「陛下、おはようございます」
「ギーヴか。こんなに朝早くに鉢合わせるのは珍しいな」
アルスラーンは着替えと朝食を済ませると、いつものように政務室に向かう。その途中の廊下でギーヴに声をかけられたのに手を上げて応えた。
ちなみに現在の護衛はジャスワントとエラムだ。そして先日ひと悶着あった時と全く同じ状況に、護衛の二人が黙っているはずもない。今度こそヘマはしまいと主君の背後に邪魔にならない程度の距離感で貼り付き、それを目の前で目にしたギーヴはやれやれと言った様子で片眉を上げてみせた。
彼の内心を代弁すると、「そんなに心配せずとも、この俺が同じ轍を踏むはずないというのに」というところだろう。
しかしそこでアルスラーンのある異変に気が付くと、後ろの従者二人からすぐに興味を失い目の前の主君を注視した。
「これはまた……随分と自己主張の強い香りに変化しておりますな」
「な、何がだ?」
香りと言われると、昨晩のダリューンとの一件をついつい思い出してしまって頬が赤くなる。しかしギーヴが昨晩の出来事を知るはずが無いのだ。
したがって若干どもりつつも平静を装ってしらばっくれると、ギーヴはその様子を見て目を瞬いた後に心底不思議そうな顔をする。そして気付かないのですかと質問に質問で返した。
「え?気付く?」
「ああ……常に同じ香りを嗅いでいると、どうしてもその香りに鈍感になりますからな。そのせいでしょう」
何のことかさっぱり不明だが、ギーヴは勝手に自己完結したらしい。一人で納得したように頷いているが、その言葉のおかげであることを思い出した。
現在アルスラーンは、ダリューンによる目隠しを施されており、さらにナルサスの羽を持たされているのだ。そしてそのいずれも、香りに関するものである。
さらにここ数日の間にその香りが変化するほど近くにいた相手は、考えるまでもない。ダリューンだ。
それに気が付いて無意識に首元を庇うように手を添えると、アルスラーンはおずおずと顔を上げた。
「う……ダリューンに目隠しをしてもらっているから、フェロモンとやらの甘い香りがするのではないだろうか。昨晩の護衛は彼で……部屋で少し話したから、そのせいで濃く香っているのかもしれない」
このことは黙っていようと思っていたのだが。しかし知られてやましいことなど何も無いのに、あえて黙っていることで変に勘ぐられるのも困る。
したがって若干しどろもどろになりながらも素直に白状してギーヴの表情を伺うと、彼は目が合った瞬間にスッと目を細めた。
「なるほど。陛下には、その香りが甘く感じられるのですか」
「……?ああ、そうだが。ギーヴは違うのか?」
香りというものは、細かな違いはあれど甘いとか爽やかとか、そういう大きな方向性に違いは無いはずなのだがと考えつつ首を傾げる。
しかし予想外にも、彼は肩を竦めてみせると残念ながらと答えた。
「どちらかと言いますと、私にとっては甘い香りというよりは……そうですね、言葉で表現するのは難しいですが、どことなく苦みを感じるというのが一番しっくりときますな」
「えっ?」
恐らく気を使ったのだろう。はっきりと口にはしなかったが、つまりはギーヴにとってダリューンの香りはあまり良いものでは無いらしい。
それに驚いて思わずポカンと口を開けていると、彼は肩を竦めながら、そんなものですよと口にした。
「もし私が甘くて良い香りだと言ったら、ダリューン卿は逆に困るでしょう」
「そう、なのか?」
「目隠しに使われるフェロモンはそういう類の物ですからな」
――ダリューン卿に対してそういう意味での好意を持っていない者には、良い香りには到底思えぬものなのですよ。
ギーヴは不意にアルスラーンの耳元に口を近付けると、小声でそう告げる。
そして彼のそんな行動に敏感に反応したジャスワントが二人の間に腕を差し込み、エラムがそれ以上はいけませんと忠告の言葉を発する。すると彼は大げさな仕草で謝罪の言葉を口にすると、一礼をした後にその場から歩き去って行ってしまった。
その口元には緩やかな弧が描かれていた。
「そういう意味、での好意?」
恋多き男、ギーヴの言うことだ。つまりは親愛とかそういう類の感情ではなく、恋心のことだろう。
つまり彼は今、アルスラーンがダリューンのフェロモンの香りを甘く感じるのは、恋愛対象として見ているからだと言ったのだ。
「はは……まさか」
そんなことは有り得ない。
それは当然親愛とかそう言う類の感情は有り余るほどに抱いているが、だからといって恋人のように口付けをしたいと考えたことなんて一度も……
「――っ」
そうだ。そんなことを考えたことは、今以外に一度も無い。
そして今、ついうっかりダリューンとの口付けを具体的に想像してしまった瞬間に顔が赤くなったのは、口付けという行為に対する羞恥心からだ。
そんな言い訳を何度も頭の中で繰り返す。そしてその最中、心臓がうるさいくらいにドクドクと脈打っていたが、それには気付かないフリをした。
「陛下、何もされておりませぬか?」
エラムが心配そうな表情を浮かべながら、呆然と立ち尽くしているアルスラーンの様子を伺っている。そこでようやく我に返って慌てて大丈夫だと答えると、彼は小さく息を吐きながら本当に油断ならないとぶつぶつと呟いていた。
「その……エラムは、私から何か香りがするか?」
「かっ、香りで、ございますか」
エラムにそう尋ねたのは、ダリューンの香りが甘く感じる者が他にもいないか確かめたかったからだ。
そして意外にも、エラムはその問いに対して少しだけ頬を赤く染めると、途端に視線を彷徨わせ始めて。それを見たアルスラーンは喜色を浮かべると、エラムの両腕を掴む格好で彼の方に身を乗り出した。
「エラムもこれが良い香りに感じるのか!」
「そ、それは……恐れながら……はい」
つまりは、アルスラーン以外にも良い香りだと感じる者はいるのだ。なんだやっぱりと思う。先ほどのギーヴの発言は、きっと彼なりの冗談だったのだ。
――いや。
(あるいは、もしかしてエラムも……?)
そんな考えが浮かんできたのに思わず固まっていると、焦ったような表情のエラムがやや大きな声を上げた。
「そ、そろそろ、ご勘弁くださいませ!また魂現してしまいます!」
「あ、ああ」
エラムの勢いに押されてアルスラーンは慌てて離れる。しかしその言葉に少なからず感じた違和感に首を傾げた。
「また、魂現?」
エラムが魂現したところを見たのは、アルスラーンが先祖返りした日のことだ。確かあの時は不意打ちでアルスラーンの先祖返りの香りを嗅いだのに驚いて魂現してしまったと言っていた。
そして今も、その時と似たような状況である。
「……あれ?もしかしてエラムが今感じるのは私の香りだけだったりするのか?ダリューンやナルサスの香りは感じないのか?」
首を傾げながらそう尋ねると、彼はアルスラーンから数歩離れてから己を落ち着かせるように息を小さく吐いた後に頷いてみせた。
「はい。私が感じることが出来るのは、陛下の香りのみでございます。それも意識してほんのりと感じる程度なのですが。ダリューン様とナルサス様の香りは……生憎と全く。翼種はあまり嗅覚が良くありませんので、強い香りでないと感じられないのです。恐らくジャスワントであればナルサス様などの香りも分かると思いますが」
エラムはそこで少し離れたところで周りを警戒していたジャスワントの方へ顔を向けて呼び寄せようとしたが、アルスラーンは慌てて首を振ってそれを止めた。
もしそれでジャスワントがギーヴと同じことを言ったら、せっかく気付かないフリをした感情から逃げられないことになる。
それはとても恐ろしいことに感じられた。
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