アイル

叶わないと知りながら、熊は身分違いの恋をした-6

 さらに一年ほど経過し、勇利の息子が四歳を迎えた春のある夜のこと。
 現在勇利と息子のヴィーチャ――ヴィクトルと呼ぶと勇利自身が混乱してしまいそうだったので、愛称でそう呼んでいるのだ――は、元々勇利が自室として使っていた部屋を間借りする形で生活を送っている。
 そして勇利はいつものように布団にヴィーチャを寝かしつけてから居間に降りてくると、暇つぶしにテレビをつけたのだが。そこで偶然フィギュアスケートのアイスショーの番組がやっていたのに、思わずほうと息を漏らした。
「ああ……そういえば、もう四月だからアイスショーが始まる時期なのか」
 少し前までだったら、フィギュアスケートに関するものが目に入った途端に排除していた。
 しかし息子が人型の姿を取った時、数年ぶりにヴィクトルのことを思い出したことで、なんだか吹っ切れてしまったのか。思ったほどダメージは無かったのに、少し拍子抜けしてしまった。
「なんだか……懐かしいな」
 これでも引退直後などは、アイスショーの出演依頼がそれなりにあったのだが。
 そもそも出産直後で体力が追いつかなかったし、小さい子を連れて遠出をするわけにもいかない。だからその誘いをすべて断っていると、そのうちにその手の依頼がまるでこなくなったのだ。
 ちなみに現在勇利は、昼に実家の温泉業の手伝いをし、夕方からはアイスキャッスルはせつで中学生向けのスケート教室のコーチをしている。そして家族の手を借り、何とか子育てをしながら日々過ごしている状態だ。
 もちろん選手だった時代には、引退後にこんな風になるなんて夢にも思っていなかった。それだけに、数年前には自分もテレビの中に広がっている華々しい舞台に立っていたこと思い出すと、ひどく感傷的な気分に包まれた。
「あっ、やっぱり南くんが出てる。それに日本開催のアイスショーなのに、ユリオまで出てるなんて珍しいなあ。調子いいのかな」
 引退してから、フィギュアスケート界の勢力図がどのように変化したのか全く知らない。ただ解説者のざっくりとした説明によると、現在はどうやらユリオと南が様々な大会でトップ争いを繰り広げ、切磋琢磨しているようだった。
 さらにそんな見慣れた顔触れの他にも、新たに若い世代も出てきているようで、時の流れをひしひしと感じる。そしてそんな彼らがひどく眩しくて、少しだけ羨ましく思えた。
『――さて。それでは次はロシアの、ヴィクトル・ニキフォロフの滑りになります。彼は現在ロシアのユーリ・プリセツキー選手のコーチをしておりますが、以前は日本の勝生勇利選手のコーチもしておりました。
 今なおリビングレジェンドとして語り継がれておりますその滑りを、ご堪能ください。曲目はベートーベン作曲、月光です』
 久しぶりに見る彼のスケーティングは、相変わらず惚れ惚れするほどに滑らかで優雅だ。そしてもう現役では無いのに、さりげなく冒頭に四回転のジャンプを入れてくるあたりヴィクトルらしくて思わず小さく笑みを浮かべてしまう。
 でもその滑りはどこか切なげで。ピアノの繊細な旋律もあいまって胸がひどく締め付けられ、ステップシークエンスの直前でゆっくりと右手を伸ばされると、思わずその手を取りたくなってしまう。
 しかしそこで彼の手から放たれた金色の輝きが目の奥まで突き刺さったのに気付くと、勢いよく目を見開いた。
「――ちょっ、ちょっと待って、今のって、」
 まさか、勇利が六年前に渡したあの金色のリングなのだろうか。
 でもヴィクトルとは四年前にコーチ契約が切れてから、一度も会っていないし、連絡だって取り合っていないのだ。
 それなのに未だにそんなものを身につけている意味が分からない。
「ってことは……他の誰かと?」
 その可能性は十分にある。そもそも勇利と出会う前には、しょっちゅうゴシップネタで騒がれていた男なのだ。
 でもとりあえずは、目の前のテレビに映っている指輪をよく見てみようとテーブルの上に身体を乗り出したのだが。そこで唐突にジャージの裾をきゅっと引っ張られたのに、勇利は大げさなほどに上体を揺らした。
「う、わっ!?」
「パーパ?」
「びっ、びっくりした……ヴィーチャか」
 誰かと思ったら、自分の息子の方のヴィクトルだ。
 まだ眠くてたまらないのか。手の甲で目元をこしこしと擦っているところを見ると、いつも隣にいるはずの勇利の姿が無いので下まで探しに来たのだろう。
 ちなみに姉がどこからか購入してきた犬の着ぐるみ型のパジャマを着ているので、その見た目は凶悪なほどに可愛いらしい。
 したがって思わず膝の上に乗せて頭を撫でくりまわしてから、ポケットからスマートフォンを取り出して無言でカメラを連写する。
 しかしその途中でキャーキャーという女性の大歓声が聞こえてきたのにふとテレビの方へ顔を向けると、アンコールに答えて再びヴィクトルがリンクの上に出てきたところだった。
「あの人、ヴィクトルって、ぼくと同じ名前だ。髪の毛も、いっしょ」
「ああ、うん。そうだね」
 勇利がテレビに視線を向けたので、息子の方もそちらに興味が映ったらしい。
 そしてナレーションの解説から画面の中の人物の名前を把握したのか。同じと、嬉しそうに笑っている。日本だとカタカナの名前も銀色の髪色もほとんど見かけないので、嬉しいのかもしれない。
「そういえば、ヴィーチャはスケート見るのも初めてだっけ」
「スケート?」
「そう、あれはフィギュアスケートっていうんだ。氷の上で曲にあわせて滑るスポーツ」
 それまで観客に向かって手を振っていた男が、リンクの中央に立つと辺りは静寂に包まれる。そして音楽が一度かかると、その静寂な空間をあっという間に突き崩し、激しいステップを踏んで観客を魅了するのだ。
「アンコールはカルメンか」
 情熱的にカルメンを誘惑している情景が脳裏に思い浮かぶ。
 ただよくよく考えてみて欲しい。それを四歳児も一緒に見ているのである。しかも食い入るようにしてみているのがまた……なんともいたたまれないというか。
 したがって思わずその目元を右手で覆うと、不服な表情をありありと浮かべながら振り向かれる。そして邪魔しないでと怒られてしまった。
「変なパーパ、顔真っ赤。今のヴィクトル、すごくキレイだったからぼくにも見せたくないの?」
「い、いや、そういうわけじゃ無いんだけど……思わずというか」
 四歳時にやりこめられる三十路とは、なんて格好悪いのだろうと思うのだが。何しろ相手は幼児なので、オブラートに包まない分性質が悪いのだ。おかげで次から次へと投げかけられる直球の言葉に、完全にタジタジになってしまう。
 そして早く解放してくれないだろうかと挙動不審にきょろきょろと視線を彷徨わせていると、下から顔を覗きこんできて――
「パーパは、テレビのヴィクトルのことが好きなの?」
「――っ!?」
 挙句の果てにはこれである。
 しかもキラキラとした期待の眼差しで勇利のことを見つめているあたり、さすがあのヴィクトルの息子というか。全てを無自覚にやっているのが本当に末恐ろしい。つくづく、血は争えないなと思ってしまう。
 そしてそこでついに勇利の方が折れると、ガックリと肩を落とす。でもやっぱり恥ずかしかったので、頬だけでなく耳まで赤く染めながら好きだよと呟くように口にしていた。
 せっかくヴィクトルに恋心を抱いてから何年もの間己の本心を封印してきたのに、まさかこんな形で露わにされるとはという感じだ。
 しかしその犯人は無邪気なもので、ぼくも好きだよ! なんて口にしながら、人の膝の上で無邪気にはしゃいでいるのである。
 その姿を見ていると、なんだか全てがどうでも良くなってくるから不思議なものだ。
 それから結局最後までアイスショーを見てから二階に上がり、興奮している息子をなんとか寝かしつけた。
 ただ勇利の方は、偶然テレビ画面に映っていた金色のリングがどうしても気になってたまらなくて。随分と夜遅くまで布団の中でスマートフォンを弄くっていたのは言うまでもないだろう。
 そしてその結果得られた答えは、どうやらヴィクトルは未だに勇利がプレゼントした指輪をはめ続けているらしいということだった。
「どういう意味なんだろう……」
 もう四年間も会っていないのに。しかもあんなにひどい別れ方だったのに。
 どうしてという疑問の言葉が、頭の中でぐるぐると回る。でもいくら考えてみても、彼の真意が全く分からない。
 そこで思わず布団の中から抜け出すと、部屋にずっと置きっぱなしにしてあった学習机の前に立つ。そして長い間開けずにいた引き出しを開けてみると、そこに以前と変わらず金色の光を放つリングがポツンと置かれていた。
 思わず取り上げて右手にはめてみると思ったよりキツくて、思わず苦笑を漏らした。
「まずいな、太っちゃったか」
 ヴィクトルに子ブタ呼びをされ、ユリオにデブと言われたあの日のことを、今でも鮮明に思い出す。でも、もう遠い昔の思い出だ。
 それから随分と長い間、指輪を眺めて久しぶりに感傷に浸って。満足したところで、それを外そうとしたのだが。指のもっちりとした肉に引っかかってしまったのに、勇利は感傷的な気分から一転して顔を青ざめさせた。
「――あ、あれ?」
 ちょっと待って欲しい。
 これはまさか、外れないフラグでは無いだろうかとやや焦る。でもこの指輪はヴィクトルとお揃いのものであるというのは周知の事実なので、それだけは絶対に不味い。
 だからさらに力をこめて引っ張ってみるが、周辺の肉が引っ張られて痛くなるだけで。それならと洗面所に駆け込み石鹸のぬめりを利用して外そうとしてみたりもしたのだがそれも駄目だった。
 したがってそこで諦めると、結局その日はそのまま寝てしまう。そして翌朝にはすっかりとそのことを忘れてしまい、しばらくの間普段通りに過ごしていたのだが。
 息子が目敏く指輪の存在に気付き、嬉々として家族中にふれまわったからたまったものではない。
 その時点で昨晩の指のむくみも解消したのか、何とか指輪も外れる状態になっていたのだが。すでに皆に知られているのに改めて外すのも恥ずかしかったので、結局そのままはめ続けることになってしまった。
 でもそれが自分自身への言い訳というのは、勇利自身でも薄々気付いていた。

 もちろん今さら指輪をはめたところで、どうなるはずも無いというのは分かっている。
 ただ思いがけずヴィクトルが指輪をはめてくれていたのが純粋に嬉しくて、自分で考えている以上に浮かれていたのだろう。

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