アイル

好きになった人は、オメガ嫌いなアルファだった-7

 アイスショー最終日の夜公演を終え、さらに全体での打ち上げの席を終えた夜の十時頃。勇利はヴィクトルの部屋のドアの前に立ちすくんでいた。
 とはいえよくよく考えてみると、前日に実はオメガ性なんじゃないかと直球で聞かれた挙げ句、アルファ性のフェロモンをぶちまけられたのだ。
 部屋で飲まないか誘われた時は、ヴィクトルのプログラムを見た直後で興奮していたというのもあり、その勢いでOKしてしまったのだが。公演を終えて自室に戻ったところで、あの約束は不味かったのではと思ったのは言うまでもない。
 しかし一度承知してしまった以上、今更行かないとも言い出せなかったのだ。
 そこまで考えたところで、勇利は諦めるように大きなため息を吐く。それから意を決して、ヴィクトルの部屋のドアを叩いていた。

「勇利、ようこそ! さあ、入って」
「えっと、お邪魔します」
 ドアをノックすると、すぐに内側から開かれる。そしていつもよりもややテンションの高いヴィクトルに部屋の中に迎え入れられ、窓際の応接セットのイスに腰掛けるように促された。
「せっかく日本に来たからね、日本の酒をルームサービスで頼んでおいたんだ」
 懐かしいだろと指し示されたテーブルの上には、勇利の実家にいた時にヴィクトルがよく飲んでいた芋焼酎の酒瓶が、とんでもない存在感を発しながら置かれていた。
 しかも一番大きなサイズの酒瓶であるところが、さすがヴィクトルというべきか。
 勇利もそれほど酒に弱いわけでは無いのだが、さすがに彼ほど飲めるわけではない。したがって彼のペースに巻き込まれて、酔い潰れないようにしないとと考えながら酒瓶を取り上げる。そしてヴィクトルの前におかれていた空のグラスに、その中身を注いだ。

「公演が始まるとあっという間だったなあ。明日でもう皆とお別れなんて……寂しいよ」
「そうだね」
 なんて調子で二人は、しばらくとりとめの無い話をする。そして最初の間は注意して酒量をセーブしていた勇利だったのだが、ある意味お約束の展開というべきか。
 久しぶりの酒というのも相まって、あっという間に出来上がり、イスの上にしどけなくもたれかかる格好になっていた。
「ヴィクトルはさあ、なんでいきなり昨日になって僕がオメガ性なんて言い出したのさ」
 もしも素面だったら、例え天地がひっくり返ったとしてもこんなことを口走るような真似は絶対にしなかっただろう。
 しかしこの発言が意外にも功を奏したのか。ヴィクトルは何度かパチパチと瞬きをした後に、小さく苦笑を漏らす。そしてやっぱり勇利はベータ性なのかなあと口にした。
「ん、どういうこと? なんでいきなりそういう話になるの?」
「だって、もしも本当に勇利がオメガ性だったら、わざわざそういうことを改めて聞いて来ないだろうし。勇利ってそういう嘘とか付けないじゃないか」
「嘘くらいつけるよ」
 何だかよくわからないが、ちょっと馬鹿にされていることくらいは分かる。
 だからテーブルの上に身を乗り出しながら文句を口にすると、はいはいというように頭を撫でられる。それが子ども扱いされているようで気にくわなくて、キッと睨みつけた。
 ただし所詮は酔っぱらいのそれなので、全く迫力が無かったのは言うまでもなく。むしろ常よりも舌っ足らずで、頬を赤く上気させながら虚勢を張っている姿は、妙な色香を醸し出している。
 そしてそれを真正面からうっかりと直視してしまったヴィクトルは、まさかそんな形で煽られるとは夢にも思っていなかったので、彼にしては珍しく面白いくらいたじろいでいた。
 しかしすぐにはっとして正気に戻ると、それを誤魔化すように横を向いて。軽く咳払いをし、何で俺が勇利にオメガ性かって聞いたのかが気になるんだっけと呟くように口にした。
「あの時は、勇利はちょうど演技の直後だっただろう? そのせいか普段と比較にならないくらいすごくいい香りがして、惹かれるものを感じたというか。それで……そうなのかなって、なんとなく思ったんだ」
「へえ、そうだったんだ」
 確かに、練習の時と本番はまるで違う。運動量も高揚感も比較にならない。
 とはいえオメガ性になってから、あんなに大勢の人の前で滑るのは初めてのことだったので、そんな風になるなんて知る由も無い。だから今度からは気をつけなければと心のメモ帳に書き留める。
 まあ気を付けるといっても、アルコールでしたたかに酔っぱらっている頭では、その対処法なんてまるで思いつかないのだが。でも抑制剤を飲む時間を、公演前にずらすとかそういう風にすればいいのかもしれない。
 なんてことをぼんやりと考えながらちびちびとグラスを傾けていると、ヴィクトルが焼酎の瓶を取り上げて自分のグラスに注ぐ。しかしその中身が空だったのか、残念そうな声をあげた。
「ああ……もう無くなっちゃったのか。追加でお願いしようか」
「いやあ、もう止めようよ。僕、そろそろ止めておかないと、明日の朝に響きそう」
 チェックアウトの日に二日酔いで寝坊、なんて情けない真似はしたくないので、ふるふると首を振る。
 そしてのろのろとヴィクトルの方へ顔を向け、そろそろ部屋に戻ろうかなと呟いた。
「もう十二時も過ぎてるのかあ。なんだかんだいって、随分長いこと居座っちゃった」
「勇利ならこの部屋に泊まったって構わないよ」
「あはは。ヴィクトルって、すぐそういうことを言うんだから」
 もしも素面の状態だったら、瞬時に顔を赤くしながら挙動不審になってしまう、なんて具合に実に分かりやすい反応を返してしまっていただろう。でも幸いにして勇利はしたたかに酔っていたので、どこか夢見心地な気分でそれを受け流していた。
 ヴィクトルとは、明日に別れる。
 そして今年開催されるアイスショーには、勇利はもう参加しない。だから次に彼と会うことが出来るのは、運が良ければ一年後だろう。
「一年か……」
「何が一年なの?」
「次にヴィクトルと会うのがだよ。僕、もう年内はアイスショーに出る予定とか無いし」
「俺と会えないの、寂しいの?」
「うん、そうだね。そう思うよ」
 アイスショーが始まる前までは、もう絶対にヴィクトルと直接会うことなんて出来ないと思っていたのに。実際にこうして会ってみると、そんな気持ちはどこへやら。彼と接してこうして話すたびに、氷のように固まっていた気持ちが溶かされていくのだ。
 それはもちろん、ヴィクトルにオメガ性だとバレそうになったり……というかクリスに実際にバレてしまったり、ヒートになりかけたりと、何だかんだと危なっかしい展開が多々あったので、軽率にそう考えるのもどうだろうと思わなくもないが。
 それでも一年に一度くらいなら、自分へのご褒美にいいかなあと思ってしまうのは、ヴィクトルの離れずにそばにいてのプログラムを見たせいだろうか。そして明日には、彼と別れるのだという事実に、寂寥感を刺激されているせいか。
「ねえ勇利。勇利が望むなら、俺はいつでも長谷津に行くよ」
「やだなあ、ヴィクトル。この間も言ったけど、そういうのは今付き合っている彼女にでも言ってあげなよ。確か遠距離で付き合っている人がいるって、日本の芸能ニュースで見た気がするけど」
「だから、その人とはもう大分前に別れたよ」
 この間は勇利がいきなり部屋の外に追い出すから否定しそびれちゃったけどと、ややジト目になりながら訂正される。その言葉に驚いて顔を上げると、ごめんとすぐに詫びた。
「全然、知らなくて」
「いいよ、気にしないで。それにね、俺は今、新たな恋をしているんだ」
「はあ、そうなの」
 勇利が今までろくな恋愛をしたことが無いというのは知っているだろうに。
 というわけで、相槌がやや投げやりな感じになってしまったのは許して欲しい。
 まったく、ひどい人だ。いつもこんな調子で突拍子も無くとんでもないことを振ってきては、勇利の心をかき乱す。
 これが何ともない時なら、またかと右から左に流すことも出来るのだが。昨日の一件もあって、ただでさえ微妙な均衡の上に平常を保っている状態だった心が、グラリと大きく揺らぐのが分かる。おかげで先ほどまであれほどまで酔ってぼんやりとしていた頭の中が、少しずつクリアになっていくのを感じた。
 勇利だってもう二十八歳だ。昔と違い、勢いに任せて己の感情をぶちまけるなんて若気の至りのような行動はもうしない。
 だから今日も、何事も無かったかのようにヴィクトルとこうして向かい合って酒を飲んでいる。
 でも決して、何も感じていない訳がないのだ。
 そんな心情を無意識に吐露するかのように、空のグラスを手持ち無沙汰に手のひらの上で転がす。そしてかなり無理矢理に感じたが、話を切り上げるためにわざと音を立てながら手に持っていたグラスをテーブルの上に置いた。
「もう遅いし、そろそろ帰るよ」
「待って、勇利。重要な話なんだよ。この話をするために、わざわざ部屋に呼んだんだから」
 勇利はさっさと退散しようと、イスから立ち上がったのに。それを追いかける格好で、ヴィクトルも立ち上がって歩み寄ってくる。そして手を伸ばすと、勇利の顎に指先を添えて。勇利は俺の運命の相手なのかなと口にした。
「―なにをまた、いきなり言い出すのさ」
 一瞬、息が止まった。
 運命の相手。それはアルファ性とオメガ性にとって、まさしく文字通り。一生を添い遂げる、運命のつがいのことを指す。
 互いに運命の相手を見た瞬間、すぐにそうだと分かるらしい。
 そしてその相手を見つけてしまったが最後。その時につがっていた別の相手がいたとしても、運命の相手を求めてやまなくなってしまうのだそうだ。
 最初この話を聞いた時、なんともまあメルヘンチックな都市伝説があるものだと思ったものだ。だが意外にも学術的にきちんと研究されているのだそうで、本当にそうらしいから驚きだ。
 しかしすぐに彼お得意のリップサービスか冗談の類の言葉だろうと己に言い聞かせる。そしてやっとの思いで先の一言を発した訳だが、ヴィクトルはそれを聞いてもまるで懲りた様子はなく。むしろ興奮したような様子で、言葉を重ねるのである。
「いきなりじゃないよ。久しぶりに勇利と会ってから、ずっと考えていたんだ。勇利から目が離せない、離したくない。離れずにそばにいて」
「ああ……だから」
 昨日、ショーの時にあのプログラムを滑ったのかと納得した。
 あの時は勘違いをしたくなくて、あえてその考えから目を背けていた。でも今は、不思議と素直にそうなのかと受け入れることが出来る。
 目の奥が熱を帯びているように感じているのは、歓喜を覚えているからだろう。でもそれと同時に、その感情がひどく滑稽なものにも思えて立ち尽くしていると、両腕で強く抱きしめられた。
 今ほど、これが四年前だったら良いのにと思ったことは無い。
 それと同時に、たった一週間程度の再会で、一度はふった相手をこんな風にしてしまうオメガという性が、ひどく醜悪なものに感じられた。
 ヴィクトルがオメガ性を嫌う理由も、今ならよく分かる。
(いや……でも、ちょっと待て。やっぱり、変だ)
 昨日ヴィクトルが、階段の踊り場で勇利にオメガ性なのかとたずねてきた時のことを思い出すと、どうにも腑に落ちない。
 あの時は、途中にスタッフの介入があったおかげで、何とか否定することに成功はした。そしてその後にヴィクトルは例のプロを滑ったわけだが……もしも逆の立場だったら、勇利はあの否定の言葉を完全に信じることは出来なかっただろう。
 何故ならあの時、勇利自身でも顔が赤く染まっており、フェロモンの甘い匂いに流されかけているという自覚が十分すぎるほどにあったのだ。だから傍目にもそう感じなかったはずが無い。
 思えばつい先ほど、勇利がこの件を改めて聞いてきたからオメガ性では無いと確信を持った、というようなことも口にしていたが……あんなやりとりに、実際に目で見た事実を翻すだけの力があるはずもないだろう。
 酔っ払っている勇利にだって、そのくらいのことは分かる。
 ―にも関わらず、ヴィクトルはそれにすんなりと納得し、今こうして勇利のことを好きだと言っているのだ。
 考えれば考えるほど、何かがおかしい。
 だから少し考えた後、勇利は結局その理由をたずねるために口を開いた。
「運命の相手って、変なの。ヴィクトルは僕がベータ性だって言ったじゃないか。それなのにそんなことを言うのは、実は心のどこかで、僕がオメガ性なんじゃないかって疑ってる?」
「はは。運命っていう表現は、言葉の綾みたいなものだから。それについては深い意味は無いよ。ただ性別の件に関しては……すこし耳が痛いかな。
 もちろん昨日ベータ性だって教えてくれた時には、信じていた。いや、信じようとしていた。だからこそ、離れずにそばにいてを滑ったんだ。でもその後部屋に戻ってから冷静になって改めて考えてみて……全く疑わなかったかって言われると、嘘になる」
 ごめんねと謝られた。でもそもそも嘘をついているのは勇利なので、ヴィクトルは何も悪くない。
 それに勇利自身、ベータ性であるという嘘は苦しいものに感じていたので、それを聞いてもやっぱりなあという感情しか湧かない。
 でも彼の口振りから察するに、現時点では勇利がベータ性だという確信を持っているようなのである。それが不思議で不思議でたまらない。
 だから何故ベータ性だという確信を持ったのだと、ついには直球で問うてしまう。すると彼は何てこと無い様子でああと小さく声を漏らしながら勇利から身体を離す。それからズボンのポケットから錠剤の入っていたと思われる、小さな銀色のシートを取り出して見せた。
 そしてそれはすでに使用済みだったのに、勇利は身体の芯がスッと冷えるような感覚を覚えた。
「えっ……なに、それ」
「ベータ性だとあまり見たこと無いかもしれないけど、オメガ性のヒートの誘発剤だよ。飲んでから三十分くらいで効果が出てくるから、もしも勇利がベータ性じゃなかったらすぐに分かる。黙って使ってごめんね」
 そんなの、初めて見た。でも薬の名前を聞いただけで、すぐに何が起こるのか瞬時に理解すると、言い様のない恐怖のようなものが、腹の奥底からせり上がってくる感じがした。
 恐らく酒に混ぜて飲まされたのだろうが、いつのタイミングでその誘発剤とやらを混ぜられたのかさっぱり分からない。ただヒートの兆候が幸いにして全く無いのは、この部屋に来る前に抑制剤を多めに飲んだからだろう。
 そしてもしも抑制剤を飲んでいなかったらと思うと……恐ろしくてたまらなかった。
 だって勇利は、今まで本格的なヒートを経験したことが一度も無いのだ。
「何だって、そんなものを。もしも僕が本当にオメガ性だったらどうするつもりだったんだよ」
「どうって、そりゃあきちんと介抱するよ。それで俺のこの感情は動物的な衝動なのかって思うだけだ……―って、あれ? ねえ、勇利。もしかして俺、怒らせちゃったかな。やっぱりちゃんと事前に言うべきだったかな、ごめんっ」
 勇利は何も言ってはいない。しかしその表情と態度から、ようやく怒っているらしいと察したのか。ヴィクトルは途端に慌てた様子でわたわたとしだすと、新しいコップに水を注いできて渡してきたり、吐くのを手伝おうかとか訳の分からないことを言ってくる。
 しかしそれらを全て無視する。そしてしばらくそのままでいると、ヴィクトルもついにやることが思いつかなくなったのか。勇利の正面に、所在なげに立ち尽くしていた。
 その様子は、道ばたに捨てられている子犬のようで。普段の彼の堂々とした姿とはまるで正反対だ。
 勇利に言わせてみれば、自業自得だとも思うのだが。それでもその姿をずっと見ていることが出来なくて。気付いたときには、それなら四年前に僕が告白した時に頷いてくれても良かったじゃないかと、恨み節のような言葉を思わず口にしていた。
「言い訳みたいに聞こえるかもしれないけど、あの時と根本の気持ちは全く変わっていないよ。ただ四年前はずっと一緒に過ごしていたせいか、家族愛的な気持ちの方が大きかったんだ。
 でも恋人同士となると、キスとかセックスとか、そういう性的なことが絡んでくるだろう? 勇利とそういうことをするのは、あまり想像出来なかった……いや、この表現だとちょっと違うか。汚したくなかったっていうのが一番近いかな」
 でも今は、その衝動を我慢出来ないんだと口にしたヴィクトルのスカイブルーの瞳は、熱をはらんだもので。しかしそれと同時に、不安を感じているのかゆらゆらと揺れていた。
 それは普段のどこか作り物めいた、とらえどころのない笑みを浮かべた表情とはまるで違うもので。それだけに、それが彼の包み隠さぬ本心なのだということがよく分かった。
「もし勇利がオメガ性だったら、フェロモンに惹かれてるってことだ。でもそうじゃないのに惹かれるのは……だからこそ、運命なんじゃないかって思ったんだ」
「そう、だったんだ」
 しかし実際には、勇利はオメガ性だ。だからヴィクトルの今抱いている情動は、ヴィクトルが嫌いな、オメガのフェロモンに引っ張られて生じている一時的なものにすぎない。
 したがってヴィクトルが今感じている愛とやらも、彼の言った通り。所詮は動物的な衝動で、まやかしにすぎない。
 その証拠に、彼は勇利と別れた四年もの間、勇利に会いに来ることだって一度も無かったのだ。
 その全てが分かっている勇利にとって、ヴィクトルの口にする言葉は、ただの音でしかなかった。

 それからどのくらい顔を俯けたままの格好でいただろう。勇利と名前を呼ばれたのに、身体を小さく揺らす。そして彼が先ほどの答えを促しているのかとそこでようやく気付いた。
「あの……ごめん、ヴィクトル。きっとそれは、気のせいだと思うよ」
「気のせい? そんなはずはないよ。何でそんなことを……―いや、ごめん。そうか、分かったよ」
 ついうっかりと、心の隅で諦めきれないでいる気持ちをおさえきれず、気のせいだと口にしてしまって少しばかり焦る。しかし思ったほど突っ込まれず、それが勇利の答えなのかいと優しい声音でたずねられたのに、こくりと一つ頷いた。
 それにほっとする反面、苦々しいものも胸の内に広がっていく。でもヴィクトルのことが好きすぎるせいで、嫌われるのが怖くてたまらない。
 だから結局、最後まで自分はオメガ性なのだと口にすることは出来なかった。


■ ■ ■


「勇利。こんな時間にこんな場所で一人でボーッとして、どうしたんだい?」
 聞き覚えのある声にふと顔を上げると、目の前にクリスの顔があったのに勇利は目を瞬かせる。それからゆっくりと辺りを見渡すと、ホテルのロビーに設置してあるソファに腰掛けていたのに小さく声を上げた。
「あれ? いつの間に……こんなところに」
 あれからヴィクトルの部屋を出たところまでは、ぼんやりと覚えている。そのまま自室に向かったつもりだったのだが、そのまま無意識に人の多い場所に来てしまったのだろうか。
 自分で思っていたよりも随分とダメージが大きかったらしいなと思いつつ、とりあえず自室に戻ろうと腰を上げかける。しかし思いがけず、クリスが隣に座ってきて腰を捕まえられたので、ソファに逆戻りしてしまった。
「え、クリス。どうしたの? ていうかこんな時間に帰ってくるなんて、どこに行ってたのさ」
「日本滞在最後の夜だしね、ていうことでちょっと夜遊びしてきた帰りだよ。それより、どうしたのって台詞はこっちが言いたいくらいだけど?」
「ええと……いや、僕の方は何でもないよ。ちょっと眠れなくて、時間を潰すために下に降りてきただけ」
「はい、嘘」
「ぐっ」
 一秒も経たぬ間に速攻で見破られてしまい、不本意なことこの上ない。
 とはいえ全てを話すのも気が引けたので、押し黙っていたのだが。ヴィクトル絡み? という質問から始まり、最後には洗いざらい白状させられていた。

「えーと、つまりはヴィクトルに告白されたけど、オメガかどうか確かめるためにヒートの誘発剤を飲まされて、それからここに来たと」
 クリスは、ヴィクトルも容赦無いことするなあとぼやきながら片手で目元を覆ってため息を吐いた。
 しかしすぐに勇利の方を向くと、頭からつま先まで何度も往復しながら凝視している。その視線から、オメガ性なのに誘発剤を飲んで何故そんなに平然としていられるのかと言っているのがありありと分かった。
 したがって思わず苦笑を浮かべると、事前に薬を飲んでいたからじゃないかなとネタばらしをした。
「アイスショーの参加メンバーって、アルファ性っぽい人が多いから心配で。それにちょっと前にヴィクトルにちょっかいを出された時に危ない感じだったから、念のために多めに抑制剤を飲んでいたんだ。そのおかげで誘発剤が効かなかったみたいで」
「へえ。ってことは、ヒートにならなかったのは、ラッキーだったんだ。ところで勇利。これまでの口振りからすると、まるでヴィクトルのことをふったみたいに聞こえるんだけど」
「うっ……。えっと……そう、なっちゃうのかな」
 視線をそらしながら頷くと、驚いた様子でヒュウと口笛を吹かれてしまう。無論、クリスがその理由を聞かぬはずもないだろう。
 という訳で、結局ヴィクトルがオメガ性のことが嫌いだと話していた会話を盗み聞きしていた件を正直に話し、だから彼の申し出を断ったのだと口にした。
 そして全てのいきさつを把握したクリスが思案げな表情をしている横で、勇利は中空を眺めながら再び放心状態になっていた。
「今更だし、なんともコメントし辛いけど。二人とも不器用だよね。性別なんて考えないで、自分の好きだっていう感情にもっと素直になればいいのに」
「それはまあ、そうなんだけど」
 ただそれが出来れば、今さらこうはなっていないだろう。
 それでこれからヴィクトルとどうするつもりなのかとたずねられたが、勇利にもまだそれは分からない。
 ただほんの少し前までは、一年に一度くらいならアイスショーで顔を合わせるのも悪くないかなと思っていたのだけれど。今の心境的には、それとはまるで正反対。四年前に逆戻りしている。
 だから出来るだけ会わないようにすると思うとぼそぼそと答えると、やれやれといった様子で肩を竦められた。
「前も言ったけど、ヴィクトルはあれでいてちょっと恋愛下手なところがあるんだよね。勇利のことを好きだって言ったのは本心だと思うんだけど?」
「それは、何となく分かったよ。でも誘発剤を勝手に飲ませて、オメガ性かどうか確認するくらいだし。仮に付き合いはじめたとしたら、僕がオメガ性だって知られるのは時間の問題だろ? それでふられるのなんて、僕やだよ」
 その代わりに勇利の方が彼のことをふることになってしまったのは、申し訳ないとは思うが。
 それにクリスには話していないが、勇利はヴィクトルに一度ふられている身の上なのである。これで再びふられるなんてことになったら、そのショックから立ち直れる自信は全く無い。
 そしてついうっかりとその光景を想像してしまったせいで、じわりと両目に涙をためていると、慌てた様子でごめんごめんと背中を軽く叩きながら慰められた。
「いや、勇利を虐めるつもりは無いんだ。ただ俺もヴィクトルと同じアルファ性だから、考えていることが何となく分かるというか」
 曰く誘発剤を勝手に飲ませた件に関しては、恐らく本物の薬を飲ませたわけでは無いだろうということだった。
 というのもその効能上犯罪に使われる可能性が高いので、誘発剤を入手するためには、オメガ性であるという証明書の他、本当に必要かどうかという検査まで必須で。ともかく実際に手に入れるには、相当に面倒な手続きが大量にあるのだそうだ。
 そんなこともあり、本物に手が届かないならと、巷には誘発剤と名の付く精力剤の類の薬が大量に出回っているらしい。そしてヴィクトルもその中の一つを使ったのだろうということだった。
「まあね、本当は勝手に使うのは駄目なんだよ。精力剤の類だから、ちょっと興奮したりとか、そういう効能は少しくらいはあるわけだし。でもアルファ性もアルファ性で色々あるから、そこら辺の感覚が麻痺しがちになっている人間が多いんだよね」
「麻痺って、どういうこと?」
「いやあ……俺はヴィクトルじゃないから、正確なところは分からないけど。ただこの間の控え室での口ぶりから察するに、今まで色々あったんじゃないかな? ヴィクトルくらいの有名人になると、色んな人間が寄ってくるだろうし」
 かくいうクリスも、オメガ性の男性がベータ性だと偽ってセックスしようと持ち掛けてくる、なんてことがちょくちょくあるらしい。そして間違いを起こさないために、駄目だと分かってはいるが、なんちゃって誘発剤を相手に気付かれないように飲ませて確認する。なんてこともするのだそうだ。
 そもそも恋人にも縁が無い挙げ句に、ベータ性だった勇利にとっては、まるで別世界のお話である。
 したがってはあと気のない返事をすると、やれやれといった様子でクリスにため息を吐かれてしまった。
「まあ……うん。俺もうっかりしていて悪かったよ。勇利が危なっかしいっていうのには気付いていたわけだし、この間一緒に夕飯を食べた時に、そういう薬があるんだってことも、ちゃんと伝えておけば良かった」
 だからそういう薬がある以上は悪い使い方をする人間だっているし、これからは気をつけてと言われたのに素直に頷く。するとよく出来ましたというように、ポンポンと頭を軽く叩かれた。
「ともかく何を言いたいのかっていうと、君らのベタベタっぷりを見てると、そんなにすぐに結論を出そうとするんじゃなくて、もう少し二人で話し合ってもいいんじゃないかってことなんだけど。ヴィクトルが馬鹿正直に誘発剤を入れた件を白状しちゃうあたり、それだけ勇利のことが好きな証拠だろう?
 まあ、確かにオメガ性が苦手とは言っていたし、戸惑う気持ちも分かるけど。でもそう言っているわりには、彼って今までその嫌いなオメガ性の子とも散々付き合ってきているわけだし」
 そうかもしれない。でもヴィクトルは、結局今まで付き合ったどの人たちとも長続きしていないのも、勇利は知っている。
 だからあと一歩踏み出して、結果ふられるくらいなら、これまでの生温い関係でいられた方がいいと思ってしまうのだ。
 それになにより、ヴィクトルの気持ちに答えられないのだとすでに告げてしまっている。だから胸の内にあるのは、ただただ諦めの気持ちばかりである。
 ―それなのに。
「二人って、もしかして運命のつがいってやつだったりしないのかな」
「なにを、言って」
 クリスに話を聞いてもらったことで、ようやくほんの少しだけ落ち着いてきたのに。ヴィクトルだけでなくクリスまで、何でそんな風に心をかき乱すようなことを言うのと、思わず彼のことを凝視してしまう。
 しかしクリスはその視線から目をそらすことなく、ずっともしかしてと思っていたんだよと告げた。
「君たち二人って、昔から距離感が面白いからさ。ペアリングはめてみたりとか。でも勇利はベータ性だって言うし、何なんだろうなって。でも今回久しぶりに会ったら、勇利はオメガ性に分化したって言うから、もしかしたらそういうことなのかなって」
「……ちがう、よ」
 だってもしもヴィクトルの運命の相手だとしたら、彼は勇利の性別なんて気にはしないだろう。
 だから今回のように誘発剤のようなものを使って、勇利がオメガ性かどうか確認することは……きっとしない。
「まあ、片割れの勇利がそう言うなら、そうなのかな。運命の相手、お互いに見つかるといいね」
 そろそろ遅いし部屋に帰ろうと、遠くでクリスが言っているのが聞こえる。
 それにすらろくに反応出来ずにぼんやりとしていると、手首を引っ張られて。そのまま腕を引かれる格好で自室まで連れていかれた。

 真っ暗な部屋の中に入ると、閉塞感に息が詰まりそうだ。それと同時に、今さらのように急激に不安感がこみ上げてきて。気付いた時には、再び抑制剤を飲んでしまっていた。

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