アイル

好きになった人は、オメガ嫌いなアルファだった-9

「……よし、誰もいない」
 翌日早朝。勇利はこそこそとアパートの我が家に戻ると、門のブロック塀の影からドアの周辺を観察する。そして誰もいないのを確認すると、ほっと胸をなで下ろした。
 しかし心の片隅でどこか残念に思っている自分もいるのも確かで。全て自業自得なのに、なんて自分勝手なのだろうと自嘲の笑みを思わず浮かべた。
「さて……まあそれはともかく。とりあえず、早く家の中に入ろう」
 近所の住人にこんな怪しさ満載の姿を見られたら、通報されかねない。というわけで手に持っていた鞄の中から家の鍵を取り出すとそそくさとドアに近寄っていった。
 本当は今日が日曜日だったら、ホテルでもう少しのんびりと出来たのだが、生憎と今日は平日の月曜日だ。そして若干特殊な立場ではあるものの、今やしがないサラリーマンの一人である勇利は、当然今日も仕事がある。
 まあ明日から連休が数日ほど続くのだが、それはともかくだ。とりあえず勤め先であるアイスキャッスルはせつに出勤するため、一度家に戻らなければならなかった。
 それから玄関の扉を開け、一歩家の中に足を踏み入れた瞬間のことだ。
「―勇利、久しぶり。まさか朝帰りするとは思わなかったよ」
「ぎゃぁっ!?」
 聞き覚えのある声に慌てて振り返ると、背後に立っていたのは、まさかのまさか。笑みを浮かべながらもやや疲れた表情を浮かべているヴィクトルだった。

 正直、ヴィクトルは今会いたくない人物ナンバーワンである。しかし目の前にいる相手を追い返すほど、勇利も鬼ではない。したがって少しばかり余所余所しい態度ながらも、部屋の中に彼を招き入れた。
 そしてとりあえず飲み物を出さなければと、玄関近くにある小さなキッチンで湯を湧かしながら、チラリとヴィクトルの方を伺う。すると彼はベッドの脇に置いてある小さなテーブルの前に腰掛け、物珍しげな様子で部屋の中を見渡していた。
 その光景は初めて見るもので、不思議な気分だ。そこで、そういえばこの家の中に家族以外の人を入れるのは初めてなのかと思い出した。
 なんというか……妙に気恥ずかしい気分に包まれるのは何故だろう。
 それを誤魔化すように、わざと少しばかり大きな音を立てながら食器棚からカップ類を取り出す。するとヴィクトルは、まるでそんな勇利の思考を読んだかのように、いつの間にか一人暮らしをしていたんだねと声をかけてきた。
「あー……うん。もう三十も近いし、いつまでも親の世話になっているのも、ね」
「そうなんだ。この部屋には、俺の知らない四年間の勇利を感じる。ベッドもテーブルも、昔と全部変わっているせいかな」
「実家にあったのは、小さい頃から使ってたやつだからね。運び込むにしても輸送費が高くて、結局ほとんど新品を買い揃えちゃったんだ」
 というのももちろん本当だが、実はもう半分は嘘だったりする。
 そしてそのもう半分の理由は、それらの家具にはヴィクトルとの思い出がたくさん詰まっているからだった。だからこの部屋に持ち込むことが出来なかった。
「月日の流れを感じるせいか、少しだけ寂しく感じる。でも……今でも俺のポスターを貼ってくれているのは嬉しい」
「―ッ!?」
 そういえば、そうだった。
 まさかの本物のヴィクトルの登場ですっかりと失念していたのを思い出し、空のカップを両手に持ったまま慌てて部屋の方へ向かう。
 しかし本人にすでに見られているのに、今さら隠しても全く意味がないということにそこで気付くと、ポスターのヴィクトルと本物のヴィクトルの顔を何度も見比べた。
「あ、えっと……これは」
 実家の壁に貼ってあったのとは全くの別物だ。現在勤めているアイスキャッスルはせつでスケート雑誌を定期購入しているのだが、西郡が付録は捨てているというので、それが忍びなくて貰ってきたものとか。あとはエンタメ系の雑誌にヴィクトルが出ているのを偶然見かけてうっかり購入してしまい、それに付いてきたポスターとかだ。
 それらをいつまでもクローゼットに仕舞い込んでいるのも勿体無いので、昔からの癖でつい飾ってしまったというか……ヴィクトルのことを思い出すのが辛いとか言っていた口でそれを言うかというのは、勇利自身も思う。ただ月日が経過するうちに、気付いたらこうなっていたというか。
 ともかく言いたいことは山ほどあるが、どれもただの言い訳にすぎない。したがって意味の無い単語をぶつぶつと呟きながら立ち尽くしていると、何も言わずに聖母のような笑みをぶつけられる。
 今の勇利が言えることは、ただただ地中深くに埋まりたいということだけだ。そして結局、そのまま何も言わずにキッチンに戻ると、コーヒーを入れるのに集中した。

「ええと……とりあえず、コーヒーどうぞ。インスタントだけど」
「ありがとう」
「ところで、ヴィクトルがこっちに来たのって昨日だよね」
 それなのに何故、翌日のこんな早朝に彼が現れたのか。しかも勇利が扉を開けたジャストタイミングで声をかけてきたのだ。
 もしかして同じホテルに泊まっていて、後を付けられたのか。あるいは実家の方に泊まっており、本当に偶然この場に居合わせたのか。
 色々な考えが頭の中で浮かんでは消える。するとヴィクトルは、なんてことない様子でずっと待っていたんだよと口にした。
「へっ!? まっ、待つって……まさかここで?」
「うん、そうだよ。正確には、この建物の脇にある公園だけど。ちょうど勇利の家のドアが見える場所にベンチがあってね」
 ただずっとそこにいたから、ポリスに通報されないかちょっと心配だったなあとへらへらと笑っているが、笑い事ではない。
 五月とはいえ、昨日今日は季節外れの寒さだったのだ。それに変な人だっているかもしれないし、何より徹夜だ。だから彼にしては珍しく疲れた表情をしていたのかと、そこでようやく合点がいく。
 そしてそれと同時に、何でそんなことをと、怒りと心配とがない交ぜになった感情が湧き上がってくるのを感じた。
「なんで、そんなことまでして」
「そうしないと、逃げちゃいそうだったから。ねえ勇利、ショーの最後の日に変な物を飲ませてしまってごめんね。あまりにも自分勝手だったって、後で気付いたんだ。だから早くちゃんと謝りたかったんだけど、来るのがこんなに遅くなってしまって、それもごめん」
 身体の方は大丈夫だった? と心配そうな表情をしながら顔を覗きこまれると、急な接近に顔が赤くなるのが分かる。
 それだけで、今でも自分は彼のことが好きなのだと痛いほどに感じた。そしてヴィクトルもまた、そうなのではないだろうかと考えてしまうのは、恐らく自意識過剰では無いだろう。
 彼の瞳はあの日と同じように熱をはらんでおり、しかしその中には、明らかに不安そうな光が揺らめいている。
 そしてそんな宝石みたいな瞳が、今は自分だけを映しているのだと思うと、心があっという間に喜びで一杯になって震えるのだ。
 それだけで、なんだか全てがどうでも良くなってくるから不思議なものである。そして気付いた時には、別に怒ってないよと答えていた。
「でももう、ああいうことはしないで。他の人にも」
「うん、分かった。約束するよ。ああ……本当に良かった。あれからずっと勇利に連絡をしていたんだけど、全く反応してくれないから、毎日不安で不安でたまらなくて」
「あー……」
 それについては、意図的に無視を貫いていたので何も言えない。
 それでもヴィクトルはまるでめげた様子は無く、一日数回は必ず着信があったのだ。だから忘れっぽい彼にしてはマメだなと思うのと同時に、それだけ気にかけられているみたいでちょっぴり嬉しかったというのはここだけの話しである。
 ここにきて、彼への想いがますます重傷な方向に膨らんでいっているような気がする。それを隠すために、勇利は視線をヴィクトルから向かいの窓の方へスーッと流した。
「それにしても、なんだって急に日本に? 仕事でもあったの?」
「まさか、仕事のついでなんかで勇利に会いに来るわけないじゃないか。ちゃんとマネージャーから休暇をもらって来たよ」
「えっ、そうだったの?」
 わざわざ休暇を取って来てくれたというのは素直に嬉しいと思う。ただし今勇利の目の前に座っているのは、あのヴィクトルだ。
 現役を引退した今でも、アイスショーを中心に活動しているだけでなく、有名ファッションブランドや化粧品ブランドのモデルもしている。相変わらずの人気っぷりに、勇利自身と比べるとかなり多忙な毎日を送っているのは想像に難くない。
 しかしそんな彼が、そんなに何日も休暇を取れるものなのだろうかと、そんな疑問がふと脳裏をかすめる。
 そしてそれと同時に、数年前も勇利のコーチをするといって日本にやって来た時も突然で、連日のように世界中のメディアに取り上げられていたことを思い出した。
 つまりは、前科持ちの男ということだ。
「ヴィクトル……まさか」
 何となく嫌な予感がするのに、そらしていた目線を彼の方へ向けると、ニコリと微笑まれる。
 大丈夫だよといつもの軽い調子で口にしているが、スケート以外でのヴィクトルの大丈夫という言葉ほど信用にならない言葉は無い。
 したがってネットのニュースサイトでも覗いてみるかと、昨晩姉の真利と話してからずっと電源を切りっぱなしにしていた携帯電話の電源を入れる。すると起動した途端にヴィクトルから大量の着信履歴が表示されたのに、思わずげっそりとした表情を浮かべてしまった。
「またヴィクトル……こんなに一杯かけてきて。これじゃあヴィクトル以外の人が電話をかけてきたとしても、見落としちゃうよ」
 しかし当の本人は、この件に関しては反省の色はまるで無い。
 あっけらかんとした表情で、そうかな? なんて口にしながら、勇利の横に四つん這いの格好でのそのそと近付いてくる。そしていつもの調子で上体にもたれかかってきて、スマートフォンの画面を覗きこんできたのだが。
 しかしその瞬間にパッと身体を離すと、勇利の肩口辺りをまじまじと見つめていた。
「どうかした?」
「……勇利、他の人間の臭いがする。今まで誰かと会ってたの?」
「え? 昨日の夜に一人で駅前のビジネスホテルで泊まって、そのまま歩いて家まで帰って来たから道でちょっとすれ違ったくらいかな」
「じゃあ昨日は?」
「昨日は確かに、福岡で人と会ってたけど」
 ヴィクトルは何が気にくわないのか、しきりに肩口あたりに鼻を寄せてくんくんと臭いを嗅いでいて。その姿は、いつぞやにクリスの匂いがすると言っていた時の姿を彷彿とさせる。
 それに懐かしい気分に浸りつつ、しかしやっぱりこんなにも匂いを嗅がれるのは嫌なので、勘弁してよと彼の身体を退かそうとしたのだが。ヴィクトルが人の話しを聞いている気配はまるで無い。
「それより勇利、その昨日会った人って誰?」
「ええ? 誰って、普通に仕事関係の人だけど」
「ふーん……仕事ねえ」
 もちろん、仕事なんて嘘だ。しかもヴィクトルはヴィクトルで、そんなのお見通しだと言わんばかりの気のない返事である。
 この調子だと、実はアルファ性の人と見合いをしていたということまでバレてしまいそうで気が気ではない。
 こんなことならシャワーではなくてきちんと湯船に入るべきだったかなと思いつつ、腕の辺りを鼻に寄せて臭いを嗅いでみる。しかしいくら嗅いでみても、それらしい香りがしないのに首を傾げた。
「うーん? 確かに昨日、ヴィクトルの言うそれっぽい香りはちょっとしたような気がするけど。でもあれからちゃんとシャワー浴びたし、僕にはもうさっぱり分からないけどなあ……ていうか、もしかして僕の体臭が臭いとか!?」
「いや、それとは全く別だよ。それより勇利、その昨日会った人から感じた香りってどんな風に感じた?」
「そうだなあ……」
 と、言われてもだ。今実際に嗅いでいる訳では無いので、はっきりとは思い出せないが。ただ記憶の中に、不快なものだったという記憶はある。
 ほとんど見ず知らずの相手をこうして評するのは申し訳ないとは思ったのだが、ただちょっと苦手に感じたかなあと正直に口にすると、ヴィクトルが目に見えて破顔したのに勇利はビクリと身体を揺らした。
「えっと……ヴィクトル?」
「ねえ、勇利。何故アルファ性のフェロモンの香りが分かるの?」
「……」
 そこでようやく、ヴィクトルの言っている臭いとやらがフェロモンのことを指しているのかと気付いた時にはもう遅い。
 アイスショーの時には、ヴィクトルにいつも首筋をふんふんと嗅がれていたので、うっかりとフェロモン絡みの香りネタに反応しないようにと気をつけてきたのだが。今回匂いを嗅がれたのは、変化球の肩だったのと、それと自宅というのもあって完全に気が抜けており、すっかりとその件を忘れていたのだ。
 そこでそのことにようやく気付くと、遅ればせながらもピタリと全身を固まらせ、それからまるで機械のようにギクシャクとした動きでヴィクトルの方を向く。すると彼は、よく雑誌やポスターなどで見かける作り物めいた笑顔を浮かべていて。その表情からは彼の本気度がひしひしと伝わってくる。
 そして全てがもう手遅れというのは、明らかであった。
「おかしいな。勇利は前に、ベータ性って言っていたと思うんだけど。それなのにフェロモンの香りが分かるんだね」
「い、いや。昨日感じたのは、香水の香りだったんじゃないかな?」
 そもそも今はその香りがさっぱり分からない訳だし、なんて言い訳をもごもごと口にする。それに僕がオメガ性だって言いたいなら、前に誘発剤を飲まされた時にヒートになっているはずじゃないかと駄目押しするのも、もちろん忘れない。
 そしてその件については、ヴィクトルも思うところがあるのか。思案気な表情を浮かべると、顎に指先を添えながらふむと考えるような声を上げた。
「まあ、そうなんだよね。そのはずなんだけど。でも、何故かな。俺は勇利がオメガ性なんじゃないかって気が、今はしてならないんだ。それにちゃんとした根拠がある訳では無いんだけど。でも強いて言うなら……アルファ性の本能がそう訴えているっていうのが、一番近いかな」
 そこで彼は勇利の肩を軽く押して向き合う格好になると、いつものように首筋に顔を寄せてきて。大型犬が懐くように頬を擦り寄せながらいい匂いと呟いている。
 そしてその姿から、ああこれはもう何を言っても駄目だなと。彼の本能が、勇利がオメガ性であるという確信を持っているのだなと感じた。
 ―せっかく、元の関係に戻れそうだったのに。それなのに、そんなことを言うなんて。
 でもそもそもこんな面倒臭いことになっているのは、勇利がオメガ性に分化したことを正直に話していないのがいけないのだ。そのせいでヴィクトルのアルファ性が反応して、騒動を引き起こす。
 そうだと分かっているのに。それでもどうしてもヴィクトルに嫌われたくなくて、本当のことを言えない。だから元を正せば、全てはそんな勇利の我が儘がいけないのだ。そしてこんな風に子どものように自分勝手なことを考えている自分が大嫌いだった。
 しかしついに、もう限界だなと直感的に悟る。
 それから気付いた時には目の前の大きな背中に腕を回し、勇利からもヴィクトルの首筋に懐くように抱きついていた。
「ヴィクトルからは、いい匂いがするんだ。すごく、いい匂い。今まで嗅いだことがある中で一番」
 勇利の方からこんなことをするのは、もちろん初めてのことだ。そのせいか、彼の身体に両手を回した瞬間に驚いたように固まったのに、思わず口元に笑みを浮かべる。そしてそれから、それまで彼が普段付けている香水に隠れていたフェロモンの香りが、明らかに強まるのを感じた。
 ああ……これだ。
 以前も階段の踊り場で嗅いだ覚えがある、ヴィクトルの香りだ。
 でもあの時の、半ば暴力的なまでの濃い香りとは少し違う。自然と溢れてくる香りに顔が緩むのが分かる。しかしそれと同時に、切なさもこみ上げるのを感じた。
 そしてそれをきっかけに、どうせこれが最後だしといつもよりも大胆な気持ちになって。思いきってさらに大きく息を吸いこんでみると、鼻腔一杯に広がる甘い香りに頭の芯がクラクラする感覚を覚えた。
 勇利は未分化の状態で過ごしてきた期間が長いせいか、フェロモンの匂いを感じる受容器が未発達らしい。加えて今まではなるべく意識しないように努めてきたので、こうして彼の香りを感じたことは数えるほどしか無い。
 だからいつかちゃんと嗅いでみたいとずっとずっと考えていたのだが、最後にこうして彼の香りを感じることが出来て良かったと、そう思った。
「やっぱり……勇利はオメガ性だったんだ」
「うん。今は、ね。実は今までずっと第二の性が無い状態で、でも去年の冬頃にオメガ性に分化したんだ。ただ皆にはベータ性って話していたし、こんな年まで分化してなかったんだって知られるのも恥ずかしくて。だからずっと話せなくてごめん」
「ああ、だからか。そう、前に勇利のコーチをしていた時は、オメガ性の気配なんて一切感じなかったから。何だか変だなってずっと思っていたんだけど。でもそういうことだったんだ。……でも、誘発剤に反応しなかったのって―」
「あの時は周りがアルファ性ばっかりだったから、念のために毎日抑制剤を飲んでいて。そのおかげで抑えられたんだと思う」
「そっか……やっぱり、そうだったんだ」
 ヴィクトルは顔を上げると、勇利の顔を覗きこんでくる。そしてよほど彼の方が辛そうな表情で、ごめんねと口にした。
 全ての真実を知った一連のヴィクトルの反応は、考えていたよりもずっとずっと穏やかなものだったのに、少しだけ安心する。しかしオメガ性と知られてしまった以上、これ以上の関係の発展は望めないのだ。
 当然全てを理解した上で話したので、後悔も何も無い。それに何より、これでもう好きな人に嘘を付かなくて良いのだという安堵感もある。
 でもやっぱり今度こそ完全に失恋した悲しさがこみ上げてくると、目元がじんわりと熱くなって。これは危ないと必死に我慢しようとしたものの、瞬きをした瞬間にポロリと涙が溢れてしまった。
「勇利? どうしたの、何がそんなに悲しいの?」
 ヴィクトルは勇利が泣いているのにすぐに気付くと、少しばかり慌てた様子で指先で涙を拭ってくれる。
 でも今はそんな彼の優しさが、少しだけ辛い。だから顔を俯けて彼の手から逃げると、自分の手の甲でやや乱暴に目元を拭った。
「ごめん、いきなり困るよね。こんなつもりじゃ無かったんだけど」
 男の癖に情けないったらない。
 だから早く涙を止めないとと思うのに。そう意識すればするほど、次から次へと溢れてきて止まらない。そしてそうして涙が溢れるのと比例するように、ヴィクトルのことが好きなんだという気持ちが胸の内で際限なく膨れていくのが分かる。
 それはしばらくすると、ついには喉元まで大きく膨れ上がって。気付いた時には目の前の胸元をぎゅっと握りしめながら、嫌いにならないでと喘ぐように口にしていた。
「勇利は、面白いことを言うね。そんなことくらいで、俺の気持ちが変わるって思っているのかな」
「だ、だって……ヴィクトル、オメガ性は苦手だってクリスに話してたのを聞いたし」
 それに誘発剤を飲まされた時に、もしも勇利がオメガ性だとしたら、好きという感情は動物的な衝動だとはっきり言いきっていたじゃないかと思う。
 そのことを思い出すだけで新たに涙がじわりと滲んでくるのを感じていると、彼は困ったような表情を浮かべながらそっと勇利の身体を抱き寄せた。
「まいったな……勇利の泣き顔には弱いんだ。何でも、正直に話すよ」
 それから少しだけ逡巡するように言葉を切り、しかしはっきりと、確かにオメガ性のフェロモンは苦手だって思っていたねと告げた。
「俺がアルファ性って、小さい頃から周りに知られていたせいかな。オメガ性のヒートを利用して関係を持とうと近付いて来る人が昔から多くて。一時期はよく分からないで、フェロモンに流されるがまま、そういう人たちと付き合ったりもしていたんだけど。正気に戻ると、不思議なことに面白いほど特別な感情とか微塵も感じないんだ」
 その感覚がどうにも苦手でねと口にすると、彼は自嘲するように小さく笑いを漏らす。そしてそんなようなことを何回も繰り返している間に、苦手意識が刷り込まれちゃったんだろうなと呟いた。
「だから本気の恋愛はオメガ性の人とはしないって、気付いたらなってたんだ。まあでも……結局は肉欲目的でその後も付き合ったりしていたわけだし、所詮こんなのただの言い訳にすぎないんだけどね。
 だからこそ、あの発言はすごく無神経な発言だったって、今は感じる。世の中そんな人ばかりじゃないって、当然のことなのに。それに愛している人を、こんなにも傷付けてしまったんだから」
 両頬にそっと手を添えられて、今にも口付けられそうなほどの至近距離から真っ直ぐに瞳を覗きこまれる。そのスカイブルーはどこまでも透き通っていて、今の言葉は本心なのだろうと自然と感じられるものだった。
 どちらかが少しでも動けば、それだけで唇同士がぶつかりそうな距離だ。
 それに彼は今、愛している人と言った。その文脈から察するに、それは勇利のことを指しているような気がするのは、きっと気のせいでは無いだろう。
 そんな風にして繰り返し与えられる驚きに、面白いほどすっと涙が引いていくのが分かる。
 しかしそこで、不意に再びふわりとヴィクトルのフェロモンと思われる甘い香りが鼻先に漂ってきて。その匂いをきっかけに、昨日ヒートになりかけていたのを思い出すと、慌てて両腕を伸ばしてヴィクトルの胸元を力強く押した。
「ご、ごめん! ヴィクトルの話はよく分かったよ。でもちょっと、今はストップ」
「ゆうりぃ~……」
 突然話しを中断された挙げ句に、身体を突き放されたのだ。ヴィクトルはややうらめしそうな表情を浮かべながら、勇利の腕と顔を交互に見つめている。
 それはまあ、正直なところ勇利的にも満更でも無い展開だったので、気持ちは分からないでもない。
 でも今流されてしまっては一生後悔するだろうと、気持ちを切り替えるようにゴホンと小さく咳払いをした。
「その……うっかりしてたんだけど。実は僕、昨日ヒートになりかけちゃって。それで今日はまだ薬飲んでないから―」
 だからヴィクトルも、昨日のヒートになりかけた時に漏れ出した、オメガのフェロモンにまた流されているのかもと続けようと思ったのだが。
 目の前の男は最後までそれを言わせない。そして慌てたような様子で勇利の両肩を掴むと、それなのに、昨日アルファ性の人と会ってたの!? と慌てたような様子で早口に告げた。
「もー……勇利、駄目だよ。元々ベータ性として振る舞ってきたせいかな? 色々と本当に、見てると危なっかしいよね。そんな状態の勇利と会っていたなんて。正直、仕事相手でもちょっと許せないよ。ああ、でも納得だ。だから相手もそれにつられて、勇利にこんなに臭いを付けたんだろうな」
「ええと……まあでも、すぐに別れたし。それに薬も多めに飲んだから大丈夫だよ」
「駄目駄目。勇利は自分の魅力ってやつを全然分かってない」
「はあ、魅力」
 ヴィクトルは何がそんなに気にくわないのやら。不満げな表情をありありと浮かべながら、もう二度とその人に会わないようにと詰め寄ってくる。
 しかも以前にクリスの匂いを付けられていた件まで蒸し返してくると、今度から匂い付けをされたら、お仕置きだからねと釘を刺される始末だ。
 その勢いに押される形でこくこくと頷くと、ややご機嫌が直ったのか。余計な臭いは消さなければというように、すりすりと肩口に頬を擦り寄せてきた。
 勇利は今でもヴィクトルのことが好きだ。だからそうやってされると、実は嬉しい。でもちょっと待ってとヴィクトルの胸元に手を添えると、彼は不思議そうな表情を浮かべながら顔を上げ、勇利のことを見つめた。
「つまり……えっと、何を言いたいのかというと、さっきヴィクトルが言ってくれた言葉はすごく嬉しいと思うし、僕もヴィクトルのことがずっと好きなんだけど……でもそれは、フェロモンに流されている状態なんじゃないかなって思うんだ」
 もちろんこの言葉を口にするのは、すごく勇気がいった。でもずっとずっと引っかかっていたことなので、今さら有耶無耶にしてこのまま先に進むことは出来ない。
 でもやっぱりものすごく不安なのも確かで。ヴィクトルの顔を見つめることが出来ずに顔を俯けると、彼は苦笑を漏らしながら勇利の頭を撫でた。
「まいったな、自業自得とはいえ耳が痛い。まさか今それを持ち出されるとは。本当に俺は酷い男だよね。勇利にあんな真似をして、今だってそんな言葉を口にさせているんだから。でも……この想いは勘違いなんかじゃないよ」
 咄嗟に、なんでそんな風に言い切れるんだと勢いよく顔を上げてしまう。しかし目の前のヴィクトルの表情はとても真剣なもので、その言葉は思いつきや冗談で口にしたものではないということがよく分かる。
 そして不安に揺れている勇利を大丈夫だと安心させるように、頭に乗せていた手が背中に滑ってくると、とんとんと叩かれた。
「この際だから包み隠さず言うと……俺はね、アイスショーの最終日に想いを告げた時、傲慢にも、まさかふられるなんて夢にも思っていなかったんだ。だから勇利が部屋から出て行って、そこでようやく少しだけ目が覚めた。……それから色々考えたよ。それまでの勇利の反応から、やっぱりオメガ性なんじゃないかとか」
「じゃあ、ヴィクトルはそこで僕の性別にはっきり気付いたんだ」
「うん。まあ後になって冷静に考えてみると、そうとしか考えられない場面なんていくらでもあったのにね。スケートリンクでうっかり勇利の首に噛みついちゃった時なんて、その典型なのに」
 あんなことまでやっておいて気付かないなんて、相当浮かれていたよと天を仰ぐように大げさな仕草で口にしている。
 確かにクリスもあの場面で気付いたと言っていたので、当人が気付かないケースもそう無いだろう。それに思わずかすかに笑みを浮かべると、ヴィクトルは少しだけ安心したように額同士を軽くぶつけてきた。
「勇利の言う通り……オメガ性のフェロモンに引っ張られているだけじゃないかっていう可能性だって考えたよ。でもそんな下らないことにこだわって、勇利を失うことの方がよほど恐ろしかった。こんなこと、生まれて初めてのことなんだ。
 それで改めて考えて、四年前に何故勇利の想いに答えなかったんだろうって心底悔いたんだ。前も言ったような気がするけど、あの時も勇利のことを愛していたことには変わらないのにね。こんな単純なことにも気付かないなんて、俺は大馬鹿者だよ」
 でも今はそれに気付けて良かったと口にしているヴィクトルの瞳はキラキラと光っていて、とても綺麗だ。そしてその瞳の中にはっきりと映っているのは、勇利の姿なのだ。
 それはまるで、それだけヴィクトルが勇利に夢中なのだと言っているかのようだった。
「ねえ勇利、随分と遠回りをしてしまったような気がするけど。勇利の美しいスケーティングを目にした瞬間から、俺はずっと君に釘付けなんだ。愛してる」
「うん……僕も。ヴィクトルのことがずっとずっと好きなんだ」
 それまで勇利の胸の内で渦巻いていた疑問の感情は、いつの間にかどこかに綺麗さっぱり吹き飛んでいる。その代わりに、ヴィクトルのことが好きという感情で一杯だった。
 そしてそれから。二人はまるで吸い寄せられるかのように唇同士を合わせていた。

 勇利のキスの経験は、グランプリシリーズの大会で、感極まった勢いでヴィクトルに唇にされたのが一回。あとは挨拶の延長で頬に軽くされたりとか、その程度のことだ。
 したがって唇を合わせたは良いものの、これから先、一体どうすれば良いのか分からないのに、勇利は目をギュッと閉じた格好で完全にフリーズした。
 女性と付き合ったことがあるんだろうと突っ込まれるかもしれないが、残念ながらそちらの方面の関係を持ったことは、実は一度も無い。
 せいぜいそれらしいデートをちょっとしたくらいで、だんだんと面倒になってフェードアウトをしていくうちにふられてしまったというか。
 まあそんな調子なので、知識としては舌同士を絡めるキスがこの先にあるというのは分かっていたのだが。相手の了承も無しに先に進んで良いものか分からず、結局この体たらくである。
 そしてそうこうしている間に、両思いになったのだという熱も少しずつ落ち着いてきて。それと入れ替わりに長年想い続けている、あのヴィクトルとキスをしているのだという事実を理解し、パニックになり始めた時のことだ。
 あんまりにも勇利が微動だにしないのに、ヴィクトルの方が焦れたのか。顔を傾け、唇同士を擦り合わせるように動かされたのに、面白いくらいに身体を揺らしてしまった。
「ん……勇利。あれから、キスはまだ誰ともしたことが無いのかな」
「は、っ……そんなの、っ、ん、むっ!」
 そんなこと一々聞かなくても、この反応を見れば丸分かりだろうに。ということを口にしようとしたのだが。
 口を開いた瞬間にヌルリと生暖かいものが口内に滑りこんできたのに、驚いて目を見開いてしまう。するとそれまでヴィクトルの伏せられていた目蓋もゆっくりと開かれ、そんな勇利の様子をじっと見つめながら歯列の裏側を不意にねっとりと舐め上げられたからたまったものではない。
「っ、ん! う、うう」
 そんな場所、普段はなんてこと無いはずなのに。
 瞬間的に首の後ろあたりにゾクリとした寒気のような快感が広がり、さらにそんな一連の反応を見られているのだという事実に、思わず熱い息を漏らしてしまう。
 そしてそこで、頬だけでなく耳まで真っ赤に染め上げて。それから物凄い勢いで顔を横に向けながら、唾液で塗れた唇を手の甲でごしごしと拭った。
「―い、いや! あの、いまのは、」
「勇利。さっきの場所、気持ち良い?」
「へっ? あっ! ちょっ、待っ―んっ、んんっ、ふ、」
 ここで一度クールダウンをしなければ、初心者の勇利には色々と不味い気がする。だからちょっと深呼吸でもと思ったのだが。ヴィクトルは、そんな初心者相手でもまるで容赦が無い。
 勇利の気持ち良い場所を、もっとたくさん知りたいなと口にしながら顎に手を添えてくると、次の瞬間にはその手にグッと力がこめられて、思わず口をパカリと開いてしまう。そして気付いた時には、再び唇を奪われていた。
 それからあっという間に口内に舌を侵入させてくると、先ほど感じ入った声を上げてしまった場所。口蓋に舌先を添え、ここだよねと確認するかのように、繰り返しそこを舌先で撫でてくるのである。
 さらにはそれまで後頭部に添えているだけだった手がうなじの辺りまで下りてくると、指先で触れるか触れないか程度の絶妙な力加減で、そこに刺激を加えてきたから大変だ。
「は、ぅ……ふ、そこ、や、ぁぁ」
 思えば最近気分が鬱々としていて、オナニーもさっぱりご無沙汰だったせいか。あるいはそもそもこんなこと自体が初めてのせいか。突然の濃厚な接触に、途端に下肢に熱が集まってくるのが分かる。
 さらに舌同士を擦り合わせるように絡めとられ、うなじに触れる指先に力を加えられるともう駄目だ。
 はっきりとした熱の感覚に、思わず両膝をもじもじと擦り合わせるようにすると、クスリと小さく笑いを零されるのが聞こえる。しかし今は、それすらも性感を高めるスパイスの一つだ。
 そしてそうやっていつの間にか与えられる快楽に夢中になり、熱を孕んだ空気に意識をとろとろに溶かされはじめた時のこと。
 まるでそんな空気を切り裂くかのように、暢気なメロディーが辺りに突然鳴り響きだしたのに、勇利はぱちりと目を開けた。
「―っ!」
「ん……なに?」
 この音は、聞き覚えがある。毎日鳴るようにセットしている、スマートフォンの目覚ましアプリのアラームの音だ。
 そしてそれをきっかけに、今日が月曜日で、これから仕事に行かねばならないのだということを思い出すと、慌ててヴィクトルの両肩を押しながら現状を把握すべく部屋の中をきょろきょろと見渡した。
「ゆうり~、せっかく恋人同士になったんだから。もっとキスを楽しもうよ」
「ちょっと、ヴィクトル邪魔しないで。僕、働きに行かないとなんだから。えっと……時間は七時三十分か。いつも起きる時間だから、まだちょっと余裕はあるけど……」
 ただし今日はいつもと違い、ヴィクトルがこの部屋にいる。彼の世話をあれやこれやと焼くための時間を考えると、案外余裕が無いかもしれない。
 そこまでほんの数秒ほどで考えると、勇利はすくりと立ち上がる。そしてとりあえず着替えなければと、ベッドの脇にある備え付けの小さなクローゼットを開けたのだが。途端に両肩にズシリと重石のようなものが乗っかってきたのに、ぐうと喉を鳴らした。
「勇利、仕事ってどういうこと?」
「いつまでもフラフラしている訳にもいかないし、今はアイスキャッスルはせつで仕事をさせてもらっているんだよ。スケート教室と、あとは事務仕事」
「あれ? そうだったんだ。てっきり、アイスショーに出演とか、振り付けとか、あとはたまにメディア関係の仕事とかしているのかと思っていたよ」
「いや、あの……最初の二つはともかく、最後は無いでしょ。どこからどう見てもメディア向けの顔じゃないし、柄でもないし」
 あなたみたいな、立っているだけでも女性陣にキャーキャー言われるようなアルファ性の方々と一緒にしないでくださいという感じである。
 しかしヴィクトルは、そんなの完全にスルーだ。勇利はキュートだよと心底納得いっていない様子で口にしているのが怖い。
 そしてそれに、やっぱりオメガ性のフェロモンにやられているんじゃないだろうかと本気で考えていると、うなじのあたりにすりすりと頬を擦り寄せてきて。でも確かに勇利らしいなあと口にした。
「勇利の働きっぷりに興味があるし。今度アイスキャッスルはせつに行こうかな」
「まあヴィクトルなら問題無いと思うけど。でもさすがにいきなりだと騒ぎになりそうだし、今日でも西郡に聞いておくよ。ヴィクトルはいつまで日本にいるつもり?」
「んー、そうだな。ずっと。……って言いたいところだけど、一週間くらいが限界かな」
「そっか」
 前は嵐のように突然やって来て、そのまま何ヶ月も長谷津に居座っていたので何だか変な感じだ。言葉の端々から、互いに生きる世界がガラッと大きく変わったのだなあという感じがする。
 それに少しだけ寂寥感を刺激されてぼんやりとしていると、悪戯な手が、中途半端に脱いだ状態のシャツの隙間から侵入してくる。
「あはは! ちょっとヴィクトルっ、くすぐったいってばっ」
「早く、勇利とつがいになりたい」
「もー……ヴィクトルはすぐそうやって話が飛ぶんだから」
 ヴィクトルは優しい。今も勇利がほんのりと感じた不安を吹き飛ばすために、つがいなんて一見突拍子の無い、しかしヴィクトルとの強烈な繋がりを感じさせる言葉を口にしたのだ。
 それから少しだけ考えて。
 ヴィクトルが不思議そうな表情を浮かべながら顔を覗きこんできたところで、彼の手首をガッと掴む。そしてそのままの勢いでズンズンと玄関まで歩いていくと、玄関脇に備え付けられている棚から、手の平におさまるほどの銀色の平べったい物を彼の前に差し出した。
「とりあえず僕は仕事を休むわけにはいかないから。でも何かあった時とか心配だし、だからこれ、念のために渡しておく。この部屋のスペアのキー」
「!」
 決して鍵を渡す行為に深い意味は無い。ただ万が一のことがあった場合、鍵が無いと不便だから渡しただけで。だからそれだけのことでと、頭の中でグルグルと繰り返す。
 でもこの行為自体に恥ずかしさを覚え、ヴィクトルのことを直視出来ないでいる時点で、何もかもお見通しなのだろう。ヴィクトルはReally!? と口走りながら大喜びでそれを受け取ると、ポケットからキーケースを取り出して。当然のように今渡した鍵を、そこに取り付けていた。
 渡すと言っただけで、あげるとは一言も口にしていないのだが、彼はそれを己の所有物にする気満々らしい。まあ、そのつもりで渡したので構わないのだが。
 そしてその様子をじっと見つめていると、チュッと軽く音を立てながら盗むように頬にキスを落とされて。俺の部屋の鍵は今度渡すねと、耳元で囁くように言われてしまった。
「ぼ、僕は別にそんなつもりで言ったんじゃっ!」
「ふふ。俺が渡したいだけだよ」
 もちろん受け取ってくれるよねと笑顔を向けられたのに、思わず勢いで頷きかけ、しかしその途中ではたと我に返る。
 直後、急激にこみ上げてくる羞恥心によって真っ赤になった顔を隠すようにヴィクトルの身体を押しのけると、再び居室に戻って着替えを再開した。

 朝食にカリカリに焼いたベーコンと卵。それにサラダを手早く作ると、ヴィクトルと共に平らげる。それを片付けてから洗面を済ませ、仕事に向かおうと玄関で靴を履いている姿を、ヴィクトルは心配そうな眼差しで見つめていた。
「ねえ……勇利。ヒートだからって言って、休めないの? やっぱりいい匂いがちょっとするし、心配だよ」
「そんなに匂いするかなあ。ヴィクトルが敏感なだけじゃない? それにちょっと熱っぽい程度だし。今までの経験上、このくらいなら薬をちゃんと飲んでおけばいつの間にかおさまってるよ。ていうかヴィクトルだってアイスショーの時ほど反応してないし、全然問題無いと思うんだけど」
 なんてことをうっかりと口にしてしまったのは、そろそろ家を出ないと不味い時間帯だったからだ。するとヴィクトルは途端に面白くなさそうな表情をし、我慢しているんだよ! とぷりぷりと怒っている。
 彼のそんな姿を目にするのは久しぶりのことで。思わず小さく笑いを零すと、笑い事じゃないとさらに怒られてしまった。
「あはは、ごめんごめん。アイスキャッスルには一人もアルファ性の人はいないから大丈夫。それにヴィクトルと違って、僕は雇われのしがないサラリーマンだからそんなことごときで一々休む訳にもいかないし。ともかくそんなに心配しなくても、朝の分の薬も飲んだから―……あ、そういえば今日の分はまだだったか」
 そこで慌てて鞄の中からピルケースを取り出すと、一錠口の中に放り込み、水筒の水で飲み込んだ。
 目の前では、言った先からこれなんだから、心配でたまらないよとヴィクトルが大騒ぎしているが無視だ。
「そろそろ本当に行かないとだから。戸締まりよろしく」
「はあ……もう。何かあったら、すぐに連絡を寄越すんだよ」
「うん」
 それじゃあと、軽く手を振ってから外に出ようとしたのだが。
 その手を掴まれると、ヴィクトルの方へ引き寄せられる。そして性急な様子で唇を割られると、抵抗する間もなく舌を絡めとられて。さらに口蓋をヌルリと舐め上げられたせいで、与えられる口付けにすぐに夢中になってしまう。
 そしてそんな風にして見送りのキスという割には濃厚な口付けを与えられた勇利が、いつまでも平静を保っていられるはずもないだろう。身体の中で燻っていた熱が刺激されたせいで、理性があっという間にぐずぐずに蕩けていってしまう。
 それから唇の繋がりをほどかれる頃には、ヴィクトルに腰を支えられていなければ、立っていられないくらいに出来上がってしまっていた。
「はっ……う、」
「勇利、こんなにトロトロになっているのに、仕事に行けるの? やっぱり休みなよ」
 口の端に零れている唾液を親指で拭われる感覚にゆっくりと目蓋を上げると、ヴィクトルと正面から目が合う。その美しい光彩に釘付けになっていると、目蓋が思わせぶりに細められ、さらに口元に緩やかな弧が描かれて。
 その瞬間、まるで魔法が解けたかのように急激に羞恥心がこみ上げてくる感覚に、大慌てて口元を手の平で覆いながら一歩後退る。
「~~ッッ!! ヴィクトルのばかっ! …………夜の八時には戻るから。それから、明日から日本は連休!」
 まるで捨て台詞のようにそう告げると、ややもたつきながら外へと飛び出して行った。
 そうしてさりげなく帰宅時間と明日からの予定を告げているあたり、先の暴言が照れ隠しなのはバレバレだろう。

 ちなみに勇利は現役時代の癖で、アイスキャッスルはせつには今でも軽くジョギングしながら通っている。
 もう何年も走り込んできた道だ。とはいえ三十歳が目の前という年齢に近付いてくるにつれ、体力も無くなってきたせいか。以前に比べると疲労度が高く、そろそろ自転車通勤に切り替えようかなあと思っていたのだが。今日ほどジョギング通勤で良かったと思ったことは無い。
 という訳で、勇利は直前のヴィクトルとの接触のせいで昂ぶってしまった身体の熱をおさめるため、まるで現役時代のようにかなりのハイペースで走っていた。
 そしてそのおかげでいつもよりもやや早い時間帯に道の途中にあるコンビニに到着すると、そこで昼食を購入する。それから何となくスマートフォンを取り出してSNSをチェックしていた時のことだ。
 案の定と言うべきか。ヴィクトルが突然の休暇を取ったらしいと、ちょっとした騒ぎになっていたのに、思わず額に手を添えた。
「はあ……またか」
 嫌な予感は薄々していたが、やっぱりという感じだ。ヴィクトルの行動パターンは、三十二歳となった今でも、昔と全く変わっていないらしい。
 顔は知らないが、焦った様子の彼のマネージャーの姿が自然と脳裏に思い浮かんだ。

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