アイル

獣の本性-8

 そんなこんなで。朝からギーヴに鋭い一矢を放たれたおかげで、アルスラーンの胸の中はしばらくの間激しくざわついていた。
 しかしどんなに驚くべきことがあっても、心配ごとがあっても。それにかまけて仕事を怠ければ、それはすなわち国の衰退へと一歩近づくことになるのだ。
 したがっていつものように平静を装って政務室の扉をくぐると、定位置に腰掛ける。するとそれを待っていましたとばかりに、部屋の中にいたルーシャンが近付いてきて目の前に跪いた。
「早速で申し訳ございませぬが……陛下の護衛の件につきまして、一つ提案があるのですが」
「というと?」
 また自身の先祖返りに関する話題だ。あまり気乗りはしなかったが頷いてみせると、ルーシャンは嬉しそうな表情を浮かべながら話しを進めた。
「現在陛下の護衛はダリューン卿、エラム、そしてジャスワントの三人となっております。エラムとジャスワントは元々陛下の護衛の任が仕事ですので問題はございませぬが、ダリューン卿は万騎長でございます。この先もずっと、という訳にも参りませぬ」
「確かに、そうだな」
 基本的にダリューンの仕事は巡察や訓練といった具合に、城外でのものが多いのだ。そんな彼が城内で護衛にずっとついていると、その分だけその仕事が滞ることになる。
 ということはそろそろダリューン以外の護衛の者になるのかもしれない。
 そのことに一抹の寂しさを覚えつつも、素直に頷いたアルスラーンであったが、直後に続けられた言葉に思わずポカンと口を開けた。
「つきましては、宴の席を設けさせて頂きたく」
「えっ?」
 何故そこで宴という言葉が出て来るのか。
 てっきりダリューンの代わりとなる護衛の名前を告げられるとばかり思っていたので、取り繕うことも出来ずに気の抜けたような返事をしてしまう。
 しかしルーシャンはその反応を予想していたのか。心得た様子で一つ頷いてみせると、小さく咳払いをした後にさらに説明を続けた。
「つまりは、宴の席で陛下を護衛する者を直接見て決めて頂ければと考えた次第でございます。もちろん宴に出席できる者は、こちらである程度は選定させて頂きますが」
 たしか以前にナルサスが護衛の件について考えておくと言っていたはずだ。ということは恐らくルーシャンとナルサスの二人で話し合った結果、宴を開くという結論になったのだろう。
 そして彼らは無駄なことはしない主義なので、宴まで開いて護衛を見つけるのには何か深い理由があってのことなのだろうが……いくら考えてもその理由が分からない。
 したがって首を傾げながら随分と大げさだなと答えると、ルーシャンはとんでもない!と言った様子で身を乗り出した。
「大切なことでございます。陛下は斑類になられたばかりですので少々分かり辛いやもしれませぬが……猿人以上に斑類には相性が大切なのです」
 曰く生理的に合う合わない、というのがあるらしい。
「例えば、相性で一番分かりやすいものは香りでしょうか」
「か、香り」
 先ほどギーヴにとんでもないことを言われたのも相まって思わず復唱してしまうが、ルーシャンは大して気にしたふうもなく頷いてみせた。
「斑類の者は魂現の関係上、人よりも嗅覚が発達している者が多いのです。そして相手から漂ってくる香りを無意識に嗅ぎ分け、合う合わないを本能的に感じ取っていると言われております。
 特に相性が良い相手から良い香りが漂ってくるというのは、有名な話しでして。ですから身近に置く護衛ですとか、あるいは結婚相手などを宴の席で選ぶというのは、斑類の貴族の間ではよく行われることなのです」
「ああ、なんだ。そうなのか」
 ということは、先ほどギーヴの言っていたことには少々誇張が含まれていたらしいとそこでようやく気が付いた。
 紛らわしいとは思うものの、そもそもギーヴは「そういう意味での好意」と婉曲的な表現をしただけで、それを早とちりして「恋愛」だと解釈したのはアルスラーンなのだ。
 もしもその思考回路を他の者が読んでいたら、皆一様にそれはギーヴが悪いと口にしただろう。しかしお人よしのアルスラーンはいけないいけないと頭の中で彼に一言詫びを入れると、ルーシャンに承知したと頷いてみせた。

 だが一度自覚してしまったダリューンへの気持ちは、いくら勘違いに違いないと思い込んでも、どうしても消し去ることが出来ずに心の奥底に染みついていた。

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