アイル

好きになった人は、オメガ嫌いなアルファだった-4

 ヴィクトルに首筋を噛まれてしまってヒートになりかけてからというもの、勇利は毎朝晩に二錠の抑制剤を飲むようになった。
 幸いにして、こんなこともあろうかと薬は多めに持ってきているので、このペースで飲み続けても足りなくなることはないのはちゃんと計算済みだ。
 まあ、医者から説明を受けた時に、用量をちゃんと守るように言われているので本当は不味いとは思うのだが。でもこんなことをするのは、公演が終わるまでのほんの短期間のことだけだ。
 それに何より、こんなにアルファの人達がうじゃうじゃといる場所でヒートになったら目も当てられない。というか事実なりかけてしまったのもあり、かなり神経質になっていたので薬の量を減らすつもりはさらさら無かった。
 そんなこんなで首筋噛みつき事件の一件から、勇利はヴィクトルとなるべく距離を置こうとしたのだが。
 むしろそれが逆に彼の内なる何かを刺激してしまったのか、あるいはあの時の出来事が何かしら彼に影響を与えたのか。正確なところは定かではないが、ヴィクトルは初日よりも明らかに悪化した様子で、何かにつけてはべたべたとひっついてくるのに、勇利は複雑な心境を抱いていた。
 それはまあ、勇利はヴィクトルのことが好きなのだから、構われるのが嬉しくないといったら嘘になる。
 それでもさすがにトイレにまで着いて来ようとするのは、どうかと思うわけだ。
 ―という本日の練習での一件を勇利は思い出しながら、それはそれは大きなため息を吐いた。
 ちなみに現在の勇利は、ホテル一階にあるビュッフェ形式のレストランで、一人で少し早めの夕食を食べている真っ最中である。
 でもこの一人きりのゆったりとした時間を過ごせるのも、時間の問題なのだろうなあとぼんやりと考えていた時のこと。
 まるでその思考を読んだかのように肩から首にかけてを思わせぶりにスルリと撫でられたのに、大げさなほどに身体を揺らしながら、手に持っていたフォークを皿の上に取り落とす。そして手の平で慌ててうなじを隠しながら、勢いよく背後を振り返った。
「だ、だれっ!?」
「やあ、勇利。良ければ一緒に食べないかい?」
「あ、ああ……なんだ、クリスか。びっくりした」
「はは。ヴィクトルじゃなくてごめん」
「えっ!? い、いや、別にそういうことじゃないからっ!」
 というか最近は彼のスキンシップが過剰で、むしろ困っているのだとやや慌てながら説明する。しかしクリスはまるで人の話を真剣に聞いていないのか、二人とも最近随分と仲良いよねとのんきな様子で口にしながら、目の前の空席に腰掛けるのである。
 勇利にとっては、ただただ不本意としか言いようがない。
「他人事だと思って……面白がってるでしょ」
「んー、多少はね。でもなんだかんだいって、本気で嫌がっているわけでも無さそうだし」
 勇利とはかれこれ十年以上の付き合いだし、そのくらいは分かるつもりだよとウインクをされると、何も言い返せないのが痛いところである。
 おかげで急激に負荷のかかりだした心を癒すべく、別皿によそっておいた白米を勢いよく口の中に放り込み、さらにおかわりでもしようと思ったのだが。即座に食べ過ぎるとまた太るよと釘を刺されて辛い。
 それに泣きっ面に蜂ってこういう時に使う言葉なのかなとげんなりとした表情で考えていると、おやといった様子で軽く片眉を上げられた。
「思ったよりダメージくらっているみたいだね」
「そりゃそうだよ……だって今日なんて、練習の時にトイレに行こうとしたら着いてくるし」
 一体どこの女子高生だという感じだ。それを三十路前後の男同士がしているのだから、始末におえない。しかもヴィクトルにいたってはかなり本気なのが怖いところだ。
 ということを切実に訴えると、クリスにしては珍しく爆笑している。とはいえ勇利にとっては全くもって笑い事では無いのだが。
 ただ他人事であれば、爆笑したくなる気持ちは分からないでもないので、グッと押し黙るしかない。するとその憮然とした表情を見て、勇利の心境を察したのか。クリスはすぐに咳払いをして、その場を取り繕った。
「いやあ……端から見てて随分とご執心だなと思ってはいたんだけど、そこまでとは思わなかったからちょっと意外で驚いちゃって。でもまあ、最近のヴィクトルは珍しく余裕が無さそうではあるよね。匂い付けとかすごいし」
「匂い付け?」
 なんだその聞き覚えの無い単語はという感じだ。それにその単語からどことなく危険そうな香りが漂っているような気がするのは、恐らく気のせいではないだろう。
 したがって思わず身を引くと、クリスは意外そうな表情をしながら知らないのと首を傾げてみせた。
「勇利、この間聞いた時は違うって言っていたけど、実はオメガ性だよね。だから匂い付けにもてっきり気付いているんだとばかり」
「えっ! いや、ちょっと待って。いろいろ、待って」
 そもそも匂い付けって何だという感じだ。それにさも当然のように、勇利がオメガ性であることを口にするとは、これいかに。いや、まあクリスには気付かれているだろうなとは何となく感じていたが。
 それに顔をひきつらせながら、まずオメガ性ってどういうことと口にすると、クリスはパチパチと目を瞬かせる。それからまずったという様子で視線を泳がせながら、ごめんと謝罪の言葉を口にした。
「プライベートな話題だったね。詮索するつもりは無いから、忘れて。俺ももちろん誰にも言わないから」
「いや、別に今更だから、そういうのはどうでもいいよ。それよりいつ僕がオメガ性って気付いたの?」
「あー……一昨日の練習後、リンクサイドで勇利がヴィクトルにちょっかいを出されている時かな」
 やっぱりという感じだ。
 思わず目元を手の平で覆うが、今は傷心になっている場合ではない。それよりも一番の問題は、肝心なヴィクトルがそれに気付いているかどうかである。
 とはいえその答えを聞くのも怖くて。ぼそぼそとヴィクトルも気付いているのかなあと呟くように口にすると、長い腕が伸びてくる。そして下を向いていた頭を、慰めるようにポンポンと叩かれた。
「俺の場合もはっきりそうだっていう確証があった訳じゃ無いからさ、元気出しなよ。ただ今まで何度かオメガの子と付き合ったことがあるから、その経験上、そうかなってピンときたというか。それにヴィクトルのあの様子だと、気付いて無いんじゃないかな」
「そう……だと良いんだけど。でもヴィクトルも、クリスみたいにもてるし。今まで散々色んな人と付き合ってきているだろうから、その中にオメガの人だっていただろうし……」
「まあ、確かにそうみたいだけど。でも彼の場合は、今でもスケートが一番っぽいところがあるからなあ」
「えっと……つまり?」
「うーん、陰口を叩くみたいで気は進まないけど。あんまり恋人のことを見ていないってことさ。付き合ってる時はスマートで完璧らしいけどね、結局スケートが一番だから、相手としては面白くないらしい……っていう噂とか、ちょくちょく耳にするね。まあそんな調子でオメガ性の子の反応とかよく把握していないから、勇利がオメガ性っていうのも全く分かっていないんじゃないのかな? っていう結論」
 ヴィクトルはスケートが絡むと途端に勘が鋭くなるんだけど、どうも恋愛方面は苦手みたいだねと口にしながらクリスは肩を竦めている。
 でも彼の言葉をきっかけに、数年前に出場したグランプリシリーズでの出来事を思い出して、勇利は思わず苦笑を漏らしてしまった。
「そっか……うん、ちょっと分かるかも」
 そういえば中国大会のフリースケーティングの前に勇利が大泣きしてしまった時にも、慰めるためにキスをすればいいのかと的外れなことを口にしていた。あの調子だと、恋人に泣かれた時にもそんな対応をして、有耶無耶に誤魔化してきたのだろうということが容易に予想がつく。
「なら、僕がオメガ性ってバレてるのはクリスだけかな。それなら……まあいいや」
「まあいいやって、それはそれでまるで意識されていないみたいで悲しいなあ」
 こんなに長い付き合いなのに酷いじゃないかと泣き真似をしているが、冗談なのは分かっているので笑いを返す。そしてそれから互いに顔を見合わせると、ぷっと小さく吹き出した。
「はは! まあともかく、もし勇利が心配なら俺からヴィクトルに探りを入れてみるけど?」
「うーん、じゃあお願いしようかな」
 大丈夫とは思うが、確信があったら安心だ。したがってクリスの申し出に素直に頷くと、彼はオーケーと口にしながらバチンと片目をつぶってくれる。彼はややスキンシップがすぎるきらいはあるが、相変わらず面倒見が良いのに感謝しかない。
 そこで皿の上のものを粗方片付け終えた勇利は、水の入ったコップを手に取る。そしてその水からほのかに漂っているレモンの香りを嗅ぎ取ったところで、そういえばと口にした。
「さっきクリスが言ってた匂い付けって、どういう意味?」
「あー、それはスラング的に使われている言葉なんだけど。分かりやすくいうと、お気に入りの人間に他のアルファ性が手出ししないように、自分のフェロモンの香りを付けるって感じかな。一言でいうと、マーキングだね。犬とかと同じ」
「はあ、そうなんだ」
 なんというか、まるで別世界のお話みたいだ。とはいえ、オメガ性に分化した時にネットで色々と調べ、その中にそれらしきことが書いてあったような気がしなくもないが。
 ただもともとベータ性だった勇利にとって、感じ取れる香りは全てイコール香水なので、よく分からずに流していたのだ。
 実感が全く湧かないなと思いつつ、鼻に腕を近付けてすんすんと嗅いでみる。しかし感じ取ることが出来る香りは、もっぱら食欲をそそられる食事の匂いのみなのに首を傾げた。
「今も僕、その匂い付け? とかいうのの香りがするの?」
「うん。ぷんぷんするよ」
「そうなんだ。全然分からないんだけどなあ」
 あのヴィクトルのフェロモンとやらの香りだ。生粋のヴィクトルオタクの勇利としては、どんな香りなのか是非嗅いでみたいと思うのだが。
 いくら嗅いでみてもよく分からないのに小さく息を吐くと、どんな香りなのと直球でたずねた。
「へえ、そこまで分からないのも珍しいな。ヴィクトルのは……うーん、そうだな。最初は柑橘系の爽やかなものなんだけど、残り香は甘めだね」
「へー……なら、普段付けてる香水みたいな感じかな?」
「ああ、そうだね。あれに近い」
「そっかあ」
 もう大分昔のことだが、なんだかんだとかなり長い期間同じ屋根の下に住んでいたので、ヴィクトルの香りには慣れきってしまっているところがある。だから余計に気付かないのもあるかもしれないと思いつつ再び腕に鼻を寄せると、クリスは危なっかしいなあと口にした。
「勇利は、オメガ性なんだから。本人相手にくんくん匂い嗅いだりしないようにね。頭からパクッと食べられちゃうよ」
「あはは。でもヴィクトルは僕がオメガ性って気付いていないんでしょ?」
 それなら大丈夫だよと苦笑を漏らす。こうやって勇利相手に匂い付けしているのも、先ほどクリスが言っていたように、犬がマーキングしているのと同じ感覚に違いない。
 でも彼にふられてしまった勇利的には、それでも十分すぎるほどだ。
「勇利って、オメガ性なのにあんまり危機感無いよね」
「いやあ。まあ、こっちはこっちで色々あると言いますか……あれ? ていうかそれより、ヴィクトルの匂い付けのせいで、僕がオメガ性って周りにバレバレなのかな。面倒くさいし、出来ればあんまり知られたくないんだけど」
「それは、大丈夫だと思うよ。匂い付けって、ようはアルファ性の習性みたいなものだから、オメガ性相手だけじゃなくて、ベータ性にもしてるのとか見るし。あとはたまにアルファ性相手にしてるのも見るな」
「そうなんだ。オメガ性の人はともかく、ベータ性の人はフェロモンの香りって全く分からないから、実は匂い付けされてるって知ったらビックリだろうなあ。僕もついこの間までベータ性みたいな感じだったから、そういうのよく分からないし」
「えっ? ちょっと待った、勇利。どうも変だなって思ってはいたんだけど、ついこの間までベータ性みたいだったってどういうことなんだい?」
 話の流れで何の気なしに発した言葉だったのだが、クリスは鋭く静止の声を間に挟みこんでくる。
 そして至極的確な突っ込みを入れられたことで、勇利はうっかり口を滑らせてしまったのに気付いて、今更のように手の平で口を覆った。
「あーっと……それは、そのままの意味っていうか……」
 今は薬の技術も昔に比べてかなり進歩している。したがってオメガ性のヒートも基本的にはほぼコントロール出来るので、アルファ性だろうがオメガ性だろうがベータ性だろうが、第二の性別を理由に差別されることは無い。
 とはいえそれぞれの国のお国柄もあるので、進んで口にするかどうかは人それぞれであるが。ただ日本のような治安の良い国では、血液型と同じような感覚で第二の性別を公表している人がほとんどだ。
 ただし先にも述べた通り。勇利の場合はやや事情が特殊で、二十八歳になってからようやく第二の性別がはっきりと判明した状態である。つまりは普通に比べると、十年以上遅い分化だ。
 だから己の見栄というかプライドを守りたくて、出来ればその事実は周りの者に知られたくないと思っていたのだが。
 親しい人間にうっかりとオメガ性であるとバレてしまい、色々と相談に乗ってもらって気が緩んだ途端にまさかの自爆である。つくづく、隠し事が下手らしい。
 そしてそこでクリスの方へ視線を向けると、好奇心一杯の視線を勇利に向けていて。己のプライドを守るためという下らない理由で、彼の質問を突っぱねるのも申し訳ないし格好悪いような気がしてくる。
 というわけでそこでついに諦めると、勇利は他の人には絶対言わないでねと念押しをしながら渋々と口を開いた。
「つまりは……その、もともとみんなにはベータ性って言っていたんだけど、今までずっと第二の性が分化してなかったっていうのが実のところで。それで去年の冬頃に、ようやくオメガ性に分化したといいますか」
「はー……そうだったんだ!」
 そこでチラリとクリスの様子を伺うと、予想通り驚いたように目を見開いている。しかし勇利と目が合うと、おめでとうとニコリと綺麗な笑みを向けられた。
「でもそれなら色々納得がいくな」
「納得?」
「これまでの勇利って典型的なベータ性って感じだったからさ。現役の時も今みたいに始終ヴィクトルにベタベタされてたけど、フェロモンらしい気配なんて全く感じなかったし。それなのにこの間とか、いきなり色っぽい雰囲気を醸し出してるもんだから、ちょっとビックリしていたんだよ」
「色っぽい……」
 普段は眼鏡の冴えない男丸出しの相手に何を言っているのやらと、思わず胡乱な視線を向けてしまったのは許して欲しい。とはいえあの時は少なからず興奮していたのは事実なので、クリスなりに綺麗な言葉に変換してくれたのだろうかと思い直す。
 ただ勇利は元々こういった性的な事柄が絡む話は苦手であるし、変に刺激してしまってさらに突っ込んだ質問をされても困る。したがって視線をスーッと横に流しつつ、ともかくそういうことだからと早々に話を切り上げようとしたのだが。
 そこで夕食を食べ終えたクリスは、手に持っていたナイフとフォークを皿の上に綺麗に揃えておく。それから膝の上に広げていたナプキンを取り上げて口元を拭いながら、勇利は色々と無自覚なんだからちゃんと気を付けないと駄目だよとさりげなく気になる言葉をかけられたのに、目をぱちくりと瞬かせた。
「無自覚って、僕、クリスに何かしちゃった?」
「いや、そういう訳じゃ無いんだけど……例えば目が合った時にちょっと小首を傾げてみたりとか、そういうのだけでも欧米の男連中がちょっとドキッとするのって知ってた?
 俺は勇利とは長年の付き合いだからね、そういうつもりは全く無いっていうのは分かっているし、むしろそれが勇利の良さなんだって理解しているつもりだよ。でも世の中には色んな人がいるからね、注意した方が良いよって忠告」
「そっ、そうなんだ……ていうか、なんでそんなことごときでドキッとしちゃうの」
「アジア人って欧米人の男の体格に比べると、小柄だからね。そういう気持ちになるのは、俺も分からないでもないよ。それでそういう仕草をしている相手がオメガ性だって知ったら、余計に色めき立つわけだ。さらに女の子が好みそうな色の服とか着て、この間、ヴィクトルにちょっかいを出されていた時みたいなことになってたら、完璧じゃないかな」
 分かる? と笑みを浮かべながら告げられるが、あまり分かりたくない。
 でもまあ、彼の言いたいことは分かるので素直にこくりと頷くと、煩いこといってごめんねと苦笑を浮かべられた。
「余計なお節介っていうのは十分承知しているんだけどね。でも勇利って、ベータ性の時のまま振る舞っているからなあ。端から見てると危なっかしいっていうか。だからこれからは、勇利もちゃんと自分で気を付けるようにしないと駄目だよ。世の中、良い人ばかりじゃないし。そうじゃないと、悪いアルファ性に食べられちゃうよ」
 こうやってねと口にすると、クリスは椅子から立ち上がって勇利に近付いてくる。それにどうしたのだろうとポカンと口を開けながら様子を伺っていると、彼は勇利の背後に回ってきて。
「―ダメだなあ、勇利は。早速、隙ありだよ」
「へっ? う、わっ」
 彼はまだイスに腰掛けている勇利の背後から覆いかぶさるような格好になりながら、互いの頬同士を擦り寄せる。そしてそうされると、彼の頬から顎にかけて生えている髭がジョリジョリと当たって痛くすぐったい。
 その感覚に笑い声を漏らしながらやだやだと首を振っていると、しばらくしてからようやく顔を離されて。それからポンポンと頭を軽く叩かれた後、彼はひらひらと手を振りながらその場を立ち去っていった。
 そして勇利はその後ろ姿をぼんやりと眺めていたが、そこで不意に鼻先に漂った甘い香りに、すんと小さく鼻を鳴らす。
「―あ。クリスの香り、分かったかも」
 むせ返りそうなほどの甘ったるい香りだ。彼が得意とする、大人の色気を全面に押し出したプログラムを彷彿とさせる香りに思わず笑みが零れ落ちる。
 そしてその香りを感じながら、ヴィクトルの香りも知りたいなと思った。

「あれ? ヴィクトル、そんなところで座りこんで何してるのさ」
 そんなこんなでクリスとの食事を終えると、勇利はホテル上階にある自室へ戻る。すると扉の脇に見覚えのある銀髪頭の男が丸まっていたのに、勇利は驚いて声を上げた。
 声をかけるとその男はのろのろ顔を上げ―しかしその表情は酷く悲しげなものだったのに、思わず一歩後退った。
「えーと……どうしたの? 具合悪い?」
「ゆうり……ひどいよ。いくら電話しても出てくれないなんて」
「え? 電話?」
 でも着信なんて無かったはずだけどなと思いつつ、ズボンのポケットに手を突っ込む。しかしそこにいつもはあるはずの固い感触が無いのに、慌ててありとあらゆるポケットを探ってみるものの目的の物は無い。
「あれっ?」
「どうしたの? スマートフォン、無いの?」
「うん。おかしいな……部屋に忘れたのかな」
「なんだ! じゃあ無視されてた訳じゃ無いんだ!」
 そうと分かれば良いんだと言わんばかりに、ヴィクトルはいつもの調子で勇利の首に腕を巻き付けてくると、グリグリと頬を擦り寄せてくる。
 とはいえ勇利的には彼から逃げ回っていたのは事実なので、即座にうんと言えないところが辛いところだ。したがってはいはいと自分でもよく分からない返答をしながら、甘んじて彼の過剰な接触を今回だけは特別に抵抗無く受け入れる。
 それからは部屋の鍵を開けるのに夢中になっていたので、勇利の首筋に鼻を埋め込んだヴィクトルが、すんと鼻を鳴らした直後に物凄い勢いで顔を上げたのにも全く気付いていなかった。
「―よし、鍵開いた。あれ? ヴィクトル、ボーッとしてどうしたのさ。僕に何か用事でもあったんじゃないの?」
 いつもなら、ここで部屋の中に入れて入れてと猛烈にアピールをしてくるのに。珍しく静かなのに思わず彼の方を振り返ると、はっとした様子で頷いている。それに内心首を傾げながら、調子が狂うなと思いつつ彼をすんなりと部屋の中に通してしまった。
 もちろん直前にクリスからの忠告を受けたばかりなので、不味いかなあとはチラリと考えたが。でもヴィクトルの様子がどこかおかしいのが気になってしまい、結局懐に入れてしまう優しさが罪作りなのだという自覚は、やはり本人にはまるで無かった。

「えーっと、スマホ、スマホっと……あ、あった」
 勇利は室内に入ると、まずはスマートフォンを探す。すると部屋の奥にある応接セットのテーブルの上に置いてあるのにすぐに気付くと、ホッと胸をなで下ろした。薄々そうだろうなという予感はしていたが、案の定だ。
 それから画面を表示して着信履歴を確認すると、画面一面ヴィクトルの名前で埋め尽くされていたのに、思わずうへえと声を漏らしてしまった。
「もー……こんなに―」
 こんなに電話かけたのと思わず口にし―しかしその途中で背後から抱きしめられたせいで、勇利は最後までその言葉を口にすることが出来ない。
「え? あの、ヴィクトル?」
 毎度のスキンシップかとも思ったが、そのわりには先ほどから物静かで普段と様子が明らかに異なる。
 それをきっかけにクリスに先ほど言われた、ちゃんと自分で気を付けるようにという忠告の言葉が脳内をリフレインするものの後の祭りだ。
 そしてそこで自らの置かれている状況を振り返ってみると、オメガ性の急所とも言うべきうなじをアルファ性の目の前に晒していて。なおかつ今いる場所は、自室とはいえ密室と言っても差し支えない状況であることに気付く。その事実に、ただただ真顔になるしかない。
 先ほどレストランでクリスと話しているとき、彼にしては珍しく色々と忠告をしてきたので不思議に思っていたが。なるほど、こうして客観的に考えてみると、彼が口出ししたくなる気持ちも十分に分かる。
 せめてもの救いはハイネックのセーターを身につけていることだが、その心許なさといったらない。
 己のオメガ性としての危機意識は、底の無いバケツといったところだろうか。
 したがってヴィクトルの名を呼んで様子を伺いながら、さりげなく身体を離し、あわよくば部屋の外に出ようとしたのだが。物事そう上手く事が進むはずもないだろう。
 ヴィクトルは勇利が前に一歩足を踏み出したのをきっかけに、ますます両腕に力をこめる。そしてうなじの辺りにグリグリと頬を擦りつけてきたので、結局勇利はそれ以上足を動かすことは出来ず、ただただ固まることしか出来なかった。
「勇利……ねえ、この香り、なに?」
「か、香り?」
 ヴィクトルの言う香りというのは、香水かフェロモンか。どちらのことを指しているのだろうか。しかし彼の様子は明らかに常と異なっており、それが答えのような気がしてならない。
 ただそれを口にするのすら恐ろしくて黙りこくっていると、ヴィクトルは少しばかりイライラとした様子で胸元に回していた手を首筋まで這わせてくる。そしてそこを指先でカリカリと軽く掻いた。
「いつもと全然違う臭いがする。これ、誰? いや……ちょっと待って。この感じ、クリスかな」
 彼は勇利が答えを口にする前に、鼻先をハイネック越しにうなじあたりに擦りつけ、すんすんと匂いを嗅ぎながらブツブツと独り言を呟いている。
 時折洋服の隙間から素肌に触れる髪の毛と、吹きかけられる息がくすぐったいのに、思わず場にそぐわぬ小さく笑いを漏らしてしまう。するとヴィクトルは笑い事じゃないんだけどと面白くなさそうな表情で口にしながら、ようやく顔を上げる。
 そこで勇利はこれ幸いと身体を反転させると、ヴィクトルと向かい合う格好になった。
「それで、誰と会ってたの?」
「ヴィクトルの言うとおり、クリスだよ。さっき下のレストランで偶然鉢合わせたから、一緒に食事してた」
「ええっ! ちょっと待って、クリスと先に食べちゃったの!?」
 せっかく一緒に食べようと思っていたのにと、天を仰ぎながらよろけていて、相変わらずリアクションが大げさである。しかしそれをきっかけに、先ほどまで周辺に漂っていた、常と異なる怪しげな空気が霧散したのを感じて小さく息を吐く。
 そして安堵した勢いで、それなら明日はヴィクトルと一緒に食べるよと告げると、先ほどまでの鬱々とした表情はどこへやら。目の前の男は満面の笑みを浮かべながら頷いており、香りの件はなんとか流せたようだと思いきや。
 次の瞬間、ヴィクトルはところでさっきの話の続きだけどと、たった一言で話を蒸し返してきて。勇利は思わず額に手を添えてしまった。
「いや……だから、本当にクリスと食事しながら話してただけだって。でもほら、彼ってヴィクトルと同じで、距離感が近いから。だからそのせいでフェロモンとやらの匂いが移ったんじゃないかな」
 というか去り際に髭を擦り付けられたので、あれが原因なのはほぼ間違いない。しかしそれをヴィクトルに馬鹿正直に言ってしまっては、また面倒なことになるだけだろう。
 だから適当にそれらしい理由を口にすると、一応は納得してくれたのか。彼はやや不機嫌そうに眉根を寄せつつも、勇利はベータ性だから香りとか分からないだろうし、今回は許してあげると不満たらたらな表情で告げられた。
「でも次からは、ちゃんと気を付けるんだよ? 勇利の今の状態は、勇利の家に俺が住んでいた時に、俺が他の女性の香水の香りを付けて帰ってきている感じなんだよ。そういうの、悲しく思わない?」
「はあ」
 勇利的には、そもそも今はヴィクトルと同じ屋根の下に住んでいる訳ではないし、さらにはここ数年間連絡すら取り合っていなかったじゃないかという感じである。したがって前提条件からしておかしいじゃないかと、突っ込みを入れたい気持ちで一杯だ。
 しかしそれを口にしたが最後。何故そんな悲しいことを言うの? なんて具合に面倒臭い絡み方をしてくるのはほぼ間違いない。
 というわけでそれには気付かなかったフリをして右から左に流すと、次からは気を付けるよと彼の望んでいる答えを口にした。
「とはいってもなあ……僕ってそういう匂いとかよく分からないし、どうやって気を付ければ良いのやらって感じだけど。ていうか、そんなにその匂いとやらは気になるものなの? 香水と大して変わらないんじゃないのって思うんだけど」
 そこでさっきクリスもヴィクトルの匂いがするとか言ってたっけと何気なく口にしたのは、ふと脳裏に思い浮かんだからで他意は無い。
 しかしヴィクトルはその言葉を聞いた途端に勢いよく顔を上げると、勇利の方へ両手を伸ばしてきて。そしていきなり両頬を挟まれたのに、勇利は口を開けたままの間抜けな表情を晒しながらヴィクトルの顔を見上げた。
「え? どうしたの、いきなり」
「クリス、勇利から俺の香りがするって言っていたの?」
「? うん、ぷんぷんするって言ってたけど。柑橘類と、あと甘い香りもするって言ってたかな」
「そう、なんだ」
 すると先ほどまでの勢いはどこへやら。ヴィクトルは勇利の言葉を聞いた途端に再びすっかりとおとなしくなると、少し戸惑ったような様子で勇利の首筋あたりをじっと見つめている。
 そしてその状態が、それからしばらく続いて。さすがにあまりの居心地の悪さに身じろぐと、呆気ないほど簡単に彼の手の中から抜け出すことに成功する。先ほどの抱きつき攻撃は、一体何だったのやらという感じだ。
 それが少しばかり心配になって。顔をのぞき込むようにしながら名前を呼ぶと、彼ははっとした様子で顔を上げた。
「……ヴィクトル? いきなりボーッとしてどうしたのさ」
「―ああ、いや。少し、考え事。それより、そろそろ俺も食事に行こうかな」
「付き合おうか?」
 散々ヴィクトルから逃げ回っていたくせに。思わずそう口にしたのは、どうにも先ほどから彼の様子がおかしいのと、あとは少しばかりの下心も込みだ。
 しかし彼は意外にも首を横に振ると、口元に笑みを浮かべながら大丈夫だよと口にした。
「勇利はもう食べ終わっているのに、付き合わせるのも悪いしね。気持ちだけ受け取るよ、ありがとう」
「あ、うん。そっか」
 ヴィクトルのことだから、いつもの調子で即座に頷くと思ったのに。実際には正反対の答えだったのに思わず目を見開いてしまう。それからその瞳をわずかに揺らした。
 ……ああ、もう本当に最悪だ。
 今の勇利とヴィクトルの関係は、元師弟関係という前置きつきの友人といったところだろうか。だから彼の特別でも何でも無いのに。
 ちょっと断られただけでこんなにもショックを受けているという事実に、何を思い上がっていたのだろうと恥ずかしくてたまらない。
 そしてそんな心の内を見透かされまいと、頷くふりをしながら視線を床の上に落とした。
「ちょうど夕食の時間帯だし、レストランに行ったら知り合いの一人くらいいるだろうから。また明日、一緒に食べよう」
「うん、分かった」
 それ以上、何も言えるはずが無かった。
 胸の内で渦巻いているこの複雑な葛藤は、ヴィクトルには絶対に知られたくない。
 だから口元に笑みを浮かべて取り繕ってから顔を上げると、思いがけず彼の手が伸びてきて。その指先がハイネックのセーターの隙間に入り込んでくると、うなじのちょうど上あたりをかすめるように撫でたのに小さく息をのんだ。
「ん、っ」
 瞬間的に首を中心に甘い熱が生まれるのが分かる。でもここはホテルの部屋の中で、先日のリンクサイドの時のようなことになるのはどう考えても不味い。
 だからその熱を身体の内から逃がそうと、口を薄く開いて息を吐いたのだが。その吐息が思ったよりも熱を帯びたものだったのに、少なからず焦る。
 先日のように、うなじを直接思わせぶりに揉まれている訳でもなんでもない。それにほんの数十分ほど前、クリスに頬ずりをされた時だって、なんてことなかったじゃないかと自分自身に言い聞かせる。
 しかしそうやって考えれば考えるほど、逆に意識してしまうというのは往々にしてよくあることで。勇利もその例に漏れずヴィクトルの指先に全神経を傾けてしまったのが運の尽きだ。
 それからしばらくする頃には、添えられているだけの指先からほんのりと伝わるヴィクトルの体温に、少しずつ理性を焼かれていって。気付いたときには目元をほんのりと赤く染めながら、目の前に立っている男にすがって、もっとちゃんと触れてとすがりつきたい内なる衝動と一人戦っていた。
(な、んで……こんなっ)
 四年前にヴィクトルに告白してふられ、それで勇利の初めての恋は驚くほど呆気なく終了した。
 それから今日までの間に、生まれて初めて女の子とも付き合ったりして。そうして彼のことを忘れようとあがき、どうしても埋まらない空虚感を抱えながらも、最近になってようやく彼と過ごした日々を甘酸っぱい思い出と考えられるようになってきたところだったのに。
 ―そのはずなのに。
 ヴィクトルはこうして久しぶりに会った今も、以前とまるで変わらず自由奔放に動き回っては勇利を振り回す。
 だからこの数日は、それまでの良くも悪くも変動の無い毎日とはまるで正反対なものだった。でも何だかんだと言いつつも、毎日が鮮やかに色づいていて楽しくてたまらない。
 彼にコーチについてもらっていた、夢のようなあの時を追体験しているみたいだ。
 だから彼が不意に見せる、今みたいな思わせぶりな雰囲気だって、彼にとっては何てことない触れ合いの一つで。だから四年前のあの時のように、うっかりと流されてはいけないと思うのに。
 そうしないと、ヴィクトルにふられてからようやく持ち直した自分自身の心の平穏が、一瞬で水の泡だ。
 でもそれが分かっていてもなお……ヴィクトルのことが好きだなと、今この瞬間、改めてそう思ってしまう。その思いが以前よりも明らかに強いものに感じるのは、これまで無理矢理にその思いを忘れようとしていた反動だろうか。そしてそれと同時に、その感情から逃れることは出来ないのだと言われているようにも感じられた。
 なんてことを、目の前にあるヴィクトルの形の良い唇を見つめながらもんもんと考えていた時のことだ。
 それまで閉じたまま微動だにしなかった唇が薄く開き、思案げな様子で小さく息を吐く音が聞こえてくる。
 そしてその直後、首に添えられていた指先が動いて。今度はうなじの表面を、指先で正確に撫でられたのに目を見開いた。
「―っ、あ」
 今の動きは、果たしてヴィクトルは狙ってやったのか。もし狙ったのだとしたら、彼は勇利がオメガ性ということに気付いたのだろうか。
 しかしもしそうでは無いのだとしたら、今の動きは勇利の反応を伺っているということになる。そして勇利がヴィクトルに未だに恋心を抱いているということは、絶対に彼に知られてはならない。
 だって一度ふられて、それでも未だにその思いを捨てきれずにいるなんて、まるでストーカーみたいだ。
 せっかく以前のような関係に戻れたのに。そんな風にしつこい男だと思われたくない。
 だから勇利は腕をぐっと伸ばすと、突っぱねるようにヴィクトルの両肩を押して、半ば無理矢理に互いの身体を離した。
「だからっ―首はくすぐったいから止めてって、この間も言ったじゃないか。それにどうも忘れているみたいだけど、僕、ヴィクトルに四年前に告白してふられてるんだからね。この間も言ったけど、こういうことは今お付き合いしている彼女にでもやってあげればいいじゃないか」
 たしか今は、ヨーロッパで活躍しているモデルの人と付き合っているんじゃないっけ? なんてことをあえて口にしたのは、もちろんわざとだ。
 四年前に告白したことだってこうして平然と口に出来るし、ヴィクトルに彼女がいたってどうってこと無いのだと、こうしてあえて態度で示した。
 だからついうっかりと先ほど甘い声を上げてしまったのは、首がちょうど感じる場所で、ただそれだけなのだと言外に言ったのだ。
 そこでちらりとヴィクトルの様子を伺うと、彼は勇利がまさかこんな形で反撃してくるなんて夢にも思っていなかったのだろう。彼にしては珍しく、目をぱちくりと瞬かせながら呆けた表情を晒している。
 それをこれ幸いと、勇利は彼の手首を掴んで扉まで引っ張っていくと、ぺいっと外に放り出した。
「あっ! ゆうりっ」
「ヴィクトルもこんなところで油売ってないで夕飯食べに行かないと、レストラン閉まっちゃうよ」
 部屋のドアが閉じる直前になってようやく我に返ったのか、ヴィクトルが戸惑ったような慌てたような、色々な感情をない交ぜにした複雑な表情を浮かべながら名前を呼んでくる。でもあえてそれに気付かなかったふりをして、今は全く関係の無い夕飯の話を蒸し返してすぐに扉を閉じてしまった。
 そうでもしてヴィクトルから一刻でも早く離れないと、何もかもが露見してしまいそうで怖くてたまらなかった。

「はあ……うまくいかない」
 ヴィクトルに好意を抱いているのだから、彼に構われるのは素直に嬉しい。それに本心を言うと、もっと彼と一緒にいたいと思う。でも恋心だけは絶対に知られたくない。
 そしてその二つの欲求を両立させるのは、隠し事が下手な勇利にとってはなかなかに難しいことらしいと、今さらながらに身を持って思い知った。
 特に今の一連の勇利の行動は、どう考えてもわざとらしさ全開だったに違いない。
「絶対、変に思われたよな」
 だからもしかしたら、すぐには引き下がってくれないかもと思ったのだが。意外にも外が静かなのに、ドアの覗き穴から廊下の様子を伺ってみると、すでにそこにはヴィクトルの姿は影も形も無いのである。
 そう、まるでその光景は……勇利とヴィクトルの思いの違いを見せつけられているみたいだ。
 そしてそれに気付いた瞬間、勇利は胸の奥底がズキリと痛む感覚が走ったような気がするのに、無意識にセーターの胸元をぎゅっと握りしめた。
「はは。ばかだなあ、僕」
 ヴィクトルがちょっかいを出してくるのは、小さい子がお気に入りのオモチャで遊んでいる程度の感覚だって最初から分かっていたのに。だから彼と別れてからの四年、一切音信不通だったんじゃないかと自分自身に言い聞かせながらドアから身体を離す。
 それからのろのろとした歩みで居室の方へ戻ると、部屋の中にほんのりと甘い香りが漂っているのに気付いて、無意識にくんと鼻を鳴らした。
「ああ……これ、ヴィクトルの匂いだ」
 果たしてこれが、香水の香りなのか、フェロモンの香りなのかはよく分からない。
 それでもこの香りを嗅いでいるだけで、ヴィクトルの姿が脳裏に思い浮かぶせいか。切ない気持ちが胸の内に広がっていくのが分かる。そして浅ましくも、それと同時に身体が熱くなってもいくのだ。
 そんな自分が、いやでいやでたまらない。
「空気、入れ替えよう」
 そうでもしないと、とてもではないが眠れそうもない。
 とはいえ今いるのは高層階なので、家のように窓を全開という訳にはいかないが。それでも開けないよりはましだろうと窓の方へ歩み寄ると、窓辺に設置してあった応接机の上に置きっぱなしになっている洗面用具一式を入れている袋が目に入って。そしてその中に抑制剤が入っているのを思い出すと、夜の分の薬をまだ飲んでいなかったのを思い出し、袋の中からピルケースを引っ張り出した。
「妙に欲求不満っぽいのって、ヒートになりかけちゃったせいもあるのかな」
 幸いにして薬をすぐに飲んだので、人生初のヒートをこんな場所で迎えてしまうという大失態をせずに済んだのだが。その残り香が、自覚していないだけでまだあるのかもしれない。
 だからさっきヴィクトルにうなじ近くを軽く触れられたり、こうして彼の香りを嗅いだだけで、ちょっとそれっぽい反応をしてしまうのだろうかと考えを巡らせる。
「早くおさまってくれればいいんだけど」
 なんて思わずぼやきつつも、アイスショーに参加する面子の多くはアルファ性なので、ただでさえ不安定な状態の今の身体が、その気配に刺激されないはずがないというのは何となく分かっている。
 したがって面倒くさいなあと小さくぼやきつつ、ピルケースの中から抑制剤を二錠取り出す。そしてそれを口内に放り込みながら、ペットボトルの口を開けて中の水を数口飲みこんだ。
 それから窓を開けると、勇利の身体を撫でるようにして夜の冷たい空気が室内に入ってきて。おかげでそれまで身体の中に渦巻いていた熱が少しばかり引いていくのが分かる。
「あと、ほんの数日だ」
 そうすれば、すべて元通り。こんな風に感情を揺さぶられることの無い、平凡な毎日をまた送ることになるのだ。そんな静かな日々が待ち遠しくて、でも今の時間がずっと続けばいいのにと思っている自分もいる。
 たぶん、ベータ性としての勝生勇利とオメガ性としての勝生勇利が、己の身体の中に共存しているからだろう。しかし今の勇利には、どちらが本当の自分なのかよく分からなかった。

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