アイル

陛下は騎士をおし倒したい!-4

 祭りが終わって数日後。分かりやすく言うとギランへやって来てから三週間ほど経過したある晴れた日のこと。
 アルスラーンはダリューンにエラム、さらにはギーヴなどの臣下を伴い、造船所の目の前にある港までやって来ていた。ただし今回は湖上祭のための舟を見るためではなく、グラーゼの船を見るためである。
 というのも数日前にグラーゼから、補修に出している彼の船の修理があと少しで完了するという話を聞いたのだ。
 もちろんその話に、少々暇を持て余していたアルスラーンが食いつかぬはずが無いだろう。身を乗り出すようにして熱心にその話に耳を傾けていると、そんな心の内を読まれたのか。グラーゼが笑いながら、ギランに来たからには陛下の率いるパルス水軍の旗艦を是非一度見て頂きたいと声をかけたというわけだ。

「船をこうやって近くで見たのは随分と久しぶりのことだが、みるたびに圧倒される」
 アルスラーンは港の船着き場に停泊していた一際大きな帆船の横に立つと、下から上まで顔をゆっくりと動かして船の外観を堪能する。そしてその大きさに、感嘆の声を漏らした。
 ギランにはこうやってたまにやって来ているが、アルスラーン個人で船を所有している訳ではないので、こんなにも近くで船を見る機会は実はあまり無い。王都を奪還する少し前、海賊らと一戦を交えた際にグラーゼと共闘した時以来だろう。
 ということは何だかんだと十年ぶりのことかと感慨深い気分になっていると、グラーゼは誇らしげに胸をそらした。
「ええ、そうでございましょう。この季節に港から見る海はいたって平穏なものですが、常にそうである筈がない。嵐に遭遇するのだってよくあること。それをくぐり抜けていくためには、生半可なものではいけないのです」
「そうなのか。命がけなのだな」
 アルスラーンは常に陸の上にいるので、周りを水に囲まれた状態で嵐に遭遇する恐怖は想像もつかない。しかしその恐怖を経験してもなお、彼らは海に繰り出していくのである。
 その胆力にはただただ感心するしかないと、アルスラーンは目を輝かせていた。
 しかしその後ろに控えていたダリューンの様子はというとまるで真逆だ。彼にしては珍しくグラーゼを見ながら思いきり渋い顔をしていた。そしてその原因が、数日前の美男美女決定戦であるのは、想像に難くないだろう。
 もともとダリューンは公私混同をする性格では無いので、そんな風に露骨な態度を取るのは極めて珍しいことではあるが、よほど祭りでの経験が耐え難いものであったのか。今度は国王にまで何かやらかすのではないかと最大限の警戒をしているのである。
 もちろんグラーゼはそんなダリューンの様子を横目で眺めながら、意外に分かりやすい男だなと内心ほくそ笑んでいた。
 だが船に夢中なアルスラーンは、残念ながらそんなことには一切気がついていない。ダリューンの心配など全く気付かず、グラーゼに誘われるがままにさらに船の中へと足を踏み入れていた。

 それからグラーゼに案内されながら船内を一通り見てまわり、さらに甲板で軽く茶など馳走になって一時ほど経った頃合いのことだろうか。空が橙色に染まってきたので、そろそろ館に戻るかということになった。
 そこで船から降りるために板状のしっかりとした梯子を再び設置し、まずはグラーゼの船の船員の者が降りていく。しかしその途中で梯子の中程の柱部分がバキリと音を立てながら突然折れ曲がり、その時ちょうど梯子の中間地点にいた船員は、運悪く足を踏み外して地面に強かに背中を打ち付ける形で落下してしまった。
「大丈夫か!?」
 船にいるものは縁から身を乗り出すようにして皆一様に落下してしまった船員に声をかける。
 すると陸で待機していた他の船員達もすぐに異変に気がついて駆け寄ってくると、落下した者を数人で抱え上げ、いずこへと運んで行った。
「あの者は大丈夫だろうか……一応意識はあるようだったが」
 念のために医者を寄越してやってくれと陸で待機していた衛兵に声をかけると、兵士達は立ち去った船員達の後を慌てて追って行く。それにグラーゼは礼を口にしながら、とんだご迷惑をおかけしてしまい申し訳ございませぬと頭を下げた。
 話によるとああいった梯子など木で出来たものは、海風に長時間晒されていると、どのような対策を講じても徐々に浸食されてしまうのだそうだ。だから定期的に交換しているのだが、運悪く今回のように突然ポキリと折れてしまうことがたまにあるらしい。
 そうこうしている間に、残っていた船員達がすぐ横に停泊していた仲間の船から別の梯子を持ってきてくれる。しかしいざ立てかけてみると長さが足りないのに、皆顔を見合わせながらため息を吐いた。
「困りましたな……この船は通常よりも大型なものでして、すぐにはちょうど良い大きさのものをご用意出来そうにありませぬ」
「そうか。他に似たような大きさの船は無いのか?」
「ふむ、そうですね……さすがにここまでの大きさの船は無いのですが、近い物ならばいくつか心当たりがございますので聞いてみましょう。ただ今の時間帯ですとほとんどの者が町の方へ出払ってしまっているので、話をつけるまで少々お時間をいただくことになってしまうのですが」
「私は構わぬ」
 港に停泊している状態とはいえ船に乗れる機会はそうそう無いので、むしろこの状況に運が良いなと思ってしまうくらいである。
 しかしそれが顔に出てしまっていたのか。脇に立っていたエラムに、楽しんでおられますねと即座に言い当てられてしまったのに頭をかきながら苦笑いを返した。

 そしてそれから。
 一刻ほどで新たな梯子が手配されたが、アルスラーンらが船から降りることは無かった。
 何故かというと、梯子の到着を待っている最中にグラーゼが冗談で最悪船に宿泊ですねと口にしたのに、アルスラーンが完全に乗り気になってしまったからである。
 無論それを聞いたダリューンは、外で泊まるには護衛の数が少なすぎるし、万が一のことがあっては大変だと即座に反対した。
 しかしそんな時に限ってグラーゼが悪乗りをして、変な輩が来ても船員がたくさんいるので撃退出来るし、船に乗り込まれる前に海に出てしまえばいいではないかと火に油を注ぐのだ。しかもそれがまた、確かに正論でもあるのが厄介なのだ。
 となるとダリューンの残る頼みの綱はエラムしかいない。彼は口が立つので、もしかしたら陛下を上手く言いくるめてくれるかもしれないと期待の眼差しを向けたが、彼は彼で滅多にない環境に好奇心が疼いているのか。たまにはそういうのも良いかもしれませんねとダリューンの思惑とは真逆の言葉を口にするのである。
 それならと駄目元でギーヴの方を向くと、意外にも彼は顎に手を添えてふむと考えこむような声を小さく漏らす。そして右手をスッと上げた。
「それでは俺は妓館に――」
「ギーヴは俺と共に、船室で陛下の護衛だ」
 ダリューンは、これほどまでにギーヴのことを役立たずだと思ったことは無い。その言葉、最後まで言わせるものかと途中で割り込んで命じると、冗談の通じぬ男だと肩を竦められた。
 そしてそんな様子を、アルスラーンは口元に笑みを浮かべながら眺めていた。
 というわけで、梯子が用意されるまでのわずか三十分の間になし崩し的に船内泊が決定したのであった。


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