アイル

獣の本性-2

「おやおや……ジャスワントから大体の事情は聴いておりましたが、まさか本当に先祖返りに出会えるとは」
「ナルサス!エラムが雀になってしまったのだが……いや、その前にとりあえずはそこに座ってくれ」
 アルスラーンはナルサスに座るようにすすめると、彼は一つ頭を下げた後にダリューンの横に座る。そして雀の姿になったエラムの近くへ身体を寄せると、ひっくり返したり耳を近付けたりしてひとしきり観察したあと顔を上げた。
「ふむ……エラムはどうやら、驚いて気絶したついでに寝ているようですな。心音もしっかりとしているし問題無いかと。恐らくは、陛下が先祖返りになられたのを目の当たりにして驚いたというところでしょう」
「そ、そう……なのか?」
 そこでナルサスに確認するように見つめられるが、先ほど自身が斑類であるらしいということを何となく理解した程度の知識なのでさっぱり事情が掴めない。
 したがって助けを求めるようにダリューンの方を見ると、彼と目線がバチリと合う。しかし少々気まずげな様子で目線をそらされ、彼は誤魔化すように小さく咳払いをした。
「陛下には、人類と斑類のことについてしか説明しておらぬ。先祖返りとか、そういう話しはまだだ」
「ああ、そうであったか」
 そこでダリューンはナルサスへ今までのいきさつをかいつまんで説明しはじめる。アルスラーンはその様子を他人事のように眺めながら、ダリューンは何故先ほど自分のことを見つめていたのを誤魔化したのだろうと小さく首を傾げた。
 ダリューンがアルスラーンのことを見ているのなんて、以前から日常茶飯事のことだ。しかしこれまではそれにアルスラーンが気付いても誤魔化すような素振りを見せたことは一切無かった。
(うーん……?)
 いくら考えても理由はさっぱり分からないが、ダリューンが普段と異なる反応を見せたということは、何かしら意識をしているせいだろう。そのことに気が付くと何故か気分が高揚するのを感じる。
 そしてその理由があと少しで形をなしそうになったところで、タイミング悪くナルサスに声をかけられたことでそれは一気に霧散した。
「それでは陛下。我々斑類のことについて、もう少し説明を付け加えさせて頂いてもよろしいでしょうか」
「あ、ああ。たのむ」
 アルスラーンは無意識にダリューンの方へ向けていた視線を引き剥がしてナルサスの方を向くと、慌てて頷きながら背筋を伸ばす。その様子は先ほどのダリューンと全く同じであったが、本人にその自覚は全く無かった。
 ちなみにそんな二人の無言のやりとりにナルサスは気付いていたが、ここで声をかけて引っかきまわすような野暮な男ではない。むしろ腹の中でこれは面白いことになりそうだとほくそ笑みながらも、表上は平然を装いながら言葉を続けた。
「まあ付け加えると言いましても、とりあえずは陛下の関係することだけにしておきましょう。まずは猫又についてですが……これはその名のとおり、猫科の特性を持つ斑類でございます」
「猫というと、町中によくいる猫か」
「もちろんそれもございますが、他にも豹ですとか獅子などの大型の動物も含みます。つまりは猫科の動物全般のことを指すわけです。他の分類につきましても、同じようにお考えください」
「豹に……獅子っ!?」
 想像していた以上にとんでもない規模の話しに思わず目を剥くと、ナルサスは軽く笑い声を上げながら、自然界と同じく豹や獅子あたりは滅多におりませぬがと付け加えた。
 しかし滅多にいないということは、実際にはいるということで。
 だが目の前にいるのがエラムの雀の姿のせいか。いまいち想像がつかないでいると、視線で大体のところを察したのだろう。ナルサスは頷きながらダリューンの方へ顔を向けた。
「百聞は一見に如かずと言いますからなあ……――ということだ。ダリューン、魂現してくれ」
「はっ!?」
 ダリューンは、思いきり顔をしかめると勢いよくナルサスの方へ顔を向け、いきなり何を言いだすのだという表情を浮かべている。そしてダリューンがここまで嫌がることは滅多に無い。ということは、その魂現を晒すという行為はよほど抵抗があることなのだろうと察する。
 したがって無理にせずとも構わないと慌てて横から口を挟むと、彼は慌てた様子で首を振った。
「い、いえ!とんでもございませぬ」
「ほら、嫌じゃないのならもったいぶっていないで早く魂現したらどうだ」
「くそっ……何故お前なんぞの前で」
 ナルサスがさらにけしかけると、ダリューンは眉間に皺を寄せてぶつぶつと小声で文句を言いながら目をゆっくりと閉じる。そして次の瞬間、ダリューンの全身が一瞬にして人の形ではなく、全身真っ黒の毛で覆われた立派な獣の姿に変化したのにアルスラーンは身体をのけ反らせながら目を大きく見開いた。
「こ、これが……ダリューン!?」
 その獣は立派な鬣を持っており、これと似た姿形の獣をアルスラーンは狩猟の際に何度か遠目に見かけたことがある。
 これは――
「獅子……で、合っているだろうか?」
 草原で見かけた獅子は黄土色をしていたが、目の前の獅子の毛色は全くの正反対だ。したがって少しばかり自信が無いのだがと思いつつ目の前の獣に問いかけると、正解だというように細長い尻尾が振られた。
「そうか、獅子なのか!」
 さすが、『戦士の中の戦士』であるダリューンはすごいと、我が事のように嬉しくなってくる。
「この姿をご覧頂けますと、実際に獅子がいるというのもご納得頂けますでしょうか」
「ああ、もちろんだ。しかも黒色だなんて!生まれて初めて見た。本当に美しい……!」
 そして大体の事情を察したところで再び動物へ変化するところを見たせいだろうか。先ほどまで頭の中でうるさいくらいに「夢に違いない」と訴えていた理性が、途端に静まるのが分かる。
 それに反比例するかのように、今度は好奇心がむくむくと湧き上がって。おずおずと獅子の方へ手を伸ばすと、彼はアルスラーンの手を数秒間ジッと見つめて考えるような素振りを見せた後、手の平の上に前足をゆっくりと乗せた。
「――!」
 その体躯の大きさと視線の鋭さも相まって、獅子の姿のダリューンはかなりの威圧感がある。しかし彼の尻尾は左右にゆらゆらと揺れていて、どうやら嫌われているわけではないらしい。
 それなら今度は頭を撫でてみようともう片方の手を伸ばすが、あと少しが届かない。するとダリューンは伏せた格好のまま、じりじりとアルスラーンの方へ近寄ってくるのだ。
 その姿は、獅子という姿も相まってなかなかにくるものがある。したがって思わずもっと近くに来てくれないだろうかと手招きをすると、彼はピタリと全身を固まらせた。その素振りは人の姿の時と全く変わらず、確かにこの獅子はダリューンであるということが手に取るように分かる。
「こちらへ、来てはくれないだろうか……?」
 ここまで来たらもう一押し。今度は声に出して誘ってみると、彼は横に座っているナルサスの姿を一度見た後、アルスラーンが差し出している手を見つめる。
 そこでさらに指先を軽く何度か折り曲げて誘うと、彼はゆっくりと立ち上がって数歩歩み寄り、アルスラーンの手の下に自身の頭を差し出すように伏せた。
 頭を撫でてやると、喜んでくれているのか。ダリューンは床に伏せた格好で小さく喉を鳴らしだす。しかしその姿を眺めながらナルサスが笑い声を漏らしたせいで、ダリューンは途端にご機嫌斜めな様子で伏せていた頭を上げた。
 こんな二人のやりとりは毎度のことなので普段であればアルスラーンも気にせず流していただろう。しかし現在のダリューンの姿は獅子で、その姿で凄まれるとなかなかに迫力があるのだ。
 ところが凄まれている当の本人であるナルサスは全く気にしていないのか。さらに煽るようにダリューンと目が合った状態で片眉を上げて見せるので、ダリューンは対抗するように低い唸り声を上げだす。
「ナ、ナルサス、あまりからかうな。それにダリューンも、落ち着くのだ」
 さすがにアルスラーンは少しばかり焦ると、ダリューンの方へ自ら近寄り、万が一にもナルサスにとびかかることが無いようにと頭を胸に軽く抱え込む。すると、鼻先に再び甘い香りが掠めたのに、当初の目的も忘れて目を瞬いた。
(この香り……ダリューンから?)
 先ほど部屋に入る時にも香ったものだ。
 いきなり抱え込まれたのに驚いたのか、胸元でダリューンが申し訳程度にもがいている。しかし完全に甘い香りの虜になったアルスラーンは、それにすら気が回らずにダリューンの首元に頬を摺り寄せてしまう。
 すると予想通り。さらに濃い香りに包まれる感覚を覚えるのと同時に、全身が蕩けたようになって力が抜ける。
「は、う……」
 たまらず喉を鳴らしながら下肢を摺り寄せようとするが、それを敏感に察したのか。ナルサスによって両脇に手を差し込まれてダリューンから引きはがされると、目の前に手鏡を差し出される。
 すると薄い駱駝色にところどころ線状の濃い茶色の模様が入っている猫の姿がそこにあったのにアルスラーンは思わず飛び上がった。
「――ニャッ!?」
「陛下の魂現は猫又のスナネコのようですね」
 ナルサスの言葉に彼の方を見る。しかしいつも以上に一生懸命顔を上げないと彼の顔を見ることは叶わない。そして横目で鏡に映っている猫を再度確認すると、鏡の中の猫も自身と同じ動きをしているのだ。
 そこでアルスラーンは、鏡に映っている猫――本来は砂漠に生息しているはずのスナネコが、自分自身らしいと自覚した。
 そしてその姿を見て妙に腑に落ちる感覚に一度目を閉じ再び鏡を見ようと目を開けたが、目線がいつの間にか元の位置に戻っていたためにそれは叶わなかった。それに慌てて周りを見回すと、ナルサスが人間の姿に戻っておりますよと告げ、ようやく胸を撫で下ろして深い深い息を吐いた。
「ま、まさか……本当に猫になるとは」
「そのうち慣れるかと。さて、こんな具合に斑類の猫又には――」
 ナルサスは手に持っていた手鏡を懐に仕舞い込むと、姿勢を正す。それにつられるようにアルスラーンも背筋を伸ばすと、ナルサスは一つ咳払いをした後に心配そうに自身の主君の様子を伺っていた獅子を指差した。
「そこにいる獅子や陛下のスナネコといった具合に、様々な種族の者がいるのはひとまずご理解いただけたと思います」
「あ、ああ。それについてはよく分かった」
 自身も猫の姿となった今では、もう異論なんて微塵も無い。したがって素直に頷くと、ナルサスも満足したように軽く頷き返す。
 そこで少し言葉を切って大きく息を吸い込んだ後、ナルサスは種族の中でさらに『重種』『中間種』『軽種』と階級分けされているのだと告げた。
「階級分けか……斑類の中でもそういったものがあるのか」
「そうですね。とはいえ、人類社会にある形式的な階級分けとは少々様相が異なりますが。斑類における階級分けとは、純粋に力関係の差と思って頂ければ分かりやすいかと」
「力関係の差?つまりは、強いか弱いかということか?」
 いまいちよく分からないのに問い直すと、その通りですと彼は答えた。
「例えば猫又ですと、陛下のスナネコは『中間種』、そして家猫は『軽種』といった具合でございます」
「なるほど。何となく分かった、と思う。となると……獅子であるダリューンは猫又の『重種』で合っているだろうか」
 そう言うと、ダリューンが正解だというように尻尾を立てながら鼻先を近付けて来る。それに応えて耳の根元あたりを撫でてやると、ちょうど気持ちが良い箇所だったのか。もっとと要求するようにおずおずと頭を差し出し、しかしすぐにハッとした様子で背筋を伸ばしているところを見るに、恐らく本能と理性とがせめぎ合っているのだろう。
「そんなに遠慮せずとも良いのに」
 獅子という姿も相まってか、その様子は妙に愛くるしさを感じるもので。手を伸ばしてその頭を自身の膝の上に乗せると、毛をすくようにしながら耳の根元を撫でてやる。
 すると最初は驚いて強張っていたダリューンの身体から徐々に力が抜けていき、それにつられてアルスラーンも口元を緩めたときのことだ。ナルサスのわざとらしい咳払いが聞こえてきたのに、アルスラーンは緩んでいた口元を慌てて引き締めながら顔を上げた。
「ゴホン!……といった具合に、斑類は分類されております。そして重種ほど希少性が高く、かつ繁殖能力が低くなりますので、そのことも合わせて頭の片隅に置いておいて頂ければと」
 ちゃんと話を聞いているか確認するためか。ナルサスが目線を合わせてきたのに数回頷いてみせると、構うことは無いというようにダリューンが手の平に遠慮がちに頭を擦り付けてくる。
 恐らくナルサスに横槍を入れられたのが面白くないのだろう。それに苦笑しながら何度か頭を撫でてやっていると、ナルサスはそれを無視してさらに話しを続けた。
「――ただし、陛下の場合はさらに特殊な事情がございまして。陛下は元々人類で、後から斑類として覚醒した稀な個体となります。これは一般的に『先祖返り』と呼ばれる分類になるのですが……我々重種よりも極めて特殊かつ貴重な存在です。そしてこの『先祖返り』と呼ばれる者は、人類の繁殖能力を併せ持つ極めて稀な斑類であるため、他の斑類にとっては強烈な性的魅力を持っているということを覚えておいて頂けますと幸いに存じます」
「は、はあ……そうか。しかし人類の繁殖能力とやらが目的ならば、普通に人類と結婚すれば良いのでは?」
 アルスラーンの疑問も至極当然だろう。しかしナルサスは首を左右に振ってそれでは駄目なのだと告げた。
「人類と斑類の子は、ほぼ確実に人類になってしまうのです。もちろん例外もございますし、時折陛下のように先祖返りする者もございますが……しかしそのような運任せに頼っていては、斑類がやがて潰えてしまいます」
 したがってアルスラーンのような『先祖返り』は、斑類の中でも繁殖率の低い重種などから大変にもてはやされるのだそうだ。つまり一言でいってしまえば、子孫を残しやすい体質なのでもてるということだろう。
 しかしアルスラーンはそもそも異性に対してそんなに興味も無いので、もてると言われてもその有難みはあまり感じない。むしろギーヴが先祖返りした方がよほど喜んだろうなと思わず口にすると、膝の上に顔を乗せていたダリューンが噴き出すように鼻から勢いよく息を噴き出した。
「ダリューン?」
 何か変なことを言っただろうかとダリューンの顔を覗きこむが、彼は今獣の姿なので人の言葉を話すことが出来ない。するとその言葉を代弁するように、ナルサスが横から口を挟んだ。
「まあ……ギーヴの場合は逆に嫌がる可能性のほうが大きいですな」
「そうなのか?」
 ギーヴは今も女性から引っ張りだこだが、先祖返りすることでもっともてるようになるのではないかと単純に考えたのだが。
 しかしそれに対してナルサスは肩を小さく竦めると、何事も良い事の裏側には悪い事が付きものなのだと答えた。
「陛下にも関係する事柄ですので非常に心苦しいのですが……。分かりやすく言ってしまえば、異性からだけではなく、同性からも好かれるようになるのです」
「な、なるほど。だが同性同士では子どもは出来ないし……繁殖率が低いという重種、だっただろうか?その階級の者にとって、それはかなりの難点だと思うのだが」
「人類の場合は、もちろん陛下のおっしゃるとおり男同士では子が出来ません。しかし我々斑類は繁殖率が低いことを何とかしなければならないと、長年研究を続けてきたのです。そしてその結果、今では男性であったとしても子を身ごもることが可能となりました。具体的には、懐蟲という物を用いるのですが」
 そこでナルサスは一度言葉を切ってアルスラーンの様子を伺う。そして案の定理解が追い付いていないのか、目を見開いたまま固まっている様子を見ると早々に説明を切り上げ、「具体的な話しはまた今度に」と無理矢理に説明を打ち切った。
「まあ細かいことはともかく……男同士でも子をなすのは可能ということです。ですから陛下は、他の斑類には性別問わず十分にご注意くださいませ。そもそもエラムが魂現したのも、陛下の先祖返りの香りにあてられたせいでございます。軽種ですとそのくらいで済みますが、相手が重種となると話は別ですので」
「わ、分かった」
 その言葉にアルスラーンはとりあえずこくこくと頷く。
 しかしナルサスはあまり信用していないのか。彼にしては珍しく胡乱な表情を浮かべながら、アルスラーンの足元でくつろいでいるダリューンを見つめている。それにもの言いたげな空気を感じて首を傾げると、ナルサスは半眼になりながらアルスラーンの足元をスッと指差した。
「そこにいる獅子も、送り狼ならぬ送り獅子になる可能性が十分にございます。ダリューンでさえ、そうなのです」
 そんなまさかと思いながら膝の上に乗っているダリューンに目を向けると、彼は唐突に立ち上がってナルサスの方へ身体を向ける。
 そしてちょうど鼻先あたりにあったナルサスの指先に噛みつくような素振りを見せた後、人の姿に戻ると不機嫌そうな表情を浮かべながら元居た席へ乱雑に腰掛けた。
「ナルサス、お前はいつも一言多い」
「はて、そうか?今の場合はそんなことは無いと思うがな。本能は理性で御しきれぬものだ。その証拠に、あのエラムが魂現を見せたくらいだぞ」
 アルスラーンにはさっぱり事情は分からなかったが、ダリューンはその言葉に少なからず同意するところがあるのかグッと押し黙る。
 それをこれ幸いと、何故そこでエラムの名が出てくるのだと疑問の言葉を口にすると、ナルサスはクッションの上で未だに魂現の姿で横たわっているエラムへ視線を向けた。
「斑類の中でも翼種はかなり数が少なく、その希少性故に厄介なことに巻き込まれることが多いのです。ですから大概の翼種の者は他の斑類に巧みに化け、滅多なことでは魂現することが無いのです」
「ばっ、化けることも出来るのか……!」
 なんだかまた現実離れしてきたなと思いつつ雀の姿のエラムを見つめる。なんでもナルサスによると、エラムは普段犬神人の軽種に化けているらしい。ちなみに何故犬神人の軽種なのかというと、斑類の中で一番数が多いからだそうだ。
「ああ、しかし化けると言いましても、実際の見た目を変化させる訳では無いのです。そうではなくて、まとう雰囲気を変化させるといいますか……陛下はまだ斑類になられたばかりで分かり辛いかと思いますが、そのうち相手のまとっている空気で分類や種族が何であるか分かるようになるかと」
「そうなのか……?」
「何事も物は試しでございます。どうか私の魂現を当ててみてくださいませ」
「えっ、いいのか?」
 先ほどダリューンが魂現するとき、珍しく渋い反応をしていた。その様子から察するに、魂現を探る行為もあまりよくないことだと思うのだがと思いつつナルサスへ戸惑いの視線を向けると、彼は口元に笑みを浮かべた。
「さすが陛下はお察しがよろしいですな。確かに相手の魂現を探る行為は褒められたものではございません。しかし私の場合は自ら進んで陛下に見て頂くのですから」
 さあどうぞと重ねて言われたのにアルスラーンは戸惑いながら頷くと、ナルサスの方へ視線を向けた。しかしいくら見つめてみても、案の定人としての姿しか見えない。
「ううん……?」
「相手がわざと魂現の気配を晒している時には目に見えるように感じることもございますが、基本的には内におさめていることがほとんどです。ですから相手のまとっている空気を読むようにして頂くと分かりやすいかと」
「空気か……」
 ダリューンの進言に頷くが、分かるような分からないようなという感じだ。
 しかし空気を感じるということは、つまりは相手の気配を読むということと同じことだろうかと考えると、一度目を閉じてナルサスの気配を探ってみる。
 そこで全身にまとわりつくようなねっとりとした気配を感じたのに、反射的に目を見開きながら身体をのけぞらせた。
「――ッ!?……、蛇?」
「おや、これはこれは」
 瞬間的に頭の中に思い浮かんだものを口にすると、ナルサスはニコリと微笑む。そしてダリューンは身を乗り出しながら、さすが陛下でございますと少々興奮した様子でアルスラーンのことを褒め称えた。
「あ、合っているのか?」
「正解でございます。ただし今の私は化けておりまして……さて、それではこちらはいかがでございますか?」
「!」
 まさかの化けている宣言に驚きつつ再びナルサスの方へ集中すると、彼のまとっている空気が先ほどと少し変わったのを感じてハッとする。
(……なるほど)
 これが斑類の気配というやつらしい。
 気配がガラリと変わったおかげで分かりやすいなと考えつつ、一つ一つ種族を当てはめてみる。
 蛇の目以外、となると……猫又、熊樫、犬神人、蛟、人魚、翼種のうちのいずれかだろう。猫又はダリューンとアルスラーン自身がそうだ。しかしその気配とはまるで異なる。
(もう少し、軽やかな雰囲気だ)
 そしてその単語に一番ぴったりとくるのは、翼種だ。
 そこでエラムも同じく翼種であることを思い出して見比べてみると、確かに雰囲気が似ているような気がするのに、アルスラーンは「あ」と小さな声を上げた。
「エラムと同じ翼種だろうか?ただ……何となく威圧感がエラムよりも大きい気がするな。ということは中間種か重種……んん?中間種だと私と同じになってしまうな」
 むしろ威圧感という意味では、隣に座っているダリューンと似たところがある。
 ということは――
「翼種の重種、でどうだろうか?」
 そうおずおずと口にすると、ナルサスは大きく頷きながら再び正解でございますと答えた。
「ちなみに正確に申し上げますと、私の魂現は翼種の鷹になります」
「鷹か!それは羨ましいな……告死天使(アズライール)と共に空を飛ぶことが出来るのか」
「ははは。それは確かに楽しそうですな。しかし翼種は仲間がめったにおりませぬから、実際のところは寂しいものですよ。私が同じ翼種の人間に出会ったのは、エラムが初めてです」
「エラムが初めて!?」
 エラムも同じ翼種だということだから、てっきり普通に存在する斑類だと思っていたのだが。予想を遥かに上回る貴重種具合に驚いて口をあんぐりと開けてしまう。
 しかしナルサスは自分のことなどまるで興味が無いのか。所詮翼種は遺存種ですからと淡々とした様子で流すと、それより陛下の今後のことを検討しなければなりませんなと呟いた。
「うむ……何もせずにおれば、陛下に危害が及ぶ可能性は大いにありうるだろう。ナルサスは何か良い方策は思いつかぬか」
「そうさなあ。一応ここに来るまでの間にいくつかは考えてきたが」
 臣下の二人は、腕を組むと天井へ視線を向ける。
 しかしアルスラーン自身は、自分が貴重な存在であるという自覚が全く無い。したがって真剣に悩む二人の姿を不思議な表情を浮かべながら交互に見た。
「今だって常に護衛はついているし、エラムも大抵傍にいてくれている。それで十分だと思うのだが」
「――十分!?全く、全然、足りませぬ!」
 アルスラーンの言葉を聞いたダリューンは、物凄い勢いで顔を上げると、必死な形相で今のままでは駄目だと訴えだす。その勢いにのまれて固まっていると、ナルサスはダリューンの脇腹に勢いよく肘を打ち付けて半強制的に鎮めながら口を開いた。
「陛下。重ねて申し上げますが、先祖返りは通常の重種などとは比べものにならないくらいに貴重であるということをお忘れなきよう。一生に一度出会えるかどうかという存在なのです。王宮内であったとしても、突然襲われるということも十分に有り得るのですよ」
「う、うむ」
 アルスラーン自身が動物に変化するようになったということは、たしかにかなり驚いたし動揺もした。
 しかし所詮はスナネコ。砂漠に出てちょっと探せば普通に見つけられる動物なので、ダリューンの黒獅子やナルサスの鷹に比べると遥かに庶民的だと思うわけだ。それに襲われると言われても、元々が男なのでいまいちピンと来ない。
 そんなわけで生返事をしながら指先で頬を掻いていると、諦めたようにナルサスは小さく息を吐いた。
「……言葉だけでは分からぬ点も多々ございましょう。ひとまず我々は万が一にも間違いが起こらないように今まで以上に気を配らせていただきます。――というわけで、手始めに陛下にはこちらを常にお持ち頂きたく」
 そこでナルサスは一度言葉を切ると、自身の懐へ片手を突っ込む。そしてそこから先ほどの鏡、ではなく、手の平ほどの大きさの縞模様の羽をアルスラーンへ差し出した。
「これは……鷹の羽か?」
 白と茶色の特徴的な縞模様にはとてもよく覚えがある。アズライールの羽と同じ、鷹斑と呼ばれるものだ。
 しかし何故このようなものを渡されたのか、さっぱり訳が分からない。だが渡してきた人間はあのナルサスだ。何か仕掛けでもあるのだろうかと羽をひっくり返したり蝋燭の光にかざしたりして見ていると、ナルサスに小突かれてから黙って二人の会話を聞いていたダリューンが不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「よりによってお前の羽とは……!」
「別に俺の物でなくとも構わぬが。だがお前には羽以上に当たり障りの無い適当な物は出せぬだろう?」
 ナルサスはそう言うと、やれやれと言った様子で肩を竦めてみせる。そして二人の会話から手渡された羽がナルサスの魂現である鷹のものだと気付いたアルスラーンは、おおと小さく感嘆の声を上げた。
「本当にナルサスは鷹だったのだな。しかし何故おぬしの羽を私に?」
 羽を眼前に掲げながら首を傾げると、ナルサスが珍しく目線をフイと横にそらしたせいで一瞬の間が空く。それに反応したダリューンの眉間にますます皺が寄るのを不思議に思いながら眺めていると、やがて考えがまとまったのか。再びナルサスと目線が合った。
「失礼な表現かとは思いますが……つまりは『しるし』であると思って頂ければと」
「しるし?」
「その羽は私の身体の一部です。したがいまして、少々言葉は美しくありませぬが、私の匂いが染みついております。ですからそれを肌身離さず持っていて頂けますと、私よりも階級が下の者が陛下へ手出しをすることはまず無いのです」
 人類にはそういった習慣がございませんので少々分かり辛いやもしれませぬがと続けられた言葉に、アルスラーンはようやく合点するとポンと膝を打った。
「ああ、なるほど。つまりこの羽は、私がナルサスのものであるという所有印のような役割を果たすということか」
「僭越ながら……簡単に言ってしまえば、そういうことになります」
 そこで欝々とした空気がダリューンの方から漂ってくるのを感じてそちらの方向へ視線を向けると、いつの間にかダリューンは顔を俯ける格好で目元を手で覆っている。そして彼が全身から醸し出す雰囲気は、さながら敗残兵のようであった。
 もちろん彼のそんな様子を見たのは初めてなので驚いてどうかしたのかと声をかけると、彼はのろのろと目元から手をどかしながらゆっくりと頭を上げた。
「ああ……陛下。どうか、どうか、ナルサスなんぞのものであるとおっしゃるのはお止めくださいませ……!」
「あ、え?」
 先の言葉は単なる言葉の綾に過ぎないのだが。しかし目の前のダリューンの様子はどこか鬼気迫ったところがあり、笑い話で済まなそうな雰囲気がある。
 したがってどうしたものかとナルサスの方へ顔を向けて無言の助けを求めると、彼は大きなため息を吐きながら心底呆れた様子で首を振った。
「まったく……お前は陛下絡みとなると本当に面倒な男だな。それではこれでどうだ。お前は陛下へ『目隠し』をするということで」
「なっ!?そ、それは、しかしっ!」
 ダリューンはナルサスの『目隠し』という単語を聞くと、少しばかりうろたえた様子で身体を引く。
 その反応に興味を持ったアルスラーンがそれは何だと問いかけると、ナルサスは手短に視神経を麻痺させる技だと答えた。
「方法はいたって簡単で、フェロモンと呼ばれる刺激物質で陛下の視覚を一時的に麻痺させるものなので、お手を煩わせることは一切ございません。しかしこの技は本来番った相手が他の斑類に目移りをしないようにと、他の者の魂現を一切見えなくするものなのです。まああくまで一時的なものなので、本人がその気になれば見ることも可能なのですが」
「ああ、なるほど」
 だからダリューンがうろたえるような反応をしたのかと納得する。
 しかし何故それを自分にかける必要があるのか。
 いや。斑類になったばかりの自分が、他の者へ不躾な視線を向けないようにという配慮なのだろうかとぶつぶつと小声で呟いていると、残念ながらその予想は大きく外れていたのか。ナルサスによってすぐにそれは違いますと否定をされた。
「『目隠し』をしないまま人前に出られますと、恐らく陛下は今まで人間に見えていた者が動物――それも猿だらけの光景を目にすることになります」
「……猿だらけ。そういえば、人類は猿人と呼ばれるのだったか」
「はい。人類と斑類の人口比率はおよそ七対三と言われておりますので」
 猿のことは別段好きでも嫌いでも無い。しかし今まで普通の人に見えていた者の多くが猿に見えるとなると、少々言葉に詰まってしまう。
 したがって素直にその『目隠し』とやらをして欲しいとダリューンに頼むと、彼は少しばかり目線を泳がせながらもふたつ返事で了承した。

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