アイル

好きになった人は、オメガ嫌いなアルファだった-6

 翌朝の公演当日の朝も、案の定勇利はあまり食欲が無かった。しかしショーの途中で倒れるなんてことになったらシャレにならない。したがってやや無理をして、いつも通りに朝食を詰め込む。
 それを食べ終えたところで時間を確認すると、その時点で準備にとりかかるまでまだ少しだけ時間があったので、それなら昨日リンクに置きっぱなしにしてしまった荷物を取りに行こうとホテルのロビーを歩いていた時のこと。
 肩を不意にポンと叩かれたので振り返ると、そこには片手を上げたクリスが立っていた。
「やあ勇利、おはよう。体調はどう?」
「ああクリス、おはよう。昨日は先に帰っちゃってごめん。でもおかげさまで、食事が食べられるくらいには戻ったよ」
「そのわりに、随分と顔色が悪く見えるけど」
 顔を覗きこまれながら無理しないようにねと声をかけられたのに、曖昧な笑みを浮かべて頷きながら、内心まいったなあとひとりごちるしかない。
 クリスは元々人の様子の変化には聡い。勇利の体調―正確には精神的なダメージだが、それがまだ回復していないのがバレバレなのは、ほぼ間違いない。そしてこのまま彼と会話を続けていたら、昨日の控え室での話しを立ち聞きしていた件もバレてしまうだろう。
 だからリンクまで忘れ物を取りに行ってくるからと片手を上げ、半ば無理矢理に彼との会話を切り上げようとしたのに。その場から立ち去る前にあと一つだけと呼び止められてしまったので、その目論見が叶うことは無かった。
「昨日、ヴィクトルに勇利の例の件を聞いてみたんだけど。やっぱり勇利がそうだって、全く気付いていないみたいだったよ」
「へっ? ああ……性別の件か。そっか、良かった。それならずっと隠しておかないと」
 思わずそう呟いてしまったのは、心が昨日のダメージから回復しきっていないせいでうっかりと口から漏れてしまった本音だ。
 案の定その独り言が聞こえたのか、クリスがどうしたのと様子を伺ってきたのに慌てて胸の前で両手を振る。
「ほら、ヴィクトルってスキンシップが多いから、そういうの知られちゃったらお互いやり辛そうかな、なんて。それに僕も元々ベータ性として振る舞ってきたから、いまさらオメガ性って知られるのも恥ずかしいっていうか」
 まあそこら辺はくだらないプライドなんだけどねと、小さく笑って誤魔化しながら頬を軽く掻く。そこで会話が一段落したので、じゃあと口にして今度こそその場を逃げ出すように後にした。
 今言ったことは、嘘ではない。だけどその言葉を口にした時の声音は、沈んでいる気持ちを鼓舞するためにひどく軽いもので。おかげで本心は全く別のことなのだと白状しているも同然だったと、勇利自身でも感じたほどだ。
 加えてそれらの言葉を聞いた時のクリスの反応は、常に比べると明らかに薄いもので。だから彼も、先の言葉を聞いて何かしら思うところがあったのはほぼ間違いないだろう。
 でもクリスはそれ以上勇利のことを引き留めることはしなかった。そして思えば、彼はヴィクトルがオメガ性のフェロモンを苦手に思っているということも一切口にしなかった。
 きっとそれは、彼の優しさだろう。でも一方の勇利はというと、昨日立ち聞きしていたことを正直に言わずに嘘をついている。そんな自分自身が、ひどく汚い人間に思えた。
 それから勇利はリンクの控え室に向かうと、忘れ物を無事に回収する。それからそそくさとホテルの自室に戻り、その日の公演の準備に取りかかった。
 幸いにしてアイスショーの公演は、昼と夜の一日二公演だ。だから朝の暇な時間帯さえやり過ごせば、あとは余計なことを考える時間は無い。



「勇利っ! 体調が悪そうだったから心配していたんだけど、今の演技すっごく良かったよ~!」
「うぐっ」
 初日の夜公演。勇利は自分のプログラムを滑り終えて袖まで戻ってくると、袖のカーテンが閉まりきるよりも前にヴィクトルにものすごい勢いで抱きつかれたのに少しばかりよろけた。
「ありがとう、ヴィクトル。でもカーテン閉めないと、外に光が漏れちゃうから」
 だからちょっと手を離してと彼の背中を叩くが、なにやら興奮した様子で首筋にグリグリと額を擦りつけているので、しばらく話を聞いてくれそうな気配は無い。
 それに困ったなと思いつつ、遠巻きに様子を伺っていたスタッフの人に声をかけようとしたのだが。タイミング良く勇利の後に演技をするクリスがスッと近付いてくると、肩をポンと叩かれる。そして俺がやっておくよと口にしながらウインクを投げていった。
「……―勇利、今の誰? クリス?」
「あ、うん。そうだよ。彼、僕の次だから。それよりいきなり飛びついてきたら危ないじゃないか。それにカーテンも結局クリスに閉めてもらっちゃったし」
 困るよとぶつぶつと口にする。
 ところで昨日の一件のせいで、勇利がヴィクトルと会話し辛いものを感じていたため、彼のことをやや避けてしまっていたのは言うまでもないだろう。
 しかしヴィクトルは、昼公演の時からこうして滑った直後の絶対に逃げられないタイミングを狙って、待ちかまえているのである。おかげで今は逃げるのを完全に諦めており、もはや悟りの境地だ。
 ただこうしていると、いつまでも彼は離れないから困る。したがって、ヴィクトルももう少ししたら出番でしょと口にしながら胸元を押して身体を離したのだが。
 彼は何を考えているのやら。今度は勇利の手首を掴むと、ずんずんと廊下を歩いて。控え室に向かうと思いきや、その場所を通り過ぎていくのである。
 さらに廊下の突き当たりまで進むと、非常階段と書いてある扉の前でようやく立ち止まった。
「ヴィクトル、どうしたの」
「さっきの場所だと周りにたくさん人がいるから。静かな場所で、二人で話したいなと思って」
 ヴィクトルは口元に笑みを浮かべながらそう口にすると、非常階段に続くドアを開く。そして勇利は背中を押される形でそのドアを跨ぐと、たたらを踏むような格好で踊り場に足を踏み出した。
「さむっ!」
 演技後で火照った身体を、冬の夜風が撫でていく。それに反射的に両肩を抱く格好になりながらブルリと震えていると、背後から腕を回されて。気付いた時には彼の腕の中に抱え込まれるような格好になっていた。
「えっと……?」
 ドアもいつの間にか閉まっているので、彼が先ほど口にした通り。まるで二人きりの世界みたいだ。
 そしてそれに気付いた途端に急激に羞恥心が湧き上がってくるのを感じるが、彼はオメガ性のことが苦手で。勇利はそのオメガ性なのだ。
 それに彼がこんな風にどこか思わせぶりな態度を取っているのは、オメガの性に無意識に囚われているからで。いや、それ以前にそんなことを考えていること自体、自意識過剰じゃないかとぶんぶんと首を振る。
 それからやや混乱気味の頭の中を整理するために、一つ小さく咳払いをしてからどうしたのと改めて口にした。
「ヴィクトルだってあと少しで出番なんだから。こんなところで油売ってる場合じゃないと思うんだけど」
「うん……でも、まだ大丈夫だよ。それに俺たちがこの場所にいるのはスタッフも分かっているだろうし、時間が危なくなったら呼びに来てくれるさ」
「もう、他力本願だなあ」
 駄目だよと思わず真面目に返すと、勇利らしいと小さく笑われる。でもそれをきっかけに、張りつめていた空気の糸が少しだけ緩んだような気がしたのに、内心ほっと胸をなで下ろした。
 今は背後から抱きつかれている格好なので、ヴィクトルの表情が全く見えない。それだけに、彼のどこか常と異なる雰囲気が気になってたまらない。
 加えてこの格好だと、ヴィクトルの目の前にうなじを差し出しているような形なのだ。しかも今回の競技衣装は、首元が丸見えのデザインなので、余計に焦るというか。今は絆創膏で隠しているが、数日前に付けられた歯形の跡が心なしか疼く。
 したがって何気なさを装って、いつものように彼の腕の中から逃げだそうとしたのだが。
 彼は勇利の身体に力が入ったのに気付いたのか、胸元に回している腕にさらに力をこめる。そしてその状態で耳元に唇を近づけてくると、思わせぶりにほうと息を吐いた。
「今日の勇利の滑り、いつもよりも物憂げな色っぽさがあって……あんな勇利の姿、誰にも見せたくないって思っちゃった」
「なにを、いきなり」
 それではまるで、勇利が彼の特別だと言っているみたいではないか。
 でも実際のところは、四年前に一度ふられていて。そして昨日には、彼はオメガ性が苦手だと言っていた。つまりは、二度もふられているような形なのである。
 それなのにそんなことを口にして、こんな風に思わせぶりな態度をとるなんて。
 でも、ヴィクトルは勇利がオメガ性であると知らない。だからこんな状況になっているのは、恐らくは勇利が原因で。つまりは自業自得というやつである。
 そしてそれが正解だというように、首筋をベロリと舐め上げられたのに間の抜けた声を上げた。
「ひゃっ、あ!」
「以前に勇利のコーチをしていた時もね、大会を重ねてエロスの表現が洗練されていくにつれて、そう思うようになったんだ。でもあの時はもっとぼんやりとした感情だったから、自分でもそれが何かよく分からなかった。でも今は違う。はっきりそう感じるんだ。これって―」
 直感的に、それから先の言葉は聞いたらいけないと思った。
 だから反射的に左手を伸ばして、自分の顔の横にあったヴィクトルの口を覆うことでその言葉を無理矢理に奪う。
 確証があったわけではない。ただ何となく、彼が口にしようとした言葉は、勇利がヴィクトルに出会ってからずっとずっと欲しかったもののような気がしたのは、きっと気のせいではないだろう。
 そして彼がそんな言葉を口にしようとしているのは、オメガ性のフェロモンに流されているからに違いない。だから絶対に、言わせてはいけないと思った。
 それに不味いことに、昨晩勇利はうっかりと抑制剤を飲み忘れているのだ。とはいえ今朝はいつも通り、薬を二錠忘れずに飲んできている。だから恐らく問題無いとは思うのだが。
 それでもやはりオメガ性になったばかりなのでまだまだ分からないことだらけで。だから常に漠然とした不安感が、心の隅に居座っている。
 加えて、ヴィクトルがスキンシップを仕掛けてくる際に何かとうなじあたりを狙ってくるのが特に気になるというか。薬を多めに飲んでいる今の状態でも、いい匂いがすると独り言のように呟いているのがたまに聞こえてくるのが余計に不安感を煽っているのもあるだろう。
 だから今も、そうなんじゃないかと思うのだ。
 それはもちろん、今の状況はある意味とっても魅力的な展開だ。
 しかしこれで仮にヴィクトルと付き合うということになったとしても、オメガ性であるという事実を隠しているという罪悪感はずっとつきまとう。というかそれ以前に、いつまでもそのことを隠し通すことは出来ないだろう。
 となると、例え想いが通じたとしても、勇利が三度ふられることになるのは時間の問題で。そんな風に再び嫌われるくらいなら、今のような生温い関係のままずっといたいと思う。
 そこまで瞬時に考えることが出来たのは、きっと冷たい夜風の中、こうして薄着でいるおかげだろう。
「ヴィクトル、そろそろ行かないと! クリスの後が南くんで、その後がヴィクトルだよね?」
 なにも気付かなかったふりをして、ことさら明るく声をかける。しかし案の定と言うべきか、ヴィクトルはかなり不服そうな様子で黙りこんでいる。
 でもそれにあえて触れずに肩を揺すり上げるようにしながらほらと促すと、ひどいよと口にしながら首筋に額を擦り付けられた。
「俺にとっては、とても大事なことなのに。勇利は、何故無かったことにしようとするの? 勇利は俺のことが嫌いなの?」
「いや、そういうことじゃなくて」
 このまま素直に好きだと言えたら、どんなに良いだろうと思う。でもそうしたら、一時的には良くても後のしっぺ返しがとんでもなく大きい。これをどうやって彼に伝えれば良いというのだろうか。
 だからそのまま黙りこくっていると、今度はヴィクトルの方がそれに焦れたのか。背中に感じていた熱が、すっと離れていく感覚がする。それにつられる形で背後に顔を向けた時のことだ。
 瞬間的にブワリと嗅ぎ覚えのある濃い香りが広がったのに、勇利は目を白黒とさせた。
「―っ!」
 柑橘類系の爽やかな香りの中に、ほんのりと甘さがある。ヴィクトルが好んで付けている香水と似た香りだ。でも香水のような人工的なとげとげしい香りと少しだけ違って、もっと柔らかな印象がある。
 そこでヴィクトルと向かい合う格好になり、真正面から視線が絡み合って。そしてこの香りがヴィクトルのフェロモンなのかと気付くと、勇利は小さく喘ぐように口を開いていた。

 オメガ性はヒートになってしまうと、ところ構わずフェロモンをばらまいてアルファ性を誘惑してしまう。
 しかしアルファ性の場合はそれと異なり、基本的には自分でフェロモン量を調節することが可能で、無論ヒートも無い。さらにアルファ性のフェロモンは、オメガ性の蠱惑的な香りと異なり、圧倒的で支配者然とした魅力に溢れていて、オメガ性の者を魅了してやまない。これが二つの性のフェロモンの大きな違いだろう。
 ただしベータ性にはフェロモンの受容器が無いために、いずれも嗅ぎとることが出来ない。
 というのが、フェロモンに関するあらましである。
 というわけで、勝敗を決するあらゆる国際大会では、公正を期すためにアルファ性とオメガ性の者はフェロモンを抑制する薬を各々服用しなければならない。というのが、この世界のスタンダードだ。
 なんてどうでもいいことを何度も何度も頭の中で考えながら、勇利はヴィクトルのその香りに飲み込まれないように必死に自我を保っていた。
 何故このタイミングで、彼がこんなことを仕掛けてきたのか。何となく分かるような気がしたけれど、それに気付いてしまったら、何もかも彼に請われるがままに答えてしまいそうな気がする。
 だから関係の無いことをただただ考えて、この場をやり過ごそうと思ったのに。
「―ねえ勇利。もしかして、この香りが分かるの?」
「っ、ぁ」
 頬に右手を添えられると、目の前に美しい顔がグッと近付いてくる。
 それから逃げるために一歩二歩と後退るものの、すぐに背中に柵が当たって。それどころか両脇に手を付かれてしまい、まるで腕で出来た檻の中に閉じこめられているみたいだ。
 しかも向かい合う格好になっているために、ヴィクトルの香りがもろに身体の中に入ってきて、その甘い香りに頭の芯がだんだんとボーッとしてくる。
 もしかしなくても、これは数日前のリンクサイドでの一件の時よりも不味い状況な気がする。だってあの時と違って、今この場にはクリスという救世主はいないのだ。
 せめてもの救いは、朝に抑制剤を二錠飲んだことだろうか。でもその代わりに昨晩薬を飲むのを忘れているので、差し引きゼロといったところか。
 なんてことをぐるぐると取り留めもなく考えていると、まるでその考えを読んでいるかのように、目の前の男は口をゆっくりと開いた。
「本番となると、本気度が練習の時と違うせいかな。汗に混じって、勇利の香りがすごく良く分かる。これって、香水じゃない気がするんだけど」
 なるべく考えないようにしていたが、もしかしてとは頭の片隅で考えていた。でもいざこうして口に出されると、やはり驚いてしまって思わずヴィクトルのことを見つめてしまう。
 するといつもは笑顔でいることが多い彼が、意外にも真顔で。そのせいか普段とのギャップが大きく、少しだけ怖いのに、背中をツーッと冷や汗が垂れていくのが分かった。
 そしてその香りと雰囲気に圧倒されて何も反応出来ずにいると、頬に添えられていた指先がうなじまで滑っていって。するするとそこを撫でられた。
「勇利って、もしかしてオメガ?」
 一連のヴィクトルの指先の動きに、答えを促される。しかし本当は聞かずとも、彼はその答えを知っているように感じた。
 そして絶対に駄目だとあんなにも思っていたのに。呆気ないほど簡単に真実を白状しようと口を開き、息を吸い込んだ瞬間のことだ。
 そんな二人きりの静寂の空間を切り裂くかのように、ガチャリと金属音が辺りに鳴り響き、アイスショーのスタッフの男性がその場に顔をのぞかせた。
「ヴィクトル・ニキフォロフさん。そろそろ出番ですので、スタンバイをお願いいたします」
「……ああ、分かったよ」
 一瞬、彼の眉間に皺が寄ったように見えたのは気のせいだろうか。しかし彼はすぐに口元に笑みを浮かべながら振り返ると、すぐに行くよとスタッフに答えている。
 その隙に勇利はヴィクトルの腕の中から抜け出すと、足早にドアの方へ向かった。
 ヴィクトルには明らかに逃げているとバレバレだろう。でもここまできたら、もうなりふり構わずだ。危ない危ないと内心で呟きながら、その場を立ち去ろうとしているスタッフの後に続こうとする。
 しかし左手首を捕まえられてしまって。渋々と振り返ると、ヴィクトルは待ってと口にした。
「待って、勇利。話は終わっていないよ。それでさっきの答えは?」
「もう……だから違うよ。なんなら以前もらった診断書を見せるけど」
「……―そう」
 勇利は開いた扉を背に立っているので、室内の光が逆光となってヴィクトルからは表情がよく見えていないだろう。それが今ほど有り難いと思ったことはない。今のひどい表情を見られてしまったら、何もかもが水の泡なのは間違いない。
 でもそれに反して、勇利からはヴィクトルの表情がよく見える。そして彼は、苦虫を噛みつぶしたような何とも言えない微妙な表情をしていた。
「ヴィクトル、早く行かないと出番に遅れちゃうよ」
 掴まれている腕を引いて彼のことを引き寄せると、まるでよろけるかのように呆気ないほど簡単に勇利の方へやってくる。そしてその勢いのまま、ヴィクトルは勇利を軽く抱きしめた。
「勇利、俺の滑りをちゃんと見ていてね。たぶん、驚かせることが出来ると思うよ」
「え? あ、うん」
 それから彼は、少し離れていたところに立っていたスタッフに再び声をかけられて。軽く手を上げて別れを告げながら、少しばかり早足でリンクの方へ向かった。
 最後の包容が彼にとって果たして何を意味するのか、今の勇利には分からなかった。

 それから勇利は、ヴィクトルに言われた通り。彼のプログラムを見るためにリンクサイドの関係者エリアに向かう。
 そして彼が滑ったのが、「離れずにそばにいて」のプログラムだったのに、目を見開いた。
「なんでここで……それを滑るんだよ」
 ヴィクトルと別れる直前に告白なんて真似をしてしまったので、気弱な勇利が彼の出るアイスショーに直接足を運べるはずもないだろう。だから彼の滑りは、テレビ画面やパソコン画面越しにしか見ていない。
 だから数年越しに見た彼の生の滑りに、ただただ圧倒される。全てが息をするのも忘れるほど美しく、音楽の合間にかすかに聞こえる息遣いとエッジの音すら勇利を魅了してやまない。
 彼の滑りは、三十二歳を迎えた今も全く色褪せていなかった。むしろ現役時代の時よりも表現力に磨きがかかっており、その滑りにはっきりとした熱量を感じるのは、きっと気のせいではないだろう。ますます色気の増した艶っぽい表情から目が離せない。
 さらには駄目押しとばかりに、演技の途中でリンクサイドに突っ立っていた勇利の近くまで寄ってきて、手を差し伸べてくるのである。
「ヴィクトル……」
 そんなことをされたら、まるで自分のために滑っているみたいだと勘違いしてしまいそうになってしまう。
 だから思わず右手を伸ばしかけ―でもヴィクトルはオメガ性のことが嫌いで。そしてこのプログラムを滑る直前、勇利にオメガなのかと聞いてきたのを思い出す。
 したがって胸元まで上げかけていた手を再び元の腰の位置まで戻すと、彼は残念そうに少しだけ目を細めながらその場から離れていく。
 そしてプログラムを終えるころには、勇利の双眸からは大粒の涙が溢れていた。
「ずるいよ……こんな風に滑るなんて」
 思わず零れ落ちた独り言は、観客の大歓声にかき消される。
 ヴィクトルは、滑る直前に勇利に見ていてくれと言った。しかし非常階段の一件から察するに、ヴィクトルは勇利がオメガ性であると薄々感付きだしているのは間違いない。それなのに、そんなことを言うなんて。
 そして離れずにそばにいてを滑ったということは、つまりはそういうことなのだろうかと、思わず自分に都合の良い方向に考えそうになってしまいそうになる。
 しかしそこでふと、こうやって彼の生の滑りを見るのが数年ぶりということを再び思い出して。ということは、ヴィクトルも懐かしい気分に浸ってこのプログラムを滑ったのだろうかと何となく思い付いた。
「ああ……懐かしいって感情か。これかもな」
 このプログラムが無ければ、勇利とヴィクトルが師弟関係になることは無かったかもしれない。そのくらいにこのプロは馴染み深いものだ。だからこれが、一番現実的でしっくりと来る気がした。
 とはいえ懐かしんでいるというわりには、その瞳に熱がこもっていたような気がしなくもなかったが。それはきっと己の恋心がなせる技だろうと思いこんだ。

「ねえ、勇利! どうだった? 俺の気持ち、伝わった?」
「……うん。ヴィクトルにコーチについてもらってた時のこと、思い出したよ」
「ええ? それもあるけど、もうちょっとこう……もう、勇利は鈍感だなあ」
 いや、それとも俺の表現力がまだまだなのかと、両手で頭を抱えている。
 その姿は氷上の彼の姿からはまるで想像が出来ない。そして先ほど階段の踊り場で勇利を追いつめたのも、まるで嘘みたいだ。
 おかげでなんだか毒気を抜かれてしまって。思わず苦笑を漏らしながら、懐かしすぎて思わず泣いちゃったよと口にすると、ヴィクトルは少しばかり驚いた様子で勢いよく顔を上げ、勇利の頭を何故か撫でた。
「あのねえ……三十近い男にそういうのはいらないから」
「全然、そんな風に見えないから大丈夫だよ。勇利は今でもティーンに見える。肌もすべすべだし、とってもキュートだ」
「いや、それほめてないから」
 相変わらずどこまで本気なのか分からないことを言いながら頬を擦り寄せてきたので、やや邪険に彼の顔を押しのける。そしてこれ以上の彼の攻撃を避けるために、ところでと場面転換の言葉を口にした。
「初日にサプライズでこのプログラムを滑るなんで意外だったよ。ヴィクトルのことだから、最終日とかに持ってきそうなものなのに」
「ああ……勇利がクリスの匂いをさせてたことがあるだろう? その日にパッとこれを滑ろうって閃いて。それからすぐにスタッフにかけあって、今日ならオッケーて言われたんだ。最終日はテレビカメラが入るから、今から変更っていうのは難しいらしくてね」
「そうだったんだ」
 そこでそういえば、数日前にクリスに匂い付けとやらをされて、ヴィクトルがえらく不服そうな表情をしていたのを思い出す。
 そのわりには部屋から追い出すとすぐに立ち去っていたので、その程度のことなのだろうと思っていたのだが。まさかそんなオチだったとはという感じだ。
 いや、まあ本当のところは謎だが。
「それより、明日が最終公演だろう? 打ち上げの後、よければ一緒に飲まない?」
「それは構わないけど、ヴィクトル飲み過ぎて裸になるとかは絶対止めてよ」
「やだなあ、それは勇利の方じゃないか」
「それでヴィクトルも一緒に脱いじゃうじゃないか。僕は今回そんなに飲むつもりないからね」
「ええーせっかく久しぶりなのに」
 それに対するヴィクトルの答えは、とても不服そうなものだったのは言うまでもないだろう。

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