アイル

騎士の慕情-2

「さて……ところで今日はいつもとは趣向を変えようと思いまして、面白い物を持ってきたのですよ」
 ギーヴはアルスラーンが円座に座ったのを確認した後に自らも座ると、耳元に顔を少々近付けて内緒話をするときのように声のトーンを落として話しかける。
 その時のギーヴの表情は猫のように目が細められ、さらに口角がほんの少し上がっていたので、ダリューンあたりがその場にいたら間違い無く横槍を入れただろう。
 しかし生憎とその場に彼はいなかったので、アルスラーンは止めるどころか先を促すように首を小さく傾げていた。
「面白い物?」
「ご覧になりますか?」
 ギーヴはもったいぶってさらに確認を取る。それにつられてアルスラーンが思わず身を乗り出して大きく頷くと、ギーヴは「特別ですよ」と言いながら自身の懐に片手を突っ込んでその中を探る。そして数十ページほどの紙の冊子を取り出すと、それをアルスラーンの目の前の床に置いた。
「これは……本、か?」
「一言で言えば、そうですね」
 床に置かれた本をまじまじと見ると、それは王宮で普段見る書物よりも紙がザラついており、印刷もやや粗い印象を受ける。
 ということは町で売られている本なのだろうかと尋ねると、ギーヴはその通りでございますと頷いた。
「この間町に行ったときに偶然店の者にすすめられたのですが、なかなか良い内容だったので殿下に是非、と。殿下はあまりこういった物を手に取られたことは無いかと思いますし」
「えっ!?」
 高価な物では無いので申し訳ないのですがとギーヴは苦笑を浮かべているが、そんなことはアルスラーンにとっては全く問題では無い。むしろ今まで一度も目にしたことが無い物なので、どんなに素晴らしい金銀財宝よりも輝いて見えるくらいだ。
 しかしアルスラーンは、国対国ならばともかくとして、こういった個人から物をもらうのはほとんど経験が無い。したがって恐縮してしまい、どうしようと慌てふためいていると、ギーヴはその様子を見てニコリと笑みを浮かべた。
「そうですね……私は、殿下の部屋でお話ししていることを他の者には秘密にしたいと思っております。ですから、これはそれに対する対価ということでいかがでしょうか」
 ギーヴ的にはこの件が他の者に露見し、任務を疎かにしていると言われたとしてもどうってことない。
 こう見えても話している最中もずっと周囲に気を配っているし、話が済んだ後にはしっかりと部屋の外で他の者と同じように護衛をしているからである。つまりは、彼的には十分に任務を全うしているので、文句を言われる筋合いは無いというわけだ。
 ただ先のアルスラーンの反応から察するに、こうでも言わないと生真面目な主君のことだから本を受け取らないだろうと思い、咄嗟の思い付きでそう口にしたのだ。
 そしてそれを聞いたアルスラーンは、数回瞬きをした後に考えるように目線を横にそらし――ギーヴに気を使わせてしまったとか、しかしここで断わっては逆に申し訳ないとか、それ以前にやはり本に興味があるのだとか、色々なことを考える。
 そしてその後におずおずと顔を上げると、本当にいいのだろうかと遠慮がちに口にした。
「ははは。そんなに遠慮なさらずともよろしいのに。ご希望とあらば、十冊でも二十冊でもお持ちいたしますよ」
「い、いや!そんなには!」
 ギーヴの軽口に慌てて首を振ると彼は笑い声を上げ、それではそろそろ夜も更けて参りましたのでと口にすると円座から立ち上がった。


「ああ……そうだ。先ほどお渡しした本ですが、保管場所には十分にお気を付けくださいませ」
「もちろんだ」
 廊下に出たところで、いつものように礼の言葉を口にしようとした時のことだ。ギーヴがそこでくるりと振り返って口にした言葉に、アルスラーンは大きく頷くと部屋の書棚に保管しようと思っていると告げた。
 ついでに、紙が劣化しやすそうだったから日の光が当たらないように十分気をつけると言葉を重ねると、ギーヴは苦笑を浮かべた。
「そんなご大層なものでは全く無いのですが。しかしまあ、あの手の本の保管場所と言えば、世間一般的には寝床の下とか屋根裏あたりでしょうから、日の光が当たらないという意味では似たようなものなのか……」
「え?寝床に……天井裏?」
 ギーヴが何かを思い出すようにぼそぼそと小声で呟いていた言葉の意味が分からなかったので思わず繰り返すと、彼はひょいと片眉を上げた後に肩を竦める。
 そして「中身をご覧頂ければ大体のところは分かるかと」と言った後にいつものように一礼をして就寝の挨拶をすると、扉の脇に立って完全に護衛の体勢に入ってしまった。
「あ、ああ……お寝み」
 はっきり言って、アルスラーンには何が何やらさっぱりだ。しかし完全に護衛する体勢に入ったらしいギーヴを邪魔するのも気が咎めたので、手短に挨拶を返すと部屋の中へ戻る。
 そして床に置かれていた本を取り上げてぺらぺらと数ページめくり――
「う、わぁっ!?」
 思いがけず男女が裸で絡み合う絵が次々と飛び込んできたのに、素っ頓狂な声を上げながらその本を取り落すと、耳まで真っ赤に染めながら思いきりその場から後ずさった。
「なっ、なっ……!?」
 何だこれはという言葉は、驚きのあまりちゃんとした言葉として形をなすことは無かった。
 しかし先ほど目に入った絵から察するに……渡された本は、いかがわしい本で間違い無いだろう。
「なんて、ことだ……」
 ギーヴが思わせぶりな態度を取っていたのでおかしいとは薄々感じていたが、まさかこんな本を渡されるとは。
 いや、しかしだ。彼の日頃の行動から考えてみると、ある意味一番彼らしい選択でもある。
 そして現実逃避がてらそんなどうでも良いことをつらつらと考えていると、先ほどのアルスラーンの声が聞こえたのか。扉の外から中の様子を伺う声をかけられているのにようやく気が付いて顔を上げた。
「アルスラーン殿下、いかがされましたか?」
「ギッ、ギーヴ?」
「いえ、私はダリューンでございます。ギーヴは横におりますが」
「――ッ!?」
 ダリューンはよく気が付くので毎回何かと助けられているが、目の前にいかがわしい本がある今はそうも言っていられない。
 したがって慌てて床に落ちていた本を拾いあげると、壁際に置いてあった机に走り寄ってその上の書物の間に挟み込んで見えないようにする。そして扉まで駆け寄ると、小さく息を吐いた後に何でもない風を装った後、ゆっくりとその扉を開いた。
「い、いや、何でもない。ちょっとつまずいて転びかけただけだ」
 そう言いながら、アルスラーンは小さく苦笑を零す。しかし彼の顔は何故かほんのりと顔を赤く染まっており、常ならば合うはずの目線が全く合わないのにダリューンはすぐさま違和感を胸に抱いた。
 そしてやはり何かあったのではないかと口を開きかけたが、それを遮るようにアルスラーンの方が一足早く疑問の言葉を口にした。
「それより、何故このような時間にダリューンが?」
 アルスラーンがこのようなことを尋ねたのは、ひとまずこの場を誤魔化さねばと頭を必死に働かせた結果なのは言うまでもない。
 とはいえ、今の時間はほとんどの者が自室に下がっている時間帯なので、もっともな質問でもある。それに今日の護衛の任はギーヴなので、ダリューンがこんな場所にいるのもそもそもおかしな話しなのだ。
 そこまで考えたところで、咄嗟に思い付いたこととはいえ、話の矛先を自身からそらすにはなかなか悪くない質問だなと自画自賛する。しかしダリューンもその質問はある程度予想していたのか、意外にも早くその答えを返した。
「先ほどまでナルサスと話しをしておりまして……その帰り道の途中に殿下のお声が聞こえましたので、急ぎこちらに参った次第でございます」
「そ、そうか。心配させてしまってすまなかったな」
「いえ、とんでもございません」
 横からギーヴが「過保護すぎだ」と茶々を入れているのが聞こえるが、ダリューンがそちらに目線を向ける様子はまるで無い。ということは、つまりアルスラーンのことをずっと見つめているということだ。
 そしてそれだけ見つめられれば、先ほど自分が口にした「転びかけた」という言い訳を、ダリューンが訝しんでいるのだろうと何となく分かる。そこでアルスラーンはどうしたものかと頬を指先で掻いた。
「え、えーと……」
 とは言ってもだ。どう考えても「ギーヴにいかがわしい本を渡されて驚いただけだ」、なんてことを馬鹿正直に答えるわけにはいかない。
 それはまあ、精通した場面もばっちり見られてもいるので色々と今さらではある。
 しかしそれらの一件から、何故だか妙にダリューンのことを目で追ってしまうようになっていたので、今のアルスラーンにとっては「そのテのいかがわしい物」を彼に見せるのは出来るだけ避けたいことなのだ。
 少々話がそれたが……つまり、それはそれ、これはこれということである。
 そんなわけでひとまず何とかこの場をおさめようと必死に考えるが、焦れば焦るほど考えがまとまらないのにいよいよ本格的に冷や汗をかきだしたところで、それまで完全に蚊帳の外扱いされていたギーヴが「まあまあ」と言いながら二人の間に割って入った。
「もう夜も遅い。ダリューン卿も早く自室に戻って、お寝みになってはいかがか」
「しかし……」
 ダリューンは納得がいかないのか、眉間に少し皺を寄せながら浮かない表情をしている。
 しかしギーヴが畳み掛けるように「殿下もお疲れだろう」と告げると、それまで躊躇していた様子はどこへやら。ハッと顔を上げると、慌てた様子で謝罪の言葉を口にして頭を下げた。
 そして律儀にもう一度頭を下げて就寝の挨拶をした後、何度かアルスラーンの方を気にするような素振りを見せながらも自室へと戻って行った。

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