アイル

とある新兵が吸血鬼の餌食になりまして。-2

 ――ヴァンパイアは孤独だ。
 ほとんどの者は、永遠の時間をただひたすらに一人で生きる。
 だからだろうか。永い年月を生きたヴァンパイアほど、住処を転々としながら人の生活の中に紛れ込んで生きているらしい。


■ ■ ■


「なに読んでんだ。」
「あ、兵長っ!」
 午前中の訓練が終わり、いつも通り兵長の執務室に向かうと中には誰もいなかった。
 そこでこれ幸いと昨日書庫で借りたヴァンパイアの本を机に座って読みながら時間を潰していたのだが、いつの間にか兵長が部屋に入って来ていたらしい。オレは慌ててイスから立ち上がると姿勢を正す。
「ヴァンパイアの本です。昨日書庫で見つけて……」
「……そうか。」
 オレが本を読んでいるのが物珍しいのか、兵長は近くまで寄って来ると表紙を覗き込んできた。
 タイトルを見やすいように本を閉じて渡すと、表紙を見た兵長は眉を上げて驚いた顔をしている。
「……もしかしてこの本読んだことあるんですか?」
「いや……無いな。」
「そうですか。」
 兵長の珍しい反応にもしかしてと思ったが、どうやら違ったらしい。では何故驚いた顔をしたのだろうと思うが、そんな個人的なことを兵長が一々口にするはずも無い。
 兵長はしばらく本の表紙をしげしげと眺めた後、仕事を始めろといつものように言葉少なに告げて本を返してきた。
「……?」
 普段と違う様子の兵長に何となく違和感を覚えるが、兵長と班を組むようになってまだ数週間しか経っていないのでそんなことを聞けるような仲ではない。
 というか、それ以前に自分にとって兵長はまだ憧れの存在なので、今でもこうやって普通に話すのさえかなり緊張するのだ。
「――ッ!」
 兵長から本を受け取る際に小口に指を滑らすと、ピリと中指に痛みが走った。慌てて指を離すと、薄皮が切れたのか指先にプクリと血が盛り上がっている。
「はぁ……何やってんだお前。ここで巨人化なんてすんなよ。」
「す、すみません!」
 兵長に眉をひそめられてピシリと背筋を伸ばす。
 本の小口の切りそろえが甘かったのか、少し飛び出ている紙の端で皮膚を切ってしまったらしい。幸いすぐに指先を外したので本に血は付いていなくてホッとするが、兵長に恥ずかしいところを見られてしまった。
「――ああ。それと……、本当にヴァンパイアはいるらしいぞ。せいぜいお前も……気をつけるんだな。」
「へ?……――っっ!」
 本に血が付いたら困るので、さり気ない風を装ってズボンで指先の血を拭おうとしていると、手首を兵長に掴まれて口元にグイ引き寄せられた。
 いきなりの出来事にバランスを崩しかけて兵長の肩に咄嗟に逆の手を付くと、その間に兵長の口がパカリと開いてその中に自分の傷ついた指先が吸い込まれていく。
 全てがスローモーションだ。
 普段の自分だったら、何かしらのリアクションを取っただろう。しかし兵長の切れ長の目に見つめられて……射すくめられたように動くことが出来ない。
 何故だろう……分からない。
 ただ一つ確かなのは、動こう動こうといくら思っても身体が全く言う事を聞かないということだけだ。
「……あ、」
 紙で切って出来た傷にカシリと歯を立てられると、ペロリと舌先で舐められてそこから快感のような物が走って思わず声が上がってしまう。
 恐らく血を舐めとられたのだろう。
(な、んか――……これじゃあまるで、兵長が、ヴァンパイアみたいだ。)
 ヴァンパイアは子ども向けの本のネタにもなっているくらいだ。だから、そんな非現実的なことが有るはずが無いことくらい分かっている。
 しかし普段から冗談を一切言わない兵長がこんなことをしてくるなんて、何か別の理由があるとしか思えないのも事実で。
「う……あ、」
「……――くくっ!お前も冗談の通じねぇ奴だな。」
「……、……へ?」
 予想外の出来事に対処しきれずにグルグルと頭の中で考えていると、いきなり鼻で笑われて現実に引き戻される。兵長が笑いながら下を向いたおかげで視線がようやく自分から外され、自然と緊張していた全身の力が抜けていく。
「じょ、冗談、ですか?」
「当たり前だろうが。ハンジから聞いたが、お前ヴァンパイアも知らないんだってな。そんなのそこら辺のガキでも知ってるぞ。巨人のことばっかり考えるのは構わねえが、少しくらいは一般知識くらい身に付けておけ。」
「は、い。」
 ということは、兵長はハンジさんからオレがヴァンパイアのことを知らないのを聞いてからかってきたということだろうか。
(――そっか。そうだよな。)
 兵長がヴァンパイアなんて、馬鹿馬鹿しい。今読んでいる本がヴァンパイアに関する本だから、感化されすぎたのだ。
 ……これは、兵長流の冗談だ。
 そうだ、そうに違いない。
 今はまだ昼だから夕陽の赤色も無いはずなのに、一瞬兵長の瞳がキラリと紅く光ったのも気のせいだ。
「……オレ、すぐ騙されるんですから勘弁してくださいよ。」
「こんな下らねぇことで騙される方が馬鹿なんだよ。お前、街で一人暮らししたらすぐ詐欺師のカモにされそうだな。」
「否定は出来ませんけど……。」
「――フン。
 おら。いい加減に仕事始めるぞ。」
「は、はい!」
 兵長にどやされて慌てて手に持っていた本を机の引き出しの中にしまい込む。
(……そういえば。)
 よくよく考えてみたら、兵長とこんな風に他愛ない話しをしたのは初めてだ。少しだけ、兵長と打ち解けられたみたいで嬉しい。
 他人に指先を舐められるなんて、よくよく考えてみたらかなりおかしなことだとは思うが……元々兵長は自分にとって憧れの存在でもあるので、悪い気分では無い。いや、むしろドキドキする。
(兵長、潔癖症だって聞いたし。)
 気に入らない相手にそんなことをしてくることはまず無いだろう。
 オレは心の隅でどこか違和感を覚えつつ、それに気が付かないフリをしてそっと蓋をした。
 本能的に知ってはいけない危険な香りを嗅ぎ取っていたのかもしれない。

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