アイル

叶わないと知りながら、熊は身分違いの恋をした-4

『ねえ勇利、練習まで来なくなっちゃってどうしたの?』
「……ヴィク、トル?」
 コンコンと扉をノックする音に、勇利は意識を浮上させる。そしてベッドの中から這い出すと、カーテン越しに朝日が差し込んでいるのに気付いて飛び起きた。
 それから慌てて枕元のスマートフォンを取り上げて時間を確認しようとするものの、こんな時に限って電源が切られていてすぐに画面が表示されない。
 するとタイミングよく、ドアの外からもう十時だよと声をかけられた。
『勇利、そんなにあの日のこと怒ってるの? もう俺にコーチされるのも嫌になっちゃった?』
「ちっ、違っ! そうじゃなくて……その件は別にもうどうでもいいんだけど、なかなか言い出せなくてごめん」
『そう、なら良かったけど』
 それなら今日はどうしたのと言われたのをきっかけに、自分が何故携帯電話の電源まで切って寝ていたのかをはっきりと思い出す。そして思わず腹を両手で押さえながら、ぐうと唸るような声を漏らした。
「ちょっと……今日は練習休む」
『体調悪いの? ここのところ寒いし、風邪でも引いた?』
「そう、かな。身体が少し怠いような感じがして。大会も近いし、悪化するのも嫌だから念のために休んでおく」
『そう……分かった』
 それならマーマに食べやすそうな朝ご飯を作ってもらわないとと口にしながら、ヴィクトルは急ぎ足でその場を離れていったようだった。
 もちろん、先の風邪が嘘というのは言うまでもないだろう。
 実際のところは妊娠していると自覚したとたんに、全身が気怠く熱っぽくなったような気がするというか。まあそれまでは体重が増えたなとのんきに考えていたくらいなので、つわりなどではなく単純に知恵熱の一種のようなものだろう。
 でもとてもでは無いがこれからスケートなんて気分にはならなくて、結局その日は一日中部屋に引きこもる。そして起きていると嫌なことを考えてしまいそうだったので、ずっと眠っていた。



 それから次の日も、その次の日も、体調が悪いと言って練習をサボって。そろそろ勇利自身でも不味いなあと思い始めた頃合いのことだ。
「――勇利、悪いけど中に入るよ」
「!?」
 その一言の直後、それまでドアの外から様子を伺っていたヴィクトルが突然部屋の中に入って来たのに、とても驚いて。勇利は年甲斐も無く布団の中に潜りこむようにして隠れた。
「勇利、まだ体調悪そう? 一度病院に行った方が良いんじゃ……って、何で隠れちゃうかな。心配しなくても、勇利の風邪なら喜んでうつされるのに」
「い、いや……そういうわけには」
 というかそもそも風邪なんて引いていないので、うつしようもないのだが。かといってヴィクトルに真実を話すなんて論外なので、もごもごと言い淀む。
 するといつの間に布団の中に両手を侵入させたのやら。ヴィクトルの手が突然わき腹に触れてきたのに、勇利は面白いほど大げさに全身をビクビクと震わせた。
「ひゃ、あっ!?」
「ねえ勇利。顔、見せて欲しいな」
 突然のことにクマの耳が出てしまったので両手を頭で押さえていると、さらには駄目押しと言わんばかりのこの言葉だ。
 ヴィクトルに面と向かって体調不良について問いただされたが最後。気付いた時には、真実を洗いざらい白状させられてしまう可能性が限りなく大きい。だからわざとらしいのを承知で、頭から布団をかぶったというのに。
 甘い甘い声音に誘われるがまま、何も考えずに布団の中から顔を出してしまう。そしてヴィクトルと目が合うと、彼は驚いたように目を見開いてみせた。
「――あれ? 勇利って、子ブタちゃんだと思っていたんだけど……この耳、どう見ても違うよね。うーん……この感じ、クマ?」
「……、へ?」
 そこで彼の手が頭上に伸びてくると、毛並みを確認するように根元から先端までをスルスルと何度か撫でられる。
 おかげで少しだけぽやんとしていた頭の中が一気にクリアになると、それまで少しだけ赤らんでいた顔を一気に青ざめさせて。それからベッドの壁際まで身体を一気に引きながら、ヴィクトルの手を腕でパシリと振り払った。
「こっ、これは、何でもないからっ! 部屋から出て行って!」
「そんなに恥ずかしがることないよ。俺だっていつもウサギのフリしてるし」
「そうじゃなくて!」
 そうじゃないなら何だというのか、自分でもよく分からない。
 ただ魂現がクマであるという事実は、発情したヴィクトルしか知らない事実なのだ。だからそれを素面の状態の彼にも知られてしまったのをきっかけに、あの一夜のことを思い出されてしまうかもしれないと思うと――怖くて怖くてたまらない。
 直後は全く覚えていなかったことに、少しばかり寂しさを覚えていたけれど。でもどうやら妊娠しているらしいという事実が分かった今は、淡い恋心を楽しむような余裕なんて皆無である。
 だって勇利はヴィクトルに内緒で懐蟲を仕込んで、それでセックスをして妊娠したのだ。
 しかも重種ならまだしも、中間種だから彼の血統を汚してしまうことになるわけで。もしもヴィクトルにこの事実を知られてしまったら、堕ろさなければいけないだろう。
 でもそれは、出来ない。だから妊娠していることを知られるわけには、絶対にいかないのだ。
 ただヴィクトルにしてみれば、本当の魂現を知られたくらいで何故こんなにも強硬な態度に出られるのか、さっぱり訳が分からないのだろう。不思議そうな表情をしながら首を傾げている。
「俺は勇利のコーチだよ、心配なことがあるなら教えて。 最近ジャンプが決まらないから不安? それともいよいよ現役引退が近付いてきて不安?」
 どれも合っているけれども、核心を突いているわけではない。
 でもそれに答えたらもっと突っ込まれそうで。結局何も言うことが出来ず、瞳をゆらゆらと揺らしながら下を向いて押し黙ることしか出来なかった。
「言ってくれないと分からないよ、勇利」
 大丈夫だから、一緒に考えようと諭すように口にしながら頭を撫でられると、氷のようにガチガチに固まった心が少しだけ溶けていくような感覚がする。
 しかしその手が頭上のクマの耳に偶然当たり、その拍子に首の後ろ辺りにじわりと熱が生じるような感覚を覚えるともう駄目だ。
「本当に……なんでもないから。全日本も近いし、明日からまたちゃんと練習する」
 だからあと少しだけ、何も考えずに眠らせて欲しい。
 そして再び布団の中に潜り込むと、ヴィクトルが大きくため息を吐いている声が聞こえた。
 そしてそれから、部屋のドアが静かに閉められる音が響いた。

「自分勝手だよな、僕」
 自分でも客観的に考えてみると、なんともまあひどい言い分だと思うのでなおさらにだ。
 呆れられたか……いや、嫌われたかもしれない。
「でもいっそ……そっちの方がいいのかな」
 だって嫌われれば、それだけ勇利への関心が薄くなる。
 そうすれば、騙し討ちのような形でセックスしたことも、その結果子どもが出来てしまったことも知られる可能性が低くなる。
「すきなのにな」
 なにもかも空回りした挙げ句、自ら嫌われようとしている現状に理解が追いつかない。しかしいくら考えても、そのくらいしか最善の方法が思いつかないのだ。
「まずは……この指輪を外すか」
 恐らく、それが目に見えて一番分かりやすい意思表示だろう。
 眼前に右手を掲げ、薬指にはめられている金色のリングの表面を撫でる。
 彼に渡してからかれこれ二年も経っているので、その表面には薄っすらと傷が入っている。でもそれはつまり、それだけヴィクトルと長い時間を過ごしてきたということで。そう思うと、そんな小傷も愛おしく思えてくるから不思議なものだ。

 それからどのくらい指輪を眺めていただろうか。定かでは無いが、腕が痺れを覚えてきたところでようやく両腕を腹の上まで下ろす。そうして自分から見えないようにしながら、指輪をゆっくりと外した。
 指輪が抜け落ちた瞬間、ぽっかりと胸に穴が開いてしまったような感じがする。しかしその感情が何なのかは、分からないフリをした。
「バカだなあ……自分で外しておいて、泣いてるなんて」
 指輪が外れた右手の薬指は軽く、手のひらに外した指輪を乗せている左手は重かった。

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