アイル

騎士の慕情-3

「ふむ……相変わらず、ダリューン卿は殿下のこととなると常人とは思えぬほどの勘の鋭さですな」
「礼を言う。あ、危なかった……あの本のことがダリューンに知られてしまうかと思って肝が冷えた……」
 ダリューンが歩いていった廊下の方角を眺めながら、ギーヴは感心したように顎をさすりながら呟きを漏らした。
 しかしアルスラーンにはその内容がはっきりとは聞き取れなかったので特に返答はせず、ひとまず礼を口にしながら額に浮かんだ冷や汗を拭い――一瞬後にハッと目を見開くと、彼にしては珍しく物凄い勢いでギーヴの方に顔を向けた。
「そ、そうだ!そんなことよりギーヴ、先ほどの本は――」
「シッ、お静かに。またダリューン卿がやって来ますぞ」
「っ、う……あ、ああ」
 ギーヴは口元に人差し指を添えながらダリューンが歩いて行った方角に目線を向けている。
 相変わらずどこか芝居がかった仕草だったので、さすがのアルスラーンも何やら胡散臭いものを感じたが、彼の言うことは事実でもあるので拳を握っていた両手のうちの片方を開いて自らの口を反射的に塞ぐ。
 するとギーヴはニコリと綺麗な笑みをその顔に浮かべながら、ああ、あの本を見られましたか?と口にした。
「部屋の中から物音がしたので、何かあったのかと私も心配していたのですが……なるほど、そういうことでしたか」
 ギーヴはあの本を渡した当の本人である。だから大体のところは分かっているだろうに。
 腕を組みながら白々しく頷いている姿は、まるで今その件を知りましたとでも言わんばかりの態度であった。
「――ああ、殿下。ご心配なさらずとも、他言するような野暮なことはいたしませんのでどうかご安心を」
 ついでに店の者に聞いたところによるとあの本は今一番の売れ筋らしいですよ、なんてどうでもいいような、よくないような、微妙な情報をアルスラーンの耳元で囁く。
 そして最後に「殿下のお役に立てると良いのですが……」と悩まし気な表情で口にした。
「役立つ……?」
 何が、何に、役立つと良いと言っているのか。
 今の話しの流れから考えると、あのいかがわしい本が……というところまで考えたところで、ギーヴに随分と前に教えられた「自慰」という言葉が唐突に頭の中に浮かぶ。
 そして点と点が繋がる感覚を覚えたアルスラーンは、つまりはそういうことか!と理解するとカッと頬を赤く染め、上体をのけ反らせるようにしながらギーヴから身体を離した。
「いっ、いや!私はそんなことはしない!……というか、あの本を部屋に置いておくと掃除の時に侍女の者に見られるかもしれないし……その、置き場所にとても困るのだが……」
 つまり何を言いたいのかと言うと、ギーヴに引き取って欲しいと言外に言っているわけだ。ただその語尾が弱めなのは、彼がせっかく持ってきてくれた物であるからに他ならない。
 しかしギーヴは軽快な笑い声を上げると、勇気づけるように力強く頷いて見せた。
「なに、ご心配には及びませぬよ。こういった物は世の男達の娯楽の一つでございます。むしろ口を出す方が野暮というものです」
「えっ、あっ、しかし」
 一連の彼の言動から察するに、どうやらギーヴは先ほど渡した本を受け取るつもりは全く無いらしい。
 少し遅れてそれに気が付いたアルスラーンは、慌てて顔を上げるが時はすでに遅し。ギーヴはアルスラーンが口を開く前に「もう夜も遅いですから」と言いながら閉じていた部屋の扉を開くと、その中へアルスラーンを案内した。
「それでは、夜遅くまでお騒がせしてしまい申し訳ございませんでした。お寝みなさいませ」
「あ、ああ。お寝み」
 アルスラーン自身半ばパニック状態になっていたのも相まって、ギーヴの挨拶の言葉をオウム返しするしか出来ないでいると、その扉は静かに閉じられてしまう。
 そしてそれは、本を返却するタイミングを完全に逸したことを示していた。

「また今度……考えよう」
 アルスラーンはギーヴによって閉じられた扉を見つめながら深い深いため息を吐くと、よろよろとした足取りで寝室に向かって歩きだした。

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