アイル

黒衣の騎士が理性を失う時-3

 時というものは、止まって欲しいと願えば願うほどに足早に過ぎてしまうものだ。
 そしてダリューンがアルスラーンの部屋を訪れてからあっという間に一週間が経過すると、その日はついにやって来た。

 アルスラーンはいつものように政務を終え、自室へと戻る途中のことだ。彼は部屋へ戻るまでの途中にある回廊を歩きながらぼんやりと夜空を見上げ、珍しく周りに聞こえるような大きなため息を吐いた。
「はあ……今日、であったな」
「お久しぶりです、陛下」
「――ッ!?ギ、ギーヴ!」
 周りに誰もいないのを確認した上でのため息であったが、思いがけず聞き覚えのある声がしたのに慌てて下にうつむけていた顔をパッと上げる。するとそこには、「巡検使(アムル)」の任を全うすべく、旅に出て宮廷からしばらくの間姿を消していたギーヴの姿があった。
 そして彼はアルスラーンと目が合うと、人懐っこい笑みを浮かべなら頭を下げた。
「ただいま戻りました」
「まさか……こんな場所にいるとは思わなかったから驚いた。今戻ったのか?」
「ええ。本当はもう少し前に到着する予定だったのですが、思ったよりも遅くなってしまいました。きちんとした報告は明日になりそうです」
 そう言うと、ギーヴは小さく肩を竦めて見せた。
 本当のところ、彼は長旅の疲れを癒す前に面倒事は全て済ませたかったのだ。しかし思ったよりも馬の足が進まず、宮廷に到着した頃には陽が落ちてしまい、結局報告し損ねてその日の予定が大幅に狂ったというわけだ。
 しかし終わってしまったことをいくら悔いても仕方が無い。それならと、久しぶりにエクバターナの歓楽街にでも行こうかと考えながら宮廷の廊下をブラブラと歩いている途中で、こうやってアルスラーンと鉢合わせた。
 ――というのが、ギーヴがここまでやって来るまでの流れである。

「ところで、陛下がため息とは珍しいですな。何か悩み事でも?」
「えっ、あ、いや」
 ギーヴはもともと面倒事に進んで首を突っ込むような性格では無い。したがって、そう口にしたのは単なる気まぐれだ。
 しかしそれを聞いたアルスラーンは、少々大げさなくらいに身を大きくと引くと、何でもないのだと言いながら目線を思いきり泳がせる。そしてそんな分かりやすすぎる反応に、相変わらず嘘をつけない性格だなとギーヴは内心で感想を述べた。
 そして彼がこのような反応を示す時は大抵ダリューン絡みなのだということを思い出したギーヴは、「そういえば――」とさらに続けた。
「先ほど、外でダリューン卿とすれ違いましたが」
「――ッ!」
 予想通り。アルスラーンは勢いよく顔を上げてギーヴの顔を見つめる。
 しかしその顔はいつものように赤らんでおらず、それどころかみるみる青ざめていくのに、ギーヴはおやと目を瞬かせた。
 アルスラーンとダリューンがどうやら付き合っているらしいというのは、もちろんギーヴは気が付いていた。しかしこの反応から察するに、二人はギーヴが王都より離れている間に珍しく諍いでもしたのか。
 ――これはこれは、珍しいこともあるものだ。
 ギーヴは俄然興味が湧くのを感じると、アルスラーンが下を向いているのをこれ幸いと口角をひっそりと上げた。
「決して他言はいたしませんので……お悩みの事がございましたら、是非相談に乗らせていただきたく」
 畳み掛けるようにさらにそう口にすると、アルスラーンはギーヴのことをじっと見つめ、その青い瞳を揺らめかせた。


 結論から言うと、アルスラーンは自室へギーヴを招き入れ、彼にダリューンのことを打ち明けることにした。
 一応言っておくが、二人の関係は公にはしていないので、他の人間に話すつもりなど全く無かった。
 しかしよくよく考えてみると、ギーヴはアルスラーンの知っている人物の中で一番に恋愛事に長けている人間なのだ。それにアルスラーン自身、今回の件は不安でたまらなくて、一人で抱え込むのが辛かったのである。

「その……実は私は、ダリューンと交際をしているのだが……」
「ああ、はい」
 そこで一度言葉を切ると、アルスラーンはギーヴの顔をチラリと見る。しかし意外にも彼の反応は素っ気無く、まるで世間話をしているかのようなノリである。
 アルスラーン的にはかなり重大な告白だったので、ギーヴの反応は少々肩透かしだ。したがって思わずポカンとした顔で彼の顔を眺めていると、ギーヴは出された茶を片手に持ちながら不思議そうな表情をしながら首を傾げた。
「――して?」
「あ、ああ。それで、その、一週間ほど前にルーシャンからダリューンにとある貴族の娘が紹介されたそうなのだ。そして今日、その者の家で一緒に食事をすると……」
「なるほど、縁談でございますか。だから先ほど外でダリューン卿とすれ違ったのですな」
 ダリューン卿の邸宅とは方角が違うので、少々おかしいと思っていたのですよと言いながらギーヴは頷く。そしてそれを聞いたアルスラーンは、さらに気分が滅入るのを感じ、顔を下にうつむけた。
「このことは、ダリューンもちゃんと事前に私に教えてくれた。それに彼にも立場と言うものあるから、こればかりは仕方ないというのは分かっているのだ。
 しかしここのところ、侍女達がダリューンに縁談話が持ち上がって結婚も秒読みだと噂しているのを聞くと焦るというか……それにダリューンは以前から私の部屋にあまり来てくれないし、実は彼の優しさで私の我儘に付き合ってくれているのだろうかとか色々と考えてしまって……――というか、私は何を口走っているのだろうか。よくよく考えてみるとこれではただの愚痴だ。変な話しを聞かせてしまってすまない……」
 つまるところは、ダリューンがあまり手を出してこないのも相まって、不安と嫉妬を持て余しているだけなのである。それをギーヴにぶちまけているだけだとようやく気が付くと、アルスラーンは円座の上で背中を丸めるように小さくなった。
 せめてもの救いは、ギーヴが特に気にした風もなく「なるほど」と相槌を打っていることだ。
 しかしそもそもアルスラーンは、こんな風に恋愛事の相談を他の者にしたことが一度も無いのだ。したがって今さらのように恥ずかしさと情けなさがこみ上げて。一人で顔を赤くしたり青くしたりしていると、それまでアルスラーンの話しを聞くのに徹していたギーヴが大きく頷いた。
「つまりは……ダリューン卿があまり手を出して来ない中で今回の縁談の話しが持ち上がったので、陛下はご不安であると」
「うっ!ま、まあ……」
 身も蓋も無い表現ではあるが、彼の言うことは正しい。
 したがって気まずい表情をしながらも渋々と頷くと、ギーヴはそれなら良い考えがございます言いながらアルスラーンの方へ身を乗り出した。
「あのダリューン卿が好意も無いのに付き合っているとか、絶対に有り得ませぬ。というか傍から見ていると、あの者ほど、陛下への慕情が強い者はまずおりませぬよ。しかし真面目な御仁ですから、陛下に手を出すのをためらっているだけかと。……――ああ、そうだ。いっそのこと、陛下から誘ってみては?」
「……、さっ、さそっ、誘うっ!?」
 一瞬ギーヴが何を言っているのか分からず、頭上に疑問符を浮かべる。しかしこの話しの流れから察するに、つまりはアルスラーンの方からダリューンを誘惑するということだろう。
 それを理解し、あまりに予想外な展開に思わず上体をのけ反らせると、アルスラーンは頬を赤く染めながら無理だ!と言いながらぶんぶんと首を横に振った。
 今だってアルスラーンの方から口付けをするだけでも決死の思いなのに、ダリューンを誘惑するなんて絶対に考えられない。
「というか、そもそも誘惑をすると言っても何をしていいのかすらも分からないし……」
 そうポロリと零すと、ギーヴは耳聡くをその言葉を拾い上げたのか。そんなの簡単ですよと言いながら片目を瞑ってみせた。
「そうですね……まあ定番と言えば、胸を押し付けるとか。あとは手慣れた者になると、さらに下着をつけていないとか……」
 ぎこちなくなってしまっても、男という生き物は簡単に騙されるものですからご心配召されますなとギーヴは言うと、目の前に置かれていた杯を再び手に取って中の茶を一口含んだ。
 しかしそれを言われたアルスラーンの方はたまったものではない。
 思わずダリューンの腕に擦り寄る自身の姿を想像してしまい、耳まで真っ赤に染めると意味も無く両手を宙に彷徨わせてしまう。そしてあまりの羞恥心にショック状態になり、数秒の間半ば放心状態になっているとそれを見かねたのか。
 それまで茶をすすりながらアルスラーンの様子を伺っていたギーヴが、小さく噴き出しながら軽快な笑い声を上げた。
「なに、今のはものの例えでございます。よく使われる手口というやつです」
「な、なんだ……例えか……」
 ギーヴのその言葉にアルスラーンはホッと息を吐く。しかしギーヴはそれに返答はせず、部屋の窓から月の位置を確認すると、やや!と声を上げながら円座から立ち上がった。
「思ったより長居をしてしまったようですな。お寝み前に申し訳ございませぬ」
「あ、いや。私の方こそ長旅後で疲れているだろうに、呼び止めてしまってすまなかった」
 でもおかげで大分心が軽くなったような気がすると言うと、少しでもお役に立てれば幸いでございますとギーヴは微笑んだ。そして扉の前で一礼をした後、彼は部屋から退室した。


「誘う、か……」
 アルスラーンはギーヴの出て行った扉を眺めながら、先ほど言われた言葉を反芻してポツリと呟いた。
 その言葉を聞いた時は、ギーヴの前というのも相まってあまりの恥ずかしさに全力で否定してしまった。しかしよくよく考えてみると、今までそういう行為の時、自分はずっと受け身だったのを思い出す。
「……だから、だろうか……」
 だから、ダリューンは面倒臭くて、あるいは気持ちが良くなくて、自分にあまり手を出してこないのだろうか。
 本当のところはダリューンに聞いてみなければ分からない。
 しかし恋愛事に関して、恐らくは百戦錬磨のつわものであるギーヴが、一連の話しの流れを聞いてそのように助言をしてきたということは……その可能性も考えた上での発言かもしないと勝手に飛躍して解釈すると、アルスラーンは真剣な面持ちで頭を悩ませはじめた。

戻る