アイル

好きになった人は、オメガ嫌いなアルファだった-3

 そうして勇利は二十八歳にしてようやくオメガ性に分化した。
 しかし現在勇利の周囲には、アルファ性の者は皆無である。したがってわざわざ皆に知らせて波風立てることもあるまいと思ったので、このことは周りに一切伝えていない。
 というわけで、オメガ性に分化してからせいぜいやったことといえば、役所に書類を出したことくらいだろうか。あと変わったことといえば、ヒートが近くなると抑制剤を必ず飲むようになったことだろう。
 したがって表面上は身辺の変化はほとんど無く、数ヶ月経過して年が明けてからも、相変わらず職場であるアイスキャッスルはせつと家を往復する代わり映えの無い毎日を送っていた。

「勇利、今年も東京開催のアイスショーに参加するんだよな? 上と、あとスケート教室の日程も保護者に連絡しないとだから、いつからいつまで休むのかこの紙に書いて渡してくれよ」
 二月後半のこと。勇利は事務所の自席で次回のスケート教室の練習メニューを考えていると、声をかけられる。それに顔を上げると、幼なじみの西郡がこの時期お馴染みの出張申請の書類を差し出してきた。
「ありがとう。なんかいつもごめん」
「なーに言ってんだ。お前の場合は営業も兼ねてなんだから、謝る暇があるくらいならショーで一杯目立って宣伝してきてくれる方が助かる」
「あはは……善処します」
「ま、そういうわけで、書類はなるべく早めに書いて出してくれよ。出来れば一週間以内に」
「うん、わかった」
 現役時代、グランプリシリーズを初めとして、いくつかの国際大会で何度か表彰台に上ったことがあるおかげか。勇利は現役を引退して数年経った今でも、こうして国内のアイスショーにちょくちょく呼ばれる。
 そして雇い主であるアイスキャッスルはせつ側の意向もあり、そういった誘いは極力全て承諾するようにしていた。
 ただし、ヴィクトルが参加していないショー限定でだが。
 とはいえヴィクトルは忙しいのか、日本のアイスショーに出ることはほとんど無い。加えて今回勇利の参加するショーのように二日間に渡って開催されるなど、そこそこ長期間拘束されるものに出ることはほぼ皆無だ。
 だから思いきり油断していたのだが、まさかのまさか。数日前にサプライズゲストとしてヴィクトルの参加が決定したと、主催者側から連絡があったのだ。それを思い出し、勇利は小さくため息を吐いた。
 よりによってオメガに分化したこのタイミングで、アルファ性であり、なおかつかつて恋心を寄せていた相手と顔を合わせる羽目になるとは。
 ただでさえ今回のアイスショーに参加するメンバーの中には、アルファ性と思われる人が多いのに。本当についていないとしか言いようが無い。
「そんな中に、オメガ性が一人で飛び込んでいくんだもんなあ」
 さながら、飛んで火に入る夏の虫といったところだろうか。いや、もちろん相手にだって選ぶ権利があるのだから、自意識過剰だというのは重々承知しているが。
 ただオメガ性になってからアルファ性の者と直接会うのは初めての経験なので、緊張するというか、不安というか。ともかくそんな風に感じるのも無理は無いだろう。
「このアイスショーの話しが来たときは、まさか自分がオメガ性になるなんて夢にも思っていなかったし、仕方ないっていうのは分かっているけど……」
 それに一度決定したことを辞退することなど、今やしがないサラリーマンの一人である勇利には出来るはずもなく。
 せいぜい出来ることといえば、抑制剤の錠剤を多めに持ち、ヒート前後になると自然と発しているらしいフェロモンとやらの香りを消すため、香水を購入することくらいであった。


■ ■ ■


 そんなこんなで四月に入り、件のアイスショーが開催される数日前のこと。
 各国から集まったショーの参加者達―ヴィクトルをはじめとして、クリスなどの懐かしい面々。それから現役で活躍している南などは、都内のとあるスケートリンクに集まっていた。もちろんショーの練習を行うためだ。
 そして当然その中に勇利もいたが、なるべく目立たないように隅の方で小さくなっていたのは言うまでもないだろう。
 ―そのはずなのに。
「ゆーりー! 久しぶり!」
「えっ!? あっ」
 あの南すらまだ全く気付いていないというのに。勇利がリンクに足を踏み入れてすぐ、先にリンクにやって来ていたらしいヴィクトルに大声で名前を呼ばれる。
 挙げ句、彼は両手を広げながら助走を付けて勢いよく抱きついてきて―しかし間一髪、勇利は身体を横に逃がしたので、彼はそのままフェンスに激突した。
 それはもちろん、避けるのは申し訳ないとは思った。でもこうして直接会ってみると、未だに彼への恋心が失せていなかったのだということがよく分かる。瞬間的に頬がカッと赤く染まったのがその証拠だ。
 そしてそれだけではなく、今の勇利はオメガ性で、ヴィクトルはアルファ性だからか。心臓がバクバクと大きな音を立てて鳴っている今、以前のように彼を受け止められるはずが無いだろう。
 したがってごめんと謝りながらフェンスにもたれかかる格好になっているヴィクトルの様子を伺うと、彼は両目をうるうると潤ませた悲痛な表情を浮かべながら振り向く。そして今度は逃がすまいというようにもの凄い勢いで両肩を掴まれると、前後に勢いよくゆさゆさと揺さぶられた。
「久しぶりの感動の師弟再会なのに、避けるなんて酷いじゃないかっ」
「ご、ごめんってば。いきなりだったから驚いちゃって。つい避けちゃった」
 一応嘘ではないので、言い訳自体はすらすらと口から出て内心ほっと胸をなで下ろす。これならヴィクトルもおかしいとは思わないだろう。
 そこで彼の様子をおそるおそる伺うと、勇利がかわいくなくなったとわざとらしく大声を上げながらめそめそと嘘泣きをしていて。その様子は彼に告白をする前、親密な関係だった当時を思い出すものだったのに、思わず小さく笑い声を漏らしてしまう。
 ここだけの話、昨日の夜はヴィクトルのことをぐるぐると考えてしまってほとんど眠ることが出来なかった。でも彼は良くも悪くも何も変わっていない。
 それが嬉しくて。でも正直なところ、勇利の告白すら無かったことにされているみたいで、ほんの少しだけ寂しいような複雑な心境になったのも事実だ。
 だからといって、ここで蒸し返されても困るだけなのに。本当に我が儘としか言いようがない。
 ただよくよく考えてみると、ヴィクトルは何だかんだいってちゃんと相手のことを考えて行動しているのを思い出す。だからきっとこれも彼の優しさで……それに気付くと、胸がギュッと締め付けられる。
 しかしそこでタイミング良く振付師の人がやって来て練習開始となったので、ヴィクトルとの久しぶりの再会は、傍目にはギャグのような状態で終えることとなった。
 心の奥深くでは、色々と思うところはある。でもやっぱり、ヴィクトルのことが今でもどうしても好きだった。



 ただしこの話には、続きがある。
 それからというもの、ヴィクトルは暇さえあればちょっかいを出してくるようになったのに、勇利はほとほと困り果てていた。
 そして今日もそうだ。
「ゆーうーり、やっと捕まえた!」
「ぐ、えっ!」
 アイスショーの練習が開始してから二日目の夕方。全体での滑りの練習を終えると、ほとんどの者はすぐにホテルに戻っていく。
 しかし勇利はクリスに声をかけられ、その日はリンクに残ってのんびりと喋りながらアイスショー用のプログラムの確認を行っていた。
 そしてクリスが音楽を流しながら通しで滑っている様子を、リンクサイドでフェンスに肘を付きながらのんびりと眺めていた時のこと。背中にズシリと重みが加わり、聞き覚えのある声が聞こえてきたのに大げさなほどに全身を震わせた。
「あはは。勇利、変な声」
「もう、ヴィクトル! 重たいから離してってば」
「やだ。だって離したら、勇利はすぐに逃げちゃうじゃないか」
 そう言うと、ヴィクトルは駄々をこねるようにぐりぐりと額を首筋に擦り付けてくる。ただしそれをしているのは、三十二歳のいい年した男である。客観的に考えて、ちょっと寒い光景だ。
 そう思うのに。相手がヴィクトルだと思うだけでドキドキとしてくるのだから、本当に恋心というやつは厄介なことこの上ない。
 したがって抗議の言葉を口にしながら、半ば無理矢理に身体を起こして彼の下から逃げ出そうとしたのだが、それが不味かった。
 ヴィクトルが驚いたような声を小さく上げた直後、ちょうどうなじの辺りにふにりと柔らかい物―恐らくは唇が当たる感触が走る。そしてその瞬間、ゾクリとした感覚がそこから広がったのに、勇利は無意識に伸び上がるような格好になりながら媚びるような声を上げていた。
「あっ、ぅぅ」
「―、勇利?」
「えっ、あ! い、いや、なんでもない!」
 一瞬頭の中が霞がかったようになって、自分自身の身体に何が起こったのか分からなかった。
 しかしヴィクトルに不思議そうな声音で名前を呼ばれたことで一気に現実に引き戻されると、うなじを右手の掌で覆いながら慌てて上体を起こし、彼と向かい合う格好になる。そしてそこで、自分自身がオメガ性になったのだと初めて実感をもって自覚した。
 うなじは、オメガ性にとって非常に重要な場所である。何故ならオメガ性はヒートの際にそこからアルファ性の者を誘因するフェロモンを分泌し、さらにそこを噛まれることで器官が変異して噛んだ相手をつがいとして認識するからだ。
 ―そういえば、そうだった。
 とても有名な話なので、もちろん知識として知ってはいる。しかしヒートにばかり気を取られていたせいで、その件について考えるのをすっかり後回しにしていた。そしてそのことを思い出すのと同時に、背中を冷や汗が伝うのを感じた。
 医者からも、うなじはアルファ性の者から勝手に噛まれないよう十分注意するようにと何度も念押しされていたのに。それなのに襟無しの服を着て、大切な場所をこうして堂々と晒しているのだから、無防備にもほどがある。
 そのことに今さらながら不味ったなと思いながら恐る恐る顔を上げると、目の前の男はとても楽しそうな表情を浮かべていて。それに勇利は思いきり顔をひきつらせた。
「勇利って首が性感帯なの?」
「い、いや、くすぐったかっただけっていうか」
「くすぐったいのって、感じる場所になるんだよ。知ってた?」
「えーと……いや、あの、僕がそういう冗談苦手なの知ってるよね」
「うん。だからわざと言ってる」
 さらには耳元に顔を近づけてくると、ふっと息を吹きかけてくるオプション付きだ。
 はっきり言ってここまでくると、四年前に告白してふったのを忘れたのかといっそ突っ込みを入れたい気分になってくる。
 しかしヴィクトルのこれは毎度のことなので、自ら傷に塩を塗る行為はまだ早いと、なんとかその衝動を押しとどめる。
 そして勇利を腕の中に閉じこめるような格好でフェンスに付いたヴィクトルの手の片方を退かすと、彼の腕の中から抜け出して。そこでようやく全身の力を抜いて小さく息を吐いていると、肩をポンと叩かれた。
「ねえねえ勇利。なんか、良い匂いがするね」
「え、あ。そう、かな?」
 良い匂いがすると言われた瞬間、一瞬心臓が止まるかと思った。
 彼は妙に勘が鋭いところがある。だからもしかしてオメガ性のフェロモンの香りを嗅ぎ分けたのかと思ったのだ。
 でも次のヒートまでは、まだ二週間近くある。それでも心配で抑制剤を飲んだくらいだから、その香りが漏れているはずが無い。
「―香水、じゃないかな。最近少しだけ付けているから」
「へえ、そうなんだ。勇利が香水って、少し意外だな」
 好きな子でも出来たのと邪気の無い笑顔でたずねられて、思わずジト目になる。それは今目の前にいるあなたですよという感じだ。
 それに香水を付けているのは人の気を惹くためではなくて、オメガ性のフェロモンを誤魔化すために付けているだけなので余計に不本意というか。
 勇利はややこじらせ気味の童貞のままここまで年を重ねてきて、気付いたらアラサー。あと数年で、日本の都市伝説によると魔法使いになれるという年齢まできてしまった。そんな男が恋人とかそういう話題をモテ男からふられるのは、もはや完全なる地雷でしかない。
 それにヴィクトルも今までの付き合いで、勇利がこの手の話題が苦手だというのは重々承知しているはずなのに。というか先ほどそれを認めていたのに。こうしてあえて真正面から地雷を踏み抜いていくあたり、なるほどさすがヴィクトルとしか言いようが無い。
 そしてこれを真正面から言い返すと、大体話がこじれるのだ。
「はあ……」
 そこまで考えたところで、なんだか色々と面倒になってきて頭を抱えていると、ヴィクトルは再び首筋に鼻を埋め込んできて。どこのメーカーの香水? なんて呑気にたずねてくる。本当にマイペースだ。
「ヴィクトルが使ってたのと同じところのだよ」
「そうなの? あそこの香り、結構好きで色々持ってるはずなんだけど覚えが無いなあ……―あ、勇利自身の香りと混ざって、こんなに魅力的な香りになっているのかな?」
「はいはい。そういうのは、付き合ってる女性にでも言ってあげてね」
 本当に、止めていただきたい。これがまた満更でも無く感じてしまうのが余計に厄介というか。
 完璧に赤く染まってしまった頬を誤魔化すため、ヴィクトルが鼻を埋め込んでいるのと反対側に勢いよく顔を背けてしまう。
 しかしそれはつまり、ヴィクトルの眼前にうなじ近くまで晒すということで。
「―っ!」
 うなじのごく近くに唇が触れる感覚が再び走ったのに、またやってしまったと瞬間的に焦燥感が広がる。だから咄嗟にこれは不味いと彼の両肩を手で押して、強制的に互いの身体を離そうとしたのに。
 それまで背中に軽く添えられていたヴィクトルの手が首まで這い上ってくると、よりにもよってうなじに指先を添えてくるのだ。
 さらにはそれから、そこをふにふにと揉みこまれたからたまったものではない。
「あ、ううっ」
 今までそんな場所、なんてことなかったはずなのに。まるで下半身とその場所が直結しているみたいに、甘い熱がそこから広がる。
 完璧に、そこが性感帯に変化してしまっているのだろう。面白いくらい敏感にヴィクトルの指の動きに反応してしまっているのが分かる。
 公の場所で、しかもヴィクトルの目の前でこんな風になってしまうなんて、恥ずかしくてたまらない。だから何とか彼の手から逃れなければと思うのに。そんななけなしの理性の訴えなど、ヴィクトルに与えられる快楽の前では風前の灯火だ。
 身体はそんな理性の訴えなど、まるで聞こえていないのか。むしろ彼に縋るように抱きつきながら、もっともっとと要求するかのように彼の前にうなじを大きくさらけ出してしまうのだ。
「は、あっ……そこ、きもちひ」
「ゆうり」
 耳元に息を吹きかけるように名前を呼ばれながら、いけない子だねと囁かれる。さらには指の腹をそこに押し当てられて、グッとひときわ強く力を込められると、身体の中で渦巻いていた熱が急激に高まっていくのが分かる。
「それ……っ、ちょっと、まって、」
「でも、気持ち良いんだろう?」
「―ッ、あ、ああっ!」
 瞬間的に極限まで高まっていく熱の感覚に、本能的にヴィクトルの背に回していた指先に力がこもって、洋服越しに爪を立ててしまう。
 しかしそれでも目の前の男は容赦無い。むしろそんな勇利の様子を熱心に見つめながら、どこか興奮したような雰囲気を漂わせながら再び首筋に唇を這わせてくるのである。
 このままだと、絶対に不味い。
 そんな予感がなんとなくする。何故と問われてもそれをはっきりと言葉として表現することは出来ないが、目覚めたばかりのオメガ性としての本能が警鐘を鳴らしているような気がする。
 でもヴィクトルの気配は、まるで狩猟者のそれのように鋭いもので。それに射抜かれたようになってしまい、全く動くことが出来ないのだ。
 それをこれ幸いと言わんばかりに、ヴィクトルは思わせぶりに首筋をペロリと舐めてくる。それから少しだけ口が離れ、今度はその唇がゆっくりと開いていくのを、勇利はどこか他人事のように見つめていた。
「ああ……」
 やっぱり思った通りだ。このままだと、ヴィクトルに噛みつかれてしまう。
 でもヴィクトルはアルファ性で。そして彼が今噛みつこうとしている相手はオメガ性なのだ。
 だからこのまま彼に噛みつかれてしまったら、つがいになってしまうのか。いや、でも首筋だったらセーフなのだろうか。 
 しかしそんなことをぐだぐだと考える余裕は、今の勇利には無いのだ。そんなことよりも、まずは目の前の男を突き飛ばさなければいけない。
 ―そうしなければいけないのに。
 それが出来ないのは、己の恋心とオメガ性としての本能が、彼を欲しているからか。そしてそこでヴィクトルは、勇利がオメガ性であると知らないことを思い出すと、そういうことかと腑に落ちる感覚がした。
 つまり彼がこんな風にどこかおかしくなってしまっているのは、勇利のオメガ性としてのフェロモンが、彼の第二の性を刺激しているからなのだろう。
 だからもしもこのまま間違いを犯してしまい、後でヴィクトルがその事実を知ったら、騙し討ちに感じるに違いない。
 それでも結局勇利は何も出来ず、ヴィクトルにされるがままに、ただただ立ち尽くす。
 そしてそうこうしている間に、ヴィクトルの唇がさ迷うように首筋とうなじの間を這って。そしてその次の瞬間、首筋にガブリと思いきり噛みつかれていた。
「―っっ、ぐ!」
 鋭い痛みがそこから全身に広がっていく。ともかく、ものすごく痛い。
 でもそれと同時にひどく興奮を覚えているのも事実で、下腹部の奥深くにじわりと熱が生まれるのを感じる。そしてその直後に身体からフッと力が抜けてしまい、腰を抜かしてしまった。
 ただ幸いにしてヴィクトルの両手に腰を支えられていたので、無様に尻餅を付く情けない格好を晒さずに済んだのにほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。
「どうしたんだい? 二人とも」
「……、クリス」
 聞き覚えのある声が聞こえてきたのに顔を上げると、クリスがリンクの中央から二人の方に滑ってくるのが目に入る。
 そしてそこで、勇利はそれまでリンク全体に鳴り響いていた音楽が止まっていたのにようやく気付いた。
「さっきから呼んでるのに、二人とも自分たちの世界に入り込んでイチャついて。俺だけ仲間外れみたいで寂しいじゃないか」
「ご、ごめん。そんなつもりは無かったんだけど」
「なんだか、発情したアルファ性とオメガ性みたいだったよ。でも勇利って、ベータだよね?」
「えっ!? あ、うん」
 ここまできたら、いっそこのままオメガ性であることを告げてしまった方が良かったのだろうかと一瞬考える。
 でもクリスもヴィクトルと同じくアルファ性で。それに勇利は元々ベータ性であると周りに告げていたのもあり、今更オメガ性になりましたと改めて言うのも気恥ずかしいし、悪目立ちしてしまいそうで気が進まないというかなんというか。
 そして一連の様子を見られていたのだという事実と、クリスの口にした発情という単語のせいで頭の中はパンク状態だ。
 だからともかくこの場から逃げ出したい一心でこくこくと頷きながら、へっぴり腰の情けない格好でヴィクトルからじりじりと距離を取った。
「と、とりあえず、悪いけど僕は先に部屋に戻らせてもらうよ」
「そう?」
 そしてクリスのこの薄い反応である。まだ滑っていないのに、何故先に帰るのだと聞いてこないあたり、色々とバレていそうで非常に怖い。
 しかも本心を探るかのように、勇利の頭から足先まで、まるで舐めるかのようにゆっくりと目で辿ってくるのである。
「えっと……あの、クリス?」
 クリスは勇利と会うたびに尻を揉んできたりと、ヴィクトルとは違った意味でスキンシップ過多気味なところがある。だからこうやって見られるくらいどうってことないはずなのに。
 先ほどのヴィクトルとの接触のせいで、下肢が少しばかり兆してしまっているせいか。ゾクリとしたものが背筋を這い上る感覚に少しばかり戸惑ってしまう。
 でも見ないでというのもなんだかおかしいような気がして、結局どうすることも出来ずにそのままの格好で目線をうろうろと彷徨わせていた時のことだ。
 それまでどこか呆けた様子だったヴィクトルがハッと顔を上げると、慌てた様子でクリスの両目を手の平で覆った。
「ちょっと、クリス。勇利のことそんなにエッチな目で見たら駄目だよ」
「エッチって、失礼だなあ。ただなんか美味しそうだなって思って、つい」
「つい、でも駄目!」
「はいはい、分かったよ」
 クリスが肩を竦めて了承したのを確認すると、ヴィクトルはそれから勇利の方を向く。そして互いの視線が絡み合うと、それまでのことが全てどうでもよくなるから不思議なものだ。
 ただヴィクトルが勇利のことだけを見ているという事実が嬉しくてたまらなくて。彼の一挙手一投足に釘付けになっていると、向き合う格好で腰に優しく手を添えられる。
「勇利、さっきはごめん。調子に乗りすぎちゃって、驚かせたよね」
「え、あ……いや。僕もちゃんと言えなかったから」
「はは。勇利は相変わらず優しいなあ。あんなにアルファオーラ全開で迫られたら、嫌って言えるはず無いよね」
「クリスはちょっと黙ってて」
 フェンスにもたれかかりながら横槍を入れてきたクリスに、ヴィクトルが文句を言っているのが聞こえてくる。
 でも、なんだろう。さっきから、身体の様子がちょっとおかしい。
 二人の会話が頭の中に入ってこないというか。それに身体だけでなく頭の中もどこかふわふわとしていて、ガラス越しに世界を見ている感覚だ。
 それに思わず額に手を添えると、思ったよりもそこが熱くて。それに気付くと、自身の体調変化の原因にようやく合点がいき、慌ててヴィクトルから一歩、また一歩と距離を取る。
「勇利?」
 ヴィクトルが心配そうに顔を覗きこんでくるのが分かる。でもそれ以上近付かれたら、恐らく互いに色々と不味いだろう。
 だってこの症状は、オメガ性のヒートの前兆でほぼ間違いない。だからこれ以上アルファ性の者に近付かれたら、本格的にヒートになってしまうかもしれない。
 だから勇利は挨拶もそぞろに一目散にその場から逃げ出し、ホテルの自室に逃げ込んだ。

「薬、薬を早く、飲まないと」
 ベッドのサイドテーブルの上に置いてあった洗面用具一式の入った袋を取り上げ、震える手を叱咤しながら、なんとか青色のピルケースを取り出す。
 そしてその中から白い錠剤を一錠取り出して。それをしばらく見つめてからもう一錠取り出し、合計二錠の粒を口内に放り投げる。それをペットボトルの水で体内に流し込んだところで、ようやくほうと息を吐いた。
「次のヒートまで、まだ二週間はあるはずなのに」
 さらには念には念をと、朝にもちゃんと抑制剤を飲んでいるのだ。なんで、なんで、と頭の中を疑問の言葉がグルグルと回っている。
 でもその答えは、何となく分かっている。
 恐らくはアルファ性にうなじ近くを噛まれてしまい、なおかつその相手が好いている相手だったので刺激されたとかそんなところだろう。
 そこでそういえばヴィクトルに際どい箇所を噛まれたのを思い出すと、慌てて洗面所に走り込んでそこに設置してある大きな鏡に首筋を映し―そこに赤黒い歯形がくっきりと残っていたのに、深い深い息を吐いた。
「うーん……まいったな。どう見ても、これってしばらく消えそうもない」
 もちろん、勇利の性格的にそれを堂々とさらけ出す勇気があるはずも無いだろう。
 練習着は幸いにしてハイネックのものを何枚か持ってきているのでまだ良い。というかこの跡を口実にハイネックを着ることが出来るので、さりげなくうなじも隠すことも出来る。ただし肝心な衣装の方が問題だ。
「こういう時にかぎって、首元が出てるデザインの衣装にしちゃうとか」
 失敗したなと思うが、これこそ後の祭りというやつである。
 公演の日までに消えなかったら、最悪絆創膏で誤魔化すしかないかと考えつつ、部屋に戻ってスーツケースの中からハイネックの練習着やら絆創膏やら、必要そうなものを取り出す。
 そうして荷物を一通り揃えたところで、勇利はふと呟くようにそういえばと口にした。
「すっかり忘れてたけど、首ってアルファに噛まれても大丈夫なのかな」
 ズボンのポケットからスマートフォンを取り出すと、ブラウザを立ち上げて適当なワードで検索をしてみる。そして結論から言うと大丈夫だという結果を得ると、安堵感に胸をなで下ろした。
 しかしそれと同時に、もやもやとした奇妙な感覚が胸の内に広がるのを感じて眉根を寄せた。
 これではまるで、落胆しているみたいだ。
「なんだかなあ……」
 気分が高揚している時ならまだしも、冷静な状態でもこの有様とは。なんだかヴィクトルへの恋心が、色々と取り返しの付かないところまで膨らんできているような気がしなくもない。
 しかし実際には、四年前にヴィクトルにはふられているわけで。それを思うと、途端に刺すような痛みが胸元に走ったのに頭を振った。
 ここだけの話、ヴィクトルが運命の相手だったらいいなとほんのちょっぴり夢想したこともある。だからオメガ性になりたての頃に色々とネットで情報を収集し、それによるとアルファ性とオメガ性の運命の相手というのは、互いに直感で分かるらしいということを知った。
 そして先日久しぶりにヴィクトルと出会った訳だが、彼には残念ながらそんな様子は一切無く。良くも悪くも昔通り、スキンシップ過多な外国人だったのを思い出す。
 そこでふと先ほどのヴィクトルの様子が脳裏に思い浮かび、バレてないかなあと力なく呟いた。
「あのヴィクトルの反応って、オメガ性のフェロモンにやられたせいだよな」
 最初は毎度のじゃれ合い程度だったはずなのだが。雲行きが怪しくなってきたのは、うなじに触れられた辺りからで間違いない。
 そういえばその前後から良い匂いがするとか言っていたような気がするが、もしかしたらそれがフェロモンの香りだったのだろうか。
「せっかく頑張って香水を買って付けたのに、香水ってフェロモンの匂い消しの効果とかあんまり無いのか」
 とはいえこの香水のおかげで、匂いの件を聞かれた時に良い感じに言い訳が出来たので、ヴィクトル相手にはそれなりに上手いこと誤魔化せたような気もするのだが。
 クリスに関しては……あの場から離れる直前に送られた思わせぶりな視線を思うと、色々と思うところはある。ただそれについて深く考えたら負けである。
 それに彼はプライベートなことを詮索したり、言いふらすようなタイプではないので、恐らく大丈夫だろう。
「―オメガって、面倒くさいな」
 まさかこんなにもオメガという性に振り回されることになるとは。ベータ性の時にはこんなことは無かったので、ただただ煩わしい。
 そしてフェロモン一つでアルファ性の人間をああも惑わすことが出来るという事実が、とても恐ろしいものに感じられた。

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