アイル

好きになった人は、オメガ嫌いなアルファだった-5

「ヴィクトルって、ここのところ勇利に随分とご執心だよね」
 そんなクリスの声が聞こえてきたのは、翌日の公演に向けた最後の練習を終えてから控え室に戻った時のことだった。
 ちなみに勇利は、この日も全体の練習を終えたところでクリスに誘われてリンクに残って練習をしていた。もちろんいつの間にかヴィクトルもクリスと勇利の間に割って入ってきたのは言うまでもないだろう。
 そんなこんなで、勇利はヴィクトルが何かにつけては首周辺、中でもうなじ辺りにちょっかいを出してくるのにひやひやとしたものを感じつつも何とかそれをやり過ごす。
 それからそれぞれに個人練習をした後、クリスにヴィクトルを捕まえてもらっている隙にコソコソとお手洗いに行って。そしてクリスやヴィクトルとは時間差で控え室に向かったのだが。
 そこで先のような会話が聞こえてきたのに、勇利は部屋のドアの取っ手に指先を添えたままの格好でピシリと固まった。
「えーと……」
 どうしようという感じである。中の二人は勇利の話をしているので、非常に入り辛く感じてしまう。しかも会話の内容がなかなかに際どいものなので余計にだ。
 というかクリスだって、勇利がすぐにここにやって来るということに気付いていないはずがないのに。あえてヴィクトルに勇利をどう思っているのか詮索するようなことを聞くなんて。
 いや、まあそれはともかくだ。こうやって二人の会話を盗み聞きするのはマナー違反だろう。
 幸いにして貴重品類は全て身に付けているので、控え室には特に大事な物は置いていない。着替えとタオル、あとは残りの飲み物とかそんな細々としたものだけだ。それに明日の公演初日もこの控え室を使うので、まあ最悪このままホテルに戻ってしまっても支障は無い。
 だからこの場から立ち去ろうと取っ手から手を外したのに。そこで中からヴィクトルの声が聞こえてきたせいで、足に根でも生えたかのようにその場から動けなくなってしまった。
「うーん……執心っていうか、随分と長い間一緒に過ごしてきたから、少なからず愛着はあるよ。それに最近は香水をつけはじめたらしいんだけど、それがまた良い香りで。それでついふらふらと寄って行っちゃうっていうか」
「へえ、ヴィクトルって昔から来る者拒まずなところがあるけど、自分から興味持つなんてかなり珍しいね。もしかして勇利って、オメガ性なんじゃないの?」
 ヴィクトルの運命の相手だったりしてと、クリスは笑い声を漏らしながら茶化すように口にしている。しかし彼は勇利がオメガ性であることを知っているわけで。
 したがってこの言葉は、明らかにわざとだろう。そしてその言葉を聞いた途端、勇利は無意識にゴクリと喉を鳴らした。
「勇利がオメガ性? そんなはずは無いよ。以前俺が勇利のコーチをしていた時、本人がベータ性だってはっきり言っていたし」
「へえ、そうなんだ。ここ最近、勇利からぷんぷんヴィクトルの匂いがするし。だからてっきりそうなのかと思ってた」
「思わせぶりな言い方をするなあ。そうは言うけど、そもそも匂い付けなんて、オメガ性に限らず色んな性の人間に対してするものじゃないか。俺なんて人じゃなくて犬のマッカチンにもたっぷり匂い付けしていたくらいだし―なんて冗談はさておき。ていうかここだけの話し、俺ってオメガ性の人が苦手なんだよね」
 だからもしも勇利がオメガ性だったら、そういうことは一切しないよという言葉に、クリスはかなり驚いた様子でへえと声を上げている。
 しかしその言葉を扉の外で聞いていた勇利の反応は、クリスのものとはまるで真逆のものだったのは言うまでもなく。不安や落胆、そして焦燥感など様々な負の感情が胸の内に広がるのを感じていた。
(そう……だったんだ)
 全く知らなかった。
 昔、ヴィクトルにふられて。それから数年後、オメガ性に分化してから彼と久しぶりにこうして出会った。でも彼の勇利に対する態度は、以前と全く変わりが無く、スキンシップ過剰気味である。
 そして二人は、アルファ性とオメガ性という性なのだ。
 これまでベータ性―正確には未分化だっただけだが、ともかくそうして特筆するべき特性の無い性として過ごしてきた勇利にとって、その二つの希少な性がそろって近くにいるだけで何かが起こりそうな。どこかそんなドラマチックな幻想を心の奥底で抱いていた。
 だから自分ももしかしたら……という望みが、全く無かったといったら嘘になる。そうでもなければ、彼の明らかに濃すぎるスキンシップを、首を噛まれた以降も許すはずがないだろう。
 それだけにヴィクトルの口から出た、「オメガ性は苦手」という言葉に受けたダメージは大きかった。
「それにしても、ヴィクトルがオメガ性が苦手っていうのは意外だったな。そういうわりには、きみが今まで付き合ってきた相手って、オメガ性の人ばっかりだったように思うけど」
「好きだって言ってくる相手が、オメガ性の子が多いんだよ」
「ふうん、そうなんだ。でもまあ確かに、オメガ性の子の方が積極的な子は多いかもね。ヒートがあるせいかな? それになにより、ヴィクトルもアルファ性だし。それにしても苦手っていうわりには付き合うって相変わらずよく分からないよね、君って」
「好かれるのは悪い気分じゃないからね。それに俺が苦手なのは、オメガ性自体ってわけじゃないよ。そうじゃなくて、ヒートの時のフェロモンっていうのが一番正しいかな。フェロモンで無理矢理にその気にさせられるのって、感情が伴わないから基本どうも苦手で。まあ、今ではそれも込みで楽しんではいるけど。クリスも、少なからずそういう経験とかあるだろ」
「ああ、なるほど」
 ヴィクトルのこの言葉は、彼らの前でヒートになりかけた勇利にとってとても耳の痛い話だった。
 もしも勇利がオメガ性だと知られてしまったら。彼は先日のリンクサイドで、互いに熱に浮かされたようになっていたあの日のことを、すべてオメガ性のフェロモンのせいだと即座に理解するだろう。
 もちろんあの日ヒートになりかけてしまったのは、故意では無い。しかし彼は、今はっきりとオメガ性のフェロモンでその気にさせられるのは苦手だといった。
 だからヴィクトルに、己がそうであると知られるわけには絶対にいかないと、そう思った。
「そういえば匂い付けといえば。この間、勇利にクリスの匂いがベッタリ付いてたんだった。俺の方が先に匂い付けしてたんだから、ああいうの止めて欲しいんだけどな」
「いやあ、勇利って良い反応するからつい」
「つい、じゃなくて。ああいうのマナー違反じゃないか」
「はは、そんなにカリカリすることないだろ? あの程度のこと、よくある話じゃないか。それにヴィクトルの口振りからすると、勇利に匂い付けをしていたのは、彼の付けてる香水の匂いにつられてついっていう程度のことみたいだし。ああ……それとももしかして、それはフリで実は本気だった?」
 だとしたら悪いことしちゃったなあと、クリスは一応謝罪の言葉を口にしてはいる。
 しかしその声音は謝罪の言葉というわりには浮ついており、本心からの言葉ではないのが丸分かりで。むしろ煽っているように聞こえるのは気のせいではないだろう。そしてそれに対して、ヴィクトルはすぐに反応を示さないのである。
 勇利は閉じたドア越しに二人の会話を聞いているので、当然表情など見えるはずもない。したがってその無言の数秒間はひどく恐ろしいものに感じられた。
 もしかして、あのヴィクトルが怒ったのか。いや、でもタイミング良く着替え終わって外に出てくるという方が現実味があるだろうか。
 そしてそこまで考えたところで、その考えが正解だというように部屋の中からロッカーをバタンと閉じる音が聞こえてくる。
 そこで勇利はいつの間にか俯けていた顔を慌てて上げ、一歩二歩と後ろに後退って。それから身体を反転させると、ホテルの自室まで一度も立ち止まることなく全速力で走って戻っていった。
 数日前に首筋に付けられた噛み跡が、今更のようにズキズキとひどく痛むような気がした。

 勇利は部屋に戻ると、すぐにベッドの上にゴロリと転がる。そしてポケットに入れていたスマートフォンを取り出して電源をオフにしてふて寝していたのだが、どんなに気分が落ち込んでいても、人は生きている以上おなかはすくもので。
 しばらくして空気を読まずにおなかがグウと鳴ったのに、まぶたをゆっくりと開けた。
「……おなか、すいたな」
 何気なく首を横に向けて窓の外に目を向けると、いつの間にか外は真っ暗だ。思ったより本格的に寝ちゃったみたいだなと思いつつスマートフォンの電源を入れて液晶画面に表示されている時間をチェックすると、夜中の十時と表示されていた。
「まいったな、うっかり寝すぎちゃったか。この時間だとホテルのレストラン、閉まってるんだよなあ……」
 かといってルームサービスを頼む気分でも無い。でも確か、ホテルの地下階に二十四時間営業のコンビニがあったのを思い出す。
 ホテルなのにコンビニ食ってどうなんだろうとか、この時間に食事をするのって絶対太るよなあとか色々思うところはある。でも元々食に関しては貪欲な方で、なおかつ今は現役時代のように大会に出て優勝を争っているわけでもない。
 したがってまあいいかと呆気なくコンビニへの買い出しを決定しながら上体を起こすと、手に持ちっぱなしにしていたスマートフォンからポンポンと絶え間なく通知音が鳴り響きだしたのに目を瞬かせた。
「あれ? さっき電源入れたばっかりなのに、もう動作おかしくなっちゃったのかな」
 おかしいなと思いつつ再び携帯電話を取り上げて画面に目を向け―すると着信がありましたという通知画面が表示されていたのに、思わずぐっと喉を鳴らした。
 もちろん電話をかけてきた人物がヴィクトルなのは言うまでもないだろう。
「ヴィクトルか……」
 思えばつい昨日、コソコソと一人で夕飯を食べに行った時に携帯電話を忘れた時も、こんな調子で鬼電をかけてきていた。挙句に部屋の前で待ち伏せていたのだ。
 一歩間違えたら、ちょっとしたストーカーだよなと思いつつも、それをしているのはあのヴィクトルなので、そう感じないのがイケメンのイケメンたる所以というやつだろう。
 なんて下らないことをぼんやりと考えながらメールの受信ボックスもついでに確認すると、これまたヴィクトルから大量のメッセージが届いていて。
 一応一番古いものから順々に開封してみると、控え室に来ないけどどうしたのというメッセージがまず初めに入っている。それが時間を追うごとに、夕食を一緒に食べようというものに。さらに最終的には、居場所をたずねる心配をにじませるものに変化していく。
 そしてそこで、今日は彼と一緒に夕飯を食べようと話していたのを思い出すと、さっと顔を青ざめさせた。
「やっちゃった」
 しかしそれらのメールのメッセージをきっかけに、ヴィクトルがオメガ性のフェロモンが苦手だと話していたことも思い出す。そしてそもそもそれを聞いたから、勇利は不貞寝をしていた訳で。
 そんなボロボロの心理状態で、どう考えても彼と一緒に食事なんて出来るはずも無いだろう。だから無断で約束を破ってしまったのは申し訳ないと思いつつも、心の奥底でそれに安堵していたのだが。
 まるでそんな風に考えているのを叱責するかのように、手に持っていたスマートフォンがけたたましく着信音を鳴り響かせ始めたのに、大げさなほどに上体を揺らす。そして電話をかけてきた相手を確認すると、それはヴィクトルだった。
「―もしもし、あの」
『ああ……勇利、良かった』
 正直、電話に出るのにはかなりの勇気がいった。
 でもスケートリンクから勝手に帰ってしまったせいでかなりの心配をかけているようだったし、何より夕食の約束を寝過ごしたせいで破ってしまっている。
 だから無視するわけにもいかず、しかし彼はオメガ性のことが嫌いで……なんてことをグルグルと考えながら恐る恐る出てみると、電話口の向こうからやっと繋がったと安心するように大きな息を吐く声が聞こえてきた。
「あ、あの、ヴィクトル。今日は、色々と迷惑かけちゃってごめん。勝手にホテルに戻って来ちゃったし、夕飯一緒に食べる約束も破っちゃって」
『いいや、それは問題無いよ。それより随分と暗い雰囲気だけど、どうしたの? もしかして体調が悪くて先にホテルに戻ったの?』
「えっと……まあ、そんな感じ、かな」
 本当は優れないのは体調ではなく気分なのだが。
 でもそれはあくまでも精神的なものだし、馬鹿正直にそれを言って根ほり葉ほり聞かれても困るので曖昧に誤魔化す。そしてともかく明日の公演に響くと不味いし、今日は早めに寝ようと思うと畳みかけるように口にすると、その方がいいねと返された。
『勇利は昔から大事なことを言わない癖があるんだから。今度からはもっと早めに言うんだよ』
「うん……ごめん」
 今の状況を一言で表現すると、約束を破った挙げ句に、さらに嘘を重ねている状態だ。ともかく罪悪感がすごい。そしてそこへ、さらにヴィクトルのこの言葉である。
 まるで何もかもお見通しだと言われているみたいで胸がズキリと痛んだが、今の勇利にはどうすればいいのかまるで分からない。だからただただ謝ることしか出来なかった。
 そしてヴィクトルとの電話を切ってからしばらくの間、放心状態でボーッとしていたのだが。メールの着信音が再び響いたのをきっかけに現実に引き戻されると、慌てて携帯電話を取り上げて送られてきたメッセージを確認する。すると送信相手はクリスで、ヴィクトルと同じく勇利のことを心配する文面だった。
 したがって彼にも、体調が優れなくて先にホテルに戻ってしまってごめんと慌ててメールを送信した。
「そういえば……この間クリスと一緒に夕飯を食べた時に、ヴィクトルに僕がオメガかどうか気付いているのか探りを入れてくれるって言ってくれてたんだった」
 だから今日、あんな場所であんな話を唐突にしていたのかとようやく合点がいった。勇利が納得済みの話しなので、本人が途中で控え室に入ってきて話を聞かれたとしても、問題無いとクリスは考えたのだろう。
 そして結果的には彼が昨日予想していた通り、ヴィクトルは勇利がオメガ性であると気付いていない様子だったのだが。それがまさか、オメガ性が苦手と言い出すとは。
 ヴィクトルは勇利の内に閉じこもっていくような面倒な生徒相手にも、辛抱強くコーチをしてくれていたほどの懐の広さがある。そんな彼が、まさか嫌悪感を示すような言葉を口にするなんて全く予想外で。だからこそ、クリスも驚いていたのだろう。
「オメガ、だめなのかあ……」
 ヴィクトルにふられた後、いっそ自分がオメガ性だったらといいのにと考えたこともある。それから実際にそうなって、最初はただただ驚くばっかりだった。
 でもアイスショーで偶然にもこうして彼と再会して、なんだかんだいいつつ昔と同じように構われ、さらに以前よりも少しだけ濃厚な接触も出来たのも特別みたいで少なからず優越感があった。
 そしてヴィクトルとそういう接触が出来たのは、勇利がオメガ性になったからというのは間違い無い。だから隠さずに言うと、今日、ヴィクトルの発言を聞くまでは、慣れぬ性に振り回されている恐怖感のようなものを感じつつも、何だかんだ言ってオメガ性になれて嬉しかった。
 しかしそんな下心を全て見透かすかのような、この展開である。
 オメガという性に心の奥底で奢っていたことに対して、まるで神様から罰を与えられているみたいに感じた。
「なんか、食欲も失せてきたな」
 やや寝ぼけていた頭がはっきりとしてきて、今日あった色々なことを一気に思い出したせいだろうか。
 先ほどまでの食欲が、面白いくらい一気に引いていくのが分かる。そしてその程度の食欲のために、外に買い物に行くだけの気力も今は無い。
 そこで九州から東京まで移動する間にお菓子のチョコを買っていたのを思い出すと、ベッドの脇に立てかけるように置いていたリュックのポケットから目的のお菓子の箱を取り出す。そしてそれを数個食べて満足すると、それから洗面を軽く済ませ、そのまま再びベッドの中に潜り込んでしまった。
 未だに勇利は、そうやって眠って記憶を薄れさせることでしか、心の傷を癒す方法を知らなかった。

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