アイル

獣の本性-1

「――っ、わあっ!?」
「アルスラーン陛下っ!」
 季節は春。
 午前の政務が終わり、昼食を取ろうと立ち上がったときのことだ。アルスラーンはついうっかりと自らの裾の長い上衣を踏みつけると、仰向けの格好で床に思いきり頭を打ち付けてしまった。
 さらに運の悪いことに頭を打ち付けたところは固い石畳だったため、軽い脳震盪を起こすとそのまま意識が薄れていってしまう。
 遠くで昼食の迎えに来たエラムが心配している声や、キシュワードが医者を呼ぶように命じている声が聞こえる。
「だいじょうぶ、だから」
 小さな頃に、エステルと一緒に城壁の上から堀の水の中へ真っ逆さまに落ちた時の衝撃の方が、よほど全身が痛かった気がする。
 しかし打った場所が悪かったのだろうか。どんなに意識を保とうとしても、徐々に狭まっていく視界を押し留めることは出来ない。
 そしてこの時を境に、アルスラーンはこの世に二種類の種族の人間――人類と斑類が存在するのだと知ることになった。

■ ■ ■

「ん、んん……」
 まぶたを手の甲で擦りながら目を開けると、見慣れた寝室の天井が目に入る。どうやら政務室で気絶した後に、部屋まで運ぶ手間をかけてしまったらしい。
「そういえば、私の不注意で転んでしまったのか。どのくらい眠っていただろう」
「数刻ほどでございます」
「ああ……エラムか。そうか。ということは、もう夕刻か」
 独り言に返答があったのに少しばかり驚きつつ寝台の脇へ顔を向けると、そこには心配そうな表情をしたエラムが座っている。恐らく、彼はずっと自分の容体を案じて様子を見ていてくれたのだろう。
「長い間付き合わせてしまったな。ありがとう」
 それに気が付いたアルスラーンは、安心をさせるように微笑みながら礼を口にする。そしてその表情をエラムが目にし、言葉を耳にした瞬間――
「――ッ!?へ、陛下っ、それはっ……!」
 何故か彼は顔を真っ赤に染めながら狼狽したような表情を浮かべる。さらにはその場でいきなり立ち上がると、今にも逃げ出したいと言わんばかりに左右に目線をうろつかせるのだ。
 エラムがここまで感情を表に出すのはかなり珍しい。しかし何が彼をそんなにもうろたえさせているのか、アルスラーンにはさっぱり訳が分からなかった。
 状況的には自分が何かしてしまったのかもしれないとも思う。だが先の自らの行動を思い起こしても、彼の気に障るようなことをした覚えは無い。ただただ普通に礼を言っただけのつもりだ。
「エラム?私は何か気に障るようなことをしてしまっただろうか?」
「い、いえっ!そうではなくて、その……――うあっ!?」
 エラムは慌てた様子で首を振りながら否定をするが、その最中も後ろへ一歩ずつ身を引いていくのだ。
 その様子と言葉はまるで正反対のもので。たまらずアルスラーンはゆっくりと身体を起こすと、逃げていくエラムを引き留めようとその手を伸ばす。
 そして指先がほんの少しエラムの腕に触れたところで、その身体が視界から忽然と消失し、その代わりに床の上に小さな雀の姿があったのに目を大きく見開いた。


「誰か居らぬか!?」
「いかがなさいましたか!?」
 アルスラーンは手の平の上にエラムと思われる雀を抱えながら部屋の外へ飛び出す。
 すると扉の脇に控えていた侍従武官であるジャスワントが、すわ敵襲かとアルスラーンを庇いながら腰に佩いている剣に手をかけて辺りを見渡した。
 そしてさらにそこにはもう一人。通常ここにはいるはずがない万騎長であるダリューンがおり、ジャスワントよりも一歩早く剣を鞘から抜き出して室内へ足を踏み入れた。
 しかし二人は全く敵の気配が無いのにすぐに気が付くと、不思議な表情を浮かべながらアルスラーンの方へ目を向ける。そこで手の平の上に乗せられた雀をおずおずと差し出されたのに、大体の事情を察した。
「エラムが……エラムが……雀になってしまったのだ!」
「なるほど……左様でございましたか。ジャスワント、悪いがナルサスを呼んで来てくれぬだろうか」
「分かりました」
 ダリューンの言葉を聞いたジャスワントは、一礼をした後に廊下を駆けて行った。

 ダリューンとジャスワントの一連の様子は、この状況を今までに何度も経験しているかのような手早さだ。それに何より、エラムが雀に変化したと聞いても同様している様子がまるで無い。
 普通に考えて、人が動物に変化したと聞いたら有り得ないと言うはずだろうに。途端に奇妙な違和感が胸の奥底から広がるのを感じる。
「おぬしは、何か事情を知っているのか?」
「……はい。それと、陛下ご自身のことについてもご説明させて頂きたく」
「私?」
 いきなり話しを振られたのにどういうことだろうとダリューンの方を向くと、正面から視線が絡みあう。そしてその瞬間嗅ぎ覚えのある甘い香りが鼻先を掠め、アルスラーンはその香りに惹かれるように一歩足を踏み出した。
(……どこで、嗅いだのだっただろうか……)
 遠い昔、まだアルスラーンが王宮に上がる前だった気がする。
 しかし昔すぎる思い出のせいか。細かなところは頭の中が霞みがかったようになって、はっきりとは思い出せない。
 そこでダリューンは、無言の追及から逃れるように身体を横に退かすと、扉を大きく開けて室内へ入るように促してくる。おかげでアルスラーンは途中で思考が途切れてしまい、結局その記憶は曖昧なままかき消えてしまった。


「ひとまずエラムはそのうち人間に戻りますから、基本的には放っておいても問題ございませぬ」
「そうなのか?」
 二人は窓際に敷いてある分厚い絨毯の上に座ると、ダリューンは早速雀になってしまったエラムの取扱いについて手短に説明を始める。それならと、背後に置いてあった小さめのクッションの一つを取り上げて目の前に置くと、その上に雀の身体を横たえた。
 少しでも力を加えると、すぐにでも壊れてしまいそうなくらい小さな小さな生き物だ。これがエラムだなんて。冷静になって考えてみると、自分でも子供だましみたいな話しとしか思えない。
 しかしダリューンの様子はいたって真面目で、アルスラーンの冗談に付き合ってやっているという雰囲気でもないのだ。
 そして自分で話しを振っておきながら、どうすればよいか分からず所在無げに目線を泳がせていると、ダリューンが再び口を開いた。
「お話しせねばならぬことは山ほどあるのですが……その前に、先ほどお怪我をされた箇所の具合はいかがでございますか?」
 ダリューンの言葉に促されるように後頭部に手を添えると、小さなたんこぶが出来ている程度で痛みなどはもう無い。したがって問題無いと口にすると、彼は安心したように小さく息を吐いた。
 その様子から察するに、倒れたと聞いて慌てて部屋まで駆けつけてくれたのだろう。
「随分と心配をかけたようだな……すまなかった。ありがとう」
「いえ、とんでもございません」
 ダリューンは恐縮したような様子で律儀に頭を深く下げる。そして再び目が合ったところで、彼はようやく本題を切り出した。
「さて……どこからお話しをすれば良いのやら、難しいところでございますが。単刀直入に言ってしまえば、我々人間には、人類と斑類という二種類の種族がいるのでございます」
「人類と、斑類」
「はい」
 彼曰く、人類というのは猿から進化した人。斑類というのは猫又、蛇の目、熊樫、犬神人、蛟、人魚、そして翼種などの猿以外の動物から進化した者のことを指すらしい。
 そして斑類と呼ばれる種族の者達は、怒ったり興奮することで目の前にいるエラムのように動物の姿――魂現を現してしまうのだそうだ。
「ええと……ということは、エラムはこの姿から察するに斑類の中の翼種の分類であると……そういうことか。そしてこの雀の姿が、魂現?と呼ばれるものの姿であると」
「はい。その通りでございます」
 先ほどから、そんな馬鹿なと脳内で理性が訴えている。聞くこと全てが、小さな頃に乳母に読んでもらったおとぎ話のようだ。
 しかし事実目の前でエラムが雀に変化したところを目撃しているので、冗談だろうと笑って流すことも出来ない。それにダリューンがこんな下らない嘘を吐くとも思えないし、彼にしては珍しく雄弁で。
 ということは、彼の中では人類と斑類とやらの話しは常識的なことなのだろう。だがアルスラーンはそんな話しは生まれてから一度も聞いたことが無いのだ。
 したがって、ずっと仲間外れにされてきたような感覚を少なからず覚えると、アルスラーンは思わず小さく肩を落とした。
「どれもこれも初めて聞いた話しばかりだ。皆、知っていることなのだろうか……?」
「も、申し訳ございませぬ。その、嬉しいばかりに気持ちだけが先走ってしまうせいで説明が上手くなく。その……このことは人間の中でも大多数を占める人類は全く知らぬことなのです。何故なら、猿である人類は、生まれつき我々斑類のことを認識することが出来ない種族なものですから。そして陛下はこれまでその人類であった。ゆえに、このことを説明するのは……なかなかに難儀でして」
 つまりは、認識出来ないことをいくら言葉で説明しても仕方がないということだ。そしてエラムの雀の姿を実際に見た今でも、アルスラーンはダリューンの話しに呆気に取られているくらいなので、確かに彼の言うことは的を射ていた。
「……ん?」
(ちょっと、待て。私が、これまで人類で『あった』……?)
 何故ダリューンはここで過去形を使ったのか。
 何故いきなりこんな話しをアルスラーンに話しだしたのか。
 考えをまとめようと目線を下に向けたところで、再び雀の姿のエラムが目に入る。
「まさか……」
 そこである可能性にようやく気が付いて恐る恐るダリューンの顔を見上げると、彼はやや興奮したような面持ちで一つ頷いてみせた。
「陛下は、斑類の猫又。そしてその先祖返りでございます」
「猫又の先祖返り?」
 それが果たしてどういった存在なのか、今のアルスラーンにはさっぱり分からない。
 しかし多くの人間が知らない秘密を、ダリューンと共有出来たのだという喜びを少なからず感じたせいだろうか。全身がブルリと小さく震える感覚を覚えたところで、部屋の扉が叩かれる音が響いた。

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