アイル

獣の本性-5

 さらに数週間ほど経過したある日のこと。
 その日は朝から空模様が怪しく、昼頃から天候が一気に崩れた。
 政務室でアルスラーンと共に仕事をしていたキシュワードが、窓から遠くの空を眺めながら今夜は春の嵐になりそうだと呟いていたがまさしくその通り。夜になるとさらに雨風が強くなり、時折雷が鳴るほどの大荒れになった。
 ここだけの話し、アルスラーンは雷が大の苦手である。というのも、パルスは場所的に雷がほとんど鳴らない地域なのだ。
 したがって雷が遠くでゴロと鳴った瞬間、アルスラーンはさっさと寝てしまえば聞こえないといつもよりも早く寝台に潜った。
 しかし斑類に先祖返りをした影響か。遠くでゴロゴロと鳴っている音すら妙に気になり目が冴えてしまう。そうこうしている間に雷雲がエクバターナの上空までやってきたのか、時折落雷する音がはっきりと聞こえてきて。
 ついに寝るのを完全に諦めると、散々迷った末に扉の前で護衛をしているダリューンへ声をかけることにした。

 音を立てないように細心の注意を払いながら扉を少しだけ開けて顔を外に覗かせると、ダリューンは扉の脇に静かに佇んでいた。
 しかしただ棒立ちしているのではなく、その気配にいつもよりも魂現の気配が色濃く乗っているのは、気のせいではないだろう。そしてその気配をここまではっきりと感じるのは、ダリューンが獅子の姿を見せてくれた日以来だ。
 それはアルスラーンの知っている誰よりも力強いもので。思わずその姿に見惚れてぼんやりとしていると、アルスラーンの気配に気が付いたダリューンとばっちりと目が合い、もろに彼の気を食らってしまう。
 すると何故だか顔が赤くなってしまい、それを誤魔化すようにアルスラーンは慌てて口を開いた。
「あ!そ、その、ダリューンさえよければ、部屋の中で少し話しをしないか?」
「私でよろしければ、喜んで」
 ダリューンは少しだけ不思議そうな顔をしたが、すぐにいつも通りの表情に戻ると頭を下げる。そしてアルスラーンが大きく開けた扉を、恐縮そうに頭を下げながらくぐった。

 ダリューンやナルサスを部屋に招き入れたときには、絨毯の上にくつろぎながら話すのが常だ。しかし生憎と絨毯は窓際の方に敷かれていたので、雷を恐れたアルスラーンは部屋の中央に設置してある椅子に腰かける。そしてダリューンもアルスラーンに進められるがままに椅子に腰かけたものの、机の端に置いてあった茶器に目を留めると、何かを思い出した様子で再び立ち上がった。
「ダリューン?どこかへ行くのか?」
「茶を入れ直そうかと思いまして」
 普段であればこういった仕事は全て女官が行うので、万騎長であるダリューンがこの手の気配りをすることはほとんど無い。
 しかし今はアルスラーンが先祖返りした関係から、アルスラーン付きの女官達は一時的に別部屋で控える形で間接的に仕事を行っていた。何故なら、彼女達は皆猿人だったのだ。
 そしてその代わりにアルスラーンの身の回りの世話を直接行うことになったのは、大体の事情を知っていて皆からの信頼も厚いエラムである。だが、彼にももちろん休息の時間が必要だ。
 それならもう一人適当な人間を探そうということになったのだが、この人選がなかなかに難しく。結局アルスラーンが夜は特に用事も無いので世話をする者は不要だと言ったことで、夜に何か用事があった時には護衛を通して別部屋の女官に伝えるという形に今は落ち着いている。
 しかしその弊害がまさかここになって現れるとは。
 つまりどういうことかというと、ダリューンが茶を入れ直すということは、一度この部屋から退室して女官に茶を持ってくるように頼まねばならない。となると、アルスラーンは再びこの部屋に一人になってしまうわけだ。
 もちろん席を外すと言っても、ほんの少しの間だけのことだろうというのは分かっている。しかしそんな時に限って雷が少し離れたところへ落ちたのかドーンという音が響いたのに、アルスラーンは慌ててダリューンを引き留めた。
「い、いや!私はそこに残っている茶で、構わぬ。先ほどエラムがわざわざ作ってくれて、置いていってくれたのだ。捨てるのはもったいない」
「陛下がそうおっしゃるのであれば」
 ダリューンは特に不審がる様子もなく、横に置いてあった口の広めの杯に冷めた茶を注いで差し出す。
 そしてそれに小さく息を吐きながら胸を撫で下ろしたのも束の間。再び不意打ちで雷が落ちる音が辺りに響いたのに、アルスラーンは今度こそ誤魔化しきれずに身体を大げさなくらいにビクつかせてしまった。
「――っ!」
「今回は…、珍しく王都の上空まで雷雲がやって来たようですね」
 咄嗟にダリューンの表情を伺うと、アルスラーンが雷に驚いて身体を揺らしたことなどまるで気付かなかったように窓の方へ顔を向けている。
 しかし一瞬言葉と言葉の間に妙な隙間があったところから察するに、アルスラーンが雷に驚いたことに気付かなかったフリをしているのはほぼ間違い無い。
 さすがダリューンというべきか。相変わらず臣下の鏡ではあるが、逆に恥ずかしくなるのを感じて正直に白状することにした。
「その、実は雷が苦手で」
「左様でございましたか。ここら辺は滅多に雷が落ちませんからな。私も苦手です」
「そうなのか?しかしダリューンは雷の音を聞いても、全く動揺しているように見えぬ。私なんて先ほどから音が聞こえる度に驚いてしまって……」
 なんとも情けないものだと肩を落とすと、ダリューンは小さく苦笑を零した。
「そのうち慣れましょう」
「そうだと良いのだが……むしろ私の場合は以前よりも雷嫌いが酷くなっているような気がしてならないのだ」
「それはもしかしたら、陛下が猫又になられた影響かもしれませぬな。周りの猫又の者を見ていても、猫の聴覚は猿の倍は良いせいか、雷のようにいきなり大きな音がすると驚く者が多いです」
「えっ!ということは……斑類の者は、魂現の性質が身体に現れるのか?」
 このことは初耳だ。したがって驚いて問い返すと、ダリューンは説明が遅れて申し訳ございませんと律儀に頭を下げた後に頷いた。
「身体に現れるといいましても、程度は人それぞれですが。もちろん猫又以外にも、犬神人や熊樫などが耳が良いというので比較的有名です。そして聴覚以外ですと……たしか翼種は視力が良いとナルサスが言っていた覚えがあります」
「ほう……興味深いな」
 便利だとは思うが、よくよく考えてみると現在進行形で聴覚が急に良くなったせいで自分は大変な目にあっているのだ。
 生まれつきの能力であれば便利なのかもしれないが、途中で急に性能が良くなると難儀するものだなと考えていると、そこで再びバリバリと耳慣れぬ乾いたような音が聞こえてきたのに、手に持っていた杯を急いで机の上に戻しながら窓の方へ顔を向けた。
「おかしな音だな」
「この音の感じですと、雷雲がかなり近くにあるようですね」
 嫌だなと思いつつ未だ雨の降り続いている外を眺めていると、チカッと空が一瞬光る。それにそら来たと思いながら身構えようとしたときのことだ。ズガン!と今までに聞いたことの無い大きな音が響くと、その衝撃に窓枠に嵌められた硝子がガタガタと不快な音を立てながら派手に揺れる。
 さらに再びバリバリと耳ざわりな音が響いた後に、地響きのような雷音が辺りに響き渡って。
「ひっ!?」
 驚いたアルスラーンは反射的に椅子から立ち上がると、次の瞬間には魂現してスナネコの姿になりながら寝室へ大慌てで逃げ込む。そして寝台の中に勢いよく潜りこむと、身体を丸めてその身を雷から隠した。

「陛下、アルスラーン陛下っ!どちらにいらっしゃいますか!?」
 それから数分、いやほんの数十秒ほどかもしれない。ともかくしばらくすると、寝室の扉が開くのと同時にダリューンの声が室内に響き渡る。
 そこでアルスラーンはようやく我に返ると、自然と猫の姿から人の姿に戻り、布の端を少しだけ持ち上げて辺りの気配を伺った。
「ダリューン……。す、すまない、ここにいる」
「ああ、陛下。そちらにいらっしゃいましたか」
 先ほどの驚きがまだ抜けきっていないせいで、耳と尻尾がそのままなのはご愛嬌だ。
 ついでに外から再びバリバリという雷の音が聞こえているせいで寝台の中から完全に出ることが出来ないでいると、覚えのある気配が歩み寄ってくるのを感じる。そして布と布の隙間からダリューンが跪いている姿が見えたのにホッと息を吐くと、そこでようやく安心して頭だけ布の間から突き出した。
 しかしそこで不意打ちで嗅ぎ覚えのある例の甘い香りが漂ってきて。おかげでアルスラーンは一瞬で頭の中から雷のことが消え失せると、今度は甘い香りのことで一杯になる。そしてもっと、もっとというように、無意識にダリューンの方へ顔を寄せた。
「少し前から思っていたが……ダリューンから良い香りがする」
 特に今日は雨が降って湿気が高いせいだろうか。いつもよりもその場に香りが残っているような気がする。
「良い香り、でございますか?」
 ダリューンは不思議そうな表情を浮かべながら自身の腕を鼻先に近付けると、香油の類は付けていないのですがと不思議そうな表情を浮かべた。
 そんな反応を見て、普段嗅ぎなれている香りのせいで気付かないのだろうとアルスラーンはなんとなく考えた。
「甘い……香りがするのだ。ダリューンに頼んでいる目隠しという技の時に発する、フェロモンだったか?それの香りなのだろうかとぼんやり考えていたのだが……」
 ダリューンが嫌がらないのを良いことに、さらに首筋のあたりに顔を摺り寄せて息を吸い込むと、今までで一番濃い香りが鼻腔に広がる。
 その途端に意識がトロリと蕩けるような感覚を覚え、それまで握りしめていた布団から手を外すと寝台の上に両手を付く格好になりながら熱い息を吐いた。
「――は、ぁっ……」
 何故だかよく分からないが、酒を沢山飲んだ後のように身体が火照っている。
 身体の異変に気が付いた理性が、頭の中で何かがおかしいと警鐘をガンガンと鳴らしているのが聞こえるが、本能の方がその香りの虜になってしまったのか。身体が全く言うことを聞かず、アルスラーンかダリューンのどちらかがほんの少しでも動いたら、首筋に唇が触れてしまいそうなくらい顔を寄せてしまう。
 そしてそこで、ダリューンはアルスラーンの様子が明らかに普段と異なるのに気が付いたのだろう。さり気なく上体を引かれたせいで香りが遠ざかったのにアルスラーンは思わず眉を寄せた。
「ん……ダリューン、そんなに離れては香りが分からない」
 だから先ほどのようにもっと近くまで来てほしいと、両肩に手を添えながら催促する。するとダリューンは、彼にしては珍しく困った表情を浮かべてみせた。
「その前に一つだけ……その甘い香りは、いつ頃から感じられたのか教えて頂けますか?」
「初めて嗅いだのは私が先祖返りしたときのはずなのだ。しかし……もっと前にも嗅いだことがあるような気がする」
 昔のことはあまりよくは覚えていないがありのままを答えると、ダリューンは一瞬目を見開いた後、戸惑うようにその目を揺らす。そしてその表情を見ているうちに、アルスラーンは狐につままれたような奇妙な感覚に包まれた。
(……妙だな)
 よくよく考えてみると、斑類になる前はまだ普通の人間、つまりは猿人で、嗅覚は今ほど鋭くは無いのだ。したがって、恐らくはダリューンのフェロモンと呼ばれる刺激物質の香りを嗅ぎ分けられるはずが無いのである。それに王宮に上がる前にダリューンと出会った記憶も無い。
 ――そのはずなのに。
(おかしいな……考えれば考えるほど、混乱してくる)
 順序立てて考えてみると、以前の記憶は勘違いだろうとすぐに分かる。
 しかしそう考えれば考えるほど、以前に嗅いだことがあるという確信が深まるのだ。
「……おかしいな。ちゃんと考えてみると、初めて嗅いだのは私が先祖返りしたときで間違い無いはずなのだ。だがもっと幼い頃……王宮に上がる前に嗅いだような気もする」
「もしかしたら、以前にこの香りに似た別の香りを嗅がれたのかもしれませぬな」
「別の香りか」
 ダリューンの言う通り、冷静に考えてみるとその可能性が一番高いだろう。しかし本能がそんなはずは無いと頭の中で大声を上げている。
 その騒音から逃げるように、再びダリューンの首筋に顔を寄せて甘い香りを吸い込むと、途端に何もかもがどうでも良くなるから不思議だ。
「もし昔に嗅いだ香りがダリューンのものであったのならば、きっと私たちは運命なのだろうな」
「……はい。運命でございますね」
 思わず零した言葉に、意外にもダリューンが同意してくれたせいだろうか。甘い香りに煽られて、体内で燻っていた熱が一気に上昇するのが分かる。
 しかしその感覚をダリューンに知られるのは酷く恥ずかしいことに思えたので、誤魔化すように匂いの元となっているらしいダリューンの首筋を思わず甘噛みしてしまった。
(――って、私は何てことを!?)
 それは猫としての本能的な動作につられてのものであったが、噛みついた後に人としての理性が首をもたげて慌てて首筋から口を外す。そしてダリューンに詫びを入れようと顔を上げたはずなのだが。
 その頭の上と背後に見覚えのある黒い耳と尻尾が生えているのを見た途端、詫びを入れようとしていたのも忘れてダリューンのそれに目が釘付け状態になってしまう。何故なら自分はともかくとして、まさかダリューンがそんな風になるなんて夢にも思わなかったのだ。
 そして何だかんだ言いつつ基本的には冷静沈着な彼をそうしているのが自分だと思うと、少なからず優越感が満たされるのを感じて。アルスラーンは完全に調子に乗ると、ダリューンの首筋に再び顔を埋めてあぐあぐとそこを甘噛みした。
 しかしアルスラーンの幼子のような悪戯が長く続くはずもない。ダリューンは一瞬後にすぐに正気に戻ると、所在無げに宙に浮かせていた手をアルスラーンの腰と頭に添える。そして頭に添えた手の指先を獣の耳元に這わせながら、どうやら興奮状態になっているらしいアルスラーンを宥めにかかった。
「陛下……どうかそのくらいでご勘弁を」
「ん、んん、ぅ」
 アルスラーンの方は考えられる精一杯の悪戯をしているのに、ダリューンはもういつも通りだ。
 目の前でゆらゆらと揺れているダリューンの尻尾は、先ほどまでは毛が逆立って驚いているのが丸分かりの状態だったのに、今は普通に戻ってしまっている。
 それが面白くなくて。甘噛みはそのままに、目の前で揺れている黒い尻尾に手を伸ばして撫で上げるように扱いたときのことだ。
「――ッ!?」
 ダリューンにしては珍しく、小さく声を上げながら尻尾の毛を再び逆立てたのに、悪戯が成功したとアルスラーンは気分良くダリューンの首筋から顔を上げる。
 しかし今度は逆にダリューンがアルスラーンの首筋に顔を埋め込んできたのに目を瞬かせた。まさか彼がそんな風にしてくるなんて夢にも思っていなかったのでかなり驚いたのだ。
 しかしそうされると自動的にダリューンの首筋が再び鼻先まで近付き、甘い香りが濃く漂ってくると全てがどうでも良くなってしまう。
 そしてそんな戯れにじゃれているような感覚を覚えながら香りを楽しんでいたときのことだ。
「――う、っあ!?」
 先ほどアルスラーンが甘噛みしたお返しと言わんばかりに、首筋をカプリと噛まれた。
 途端に背中を走り抜けていく甘い痺れのような感覚に身体を震わせると、魂現してスナネコの姿になってしまう。そしてその姿を見たダリューンはハッとしたような表情をすると、慌てた様子で謝罪の言葉を口にした。
「も、申し訳ございません……!」
 残念ながら猫の姿では人の言葉は話せない。
 それならば人の姿に戻らなければと思うものの、いつも何も考えずに勝手に戻っているのだ。したがっていざ自発的に戻ろうとすると戻れない。
(困ったな……)
 しかしこういう時は、考えれば考えるほど深みにはまっていくものである。
 例に漏れずアルスラーンも思考の深みにはまっていると、唐突にダリューンに抱き上げられて寝台の枕元にゆっくりと下ろされた。
「人型には戻れそうにありませぬか?」
 ここで頷くのは簡単だが、ダリューンはかなり気にするだろう。したがって尻尾をゆらゆらと揺らして誤魔化すと、再び布の塊の中に潜り込む。さらに寝たふりをしながら様子を伺っていると、しばらくしてからため息を吐く音が聞こえてきた。
「なんとお詫びしてよいやら……ひとまず私は護衛に戻らせて頂きます」
 恐らくそう言うだろうなというのは大体分かっていたが、それはそれで面白く無い。というかそもそもアルスラーンが魂現した原因は自分自身にあるわけで、ダリューンには何も咎が無いのだ。
 そこまで考えたところで、アルスラーンはとりあえず誤解を解かねばと布の隙間から顔を突き出した。しかしダリューンはすでに背中を向けて足を踏み出している。
 したがって咄嗟に手を伸ばして目の前で翻った外套の裾を掴もうとするが、猫の手で物は掴めないためにすり抜けてしまう。それならと今度は口で銜えようとするが、もう届かない。
(こうなったら――!)
 アルスラーンは寝台の端まで走り寄ると、辛うじて届く位置にあったダリューンの尻尾の先端にとびかかりながら痛くない程度にかじりついた。
 直後、今度こそダリューンが獅子の姿になってしまったのは言うまでもないだろう。

「……ニャー」
 またやってしまったと思うが、時はすでに遅しだ。
 アルスラーンは布団の上から下りて獅子の姿のダリューンの前まで歩み寄ると、とりあえず一声鳴いて悪意は無いのだという気持ちをこめながら立派なたてがみに頭を擦り付ける。
 猫の鳴き声なので何を言っているかは分からないだろうが、雰囲気で察して欲しい。
 そしてしばらくの間ダリューンは固まったように動かなかったが、しつこくまとわりついて様子を伺っていたのが幸いしたのだろうか。少し経ってから、気まずそうな雰囲気を漂わせながらも、ダリューンの方から頭を擦り付けてきたのに嬉しくなる。
 しかしそれに喜んだのも束の間。いきなり首根っこをくわえられると、元居た位置――寝台の枕元まで運ばれた。つまりは、気にして無いから寝ろということなのだろう。
 それに安堵しつつダリューンはどうするのだろうと様子を伺っていると、寝台の足元あたりまで歩いたところで振り返り、アルスラーンと目がばっちりと合う。それならとそこで再び鳴き声を上げると、ダリューンは立ち止まって尻尾を縦にゆっくりと振りはじめた。
 尻尾の様子からして、恐らくこれからどうしようか迷っているのだろう。
 臣下という立場上、寝室という空間から出なければいけないと考えているのは間違い無い。しかし先ほど外へ出ようとしたところで、足止めをするように尻尾をかじられ、さらに今も鳴き声を上げられたので、どうするのが正しいのか判断がつきかねているのだ。
 そんな様子を期待の眼差しを向けたまま尻尾を立てて様子を伺っていると、ダリューンは考えるように扉とアルスラーンの姿を交互に見ている。
 ここまでくれば、きっとあともう一押しだ。
「ニャア」
 駄目押しとばかりに再度鳴き声を上げると、ダリューンは再びアルスラーンの方へ顔を向け、そこで決心したようにおずおずと腰を下ろした。

 その様子をアルスラーンはしばらく寝台の上から見つめていたが、しばらくするとダリューンは床の上に伏せる格好になったので、それにつられるように寝台の上に腹ばいになって足を伸ばした。
(……そういえば)
 当初の予定では自分が魂現したのは自業自得で、ダリューンは何も悪くないのだと言うつもりだったのだが。完全に機会を逸してしまった。しかし口にせずとも伝わっているような気がするのは、動物の直感というやつだ。
(案外、魂現の姿も悪くないかもな)
 意思疎通を図るための重要な手段の一つである人の言葉を話せない分、どうしたって目線や仕草、そして鳴き声を目一杯使ってそれを表現するしかない。そのためには普段以上に相手のことをよく観察しなければいけないわけで。
 そのせいか互いの距離が人の姿をしている時よりもずっと近いような気がするのは、きっと気のせいではないだろう。今だって何げなくダリューンが意識をこちらに向けているのが分かるし、自分だってそうだ。
 それはまあ、自分の本性を晒しているという恥ずかしさはある。しかしダリューンの前では散々見せているので今さらだ。
 アルスラーンはそんなくすぐったい気持ちを感じながらゆっくりと目を閉じると、そのまま夢の世界の住人となった。

 いつの間にか雷の音は止んでいたが、二人ともそれに気が付くことは無かった。

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