アイル

叶わないと知りながら、熊は身分違いの恋をした-3

 しばらくの間、もしかしてヴィクトルはあの日のことを覚えているのではないかと勇利は少しだけ構えてしまっていた。おかげで少しばかりぎくしゃくとしてしまったのだが。
 夏に入り、いよいよ本格的な滑り込みの時期になるとそれどころではなくなる。そして秋のシーズンインする頃には、二人の関係は以前通りのものに完全に戻っていた。

 それからその年のグランプリシリーズも順調に滑りきり、ファイナルも無事に台乗りして終えた十二月中旬。
 勇利は十二月後半にある全日本選手権大会に参加するため、実家のある長谷津に戻ってきてアイスキャッスルはせつで調整を行っていた。そんなある日のこと。
 二人は練習後にいつものように実家の温泉に入る。そして勇利はヴィクトルより先に温泉から上がると、脱衣場に置いてある大きな体重計に乗りながら頭を抱えていた。
「ちょっと……困るよ。体重、どんどん増えてるんだけど」
 だからここ最近、驚くほどジャンプの精度が落ちてしまっているのだ。この調子では、今月の下旬にある全日本選手権大会が本当に思いやられる。
 しかしこんな風に冬時期になると太ってしまうのはいつものことで、それは魂現であるクマが冬眠に備え、隙をみては脂肪を蓄えようとするからであった。
 だからほんの少しでも食べ過ぎてしまうと、その分がすぐに皮下脂肪に変化してしまうのだ。加えてそもそも食い溜めするための時期なので満腹中枢がまるで働かず、放っておくと際限なく食べてしまうというのがまた厄介というか。
 だから今年も今までの経験を生かして、いつも通りを心がけていたつもりなのだが。それがラストシーズンの今回に限って失敗するとはという感じだ。
 そこで下を向きながら大きなため息を吐いていると、覚えのある甘い香りがほんのりと漂ってくる。そしてその直後、背後から抱きしめられるような格好で腹周りに手を這わされた。
「勇利、少し太った?」
「あ、ヴィクトル。温泉から上がったんだ。えーと……うん。いつも通り調整してるつもりなんだけど。二十五過ぎて、体質が変わってきたのかなあ」
 ヴィクトルにコーチについてもらっているというのに、このままだと三年前の全日本の悪夢を再現しかねない勢いだ。
 それを考えただけで、うすら寒いものが背中を伝う感覚が走る。それだけは、絶対に避けたい。
 となると、とりあえず明日からモヤシとブロッコリー食にしないとなと独り言をぼそぼそと呟いていた時のことだ。
 それまで腹周りに乗せられていたヴィクトルの手が、スススと胸元の方まで移動していくのに気付く。それに首を傾げながらどうしたのと口にすると、ヴィクトルは勇利の肩口に顎を乗せる格好で一つ小さくうなずいてみせた。
「うん。やっぱり気のせいじゃない。お腹の方はしっかり筋肉が付いてるから、贅肉って感じはしないけど。おっぱいが大きくなってきたよね」
 ――惚れ惚れするような爽やかな笑みを浮かべながら、背後のロシア人の男は何を言っているのだ。
 そう、本気で思った。
 おかげで何と返答すれば良いのか分からなくなり、ポカンと口を開けた間抜けな表情を晒してしまう。するとそれをこれ幸いと言わんばかりに、彼は手の平で人の胸をむにむにと揉んでくるのである。
「ふ、あ、」
 ここだけの話、正直ちょっと気持ち良くて息が小さく漏れてしまう。
 ただしこの場にいるのは、両方ともアラサーの男である。男が男に胸が大きくなったねと言われて、あまつさえ胸を揉まれて誰が喜ぶというのか。
 それに思い至ったのをきっかけにようやく正気に戻ると、勇利は両肘を背後に突き出すようにしてヴィクトルの腕の中から逃げ出した。
「ヴィクトルのばかっ!」
 後ろを振り向いてそう一言捨て台詞を吐くと、さっさと寝間着代わりのジャージを着こむ。そしてヴィクトルの謝罪の言葉も聞こえなかったフリをしてドスドスと足音荒く自室に戻ると、その日は一歩も部屋から出ずに籠城を決め込んだ。
 しばらくの間扉の外でヴィクトルが騒いでいたが、その日ばかりは完全に無視だ。
 そしてその日を境に、ヴィクトルとの間に距離が出来てしまうのであった。


■ ■ ■


「勇利さあ、ヴィクトルとケンカでもしたの?」
 それから数日後。
 夕食後にヴィクトルが一人で風呂に入っている隙に居間でぼんやりとテレビをみていると、それまで無言で一緒にテレビを見ていた姉の真利が不意に話かけてきたのに顔を上げた。
 練習時以外勇利はほぼ無言で、なおかつここ一日二日ほどはヴィクトルも勇利の機嫌を取るのを諦めたのか、話かけてくることはほとんど無い。したがって傍から見ても完全に冷戦状態なのが、ありありと分かるのだろう。そしてそんな二人の様子を見かねて、話をふってきたというところか。
「今年がラストって決めてるんでしょ。しかも大きな大会ってあと数えるほどしか無いのに。このままだと、ヴィクトルと後味悪くなっちゃうんじゃないの」
「うん……」
 真利の言うことはもっともだ。勇利だってそう思うし、だから本心では仲直りをしたいと思っている。
 でも胸が大きくなったと言われたのは、勇利にとって色々と衝撃的な言葉だったのだ。
 だって勇利は、半年ほど前に体内に懐蟲を入れた状態でヴィクトルとセックスをしているのである。それでそんなことを言われてしまったら……もしかして、もしかしたらと思ってしまったのだ。
 そしてそこで改めてここ数ヶ月のことを思い返してみると、彼とセックスをしてから大分長い間体調がすぐれない時期があったことを思い出す。
 その時は風邪かなと思って深くは考えていなかったのだが。改めて考えてみると、あれは世に言うつわりというやつなのかと思わなくもない。
 というわけでここ数日ほどは、暇さえあれば斑類向けのそういうサイトを調べまわっている。そしてその手のサイトを見れば見るほど、ものすごく嫌な予感しかしないというか。
 だから正直胸の件なんて今さらどうでも良いのだが、彼の顔をみるたびにあの日のことが横切ってしまうせいで心配で心配でたまらなくて。いつも通りに接することが出来ないでいるというのが本当のところだったりする。
(――っていってもヴィクトルは重種だし、考えすぎだっていうのは分かってはいるんだけど)
 そして事実、全て勇利の思い過ごしだったら、とっても馬鹿げているだろう。
「この際だし……一回ちゃんと調べてみようかなあ」
 ネットで色々と調べている時に知ったことなのだが、今は薬局で売っているキットで妊娠しているかどうか簡単に調べることが出来るのだそうだ。 
 それでやっぱり自分の思い過ごしだったと分かれば、ヴィクトルとの関係もすぐに改善するだろう。
 というようなことをボソボソと呟いていると、その声が聞こえたのか。真利が訝し気な表情をしているのに気付くと、慌てて何でもないと首を振る。
 そしてそろそろヴィクトルもお風呂から上がるだろうからと言い訳を口にしながら自室に引っ込むと、早速調べものをはじめた。


■ ■ ■


 それから翌日の夜。勇利はいつものように夜のランニングをしてくると言って家を出た。
 ただしそのポケットにはマスクと財布が忍ばせてあり、走るルートも途中で変えて駅まで向かう。そしてそこから電車に乗り込むと、三十分ほど電車に揺られて名前しか知らない駅に降り立って。その駅前にあった薬局の中に入ると、そこでようやく目的の物――妊娠検査薬を購入した。
 もちろんそんなものは、勇利の家の近くにある薬局でもいくらでも売っているだろう。しかし地元駅では完全に顔が割れてしまっているので、男の勇利がそんなものを購入するのはどう考えても世間体的に不味い。
 というわけで地元から三十分以上離れた見知らぬ土地まで、事前にネットで調査までしてわざわざやって来たというわけだ。
 そうしてひとまず第一の関門にして最強の壁を突破した勇利は、何食わぬ顔で実家に帰っていった。

 そしてここまでくれば、あとはどうってことない。
 早速その日の夜、勇利は皆が寝静まった頃合いを見計らってベッドから起きると、ポケットにその日購入した妊娠検査薬を忍ばせて一階のトイレに向かう。
 それからドアを締めて鍵をかけると、便座に座りながら箱の中から問題の物を取り出した。
「なんか、一見すると体温計みたいだな」
 中には手の平サイズほどの棒状のものが二本入っている。説明書によると、棒の先部分に尿を数秒ほどかけると、妊娠している場合はしばらくして棒の中程にある判定窓とやらにラインが表示されるのだそうだ。
「ずいぶん、簡単だよなあ」
 事前に使い方を調べていたのでおよそのことは知っていたが、こんなにも簡単に妊娠しているかどうかという大事なことが分かるのが変な感じだ。でもまあ簡単な分には文句は無いので、おずおずと股の間にそれを持っていく。
 そしてそれから。ほんの十数秒ほど経った頃合いのことだろうか。検査窓にはっきりと陽性のラインが現れたのに、勇利は思わず片手で目元を覆った。
「ちょ、ちょっと……待った。ウソだろ」
 検査窓にラインがある。つまりは陽性で妊娠しているということである。
 その結果が信じられなかったので、震える手でもう一本新品の物を取り出し、今度はことさらゆっくりと丁寧に再検査をしてみる。
 しかしやっぱり結果は変わらなかったのに、一気に血の気が引いていった。
 だってこれはつまり、現在進行形でヴィクトルの子どもが勇利の腹にいるということなのだ。
「なんで、そんな」
 まさかの事態に頭の中は完全に混乱状態である。そもそも今回検査をしたのも、ずっと胸の奥底でくすぶっていた心配事を完全に払拭するため、念の為にしたというだけのことで。だから本当に妊娠しているとは、思ってもみなかったのだ。
 だってヴィクトルとは一度しか関係を持っていないし、何より彼は子どもの出来辛い重種なのだから。
 そのはずなのに、まさかこんなことになってしまうなんて。
「これからどうしよう……」
 でも今はこの事実を受け止めるのに精一杯で、まるで考えがまとまらない。
 したがってよろよろとした足取りで部屋に戻ると、ベッドの中に潜り込んで布団を頭までかぶった。

 もう何も考えたくなかった。

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