アイル

叶わないと知りながら、熊は身分違いの恋をした-5

 前日の宣言通り。勇利は翌日から練習を開始したものの、思った通りにジャンプが決まらないのは相変わらずだった。
 ただし転ばないように、転ばないようにと気をつけていたせいか。転ばない代わりにすっぽ抜けてしまい、ほとんどがシングルジャンプになってしまうという状態に今度はなってしまった。
 さらにそんな調子なので、演技に集中出来るはずもなく。常に比べるとまるで精彩を欠いているという、以前よりもある意味さらに酷い状態になってしまったせいか。その日ヴィクトルは、普段よりも早めの時間帯に練習を切り上げようと口にした。
 そしてその日の帰り道の二人が、普段よりも明らかに言葉少なだったのは言うまでもないだろう。

「――勇利、少し話をしようか」
 それから二人が道の途中にある、橋の中程まで差し掛かった時のことだ。
 ちょっとしたスペースのある場所でヴィクトルは自転車を止めると、少し後ろを走っていた勇利の方を振り返りながらそう口にする。それを聞いた勇利はピクリと肩を揺らし、目線を横にそらした。
 ああ、きたなと思う。
 聞かれることなんて、大体予想がついているので本当は気が進まない。でもこのやりとりから逃げることは、彼の性格上許さないだろう。
 したがって渋々と頷くと、ヴィクトルは横においでというように手招きをした。
「指輪、外しちゃったんだね」
「あ……うん。僕ももう今年で引退だし、最後くらいは自分の力で滑ってみようかなって」
 もちろんこんなの昨晩寝ないで一生懸命考えた言い訳に決まっている。
 しかも偉そうなことを言っているわりには、今日の練習の状態はヴィクトルにコーチについてもらってからワーストワンの酷い出来だった。だから何を非現実的なことを言っているのだと、突っ込まれるかもしれないと思ったのだが。
 しかし彼は、そっかと小さな声で力なく呟いただけだった。
「……寂しいな。勇利が俺の手元から離れていってしまうみたいで。俺はこの指輪は外せそうもないよ」
 そこで初めてヴィクトルの表情を伺うと、相変わらず口元に笑みを浮かべていて。でも彼にしては珍しく、先の発言の通りにどこか物寂しげな雰囲気を漂わせている。そしていつも勇利のことを見ていた目線は、橋から見える川の、さらにその向こう側にある海の彼方に向いていた。
 せっかくこうして彼の隣に立ち、気兼ねなく話せるような関係にまでなったのに。もう彼の心は、どこか遠くにあるみたいだ。
 あるいはそう感じるのは、勇利の方が彼との未来を思い描かないようになってしまったせいだろうか。
 しかしこれは、勇利が望んだ展開でもあるのだ。
 だからこれで良いのだと、繰り返し自分自身に言い聞かせる。そしてその途中で、名残惜しげに右手の薬指に左手が伸びかけていたのに気付くと、ギュッと拳を握ってそれを阻止した。


■ ■ ■


 そうこうしている間に、すぐに全日本選手権大会の日程となる。
 ただ大会当日になっても、相変わらず勇利とヴィクトルとの関係は全く進展が無く……というか他人行儀な態度に拍車がかかったといえば、大会の結果はおよそ予想が付くだろう。
 つまりは三年前の悪夢をそっくりそのまま再現してしまった。
 そんな調子だったので、試合の後の囲み取材が常よりも大分簡単なもので。それをこれ幸いと、勇利はそこで簡単に今回の大会を最後に引退する旨をさらっと発言する。それからその日はホテルの部屋に完全に引きこもった。
 そして明日の出発時間まで、適当にテレビやネットでも見て時間を潰そうと思ったのだが。
「あー……もう。テレビもネットも、引退引退って。どうせ僕はビリなんだから、放っておいてくれればいいのにさあ」
 今日は運が悪いことに、その他に面白そうなニュースが無いからか。どの番組を見ても「勝生勇利選手、電撃引退!」なんて文字が画面に踊っているのに、勇利はげんなりとした表情をしながらため息を吐く。そしてテレビの電源を落としてから、手に持っていたリモコンをベッドの上に放り投げた。
「大分前から、関係者とか周りの人に言ってたのにさあ……」
 だから勇利的には電撃でも何でもなく、何を今さらという感じがある。とはいえ公式に発表したのは今日なので、当然なことではあるのだが。
 ただ最後の大会の結果が最悪だったので、くさくさしているというか。ようは八つ当たりというやつだ。加えて過去の恥ずかしい映像までどこからか発掘されて大々的に放映されているのもまた、非常に不本意なのである。
 おかげで結局全ての時間つぶしのツールを奪われてしまい、寝るまでの時間を完璧に持て余していた時のこと。
 部屋のドアが唐突に数回ノックされたのに勇利は勢いよく起きあがる。そして相手が誰かも確認せず、すぐにドアを開けた。
「――はい、どちらさま」
「やあ、勇利。今日はお疲れさま。良ければこれからディナーでも一緒にどう?」
「ヴィク、トル」
 まさかのまさか。外にいたのがヴィクトルだったのにやってしまったと思うが、今さらドアを閉める訳にもいかない。
 したがって渋々と頷くと、早速手首を取られて。引っ張られるような格好でホテルの上階にある、見晴らしの良いレストランまで連れて行かれた。

「いきなり引退って言うから、驚いちゃったよ。今回の結果は残念だったけど。グランプリシリーズの結果は良かったし、世界選手権の選考を待つかと思っていたから。本当に……引退するんだ」
「うん」
「そう。残念だな」
 以前のヴィクトルだったら、何故事前に相談をしないのだと怒ったに違いない。しかし実際に彼が口にしたのは、ほんの少し前にテレビで散々聞かされた、上っ面を撫でただけのありがちな言葉だけだった。
 勇利が指輪を外した日を境に、ヴィクトルはすっかりと変わってしまった。でもだからといって関係が悪くなったとかそういう訳ではなく、良くも悪くもビジネスライクというか。以前のように必要以上に絡んでくることが一切無くなった。
 それでこの最後の晩餐みたいな食事を終えて、昔のような地味な日常に戻るのだ。
 ――そう思ったのに。
 彼はまるでその考えを読んだかのように、最後に一つだけいいかなと不意に楔を打ち込んでくるのである。
 そしてそれに、勇利は小さく肩を震わせた。
「結局、勇利は何に悩んでいたの?」
「なにって……」
 もう、以前のように打ち解けた会話をすることは無理だろうなと思っていたのに。こうして再び一歩踏み込んでくるなんて、ずるい。そのくせ「最後」とも言っているのだ。
 そのせいか常になくセンチメンタルな気分がこみ上げ、ほんの少しだけひっかき傷を付けて、自分の存在を彼の中に残したい気分になった。
 それから喉元まで、お腹にヴィクトルの子どもがいるからこんなことになってしまったのだという言葉が出かかったのだが。
 そこで不意に目に入った己の右手に金色のリングが無いのに改めて気付くと、そんなことを考えている自分自身がひどく浅ましい人間に思えて。ギュッと下唇を噛んで何とかその言葉を飲み込み、顔を俯けることしか出来ない。
 そしてその様子を見て、言う気が無いのを察したのだろう。ヴィクトルは小さく首を傾げながら、苦笑を漏らしてみせた。
「俺にとって勇利は生徒でライバルで友達で家族で……一言で言い表せないくらいの存在だよ。こう言うと勇利は嫌がるかもしれないけど、今までの恋人の誰よりも分かりあえたような気がする。でもね、今の勇利が何を考えているのか、俺にはさっぱり分からないんだ。
 勇利は今でも俺のことを好きでいてくれているのかな」
 そこで彼の手を伸ばされたものの、テーブルが長かったせいであと少しが届かない。その距離感は今の勇利とヴィクトルの心の距離みたいだと、何となく思う。
 そしてそんなことをぼんやりと考えている間に、ヴィクトルは小さく首を振りながら腕を引っ込めてしまった。

 それからは当たり障りの無い会話をしながら、淡々とコース料理を腹の中におさめていく。とっても美味しいはずなのに、残念ながら味はさっぱり分からなかった。それから夕食を終えると、おやすみと就寝の挨拶をしてから各々の部屋に戻った。
 ちなみに二人の部屋はエレベーターホールを中心にちょうど反対の位置にあったが、部屋に戻るまでの間、勇利は決して振り返らなかった。そうしなければいけないと思ったからだ。
 そうして部屋に戻って一人きりになったところでようやく一息つくと、ベッドの上にゴロリと転がって眼前に右手をかざした。
「そういえば、ヴィクトルはいつ指輪を外すつもりなんだろう」
 試合前に外したら、勇利がさらに酷いことになると思ったのか。今日も彼の右手に例の指輪ははめられたままだった。意外にそういうところは律儀というか、彼なりにコーチ業を最後まで全うしようとしているのかもしれない。
 でもそれも、今日で全て終わりだ。
「明日になったら、ヴィクトルも指輪外してるんだろうなあ……」
 そしてそうなったのが自分自身の行動の結果なのだと思うと、ただひたすらにむなしかった。


■ ■ ■


「……あれ? おかしいな。ヴィクトルどうしたんだろう」
 翌日の昼が、ホテルのチェックアウトの時間だ。
 いつもはヴィクトルが勇利の部屋まで押し掛けて来るか、そうでない時はホテルのラウンジでチェックアウトの時間に待ち合わせというのが暗黙の約束になっている。だから特に気にせずこうしてラウンジで待っていたのだが。
 しかし今日はその時間を過ぎてもちっともその姿が現れないのに、勇利は首を傾げる。そしてそこでその日初めてメールをチェックすると、ヴィクトルからメッセージが来ていたのにようやく気付いた。
「ヴィクトルがメールなんて珍しいな」
 何故なら近くにいる時に何か用件があった時には、彼は必ず直接言いにくるからだ。恐らくメールを打つのが、単純に面倒なのだろう。
 なんてことをつらつらと考えながらメッセージを確認すると、そこには急な仕事が入ったからロシアに帰るということと、今までありがとうという言葉が簡潔に書かれていた。
「い、今まで、ありがとうって」
 それじゃあまるで別れの言葉みたいじゃないかと思う。まだ全日本が終わった翌日なのに。それに数日後にはヴィクトルの誕生日なのに。
 思わずフロントに駆け寄ってヴィクトルのチェックアウトの時間をたずねるが、個人情報だからと教えてもらえなかった。
「そんな、どうして」
 いくらなんでもいきなりすぎだ。
 思いがけない唐突の別れの予感に一瞬思考回路が全停止したのは、彼がこういう行動をとるのが初めてだからだろう。
 それならと反射的にスマートフォンのアドレス帳を開いて彼の電話番号を表示し、タップしかける。しかしそこでふとここ数週間ほどの己の言動を思い出して、すんでのところでその動きを止めた。
 いまさらどの面下げて、彼に連絡するというのだろうか。
「――そっか」
 そうだ。
 これで全て、勇利の思惑通りの展開だ。
 良かったじゃないかと呟きながら、スマートフォンの画面を消して真っ暗にする。ただその指は震えていて、明らかに動揺しているのが丸分かりだった。
「とりあえず、家に帰ろう」
 自分自身で考えていたよりも唐突であっけない幕切れのせいだろうか。全てが夢の中の出来事のようだ。
(たしか……実家に、ヴィクトルとコーチ契約を結んだ時の書類があるはずだ)
 その内容を確認してからでないと、にわかには信じられそうも無かった。



 大会のあった会場は関西だったので、三時間ほどもあれば実家に到着する。
 そして家に着いた勇利は、帰宅の挨拶もそぞろに自室に駆け込むと、机の引き出しを漁って目的の書類を引っ張り出した。
「えっと、契約期間の項目は……これか」
 文章は英語だったが、分かりやすく簡潔にシーズン終了までと書いてある。さらにその下欄に但し書きで、シーズン途中で引退した場合は、そこで契約終了とも書いてあった。
 何度読んでみても、それで間違いない。
「ってことは……僕が昨日引退って公に口にした時点で契約終了ってことか」
 つまりは、あのメールが別れの挨拶ということで間違いない。そしてヴィクトルとの関係も、これで完全に終了だ。
「終わり、か」
 口にすると、じわじわとその実感が湧いてくる。それと同時に、身体中の体温が一気に冷たくなるような感覚を覚えた。
 自ら指輪を外した時点で覚悟していた展開なのに、悲しくて、悲しくて。
 でも、そうじゃない。
「――これで良かったんだ」
 指輪を外した時に胸にポッカリと開いた黒い穴に、悲しいという感情を次から次へと放り込んでいく。
 そしてこれが一番後腐れ無くて理想の形じゃないかと、自分自身に言い聞かせるように口にする。その声が震えているのも、契約書を持つ手が震えているのも、全て気のせいだ。
 しかしそこで机の中にしまいこんでいた指輪がふと目に入ったのに、言葉にならない吐息を漏らしながら唇を数度開閉する。そしてついに目元を歪ませながら、ポロリと涙を零してしまった。
 でもどんなに後悔したって、手からこぼれ落ちた砂はもう元には戻らないのだ。

 それから真っ暗闇の部屋の中で、どのくらいボーッと突っ立っていたか分からない。
 ただまるで物音がしないのを不審に思ったのか。真利がドアを開けて覗きこんできたことで、帰宅してから止まっていた勇利の時間が半強制的に動き出した。
「勇利ー、ここにいるの……――って夜なのに、部屋真っ暗にして何してんのよあんた」
「え、あ、いや。ちょっと書類の確認をしてて」
「はあ、そう」
 慌てて顔を上げると、手に持っていた契約書を机の中に突っ込む。それから真利の様子を伺うとその表情は訝しいものだった。
 しかし姉はそれ以上突っ込んでくることは無く。そろそろ夕飯だよと用件のみ口にすると、その場からすぐに踵を返した。
「――ああ。そういえば、ヴィクトルは一緒じゃないの?」
「あ……うん。もうコーチの契約期間、昨日で切れたから。うちにはもう来ないよ」
「ふーん、そう。なら夕飯いらないってお母さんに言わないとだね」
 それ以上は何も言わない。それはきっと、姉の優しさだ。

 そんなこんなで引退宣言当日には随分とテレビで騒がれたが、その翌日にはほとんど話題に上らなくなって。一週間もする頃には、誰もがそんなことなど忘れたかのようだった。
 ちなみに勇利の実家の宴会部屋にしばらくの間放置されていたヴィクトルの大荷物はというと、年明けに業者の人間がやって来て、その日のうちに全て梱包を済ませて運び出していってしまった。
 全てがあっという間で、まるで魔法が解けたかのようだ。
 その日一日、勇利は何も無くなった宴会部屋を意味も無くただただ見つめていた。


■ ■ ■


 結局勇利が子どもを産んだのは、それからさらに数ヶ月ほど経過した二月末頃のことだった。クマの場合は冬眠から覚める少し前に出産するので、ぴったり予定通りだ。
 その日は九州にしては珍しく積もるほどの雪が降っていたのだが、まるでそれを体現したかのように、生まれて来た子の姿はヴィクトルにそっくりな真っ白なオスの狼だった。
 ただ胸元に茶色の毛が三日月状に生えていて、そこだけがツキノワグマである勇利にちょっぴり似ていて。本当にヴィクトルと自分の子どもなのだと、妙に感動した覚えがある。
 ちなみにそれまで家族にも相手が誰であるか言っていなかったのだが、その見た目で母親に速攻で言い当てられてしまった。
 というか母親もヴィクトルの本当の魂現が狼であるとは知らないはずなのに。母親の勘というやつは、時に恐ろしいほどに冴え渡ってすごい。
 そしてそんな調子であんまりにも見た目がヴィクトルそっくりだったので、事前に考えていた名前がどれもしっくりこなくて。未練がましく思われてしまうだろうかと散々悩んだものの、子どもの名前もヴィクトルにしてしまった。
 日本だと、親と子どもの名前を同じにすることは出来ない。でもヴィクトルとはもちろん結婚なんてしていないので、息子の戸籍の父親の欄は空白になっている。だから同じ名前だから駄目だと言われることは無い。
 それに外国だと親子で名前が同じなんてことはよくあることなので、気にしたら負けだ。



 ――それから三年。
 正直、妊娠しているのに気付かずに随分と好き放題動き回っていたので、どうなることやらと思っていたのだが。生まれてきた子どもはいたって健康な様子で、三歳になってから初めて魂現の狼ではない人型の姿をとった。
 その姿は魂現の姿と同じくヴィクトルそっくりなもので、銀髪にスカイブルーの瞳だった。
 ヴィクトルと別れてから三年の間、忙しさにかまけて彼のことはなるべく考えないようにしていた。そうしないと、未だ整理のついていない感情が溢れてしまいそうで怖かったのだ。
 でもこうして子どもの姿をきっかけに彼に思いをはせてみると……脳裏に思い浮かぶのは、キラキラとした思い出ばかりだ。どれも楽しくて、楽しくて、夢みたいな宝物だ。
「パーパ?」
 どうしたのというように小さな手に頬を撫でられたのに、思わずもう一人のパーパについて思い出していたんだよと口にしてしまう。
 すると彼は不思議そうにその青い瞳を瞬かせていた。彼に父親のヴィクトルのことを話すのは初めてだったので、少しだけ興味を持ったのかもしれない。
 しかし勇利のどこか寂しげな様子を察したのか、それ以上深くたずねてくることは無かった。

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