アイル

アルスラーンと二人の臣下-1

 パルス暦三二八年四月某日。
 その日アルスラーンは少し前から随分と頭を悩ませていた内政問題がようやく片付いたのに、大きく息を吐きながら肩の力を抜く。そしてルーシャンの今日はもう休まれてはという進言をありがたく受け入れると、執務室から退室した。
 しかしまだ昼下がりで太陽の位置も高いので、このまま自室に戻るのも少々もったいない。
 それならば息抜きがてらに久しぶりに町にでも行こうかと思い立つが、いつも一緒に行ってくれるエラムは、今は生憎と別件の仕事に追われて忙しそうである。そんな時に、単なる息抜きに付き合わせるのはやはり申し訳ない。
 となると今日は町に向かうのは止めて自室に戻った方が良いだろうかと考えながら、城の回廊を歩いていたときのことだ。
 回廊の中央に設置されている箱庭のような中庭を暇そうに歩いているギーヴの姿が偶然目に入ったのに、アルスラーンは思わず足を止めた。
「ギーヴ!旅から戻っていたのか。しかしこんな時間から城に顔を出すとは珍しいな」
「おや、陛下」
 ちなみにこの男は一応巡検使という地位についている関係上、旅に出ていることが多いので王都エクバターナにいることはあまり無い。
 加えてたまに報告をしに王都へ戻って来たと思っても、城の空気は馴染まないと言ってすぐに妓館にしけこんでしまうので、その姿をこのように平日の昼下がりに城内で見かけるのは極めて稀なのだ。
 したがって思わず驚いた表情をしながら声をかけると、彼はゆったりとした足取りでアルスラーンへ歩み寄ってくる。そしてその足元に跪くと、深くその首を垂れた。
「旅より戻りましたので、ご報告にまいった次第でございます。昨晩に王都へ到着したのですが、夜遅くでしたので挨拶が日を跨いでしまい申し訳ございませぬ」
「ああ、そうだったのか」
 アルスラーンはギーヴに労いの言葉をかけながら、手を差し出して立つように促した。
 ちなみにこういった報告は、本来午前中にまとめて行われる。しかしよくよく考えてみると今日はそれが無かったのを思い出すと、目線を上に向けて考えを巡らせた。
(そういえば……今日は急ぎの問題を解決するために報告等は先延ばしになったのであったか)
 そしてほんの少し前まで執務室に籠っていたのだ。仕事に忙殺されていたせいですっかり失念していた。
 ということは、ギーヴはいつも通り午前中に帰還報告をしにやって来たものの、後で出直すように言われて城内をふらついていたのかもしれない。
 それに気が付いて慌てて待たせてしまってすまなかったと口にすると、彼はその顔に笑みを浮かべて何のことやらといった様子で首を傾げる。そしてゆっくりと立ち上がりながら、それでは失礼させて頂きますと頭を軽く下げた。
「屋敷に戻るのか?」
「いえ。戻るにしても時間が中途半端なので、久しぶりに町でも見て回ろうかと」
「おお……!」
 これぞ好機というやつだろう。
 それならばついでに自分も一緒に行っても良いだろうかと身を乗り出しながら尋ねると、彼は一瞬不思議そうな表情をする。
 しかしすぐにその真意を理解したのだろう。ニヤリと悪そうな笑みを浮かべながら快く了承してくれた。
 そしてアルスラーンは、その日初めてギーヴと微行することになった。



 それからアルスラーンはすぐに自室に戻って服を簡素なものに着替えると、ギーヴと共に城を抜け出した。
 そしてしばらくの間、二人で大通りを並んで歩きながら活気のある市場や人々の様子を眺めていたが、ギーヴは普段から何かとアルスラーンに悪知恵を吹き込んではダリューンに睨まれている男である。微行の際にもエラムのように健全な道順を示すはずもなく、途中から脇道にそれだしたのは言うまでもない。
 しかしアルスラーンもエラムから、微行のたびに行って良い場所と駄目な場所を散々教え込まれているので、すぐにそれに気が付いて道の途中で立ち止まると、不安な表情を浮かべながらギーヴの顔を見上げた。
「ここから先には近付いてはいけないとエラムに以前言われた覚えがあるのだが……大丈夫なのか?」
「ははは。あの者はダリューン卿の次に過保護ですなあ。なに、心配なさらずともおかしな輩はいないと聞いております。その証拠にほら、多くの女性達が歩いているではありませんか」
「それはそうだが……」
 彼の言葉に促されるようにあたりを見渡してみると、道を歩いているのは確かに年若い女性ばかりである。ほとんどの者が少し先にある突き当たりの角を曲がっているところをみると、その先に目的の場所があるらしい。
 王都とはいえ裏路地などの衛兵の目が届かない場所には悪い輩がうろついている訳だが、そういった場所に女性たちはまず近付かない。つまりここら一帯は、そういった意味での危険性はほぼ無いと彼は言いたいのだろう。
 だがギーヴの先の言葉から察するに、彼もここから先へは足を踏み入れたことが無いのではないかと尋ねてみると、彼は肩を竦めてみせた。
「いやあ、実は旅先の酒場で飲んでいるときに、男連中が王都に物珍しい場所が出来たと噂話しをしているのを聞きまして」
「それがこの道の先にあると」
「ええ」
 偶然小耳に挟んだ話しらしいが、なんでもその場所には多くの女性が集っているのだそうだ。
 なるほど、考えるまでもなくギーヴの好みそうな場所である。
(女性が集まる場所なあ……)
 可愛らしい小物類が置いてある雑貨屋があるのか、あるいは洒落た茶屋でもあるのか。
 しかしそのくらいのことでエラムが近付くなと言うのも妙だなと考えていると、ギーヴは嬉々とした様子で百聞は一見に如かずと言いますからと口にする。そしてアルスラーンの返答を待たずに背中に手を添えると、ささ、なんて言いながら半ば無理矢理に奥へ奥へと足を進めた。

 二人は女性達の波に乗って道を進むと、すぐに目的の場所に到着した。
 道の両脇には色々な店が並んでいるようだったが、意外にも書店と思しき店が一番多い。そしてギーヴの言う通り、女性率が異様に高かった。
 その中に足を踏み入れると、男性二人連れは非常に目立つせいで女性からの視線が痛い。そこでアルスラーンはたまらず横に立っていたギーヴの袖を軽く引っ張って耳元に囁いた。
「ギーヴ、とりあえずどこか適当な店に入らないか?」
「はい?」
 彼にしては珍しく間の抜けた返事だったので顔を見上げると、何やら考え事をしていたのか。呆けたような表情をしながら見つめ返される。したがって悪目立ちをしているようだからともごもごと口にしながら、彼の手首を掴んで一番近くにあった書店と思しき店名の書かれた店に逃げ込んだ。
 しかしアルスラーンは店の中に入ってからほんの数秒後に、己の軽率な行動を激しく後悔することになる。何故なら店の中の陳列棚に、所狭しと男同士の絡み合った絵の描かれた本が平置きされていたからである。
 つまりどういうことかというと、パルスにも男性同士の恋愛を嗜む女性陣が多く存在し、独自の文化圏を構築していたというわけだ。
「こ、これは一体」
「なるほど……そういうことか」 
 アルスラーンは初めて見る光景に圧倒されてその場で完全に硬直してしまう。そしてギーヴはというと、額に指先を添えながら深い深いため息を吐いた。

「……ん?」
 それからアルスラーンはしばらくの間呆然としていたが、ギーヴの上げた疑問の声につられるような形で意識を浮上させる。そして辺りを見渡すと、いつの間にか問題の店の中程に佇んでいたのに目を泳がせた。
 店の入口にいつまでも突っ立っていても邪魔なので、ギーヴが店内まで誘導してくれたのだろうが。それにしても、どこに視線を逃がしても男同士の絡み合った絵が目に飛び込んでくる状況に身を置くのは非常にいたたまれない。
 そこですがるようにギーヴの方へ目を向けると、彼は陳列されていた本の内の一冊を手に取って、何やら考え込んでいるようだった。
「ギーヴ?どうかしたのか?」
「ああ、いえ。この人物、見覚えがあるような気がしたのですが……あ、」
 ギーヴはそう口にすると顔を上げる。そしてアルスラーンの顔を見たところで、口を小さく開けた状態でピタリとその動きを止めた。
 それにどうしたのだろうと思いながら彼が持っている本の表紙を覗きこんでみると、そこにはやはり男二人が絡みあっている絵が描かれている。
 片方は黒を主体とした服装で筋骨隆々とした体躯に、髪の毛を一つに結んでいる。そしてその相手として描かれているのは、色素の薄い髪を肩まで垂らた藍色の瞳を持つ男であった。
「あ、れ?」
 何となく既視感があるのに思わずギーヴの顔を見上げると、彼は本の表紙の隅を指先で指し示す。それに促されるように目を向けると、そこに伏せ字で「ダリューン×アルスラーン」と表記されていたのに、喉が引きつるような声を上げながら思わず上体をのけ反らせた。
「そ、そそそそれは一体……!?」
 せめてもの救いは伏せ字で名前を表記されていることだが、表紙に描かれている絵の状況から考えて、自分自身と万騎長であるあのダリューンのそういう本であることに間違い無い。しかも女性役は、絵の状況から考えてどう見ても自分である。
 しかし彼とは一切そういう関係では無いので、慌ててそれは何かの間違いだと付け加えると、ギーヴは数回瞼を瞬かせた後にもちろん承知しておりますよと答えた。
「こういうものがあるというのは何度か耳にしたことはありましたが……実際に目にしたのはこれが初めてなので、少々呆気に取られてしまいました。なるほど、実に興味深い文化だ」
 そして手に持っていた本を棚に戻し、彼はダリューンがこの場にいたら大変なことになりそうだなと実に楽しそうに笑った。
 その様子から察するに、彼は完全にいつもの調子を取り戻したのだろう。面白がっているのが丸分かりな態度に大きなため息を吐くと、ギーヴは顔を覗きこんできた。
「検閲なさいますか?」
「いや……特に実害は無いし、そのつもりは無い。考えるのは自由だ」
「さすが陛下」
 アルスラーンの言葉を聞いたギーヴは感心した様子で頷いているが、そんなことで褒められてもという感じだ。
 ただこういう時の彼に何を言っても無駄なのは今までの付き合いでよく分かっているので、呻くような声を漏らしながらも何とか受け流す。そしてそんな様子のギーヴを見ている内にアルスラーン自身も少しずつ気持ちに余裕が出てくるのを感じると、そこでようやく視線を再び書棚の方へ向けた。
(何というか……凄いな)
 棚数列に渡ってダリューンと自分自身と思われる人物が絡み合った絵が描かれている書物が並べられている光景は、なかなかに圧巻である。そしてこの取扱量から察するに、これらの書物は人気があるのだろう。
 つまり考え方によっては、アルスラーン自身もそれなりに好かれているのだろうと取れる。
(そう考えれば、まあ)
 好かれていることに対しては、誰だって悪い気分はしないものだ。
 そこでさらに目線を遠くに向けると、アルスラーンの相手がダリューンでは無く赤紫色の髪の青年の表紙の書物が目に入る。それに吸い寄せられるように歩み寄ると、それを一冊手に取った。
「これはギーヴだな」
「……、なるほど。殿下のお相手を出来るとは、光栄の至りに存じます」
 そう口にした時のギーヴの顔は完全に真顔で、少しだけ溜飲が下がった。
 しかしその一瞬後には、俺とファランギース殿との書物は無いのだろうかと言い出すあたり、ギーヴらしいというかなんというか。しかもそんなことを口にしながら、棚に並べられている書物の内の何冊かを手に取っているのだ。
「えっと……何をしているのだ?」
「どのような内容なのか興味がありまして。ここに立ち寄る機会もそうないでしょうし、せっかくなので読んでみようかと」
「は?」
 彼は毎度の煌びやかな笑みを浮かべながら話しているので、その雰囲気にのまれてうっかり聞き流しそうになる。しかし目の前の男は、これらの本を購入しようとしているのだ。
 それに気が付くと、あまりに予想外な展開に思わず間抜けな返答をしてしまう。
 さすが色々なところを旅しているだけあって、この男は適応能力が高過ぎであった。

 そんな調子で衝撃的な幕開けとなったギーヴとの微行であったが、書店での出来事以外はおおむねいつもと変わりは無かった。
 それから日が落ちる前に二人は城の自室に戻って来て、微行に付き合ってくれた礼にとアルスラーンはギーヴを茶に誘った。
 しかし彼は何を考えているのか。その席でおもむろに書店で購入した問題の書物を取り出して机の上に乗せると、爽やかな笑みを浮かべながら陛下も読まれてみては?なんてとんでもないことを言い出したのである。
 無論、即座に遠慮したのは言うまでもない。しかし相手はあのギーヴだ。
 町民の間で流行っている書物を知るのもまた重要なのでは?なんて具合にいいくるめられると、何故か夕食の時間までその書物をギーヴと一緒に読む羽目に陥ってしまった。

 王族として子をなすことは重要である。したがってアルスラーンは十代半ばを過ぎた頃に、授業として男女間での情事についての知識を教え込まれてはいた。しかしその際に使用していた教材の挿絵は、事実を淡々と描かれただけの極めて教育的な内容であるのは想像に難くないだろう。
 加えてアルスラーン自身もほとんどこういった方面には興味が無かったので、この手の煽るような内容の書物を見ること自体が生まれて初めての経験だ。
 おかげで男同士の情事内容、なおかつモデルが自分自身にも関わらず……下肢が反応してしまったのに、内心冷や汗をかいた。
(これは……不味い)
 目の前の男はどうなのだろうとチラリとギーヴの方を見るが、彼は時折感心したような声を漏らしながらパラパラと書物をめくっているだけで、そういう素振りは全く無い。
 となると余計に気まずいのに、アルスラーンは何とか平常心を保とうと書物から顔を上げて天井を難しい顔で見上げる。しかし完全に目が泳いでしまっていたので、人の機微に敏いギーヴがアルスラーンのそんな様子の変化に気付かぬはずも無い。
 即座にそういうことかと理解すると、口元に笑みを浮かべた。
「おや、もしや陛下――」
「なっ、なんでもない!それよりそろそろ夕食の刻限だな!?」
 そしてその瞬間に羞恥心の限界を迎えたアルスラーンは勢いよく立ち上がると、わざとらしいのを承知の上で半ば無理矢理にギーヴを部屋から追い出しにかかった。
 だがギーヴが大人しく部屋から出て行くはずも無く、購入した書物をちゃっかりと壁際の書棚に詰め込んでいくあたりさすがというべきか。
「はあ……不要であると言ったのに」
 何故置いて行ってしまうのだと呟きながら居室の書棚の前に立ちつくし、ただただ頭を抱えることしか出来なかった。


戻る