アイル

現と夢の恋心-2

「あー……」
 週の半ばは、ともかく憂鬱だ。
 土日の休日の間に発散したストレスが再び体内に蓄積しだし、週末まであと二日もあるという現実が肩に重くのしかかる。加えて今日のアルスラーンは、昨日普段と異なる行動をしたせいもあって、いつも以上に疲れていた。
(昨日は会社帰りにデパートに寄ったからなあ……)
 さすがに休日ほどでは無いものの、平日夕方以降の駅地下にあるデパートの食料品街は、仕事終わりの人で混雑する。理由は単純で、その日の夕食を購入するために多くの者が立ち寄るからだ。
 幸いにしてアルスラーンは、会社から電車に乗って三十分ほどの距離にある社員寮に住んでいる。そして寮の中の食堂で食事をとっているので、普段はそんな場所にはまず足を向けない。
 しかし昨日はダリューンが仕事を手伝ってくれた礼と、寝惚けてキスをしてしまった詫びをせねばと、珍しく食料品街へ寄り道したのだ。そして思いのほか何を買うかで悩みまくり、結局一時間もフロアをうろついた結果のこのザマである。
「はあ……」
 まあ何はともあれだ。昼休みにダリューンに菓子を渡すと、いたく喜んでいたので悩みまくったかいもあるというものだろう。
(しかし、そんなに大喜びするほどの物でも無かったと思うのだがなあ……)
 ちなみに何を渡したのかというと、少々お高めのチョコレートだ。チョコレートならば仕事の合間につまんでも手も汚れないし、良いかと考えたのである。
 とはいえそういった類の物は、女子社員が差し入れだといってたまに持って来るのだ。そして彼女達が持ち寄る物の方が、見た目も凝っており、アルスラーンが渡したものなどよりもよほど気合いの入った高そうな菓子なのだが。
 彼女らの菓子よりも、自分が渡した菓子を受け取った時の方が喜んでいるように感じられたのは、自惚れでは無いだろう。
(物凄い勢いで頭を下げて礼を言っていたしな)
 自分がパルス商事の社長の息子であるからか。しかしダリューンという男は、地位に媚びるとか、そういう性格では無いのを思い出して即座にそんな考えは打ち消す。
(普通に考えて、同じ男にもらう菓子より、女性にもらう方が断然嬉しいだろうに)
 相変わらずダリューンの喜ぶツボはよく分からない。しかしその途中でハッと我に返ると、仕事中に気を散らしてはいけないと頭を軽く左右に振った。
 そしてしばらくの間は手に持っていた書類を睨むように見つめていたが、文章が頭の中に全く入って来ないのに小さく息を吐くと、椅子から立ち上がって仕事に集中している面々を横目に眺めながら廊下へ抜け出した。

「……よし。誰もいないな」
 廊下の端まで歩いて行くと、喫煙スペースと書かれたガラス戸に突き当たる。そしてその扉を開けて踊り場のような空間を覗きこむと、予想通り。誰の姿も見えなかったのにしめしめと口元に笑みを浮かべながら、隅に置かれていたパイプ椅子に腰かけた。
 もちろんアルスラーンは煙草を吸わないので、普段ここには全く縁が無い。しかし昼食をとってからまだほんの一時間ほどしか経過していないので、誰もいないだろうと考えてやって来たというわけだ。
「とりあえず……十分くらいしたら席に戻るか」
 トイレ休憩をしていました、という言い訳のきく五分程度の休憩が一番無難というのは分かっている。しかしたったそれっぽっちの時間で、このやる気の無さを取り除くことが出来るとは到底思えない。
 したがって咎められないギリギリのラインを今までの経験から算出すると、携帯電話を取り出して十分後にアラームをセットする。そして再びポケットに仕舞い込みながら目線を上に向けると、高層ビルの隙間から覗く澄みきった春の青空をぼんやりと眺めながら、ゆっくりと目を閉じた。



「殿下、アルスラーン殿下。このようなところでお寝みになられては……」
「ん……?」
 それからしばらくの間目を閉じて意識を微睡ませていると、聞き覚えのある低音の声に名を呼ばれたのに、アルスラーンは小さく欠伸を漏らしながら意識を浮上させた。
 恐らくすぐに席に戻ってこないので、ダリューンが心配になって探しに来たとかそんなところだろう。
 普通だったら鬱陶しがるところなのだろうが、アルスラーンとダリューンの家は先祖代々付き合いがある。そしてその関係でダリューンには幼少期から面倒を見てもらっているせいで、彼がやや過保護気味なのには慣れっこなので何とも思わない。
 しかしそこで、アルスラーンは前日にこれと似たような状況で寝ぼけた自身がとんでもないことをやらかしたのを思い出すと、目をパチリと開け、反射的に大げさなほどに身体をのけ反らせた。
「殿下?」
「あ、れ?」
 先ほどまで、アルスラーンは会社の喫煙スペースにいた。
 ――そのはずなのに。
 いつの間にか辺りが真っ暗になっていたのに、思わず言葉を詰まらせた。
「っ!?ま、まさか……こんな時間まで寝過ごしてしまった、のか」
「殿下が部屋に下がられたのはほんの半時ほど前のことですので、それほど時間は経っていないかと思いますが」
 ペシャワールに到着してからは連日遅くまで話し合いをおこなっておりましたのでお疲れなのでは?というダリューンの言葉の端々に違和感を抱く。
 そもそもペシャワールとは何なのか。半時という言葉がどれほどの時間を指すのかも分からない。
 そして時間が経っていないというわりには辺りは真っ暗で……アルスラーンが喫煙スペースに足を運んだのは十四時過ぎのことなので、その表現を使うのはおかしい。加えて固いパイプ椅子に座っていたはずなのに、クッションの上に座っているかのような感触が尻にある。
 そこで恐る恐る目を左右に動かし、ここが喫煙スペースでは無く、中東風の部屋の一室であることに気が付く。どうやら床に敷かれた絨毯の上に置かれたクッションの上に座っているらしい。
 さらに少し離れたところに膝を付いて座っているダリューンの服装が、まるでファンタジー物の映画の中から飛び出てきたかのような鎧姿であったのに気が付くと、アルスラーンはようやく合点がいって一つ頷いた。
「ああ……なんだ。うん、そういうことか」
 つまりこれは、夢なのだ。
 ダリューンはアルスラーンの反応に不思議そうな表情を浮かべながら首を傾げている。
 それを誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべながら自身の姿を見下ろすと、身体が現実世界の二十代の時よりも一回りほど小さいことに気が付く。雰囲気からして、恐らく十代半ばくらいだろう。さらには衣服の方も見慣れぬものを身に着けていたのに思わず目を輝かせた。
「おお……!」
 アルスラーンがその時身に着けていた服は、いわゆる貫頭衣と呼ばれるものであった。全体的にゆったりとした作りになっているのと、夜という時間帯から察するに、恐らくは寝間着とかそんなところだろうと察する。
 もちろん裾がくるぶし辺りまである服を着るのは初めての経験だ。それにズボンも履いていなかったので、なんだか下肢の辺りが妙にスースーとしていておかしな気分だ。
「へえ……スカートみたいだな」
 履きなれていないせいもあるだろうが、非常に心もとない。女性はスカートを履きながらいつもこんな気分を味わっているのかと思うと、何だか凄いなと妙に感慨深い気分になる。
 念のために言っておくが、女装願望があるわけでは無い。そうでは無くて、ただの純粋な興味だ。
 格好良く表現すると、人間だれしもが持つ未知への興味というのが近いだろう。
 そこでアルスラーンはゆっくりと絨毯の上に立ち上がる。そしてスカートとはどのようなものなのかもっとよく感じてみようと、腿辺りの布を指先で摘んで膝辺りまで裾を持ち上げた。
 するとその瞬間に物凄い勢いでその手を押さえられたのに首を傾げた。
「ダリューン?」
「し、失礼をお許しくださいませ。しかし殿下、そのような格好は……っ!」
 いきなりどうしたのだろうとダリューンの方へ目を向けると、彼にしては珍しく狼狽えた様子で目線を泳がせている。その様子から察するに、服をたくし上げてそれ以上素足を晒すのは、はしたないとかそういうことを言いたいのだろう。
 現実世界の夏場などはこのくらいの丈の半ズボンを自室で履いているので、アルスラーンにしてみればなんてこと無いのだが。
(そういえば、ダリューンの今の格好って素肌とか全然見えないな)
 この夢の中の世界観では、今の格好はあまり褒められたものでは無いのだろうかと勝手に想像する。
 そこで少しだけ悪戯心が湧き上がり、押さえられていない方の手をさらにもう少しだけ上げてみる。すると困惑と焦りが入り混じった珍しい表情のダリューンと正面から目が合い、再び咎めるように声をかけられた。
「殿下っ!」
「あはは。冗談だ、冗談」
 普段は冷静沈着で、どんな不測の事態が起こっても動じる素振りを見せないくせに。こんな子供だましのような下らないネタで面白いくらいに狼狽える。
 それに思わず小さく笑いを零しながら、裾から手を離してクッションの上に再び腰掛けると、目元を手の平で覆いながら小さく息を吐いていたダリューンの手が、不意に伸びてきて頬をそっと撫でてきた。
 もちろんアルスラーンはその接触から昨日の自身の失態を思い出して身体を強張らせるものの、指先が耳元をくすぐるように撫でる感覚に思わず目を細めてしまう。
 恐らくダリューンは、それを了承の意ととったのだろう。さらに腰に手を添えられて身体を引き寄せられると、予想外の動きに対応出来ずに服の裾が乱れて太ももあたりまで一気にまくれ上がってしまったのに、アルスラーンはたまらず静止の声を上げた。
「うあっ!?ちょ、ちょっと待て、裾がっ……!」
「先ほど、殿下はご自分で捲られていたではないですか」
「う、」
 それはまあ確かにダリューンの言う通りである。
 しかし先ほどの比では無いほどの肌蹴具合なので、そうは言われても見過ごすことは出来ない。加えて腰を引き寄せられたせいで、膝を付いているダリューンの太腿の上に座りこむ格好になっているのだ。
 この状況が男の自尊心を少なからず傷つけるだろうというのは、ダリューンだって十分理解しているだろうに。しかし彼は先ほどまでの態度とは一転。まるで意に介した様子は無く、さらに顔を近付けてくるのだ。
 そしてアルスラーンは、そこでようやく服の裾を持ち上げてダリューンをからかった一件が、彼の地雷を踏み抜いていたらしいと気が付くがもう遅い。
「え、えっと……あの、ダリュー、んっ、ぅ!?」
 互いの鼻の先が触れ合ったところで最後の悪足掻きをしようと口を開くと、まるでその瞬間を狙っていたかのように唇を塞がれてしまう。
 しかしそこで脳内に聞き覚えのある電子音が鳴り響くと、アルスラーンはその瞬間に意識が急激に混濁するのを感じた。

「――はっ!?あ……ああ……ゆめ、か」
 電子音に導かれるようにパチリと瞼を開くと、そこは見慣れた会社の喫煙スペースだった。
 ズボンのポケットの中でけたたましい音を慣らしている携帯電話を慌てて取り出してアラームを止めると、煩いくらいに鳴っていた心臓がようやく少しだけ静かになって気持ちが落ち着いてくる。そこで辺りを見渡し、自分一人の姿しかないのにホッと小さく息を吐いた。
「……よかった」
 昨日に引き続いてまた夢と思っていたはずが現実だった。なんてことにはならなくて済んだらしい。
 しかしよくよく考えてみると、何故相手がまたダリューンなのやらという感じだ。しかもそれが嫌だと思うどころか、全身に妙な高揚感が広がっているのがまた何とも複雑である。
「はあ……参った」
 昨日は、ダリューンのことを女性と勘違いした末に彼にキスをしてしまった。
 しかし今は違う。
 夢の中の出来事であったとはいえ、相手がダリューンとはっきりと認識していた状態でキスを受け入れたのだ。
 そこで昨晩キスをした際に自身の下半身が反応をしていたのを思い出して思わず視線を下に向ける。そして次の瞬間まるではかったかのように喫煙スペースの扉が勢いよく開かれたのに、アルスラーンは文字通り飛び上がった。
「殿下っ!?」
「ひっ!?」
 やましいことをしていたわけでは無いものの、昼間からしょうもないことを考えていたのは確かだ。
 したがって慌てて下肢から視線を引き剥がして扉の方へ顔を向けると、間が良いのか悪いのか。今一番会いたくない人物、ダリューンの姿がそこにあったのに思わず口元をひきつらせたのは言うまでもないだろう。
「お姿が見えないので心配いたしました」
「あ、ああ……いや、どうにも仕事に集中出来なかったから少し息抜きをしようかと」
「左様で御座いましたか」
 今の反応が、明らかに怪しいものだというのはアルスラーン自身十分に自覚している。だからダリューンも勿論それに気付いていると思うのだが、彼はそれを指摘してくることは無い。
 それどころか挙動不審に目線を泳がせているアルスラーンを横目に、何故かパイプ椅子の目の前に跪くと手を伸ばしてくるのだ。
「な、んだっ?」
 再び顔に指先を這わされ、口元を拭われたせいでアルスラーンは大げさなくらいに上体を揺らして狼狽えてしまう。理由は単純で、際どい場所を触れられたせいで夢の中でのダリューンとのキスを思い出してしまったのだ。
 しかしそんなアルスラーンの動揺に気付いているのかいないのか。ダリューンは無言のままアルスラーンの口元を数回撫で、そこでようやく口を開いた。
「殿下……休憩されるのは構いませぬが、このような誰が来るとも分からぬ場所でお寝みになられるのは関心いたしませぬ」
「――ッ!!」
 恐らくはうたた寝をしている時に口を開けていて、涎がこぼれていたのだろう。慌ててダリューンの手から逃れて自身の手の甲で口元を拭うが今さらだ。
 ダリューンが普段通りなのもあいまり、余計に羞恥心が煽られる。アルスラーンとしては今すぐその場から逃げ出して寮の自室の布団の中に潜り込みたい気分だ。
 しかし御曹司とはいえ社畜には変わらないので、それが許されるはずも無い。結局ダリューンに宥めすかされながら席まで戻ると、いつも通り時間一杯まで仕事に追われる。
 とはいえ羞恥心のおかげで、眠気と疲労が綺麗さっぱり吹き飛んでくれたおかげか。午前中の遅れを午後に取り戻すことが出来たのだけが救いだ。
 それは非常に喜ばしいことではあったが、素直に嬉しいと思うことは出来なかった。

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