アイル

現と夢の恋心-1

 社畜は大変だ。その日の仕事が終わらなければ家に帰ることすらままならない。
 それはパルス商事社長の御曹司であるアルスラーンも例外ではなく、今日も今日とて営業一課の自席で残業に追われていた。

「殿下、殿下。こちらでお寝みになられては、お風邪を召されてしまいます」
「う~……」
 アルスラーンは優しく肩を揺さぶられたのにデスクの上に伏せていた顔をゆっくりと横に向けて瞼を開ける。すると未処理の紙の束が目に入って、早速気分が下がるのを感じた。これが嫌で眠りの世界に逃避していたのに、無理矢理現実に引き戻すとはあんまりだ。
「しごとは、もういやだ」
 いつの間にか同じフロアの他の人間は帰ってしまったのか、天井の照明がほとんど落とされて辺りはすでに薄暗い。それも相まってますますやる気が削がれる。
 したがって首を小さく左右に振り、むずがりながらデスクの上に再び顔を伏せると、頭上で小さくため息を吐かれた。
「殿下が本気を出されれば、三十分もあれば終わるでしょうに……。まあ、今日のところは大分お疲れのようですし仕方ありません。今回だけ、特別に私の方で処理させて頂きます」
 ですからこんな冷える場所で寝ないでくださいと言われた後、書類を取り上げるためか身体を寄せられる。そこで鼻先にふわりと心地良い甘い香りが漂ってきたのに、アルスラーンは今度こそ顔をちゃんと上げた。
「ん……なんだか、いいかおりがする」
 恐らくは香水の香りだろう。どこかで嗅ぎ覚えがあるような気がするのだが、まだ思考回路がちゃんと働いていないせいで、あと少しというところで答えが出てこない。
 それならと相手の顔を見上げてみるが、腕に目元を押し付けるようにして寝ていたせいで、視界がぼやけてしまってよく見えない。ただ目の前の人物は髪の毛がそれなりに長いのか。後ろで束ねた黒髪が肩に流れており、上に着ていたシャツが真っ白なのも相まってそれだけはよく分かった。
(同じ課の、女の人?)
 よくよく見るまでもなく、目の前の人物の体格は明らかに女性のそれではない。したがっていくら寝ぼけて視界がぼやけていたとしても、普段のアルスラーンであればすぐにそれがダリューンであると分かっただろう。
 というかそもそも考えるまでもなく、声はダリューンのものなのだ。
 しかし生憎とその時は連日の残業に心身ともに疲れきっていたので、脳が少しでも癒しを求めていたのだろう。目の前の人物を都合よく女性であると解釈してしまう。
 そしてどこからどう見ても男のダリューンを目の前にして、女の人ってやっぱりいい匂いがするものなんだなあと顔を緩ませた。
 人の脳というものは一度そう思い込んでしまうと、都合良く現実を曲げて捉えてしまうことが出来る便利なものなのである。
(だがなあ……私は女性の知り合いはファランギースかアルフリードしかいないはずなのだが)
 しかし生憎と、二人が目の前の人物のように髪の毛を束ねている姿を見たことは一度も無い。ということは、目の前の女性はファランギースでもアルフリードでも無いのだろう。
 そこまで考えたところで、アルスラーンはある考えがふと閃いたのに、心の中でポンと手を打った。
(ああ、なるほど。そういうことか)
 ここ最近のアルスラーンの趣味は、夜更かしをすることである。何をしているのかというと、ありがちではあるがグラビア雑誌を読んでいるのだ。
 もちろん十代のそういうのに興味津々な年頃でもあるまいし……とはアルスラーン自身でも思ってはいるのだが、いかんせん今までこの手のものに一切触れたことが無かった反動か。少々はまってしまっているのである。
 しかし一応言い訳しておくが、もともとこういった本にそんなに興味があったという訳では無い。ただ同じ課のギーヴという男に、そのままでは先が思いやられると一度雑誌を押し付けられ、それが全ての始まりだったというかなんというか。
 まあそんな個人的趣味はともかくとしてだ。
 昨晩見た雑誌のモデルの女の子が黒髪のポニーテールだったのを思い出すと、アルスラーンはそういうことかと合点した。
(これは、夢か)
 ここまでくると、己の妄想力の逞しさに逆に感心する。
 しかし夢ということは、つまりは現実では無いわけで。そして夢の世界は、自分が好きなように動くことが許される空間なのだ。
「――!」
 そのことに思い至った瞬間、アルスラーンはとんでもないことに気が付いてしまったと全身を震わせた。
 好きなように動ける空間ということは、文字通り、ちょっとエッチなあれやこれやも出来るということだ。もちろん、あくまで自分の知識の範囲内という制約はあるのだろうが。
(い、いや……ちょっと、待て……落ち着け……落ち着くんだ)
 夢の中とはいえ邪な妄想を抱いてしまったのに、アルスラーンは思わず頬を赤く染めながら、駄目だ駄目だと何度も繰り返す。そしてそんな妄想を相手に悟られぬよう、表情を隠すように額に手を添えながら顔を俯けた時のことだ。
 横に立っていた女性は何を考えているのか、唐突に手をアルスラーンの方へ伸ばしてくる。しかしその意図が分からなかったのでただただ見つめていると、その手が頬に添えられ、さらには半ば無理矢理に顔を上向かせられたのに身体を大きくビクつかせた。
「ちょ、ちょっ!?あ、えっと!?」
 今さら言うまでも無いかもしれないが、アルスラーンが女性とこんなに接近するのは生まれて初めてのことだ。
 したがってこれはたまらないと両目をギュッとつぶると、目の前の女性がクスリと笑う声が聞こえてきてなんとも恥ずかしい。そしてそれと同時に、明らかに女性に主導権を握られている状況に気が付いてプライドも少々傷つく。
(というか、そもそもこれは夢なのに……!)
 いくら生まれて初めての状況とはいえ、夢の中でまでこんな調子では先が思いやられるというものだろう。
 だから勇気を振り絞って両目の瞼を恐る恐る開けたはいいものの、思ったよりも近くに相手の唇があったのにやはり情けなく上体を揺らしてしまう。すると案の定、目の前の唇は緩やかに弧を描いた。
「う、うう」
 どうみても、この状況にあたふたとしているのはアルスラーンの方だけだ。自分自身の夢なのに、その当事者だけが追い込まれているこの状況はなんとも面白く無い。
 そして大半の男性は、こういう状況で女性に主導権を握られていたら何とか取り戻したいと思うものだろう。それはもちろんアルスラーン自身もそう思ってはいた。
 しかしそもそもどうすれば良いのかも分からなかったので、とりあえずそれまでデスクの上で拳をギュッと握っていた両手を開いて相手の肩にそっと乗せてみると――意外にも頬に添えられていた手の指先がピクリと動いたのに、アルスラーンは目を瞬かせた。
(……あれ?)
 こんなもので相手を動揺させることが出来るのかと、少しばかり肩透かしに感じてしまう。おかげで少々調子に乗ると、肩に添えていた手をするりと相手の首に軽く巻きつけてみる。
 しかし相手は上背があるのか少し無理な体勢になってしまったので、腕に力をこめて自らの方へ引き寄せると、相手の上体が驚きを示すようにはっきりと揺れ動きながらも、腰がさらに深く折り曲げられた。それに今度はアルスラーンの方が口元に笑みを浮かべた。
「なんだか、キスしているみたいな体勢だな」
 相手の唇は先ほどよりもさらに近くにある。それこそ、どちらかがほんの少しでも顔を前に動かしたら触れ合ってしまいそうな距離だ。したがって思わずそう呟くと、目の前の唇が少しだけ開かれ、喘ぐように吐息を漏らすので思わず目線がそこに釘付けになってしまう。
 そんな風にして息を吐く相手の動作にすらいちいち過剰に反応してしまうのは、こういったことに不慣れなせいか、あるいはこの場の雰囲気にのまれてしまっているせいか。
 しかしそもそもこれはアルスラーン自身の夢なわけで。つまりはただ単に己の欲望が具現化しただけなのだ。
(なら、ためしに――)
 少しだけならいいだろうかと、一度でも考えてしまうともう駄目だ。
 予定は今の所一切無いが、恐らくいつか来るであろう本番前の予行演習をするのだと頭の中で言い訳を繰り返しながら目を自然と閉じる。そしてまるで吸い寄せられるかのように、己の唇を目の前の相手のソレに触れさせた。

 まっすぐ前を向いたままだと、互いの鼻がぶつかって邪魔だ。それならと顔を斜めに傾けて唇を押し付けるようにすると、触れる面積が広がったせいか、もっと口付けが深くなったような気がしてドキドキする。
 さらには身体を動かした際の空気の流れに乗り、相手の香りが先ほどよりも濃く漂ってきて。ああ、キスをしているのかという実感がじわじわと胸の中に広がっていく。そこで初心者のアルスラーンは限界を迎えると、これ以上は色々と不味そうだと相手の首に巻き付けていた腕を外しながら唇を離した。
「は、ぁっ……」
 キスをしていた最中は息を止めていたので、唇が離れたところで大きく息を吸う。
 しかし思ったよりも妙な息遣いになってしまったのに少々恥ずかしさを覚えて思わず顔をそむけると、それが気に食わなかったのか。頬に手を這わされて、半ば無理矢理に再び口付けられる。
 ただし今度のそれは、まるで吐息をも飲み込むかのようなもので。
「んっ……ちょっ、待っ――う、ぐっ!」
 相手のいきなりの攻勢にたまらず静止の声をあげるが、目の前の人物には先ほどまでの狼狽えた様子は微塵も感じられない。それどころか言葉を発するために口を開けた拍子に、これ幸いと言わんばかりに口内に舌を挿入してくる手際の良さだ。
(な、んだ、これっ……!?)
 先ほどまでの唇同士を触れ合わせるキスなんて、まるで子供だましとしか言いようが無い。
 もちろん恋人同士がこういう深いキスをするというのは、テレビやら映画のちょっとしたラブシーンでも見かけるので知ってはいた。しかし見るのと実際にやるのとでは大違いだ。
 舌同士が触れ合うと、今まで感じたことのない熱の感覚に、驚いて喉奥に自身のそれを引っ込める。すると小さく含み笑いをされた後に、口蓋に舌先を這わされてすりすりと擦られて。
 すると何故だか首の後ろあたりにじわりと甘い熱が広がる感覚に、甘えるように喉を鳴らしてしまうのが止まらない。
「んっ、んんっ……う、んっ」
 ああ、もう降参だ。
 これははっきりとした――快感だ。
 男がこんな体たらくとはどう考えても恥ずかしい。だから何とか耐えようと相手の胸元に手を這わせてシャツを握りしめるものの、それでどうにかなるはずもなく。
 それどころか相手はさらに興が乗ったのか。イスの上に片膝を乗せて覆いかぶさるような格好になると、頬に添えていた手を首裏まで這わせて。さらには親指の指先で、耳元を思わせぶりに撫でてくるのだ。
「ふっ……んっ、ぅ、あ!はっ、ぅ……ま、まって!」
 その瞬間背筋をゾクゾクとした快感が走り抜ける感覚にたまらず相手を押し退けると、意外にも呆気なく唇が離れたのに乱れた息を吐きながら胸を撫で下ろす。しかしそうやって安堵したのも束の間。
 こんなキスなんて今まで一度も経験したことが無いのに、妙に具体的で生々しいなと思いながら手の甲で唇を拭ったところで、唾液で濡れる感触がリアルなのに気が付いて思わず眉をひそめる。
 そしてそこでようやくこの状況の違和感に気付いてゆっくりと顔を上げた。
「……あ、れ?ダリューン……?」
 先ほどまで目の前に居たのは女の子だったはずなのだが。今目の前に立っているのは、どこからどう見ても……ダリューンだ。
 理解し難い現実に呆けた顔をしながらその名を呼ぶと、いつものように「はい」と答えが返ってくる。
 ということは、やはり目の前にいるのはダリューンであり、先ほどの出来事は全て彼相手にやっていたことなのだろう。
「ちょっと待ってくれ……。私は、たしか夢を……そう、夢を見ていたはずなのだが」
「そのようでございますね。連日の残業でお疲れなのでしょう。今日は早めに仕事を切り上げられては?」
「あ、ああ……うん。そうだな、そうする。思っていたよりも疲れているみたいだ」
 ダリューンを女性と見間違えるだなんて。彼の言うとおり、疲れているとしか思えない。
 したがって眉間に指先を添えつつ何度も頷くと、ダリューンはアルスラーンのデスクの上から紙の束を取り上げる。つまりは、残りは彼が処理してくれるのだろう。
 それに気が付いて慌てて礼の言葉を口にすると、ダリューンは口元に笑みを浮かべながら一礼をして自席へと戻っていった。そして彼が身を翻した拍子に、先ほど香った甘い香りがほんの少しだけ漂ってきたのに思わず顔をそちらに向けた。
(ああ……そうか)
 夢の中でも何となく嗅ぎ覚えがあるとは思っていたが、彼の香りだったのだ。しかし今さらそれに気が付いても、全ては後の祭りだ。
「はあ……」
(キスをしてしまった詫びと仕事を手伝ってくれた礼もかねて、明日に菓子など渡そうか)
 となると帰る途中で寄り道をする必要が出て来るので、あまりのんびりとはしていられない。それならさっさと帰宅準備をしなければとイスから立ち上がった時のことだ。
 陰茎に下着の布が擦れた瞬間、甘い痺れが下肢から脳天まで一気に走り抜けていく感覚に、アルスラーンは再びイスに座りこんでしまう。そこでようやく自身が勃起しているのに気が付くと、デスクの上に両肘をつき、手で頭を抱える格好でしばし自分の殻に閉じこもった。
 何故、男同士のキスで自分は勃起しているのか。
 何故、あのダリューンが今に限って声をかけてこなかったのか。
 脳裏に色々な疑問が浮かんでは消えていく。しかしどれも深く考えて答えを求めようとすればするほど、墓穴を掘りそうな予感がするのだ。
 したがって顔を上げて一つ頭を振った後、考えるのを全て放棄する。そして座ったまま大急ぎでカバンの中に荷物を詰め込むと、挨拶もそぞろに猛ダッシュで廊下にあるトイレに走りこんだ。

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