アイル

騎士に恋をした国王の365日の顛末-1

 パルス暦、三二二年九月二十九日。
 その日はアルスラーンが十六歳の誕生日を迎えた日であるのと同時に、パルス国王に就いてから初めて迎える即位記念日であった。
 それを祝して王都エクバターナでは祭典が催され、夜には王宮でも盛大な宴が開かれた。
 その宴の席の中央にアルスラーンは座しており、彼の前にはダリューンやナルサスといった見慣れた面々の他に、トゥースやイスファーンなどの武官。さらにはルーシャンやパティアスなどの文官が、酒の入った杯を片手に各々宴を楽しんでいた。
 そして宴の開始から数刻ほど経過し、皆ほどよく酒が回って騒がしくなってきたころ。ルーシャンは手に持っていた杯を床に置くと、おもむろにアルスラーンの方へ身体を向けた。
「そういえば……陛下。一つ提案があるのですが」
「提案、というと?」
 アルスラーンは十六になった今でも相変わらず酒の類はあまり嗜まない。したがって今日もいつものように蜂蜜水を飲んでいたので全くの素面である。
 それに対してルーシャンの方は目がやや座っており、よくよく観察すると酒に酔っているように見受けられた。
 だがアルスラーンはそれを特に気にすることもなく先を促す言葉をかけると、彼は嬉々とした様子で頭を下げた。
「これまで私は何度か陛下へ縁談の話しをすすめさせて頂いておりましたが……もしや順番を間違えていたのではないかと思い至ったのであります」
「順番?」
 いきなり何を言い出すのかと思ったら、また縁談の話しだ。しかし今日はいつもと少々話の切り口が異なるせいで、少々呆気に取られてしまう。
 おかげで話をそらし損ねて気になる言葉を復唱しながら目を泳がせていると、それをこれ幸いと言わんばかりにルーシャンは上体を前のめりにしながらさらに言葉を重ねた。
「つまりどういうことかと申しますと……このルーシャンめは気が付いたのであります。そういえば、陛下は王宮で房中術について習われていないということに!こちらの授業は、通常十四を過ぎてから習う決まり事ですが、アトロパテネの会戦以降はそのような情勢ではありませんでしたので……」
 すっかりと失念しており大変申し訳なく思っておりますとルーシャンは口にすると、両手を床につき深々と頭を下げた。
「――つきましては、房中術の授業をそろそろ受けられてはと考えたのですが、いかがでございましょう」
 口調自体は落ち着いており、いつものルーシャンと何ら変わりは無い。しかしその言葉の内容は、明らかに酔っ払いのそれであるとしか思えない。
 そしてそれを言われたアルスラーンは、ルーシャンにかけられた予想外の言葉に動きを止めると、とりあえずまずは落ち着こうと手に持っていた杯の中身を勢いよくあおった。
 アルスラーンの周りにいる近しい者のほとんどは、普通に酒を嗜む。しかし残念なことに、今のルーシャンのように一見すると素面の状態で酔っ払う者は一人もいなかったので、こういう時の対処方が分からなかったのである。
 ちなみにその時周りにいた臣下の者達はと言えば、苦笑いを浮かべたり、愉快そうに口角を上げたり、顔を青ざめさせたりと、様々な反応を示していた。しかし少なからず皆呆気にとられていたのは事実であり、妙に場が静まってしまう。
 だがその場にいる面子の中でいち早く正気に戻ったナルサスが、いつもの調子で二人の間に割って入った。
「たしかにルーシャン卿のおっしゃることも一理ございますが……未だパルス国内の状態が落ち着いたとは言い難い。ですからそんなに急がれることも無いと思いますが」
「む……それはそうだが」
 ルーシャンもなかなかに頭が切れるが、酔っ払っている状態ではナルサスに敵うはずも無い。おかげで何とか房中術の授業とやらから逃れられそうだと、アルスラーンが小さく息を吐いたのも束の間。
 それまで酒を飲むことに徹していたクバードが、唐突に横槍を入れた。
「まあまあ二人とも落ち着かれよ。ナルサスの言うことももっともだと思う。しかし、陛下もその手のことを全く知らないままというのも何かとご不便だろう。ゆえに俺個人としてはルーシャン卿の意見に賛成だ。何事も切っ掛けというのは大事だからなぁ」
 そう言うとクバードは自分で自分の言った事に納得するように、満足気な顔で小さく頷いている。そしてそれに同調するようにルーシャンも大きく頷いてみせた。
 しかし言うまでもなくクバードの手にはルーシャンと同じく酒の杯が握られており、その身体の脇には空になった酒瓶が軽く五つほどある。つまりは彼もただの酔っ払いであった。
 だが、よくよく見るとその瞳に酒精による曇りは一切見られない。加えて悪戯小僧のように口角が上がっている。つまりは、彼はこの状況を酒の肴に、ただ面白がっているだけであった。
 そしてそれをナルサスも分かっていたが、宰相(フラマータール)と万騎長(マルズバーン)の二人にこうも言われてしまっては、さすがにそれ以上は強く言えない。したがって、やれやれといった表情をしながら上座にいるアルスラーンの方を見ると、肩を竦めてみせた。
「……――して、誰がその任を?」
「順当にいけば陛下の教育係の者が適任なのだろうが……」
 ナルサスの問いかけに対してルーシャンは言葉を濁す。何故なら、アルスラーンの教育係であったヴァフリーズはすでにこの世にいないのだ。
 しかしながら彼はそこで名案を思い付いたというように膝を叩くと、満面の笑みを浮かべながらナルサスの隣りに座っていたダリューンの方へ勢いよく顔を向けた。
「そうだ、そうであった!ダリューン殿がおった!」
「は?」
 ルーシャンがダリューンの名を呼んだのをきっかけに、その場の者の視線が一斉に彼に注がれる。
 しかし肝心なダリューン本人はといえば、自身の主君が房中術を習ってはどうかと提案されたのに大変な衝撃を受けていたために未だ放心状態であった。
 したがって何故自身に注目が集まったのか訳が分からず目を瞬かせていると、それを横目で見ていたナルサスが、呆れた様子で軽く息を吐く。そしてこれまでの経緯をかいつまんで説明してやった。
「ルーシャン卿が、ダリューンに陛下の教育係を任せてはどうか、とのことだ」
「うむ。幸いにして今は大きな戦も無いし、ちょうど良い時機だとも思うのだ。いかがか?」
「い、いや……しかし私の一存では……」
 ナルサスの言葉に続いてかけられたルーシャンの問いかけに対し、ダリューンは往生際悪く口ごもりながら自身の主君の方へ視線を向ける。しかしアルスラーンは完全に魂が抜けたような表情をしており、生憎とダリューンの視線に気づきそうな気配はまるで無い。
 それならと脇に座っているナルサスの方を向くと、彼は首を横に振ってみせた。
「せっかくのルーシャン殿とクバード殿のご提案だ。引き受けたらどうだ?それに陛下の教育係なんて光栄なことではないか」
「そ、それはもちろんそうだが……」
 ナルサスの言うことももっともではある。身に余る光栄であることには間違い無い。しかし教育係といっても、房中術のと前置きが付くとなると話は別だ。
 理由は極めて単純で、そもそもダリューン自身こういった方面の話しを好んでするような性質では無いのだ。
 そんなことはルーシャン卿も分かっているだろうに……と思ったものの、目の前の人物は酒に酔っているのを思い出してため息を吐く。
 そして自分よりも適任は誰だろうかと考え、すぐに脳裏に浮かんだ人物――ギーヴの座っているはずの席に目を向けると、その席はいつの間にかもぬけの殻になっていた。
「……ギーヴめ……」
「あやつは少し前にどこぞに行ってしまった。ここは諦めろ、ダリューン」
 ギーヴという男、自分に火の粉が降りかかりそうな事柄となると相変わらず人一番鼻が利くらしい。
 思わずうらめしげな声音でその名を呼ぶが、帰ってきたのはナルサスの冷静な答えだけである。そしてそれは、ダリューンがアルスラーンの教育係に就くのが決定した瞬間であった。

 ルーシャンは「ダリューン殿は陛下と年齢も近いし話しやすいでしょう。ようございましたなあ!」なんて陽気な笑い声を上げていたが、ダリューンはそれに返答をするだけの気力はもはや無かった。
 そして肝心なアルスラーンはと言えば、杯を手に持ったまま未だ固まっていた。

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