アイル

叶わないと知りながら、熊は身分違いの恋をした-7

「パーパ、ぼくもスケートしたい!」
 テレビで父親であるヴィクトルのスケートを食い入るように見ていた様子から、息子がそう言い出すのは時間の問題のような気がしていた。ただほんの数日後に彼がそう言い出したのに、勇利は思わず苦笑漏らす。
 そしてそれなら早速と、その日のうちに西郡に電話をして。小さい子ども向けのスケート教室の仮申し込みをすると、彼は血は争えないなあと笑いながら快く歓迎してくれた。
 ちなみに西郡家は勇利の事情もすべて分かっているので、変に詮索されることも無く安心なのだ。というわけで次の日の午後には、息子の手を引いてアイスキャッスルはせつに向かった。

「よお、申し込みサンキューな。チビヴィクトルもよろしく。えーっと、まあお前もここで教えてるから、知ってるかもだけど。幼児向けのスケート教室の先生は優子と、あとはたまにサポートで俺が入るって感じだから」
「うん、わかった。迷惑かけるかもしれないけど、よろしく」
 そこでほら挨拶はと隣に立っていた息子の頭を撫でてやると、よろしくおねがいしますとたどたどしい口調で挨拶をしながら頭を下げた。
 するとそれまで脇に立っていた優子がヴィーチャの手を取って、せっかくだから少しだけ滑ってみようかとリンクの方へ連れていったので、勇利と西郡もその後に続く。そして二人並んでフェンスにもたれかかりながら、ヴィーチャの練習風景を眺めた。
「――それで? 自分から滑りたいって言ったのか」
「うん。この間、テレビでアイスショーやってただろ? その時のヴィクトルの滑りが気に入ったみたいで」
「ははは! あの年でスケーティングの善し悪しが分かるなんて、いっちょうまえだな」
「どうかなあ……。名前と髪の毛の色が一緒だって言って喜んでたし」
 むしろスケートよりそっちの方に興味があるような気もするけどと口にすると、西郡は軽い調子で笑いながら、それでも良いじゃねえかと口にした。

 そしてそれから優子と一緒に氷の上に立つ練習をしているヴィーチャの姿を見つめながら、西郡と取り留めのない話をしていた時のことだ。
 リンクに続くドアが突然バーンと開かれたのに、皆一様にそちらの方へ顔を向ける。するとそこに、見覚えのある金髪頭に赤いメッシュの入った青年が仁王立ちしていた。
「おい、決めました! 悩んでても結局何も始まらないんで、直接勇利くんにコーチお願い出来ないか交渉しに行こうって思うんです!」
 誰かと思ったら。今や日本のフィギュアスケート界でトップスケーターとなっている南選手だ。しかも彼の発言をよくよく反芻してみると、勇利にコーチを依頼すると言っているのである。
 それを聞いた勇利が、しばし呆けてしまうのも無理は無いだろう。そして隣の西郡はというと、あちゃーといった様子で目元を片手で覆いながら大きなため息を吐いていた。
「タイミング悪かったな……いきなりすまん。 実は少し前に、南選手から勇利にコーチになってもらいたいんだけど、どうすればいいかって相談受けてたんだよ」
「えっ、僕? ていうか何で西郡に」
 南は勇利の実家を知っているので、性格的に直接来てもおかしくないと思ったのだが。
 ただよくよく西郡に話を聞いてみると、南は勇利と西郡が幼なじみだという話を誰かから聞いたらしい。それで直接交渉に行く前に、相談にのって欲しいと頭下げられたということだった。
 とはいえだ。正直今の勇利は、それどころではない。子育てに実家の手伝い、さらにアイスキャッスルの仕事もある。それに何より、コーチという柄でもない。
 したがって無理だよと即答すると、西郡は肩を竦めながらだろうなと口にした。
「予想通りの返答だな。でもまあ、こうして南選手ともはち合わせたことだし、ちょっとくらい話聞いてやるくらい構わないだろ。随分前からウチに来て、何とかならないかって頭捻ってたし、熱意は本物だと思うぜ。 おーい南くん、こっちこっち!」
「ちょっ、西郡っ!?」
 そんな勝手に話を進められても困ってしまう。というか彼のライバルはユリオで、ユリオのコーチはあのヴィクトルなのだ。
 ほんの少し前まで、彼らは雲の上の存在だったはずなのに。一気に手の届くところまで近付いてくる感覚に、小さく手が震える。何だかよく分からないが、怖い。
 しかし南はまるでそんなのお構い無しだ。
 西郡のかけ声をきっかけに勇利の存在に気付くと、面白いくらいに顔を真っ赤に染め、恥ずかしか~! と大げさな仕草で照れているのである。
 それから飛び跳ねるようにして勇利の側まで駆け寄ってくると、お久しぶりですと腰を直角に折り曲げられた。
「あ、うん。ひ、久しぶり。ずいぶん身長伸びたね」
「ありがとうございます! おかげさまで、百七十八センチになりました!」
「うわ、そんなに伸びたんだ。抜かされちゃったな」
 初めて出会った頃には、勇利から南の頭のつむじが見えていたのに。今は上を見ないと、彼とは目線が合わないのに月日の流れを感じる。
 しかしそんな感傷的な気分に浸れたのも束の間。再び南は直角に腰を折り曲げ、コーチになってください! と大声でお願いされてしまった。
「そうは言われてもな……ここ数年は、フィギュアスケートの世界からすっかり離れてたし。それに今の仕事もあるから――」
 無理と言おうとしたのだが。西郡が、スケート教室の件なら他の人間に頼めるから気にしなくていいぞーと横槍を入れてくるのである。
 さらには脇のリンクの方からコーチって何? という自分の息子のかわいらしい声が聞こえてきたのに、勇利は顔を思いきりひきつらせた。
「い、今は大事なお話をしているから、あっちで優子ちゃんとスケートの練習をしてて、ね?」
「パーパ、顔怖い」
「怖くないから。いい子だから」
 南はもちろん勇利に子どもがいることは知らないので、息子の存在を知られる訳には絶対にいかない。
 それなのに今の今まで、この状況の不味さに気付かなかった己を責めても、後の祭りである。
 だからせめて子どもの顔だけは見られないようにと、必死に南から離そうとしたのだが。こんな時に限ってヴィーチャは聞き分けてくれない。しかも横の南の反応がここまで一切無いのである。
 したがっておそるおそる隣に立っている南の様子を伺うと、彼はフェンスから身を乗り出すようにしながら勇利の子どもをじーっと見つめていて。
「あれ? この子……ヴィクトルコーチにそっくりばい」
「ぼく、ヴィクトルだよ?」
「……ん?」
 そこで南は、フェンスから身体を起こして勇利のことを見つめる。それから再びヴィーチャのことを見て。そしてポンと両手を打ち鳴らした。
「この子、勇利くんとヴィクトルコーチの子どもかあ!」
「分かった、分かったから! 南くんのコーチするから、絶対他の人にこのこと言わないでね!?」
「えっ! 本当ですか!?」
 途端に南は、ヴィーチャから興味を失ったのか。浮かれた様子で、やっぱり当たって砕けてみるものだと嬉々とした様子で口にしているが、今回はそういう問題ではない。
 しかし南はその勢いのままスケート靴を履くと、西郡に少し滑っても良いかと許可を取りながらリンクに出て行く。
 そしてそこでヴィーチャは、南が先日のアイスショーに出演していたメンバーの一人だと気付いたのか。パァッと顔を綻ばせると、一緒に遊びだした。
「親の心子知らず、だよなあ……」
 この言葉は、まさしく今のような状況に使う言葉だろう。しかしこうなってしまった以上は、文句を言うだけ時間の無駄だ。
 したがって西郡に受け持っているスケート教室の代理をお願いし、さらに勇利が現役を退いてからの主な大会の映像があるかたずねる。すると彼は心得たといった様子で親指を立てて。そしてアイスキャッスルから帰る時に、早速大量のDVDの入った紙袋を渡された。
 かなりのスピード対応に用意周到な雰囲気を感じ取ったが、ここまできたら気付かないフリだ。
 そしてそれから、勇利とヴィーチャは手を繋ぎながら歩いて岐路についた。

「コーチって先生なんだってね、みなみくんがおしえてくれた。それでね、パーパはすごいスケートがうまいから、みなみくんのコーチになってもらうんだって。でもぼく、パーパのスケート見たことないから、こんどみせて?」
「はは。南くん、そんなこと言ってたのか。もう昔みたいに滑るのは無理だろうけど、今度リンクに行ったときにいくらでも見せてあげるよ」
 たったそれだけのことで嬉しそうにうんうんと頷いている姿を見ていると、父親であるヴィクトルの滑りも生で見せてやりたいなあと思ってしまう。
 とはいえ彼が出るアイスショーはいまだに人気だろうから、かなりの入手難易度に違いない。ただ南のコーチもすることになったとなると、上手く行けば関係者席を譲ってもらえるだろうか。なんてずるいことを考えながら、口角を少しだけ上げた。
「パーパ、たのしそう。みなみくんのコーチ、うれしい?」
「うん……そうなのかもしれないなあ」
 もちろん一抹の不安は消えない。でも自分の子どもがフィギュアスケートに興味を持った以上は、いつまでも彼のことを隠し通せないのかもしれないだろうなとふと思った。
 それまで完全に思考停止していた頭を、そろそろ動かしはじめるべき時がきたのかもしれない。
 なんとなく、そう思った。

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