兵長とオレが出会ったのは、訓練兵になる前のガキの頃のことだ。
壁外調査から帰って来た調査兵団をいつものようにミカサと見に行ったときに偶然出会った。
あの時の事は、今でも鮮明に覚えている。
列の前方を馬に乗って歩いていた兵長は、強者揃いの調査兵団の中に居ても妙に目立っていた。
他の人たちはそれぞれ何がしかの感情をその身体にまとっていたが、兵長からはそういう物が一切見えなかったせいかもしれない。
背中を真っ直ぐに伸ばして鋭い眼光で前を見据えている姿は、子ども心に何だかひどく格好良く感じられた。
……それからというもの、壁外調査帰りの調査兵団を見に行くのを一度も欠かしたことはなかった。
そんな兵長への憧れの感情が成長するにつれていつの間にか恋心に変わるのは、ある意味必然だったのかもしれない。
――そして今は、憧れだった調査兵団に所属している。
■ ■ ■
「あ、エレン。丁度良いところに。
悪いんだが、これを兵長の部屋まで持って行ってくれないか?」
「え?」
旧調査兵団本部に場所を移動してから数日経過し、まあ何とか新しい環境にも慣れてきたある日のことだ。
いつものように食堂で一人寂しく夕食をつついていると、同じリヴァイ班のエルドさんに話しかけられた。
エルドさんは気さくな人だなという印象は持ってはいたが、それほど口数が多い人では無い。だからいきなり話しかけられたのに少し驚く。
呆気に取られてポカンと口を開けていると、エルドさんが足早にオレの座っているテーブルに歩み寄って来て目の前にドンと瓶を置いた。
緑がかったガラス瓶の中に赤黒い液体がユラユラと揺れている。これは恐らく……ワインだろう。
「えと……ワイン、ですか?」
「ああ。
俺はこの後に急ぎの用事があってな……。いきなりで悪いんだが頼まれてくれないか?」
「分かりました。」
「兵長の私室の方に頼む。」
「はい。」
オレは何もやることが無いので快く承諾するとエルドさんは片手を上げて礼を言い、そそくさとその場を後にしてしまった。
あの様子から察するに、かなり急いでいたらしい。
(――兵長の私室か。)
普通、新兵が上官の私室に行くことはまず有り得ない。兵長に四六時中監視されるという特殊な環境下に置かれている自分であっても、その点は他の人たちと変わらない。
(私室っていうと……一番プライベートな空間だしな。)
色々と考えている間にだんだんと緊張してくるが、それと同時に高揚する気持ちも湧き上がってくる。
何しろ自分にとって兵長は小さい頃からの憧れの存在であるし……それに、今ではそれ以上の感情も持っている。
兵長への想いを恋愛感情だと理解したのは訓練兵のときだ。
男ばかりのむさくるしい空間でありがちな、いわゆる猥談というやつを同じ部屋の連中としているときに自覚した。
訓練兵といえば、十代前半辺りの……ちょうどそういう性的なことに皆興味が出て来る頃だ。
自分にとってはそれなりにショッキングな出来事だったので、今でもあの時の事はよく覚えている。
そう、あれは――
コニーがいかがわしい雑誌を調達してきたのが全ての事の始まりだった。
一日の訓練がようやく終わり就寝前の自由時間にのんびりと自分のベッドの上でくつろいでいると、いきなりバーンと大きな音を立てて部屋の扉が開かれた。
教官が抜き打ちでやって来たのかと皆慌てて身を正したが、部屋の中に入って来たのは同室のコニーで……しかも入室早々、嬉々とした様子で女性の裸のイラストが入った本をこれよみよがしに皆に見えるように頭上に掲げたのだ。
あの時の衝撃と言ったら……言葉では言い表せない。
何しろオレはミカサが始終一緒に居たのもあって、それまでその手の物に一切触れたことが無かったので、見てはいけない物を見てしまったような変な感覚に襲われた。
ちなみに周りにいた他の連中も最初は赤面をしてオレと似たような反応をしていたが、男の性と言うべきか……皆わらわらとコニーを取り囲むように集まり、いつの間にか借りる順番を取り付けていた。
(……まあ、オレは借りなかったけどな。)
皆が興奮気味にコニーを取り囲んでいたので、そんなに面白い物なのだろうかと興味をそそられない訳では無かったが、あの集団の中に飛び込んでまで見るほどの物かなあと思ったのだ。
そんなこんなで結局その時は本を借りることも無かったが、数日後に偶然ジャンが持っていたのを少しだけ見せてもらうことが出来た。
しかし案の定というべきか、いけない物を見ているというドキドキ感はあるものの進んでみたいと思うほど面白い読み物では無かった。
(オレが興味無さそうに女の裸を見るもんだから、ジャンのヤツに『女に興味ねえとか頭大丈夫か』とか言われたんだよなあ。
それで、よくよく考えてみて……オレは兵長が好きなんだってことに気が付いたんだっけ。)
最初のころは自分は男が好きなタイプの人間なのかと戸惑いもしたが、女の人を見ればそれなりにドキドキもするし……まあ、好きなタイプが偶然兵長だったのかなと今では思っている。
ちなみに、ジャンのヤツには巨人好きも大概にしろと言って鼻で笑われただけで済んだので、オレが兵長のことを好きということはバレていない。
そして兵長に自分の気持ちを言うつもりも今現在のところ全く無いので、今日みたいにささやかな楽しみを日々見つけては満足する毎日を送っている。
つまり……今日はかなりラッキーな日だ。
何しろ兵長が酒を飲むという情報だけでなく、私室まで覗くことが出来そうなのだから。
こんなことでも無ければ、兵長のプライベートな所を知ることはそうそう出来ない。
■ ■ ■
(……ここか。)
逸る気持ちを何とか思い留めて、自室に一度戻って洗面を済ませてから兵長の部屋までやって来た。
冷静に考えると何を恋する女子みたいなことをやっているのだと自分でも思わず突っ込みを入れたくなるが、人を好きになればこんな物だろうと言い訳じみたことをゴチャゴチャと考えながら恥ずかしさを誤魔化す。
兵長の部屋の扉の前に立つと、扉の下の隙間から少しだけ光が漏れている。
この様子だと恐らく兵長は既に自室に戻っているだろう。
扉の前に立って自分の身なりが乱れていないのを確認し、さらにエルドさんに頼まれたワインも忘れずに持って来ているのも確認すると思い切って扉をノックした。
「エレン・イェーガーであります。」
「――入れ。」
「……失礼します。」
扉を開ける瞬間が最高に緊張する。
心臓が今日一番の早鐘を打っていて、さっきからバクバクと煩いくらいだ。
(――へえ。)
兵長の私室は、ある意味予想通りだった。
塵一つ落ちておらず、家具があるべき場所に綺麗に配置されている。
とは言うものの、兵に所属する人間の特性かもしれないが、部屋の中には余計な物が一切置かれておらず少しだけ物寂しい印象を受けるのも確かだ。
「……で、こんな時間に何の用だ。」
「あ、すみません!」
物珍しさに思わずキョロキョロと部屋の中を見渡していると、部屋の隅に置かれた机の前に座っている兵長に訝しい顔で声を掛けられた。
確かに自分のような新兵がこうやっていきなり来たら変に思うだろう。
「エルドさんからの頼まれ物なのですが……。」
兵長のいる方に近付きおずおずと手に持っていたワインの瓶を差し出すと、ようやく合点がいったのか片眉をひょいと上げて手を差し出して来た。
「ああ、頼んでいた酒か。わざわざ悪いな。」
「いえ。」
ワイン瓶を兵長に手渡し……これで俺の用事は終わりだ。
入室してからここまで、時間にすればほんの数分の出来事だろう。
この数分のために身だしなみを整えてみたり無駄に緊張したりしたわけだが、楽しい出来事なんてあっという間に過ぎていく物だと思うし自分としては大満足だ。……という物分りの良い意見はあくまで建前で、実際のところはもっと兵長と話したいなと思う。
「お前、酒は?」
何となくその場から離れ辛くて兵長がワイン瓶のラベルをチェックしているのを眺めていると、ポツリと話しかけられた。
仕事以外の他愛のないネタを兵長から話し掛けて来るのはかなり珍しいので、不意打ちに内心かなり焦る。
「え?酒?」
「飲んだことあるのか?」
「いえ、無いです。……っていうか、オレの年齢だと飲めないです。」
「……ほう?まあ、それもそうだな。」
訓練兵時代に面白半分に食糧庫からくすねて来た酒を飲んでいる連中もいたが、自分はそういうのに余り興味は無かった。
いや、巨人のことしか興味が無かったというのが一番正しいかもしれない。
(ていうか――)
もしここで飲んだことがあると言ったら、兵長と一緒に酒を飲んだりとかいう展開が待っていたのだろうか。
どうなのだろう。
咄嗟に馬鹿正直に答えてしまったのを少し後悔するが、嘘付くのもなあ……とも思う。
理性と感情の狭間でぐらぐらと揺れる。
難しい。
兵長はそんなオレを尻目に、机の隅に置かれていたグラスを手に取ってワインのコルクを抜いている。
どうやら早速酒を飲むつもりらしい。
今は一人でゆっくりとくつろげる貴重な時間だし、そろそろタイミング的にも帰った方が良いだろう。
「では……そろそろ失礼します。」
「おい。お前は相変わらず気が利かねえな。
酌くらいしたらどうだ。」
「え?あ、はい!」
目の前にワイン瓶をズイと突き出されて反射的に受け取ってしまう。
しかし、酌なんて遠い昔に父親相手に何度かやったことがあるくらいだ。
勝手が分からずにどうしようとワイン瓶を両手で握りしめて棒立ちしていると、今度はグラスを目の前に差し出される。
「ほら、注げ。」
「し、失礼します。」
とりあえず、このグラスにワインを注げば良いのだろうか。
予想外の展開すぎて頭が全くついていかない。
兵長に言われるがままに、まるで機械のようにぎこちなく動いていると思い切り鼻で笑われた。
少しショックだが……自分でもどうかと思う動きだったので、まあ仕方ないだろう。
自分が調査兵団に入団した第一の理由は、もちろん巨人が駆逐出来るからだが……実はリヴァイ兵長が居たからというのもある。
かといって同じ調査兵団に入ってお近づきになりたかったとかそういうのが特にあった訳では無く、ただ普通に兵長と同じ組織に居られたら良いなとかそんな程度の物だ。
何を奥手の女子みたいな思考回路をと思うかもしれないが、普通に考えて同性からそういう好意を寄せられても戸惑うだけだろうし、これが限度という物だろう。
(それが……今じゃお酒まで注いでるとか……!)
自分にとってはご褒美すぎる展開が立て続けに起こって怖くなるくらいだ。
今こそ兵長と親睦を深める良い機会なのだろうが、いかんせん緊張で頭がろくに回らず中々良さそうな話題が思い浮かばない。
しかも兵長自身も元々口数が少ない方なので、何となく場が白けているようなそんな変な雰囲気だ。
「……試しに少し飲んでみるか。」
「えっ?」
ワインなんて一度注いでしまえばそんなに早く無くなる物ではないので、やることも話すことも無くて気まずい思いで立ち尽くしていると、空いているグラスを差し出された。
思わず勢いで受け取ってしまったが……さっき兵長に言った通り、自分はまだ飲める年齢ではない。かといって兵長に言われたことを突っぱねるのも戸惑われる。
「そんなにビビんなくても舐めるくらいの量だ。少し位なら今の内に経験しておくのも悪くねえだろ。」
「は、はあ。」
どうしようとわたわたしている間にも、持っていた瓶を奪われてグラスの半分くらいまで赤黒い液体を注がれてしまう。
ここまでやられたら……もう逃げることは出来なさそうだ。
正直、オレの反応を見て面白がっているような気がしなくもないが、つまりそれは構われているというわけで……それはそれで悪くないと思っている辺り重症かもしれない。
「じゃあ……頂きます。」
「ああ。」
イスに座るように言われたので兵長の隣に遠慮がちに浅く腰かけると、グラスを煽るようにしてワインを口の中に注ぎ込んだが――
(――ッ、ま、ずっ!)
アルコールに喉が焼かれるような感じがする。
かすかに葡萄のような味はするものの、アルコール独特の味が気になってしまい到底美味しいとは思えない。
こんなのを進んで飲むなんて大人はちょっと分からないと改めて思うが、それはつまり自分が子供であることを証明するみたいでそれはそれで面白く無い。
そんな子供っぽい理由で残りも無理矢理胃に流し込んで閉じていた目を開けると、兵長がグラスを傾けながらこちらをじっと見ていた。
「初めてにしちゃ良い飲みっぷりじゃねえか。」
「……。」
口の端が少し上がっているところをみると、オレが酒を美味しくないと思っているのも恐らく丸分かりだろう。
こんなときばかりは、オレも早く大人になりたいと思う。
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