうと思ったので、特に咎めるようなことはしなかった。
「すまないな、こんなに夜遅くまで」
「いえいえ、とんでもございません。殿下の護衛が出来るとは、身に余る光栄でございます」
 ギーヴはアルスラーンの目の前まで歩み寄ると、これまた大げさに頭を下げる。そして数秒数えた後にゆっくりと頭を上げると、小さく首を傾げた。
「……して、今宵も旅の話しをご所望ですか?」
「ああ。その……迷惑でなければ是非聞かせて欲しいのだが」
 そう言いながらチラリとギーヴの顔を見上げると、彼は心得たというようにニコリと微笑む。そして承知いたしましたと言うと胸元に手を添えながら再び頭を下げた。
「それにしても、殿下は本当に旅の話がお好きですな」
「ああ。今はともかくとして、王宮にいたときはほとんど外に出ることが無かったからだろうなあ」
 そのせいか、人一倍外の世界に憧れがあるかもしれないと言いながら扉を大きく開けると、ギーヴは慣れた様子でその扉を潜って部屋の中へと入った。
 普通であればいくらギーヴであっても、主君であるアルスラーンの部屋に入るのに多少は遠慮しただろう。しかしその様子が見られないということは、以前にも何度か似たような経験があるということを示している。
 そしてその通り。ギーヴが夜の護衛を行う時には、アルスラーンは彼に旅先での話しをして欲しいとほぼ毎回ねだっていた。
 ちなみにこのようなことをギーヴにねだるようになったのは、どうやら今いる仲間の中で彼が一番色々な場所を旅しているらしいと知ったからだ。
 しかしこの男、昼には町に繰り出して町娘に声をかけ、夜となると妓館に通うのに「忙しそう」なので、普通に彼の部屋へ行っただけでは捕まえられそうにないのだ。とはいえ、無理矢理ギーヴを呼び出して彼の「日課」を邪魔するのは、アルスラーン的には本意では無い。
 そんなわけで、消去法により護衛の時に話しを聞くという今の形に落ち着いたのである。
 ――ということを、扉を閉める前に廊下に誰もいないのを確認しているギーヴの姿を見ながら、アルスラーンは思い出す。
 そしてそこで、彼は護衛という任務の真っ最中なのだということを今さらのように気が付くと、パッと目を見開いた。
「そっ、そういえば、おぬしは護衛の最中だったのか!ずっと気付かなくて、すまない!」
 ギーヴはどこか飄々とした雰囲気を常にまとっているので忘れがちだが、彼は任務の真っ最中であり、その最中にも関わらず話しを聞きたいとせがむのは、どう考えても彼の仕事を邪魔しているだけだ。
 自身のとんでもないわがまま発言に、これはいけないとアルスラーンは慌てた様子でギーヴが閉じかけていた扉の取っ手に手を伸ばす。
 しかしギーヴはその手が届く前にさっさと扉を閉めてしまうと、まあまあとアルスラーンを宥めながらちゃっかりと腰に軽く手を添え、窓辺に置いてある円座まで案内した。
 さすが、日頃から女性に甘い言葉を囁きかけているだけあって、このくらいのエスコートは手慣れたものである。
「旅の話しをするくらいお安い御用でございますから、護衛の件はどうぞお気になさらず。……といいますか、正直なところ一人きりで真っ暗な廊下で護衛するのは、少々寂しいのですよ。しかし殿下とお話しをしていれば、その寂しさも紛れますし、事が起きた時にはすぐにお守りすることも出来ます。ですから、私としてはむしろ一石二鳥と思っているのです」
 そう言うと、ギーヴは軽く笑う。ただ万が一ダリューン卿にこの事が露見してしまった時には、口添え頂けると大変助かりますというと片目をつぶって見せたのに、アルスラーンは一瞬呆気にとられたような表情を浮かべる。
 しかしすぐにこれが彼なりの思いやりなのだと気が付くと、礼の言葉を口にしながら大きく頷いた。

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