アイル

さよなら運命の人-1

「ねえヴィクトル。右手にあるその痕って、指輪の跡……じゃなくて痣なの?」
 そう勇利が口にしたのは、ヴィクトルと共に初めて迎えるグランプリファイナル直前。ホテルにチェックインをし、手荷物を粗方片付け終えたところでベッドに腰掛けながら一息ついた時のことだった。

 ヴィクトルの右手の薬指の根元には、指をグルリと一周する形で薄ピンク色の痕がある。それはファンの間では有名なことで、プライベートの時にはめている恋人と揃いの指輪の跡ではないかと、この手のことに敏感な女性ファンの間で長らく噂されていた。
 しかし勇利がかれこれ数ヶ月ほどヴィクトルと過ごしてきて分かったことだが、彼がその手の装飾品を身につけているところを見かけたことはまず無い。となると、それは生まれつきの痣で間違いないと思うのだが。
 ただしそれは、見る角度によって影となって本物の指輪のようにも見えるせいだろうか。ずっと身近で目にしている間に、だんだんと暗示的なものを感じるようになって。そして一度そう考えてしまうと、その存在がだんだんと気になってたまらなくなる。
 とはいえだ。彼の右手に指輪跡があるという噂は、メディア等に彼が大々的に取り上げられるたび、まことしやかにSNS上によく書かれていることなのである。そしてそれをマメに活用しているヴィクトルが、その噂に全く気付いていないはずがないと思うのだ。
 となると、それを男の勇利があえて訊ねるのは、女々しくてとっても格好悪いことだろう。
 だから彼とある程度気軽に話せるような関係になってからは特に、うっかりと口にしてしまわないように意識して己の胸の奥底にフタをして押し留めていたのに。
 しかしグランプリファイナルをいざ目の前にしたことで、ヴィクトルとの関係もこれで最後なのだという実感がふつふつと湧いてきたせいだろうか。まるでその感情に押し流されるかのようにフタが緩んでしまい、気付いた時には先のような言葉をするすると口にしてしまっていた。
 そしてそれを口にしたところではたと我に返り、おかしなことを訊ねてしまったと気付いた時にはもう遅い。
 そこで恐る恐る顔を上げると、窓の脇に立っていたヴィクトルは明らかに口元を緩ませながら右手を眼前にかざしているのである。そして勇利と目が合ったところで、惚れ惚れとするような笑みを浮かべながら安心してと口にした。
「これ、ネットでは恋人とのペアリングの跡って言われているんだっけ? もしかしてそれを見て心配になったのかな。でもそういうのでは全く無いよ。勇利の言うとおり、ただの痣」
「……えっ! あっ、いや。ぼ、僕は単純に気になっただけでっ」
 だから他意は無いのだと、いっそ大声で口にしたい。
 しかし目の前の男の緩みきった表情から察するに、勇利のヴィクトルファンとしてのミーハー心が、思いきり筒抜け状態になっているのはほぼ間違いない。そしてこうなってしまっては、言い訳をすればするほど怪しさが倍増するだけだろう。
 そこで全てを諦めてぐうと喉を鳴らしながら、先の言い訳の言葉をなんとか飲み込んだのだが。体温が一気に上昇するのだけは意志の力ではどうにも出来ず、頬が面白いくらい赤く染まっていくのが分かる。
 もちろんすぐにそれに気付いたので慌てて顔を俯け、誤魔化すように小さく咳払いをしてみたりもしたのだが。ヴィクトルはまるで全てお見通しだと言わんばかりに、横に腰掛けてくるあたりが手慣れている。
 そして耳元に顔を寄せてきたのに、嫌な予感がした時にはもう遅い。
「心配しないで、今は勇利に夢中なんだ。恋愛にうつつを抜かしている余裕なんてこれっぽっちも無いよ」
 なんてことを、恥ずかしげもなくとろけるような表情で口にするのだ。
 しかもこれを甘い吐息混じりの囁き声で、なおかつ自分が一番魅力的に見えるようにやってくるから美形というやつは性質が悪い。
 ただし勇利だって、何だかんだとヴィクトルとは数ヶ月もの付き合いだ。したがってこういうタイミングで、彼がこの手の悪ふざけをたびたび仕掛けてくるのは十分過ぎるほど分かっている。
 そうだ。分かってはいたのだが。
「……ッ、は、ぁっ」
 それでもまんまとヴィクトルの策にはまってしまい、口から思わずおかしな空気を漏らしてしまって。そしてその音が耳に入ってきたところではたと我に返ると、目を白黒とさせながら物凄い勢いで上体を後方へ引いた。
「――えっ! あっ、えっと」
 なんだ今の反応はと、自分自身でもひどく戸惑う。
 それにただ座っているだけにも関わらず、現在進行形で心臓がドキドキと大きく脈打っていて、まるで試合の後のようなのだ。
 今まではこんなことは一度も無かったのに。感情がひどく高ぶって、真横に座っているヴィクトルから片時も目が離せない。
 彼のスケーティングを初めて見た瞬間に感じた、魂を大きく揺さぶられるような衝撃に似ているかもしれない。でも今はあの時のような突き抜けていく感覚ではなく、もっと腹の奥底にわだかまるゾクリとしたものだ。
 そしてそれが肉欲に近しいものだとふと気付くと、ひどく動揺してしまい、思わずベッドから立ち上がってしまった。
「勇利?」
 ここ最近は、ヴィクトルのやや濃いスキンシップにもようやく慣れてきて流せるようになってきていたのに。まるで出会った当初のような反応に、案の定ヴィクトルは不思議そうな表情を浮かべながら首を傾げている。
 だからこれ以上怪しまれないためにも、いつもみたいに当たり障りの無い反応をしなければと思うのに。
 あまりにも焦りすぎているせいか、あるいはヴィクトルに対してまさかの感情を抱いてしまったことに驚きすぎているせいか。自分自身でもよく分からないが、どうやって身体を動かせば良いのかまるで分からず、ますますパニック状態に陥ってしまう。
 そして完全に脳内の処理能力をオーバーしてしまったせいで、目を見開いたままの格好で固まっていた時のことだ。ヴィクトルの手が伸びてくると、まるで宥めるかのように、大きな手のひらで頭上に生えている猫耳を撫でつけられた。
 少し驚くかもしれないが、勇利の頭上には濃い茶色で先っぽの折れた猫耳が、さらに今はズボンの中に押し込んでいるせいで見えないものの、尻には毛が長くて太めの尻尾が生えている。しかしながらヴィクトルにはそのような猫耳や尻尾が生えておらず、ごくごく普通の人間であった。
 ただこうして外見の違いがあったとしても、二人とも同じ人間であることに違いなく。彼らは共に猫を祖先をして進化した人間で、この世界の人々は皆そうであった。
 ちなみに耳や尻尾の差異はどこから生まれるのかというと、ごくごく単純にセックスの経験があるかどうかである。体内に自分以外の体液を摂取することで変異が起こり、原始的な要素である耳と尻尾が消失するのだ。
 そして獣の耳は基本的に隠すことが出来ないため、一見してそういった経験の有無が分かってしまう。そのためにほとんどの人間は十代半ばで早々に耳と尻尾を落としてしまうのだが、一部の奥手な人間はそれがいつまでも残っており、勇利もその一人であった。
 とはいえ勇利のように二十代も半ばに差し掛かっており、さらに人前に立つプロスポーツ選手で、未だに耳と尻尾を付けたままの人間はほぼ皆無と言っても差し支えない。
(……まあイタリアのミケーレ・クリスピーノ選手も、僕と同じでまだ猫耳付きだけど)
 それもあって、あんなにもてそうな彼でさえ耳付きなのだから、そう急ぐことも無いだろうと勝手に勇気付けられていた。ただし二十代の耳付きの男が二人もいる競技は、世間一般的に見てもかなりのレアケースなのである。
 というのを頭上の耳に触れられたことで改めて思い出すと、なんだかいまだに子ども扱いされているような気がしてきて。それにちょっぴり悔しい気持ちがこみ上げてくると、それまで高ぶる一方だった気持ちが真逆の感情に引っ張られてか。いくらか静まるのを感じる。
 そしてそれと同時にあのヴィクトルに対して邪な感情を抱いてしまった事実を改めて自覚し、彼にそれがバレていやしないかと一気に血の気が引いていく感覚を覚えた。
「落ち着いた?」
「う……ごめん」
 俺も驚かせて悪かったよと謝られてしまうが、一番悪いのは彼に対してそういう感情を抱いてしまった自分自身だ。それがよく分かっているので慌てて首を振ってヴィクトルは悪くないからと主張する。
 彼とは同じ男なのに。そういう感情を抱いてしまうなんて、今日はちょっとおかしい。
 とはいえ耳が落ちる前の見た目の性別はあくまでも仮のもので、その後の経験によって身体の内部構造が雌雄どちらにも分化し得るというのは小学生高学年の保健体育で習うことである。
 ただ、やはり多くの人は外見の特徴に則って男女でカップルになることがほとんどで、勇利もそういった常識にとらわれがちな典型的な日本人である。
 というかそれ以前にあの憧れの存在であるヴィクトル相手にそんなことを考えるなんて、有り得ないだろうと即座にしょうもない妄想を全否定しながら小さく息を吐いた。
「はあ」
 こんな馬鹿げたことを考えてしまうのは、大会前の緊張感から久しく抜いていなかったからに違いない。
 きっとそうだと考えながら再びベッドに腰掛けると、右手を取られ、薬指の根元あたりを指先でゆっくりと撫でられた。
「勇利は、俺みたいに自然に出来た痣は無いの?」
「え? 無いけど」
 それこそ両足には、スケーターにありがちな練習時に出来た紫色の痣が山ほどある。しかし自然にと言われると、思い当たるものは全く無い。
 というかそれ以前に、痣って勝手に出来るものじゃないと思うんだけどと根本的な疑問を口にすると、何故か物珍しいものを見るかのように目を見開かれて。さらにもしかして知らないのと疑問の言葉をかけられたのに、訳が分からず首を傾げた。
「ごめん。まったく話が見えないんだけど、どういうこと?」
「俺の右手のこれみたいに、ごくごくたまに自然に痣が出来る人間がいるんだよ。それで同じ痣がある者同士は、運命の相手っていうやつなんだって」
「えっ、そうなの?」
「はは! なんて、ね。俺も知り合いから聞きかじった程度の知識だからどこまで本当なのかは知らないけど。でも本当だったらロマンチックで素敵な話だなって思ったから、ちょっと調べてみたことがあるんだ。そしたら、統計的にあながち的外れな話でも無いらしくて」
「そんな話、全然知らなかった」
「まあ、そもそもこういう痣を持ってる人間の数も相当少ないみたいだからね。話題に上ることも少ないから、痣がある人間くらいしか知らないんじゃないかな」
「そっか……」
 さすがヴィクトルと言うべきか。数少ない痣を持っている選ばれた人間でもあるという事実に、羨望のような感情が胸の内に生まれる。そして勇利には、それが無かった。
 だからまあ知らないのも当然かと考えるものの、視線の方は正直なもので、ヴィクトルの右手の痣に釘付けである。
 それから彼に掴まれている自身の右手に目を向けて。そこにはやはり何も無かったのに、無意識に小さく息を吐いた。
「お揃いの痣か……なんか、すごいね。場所だけじゃなくて形まで同じ痣となると、まず有り得ないだろうって思っちゃうなあ。実際に見たら、確かに運命感じちゃうかも。……ヴィクトルもその相手を探してるの?」
「うーん、この話を聞いた当初は気になってすぐに相手のそこに目がいってたけど、今はそうでもないかな。でもまあ無意識に目がそこにいってることが多いし、全く気にしてないっていうと嘘になるかもしれないね」
「そう、なんだ」
 その気持ちは分からないでもない。
 しかしそれと同時に、ヴィクトルと揃いの痣を持っている相手が羨ましくてたまらない気持ちが胸中にじわりと広がるのを感じる。そしてそれは嫉妬といっても差し支えないほどの強い感情だったのに、同時に戸惑いを覚えた。
(なんだ、これ)
 先ほどの口振りから察するに、ヴィクトルには現在恋人がいないらしい。
 でも勇利のコーチになる以前には、モデルやら女優やら。絵に描いたような美人な女性とデートしているところをよくパパラッチされては、定期的に世界のメディアを賑わせていた。
 もちろんヴィクトルオタクである勇利が、そのニュースを見逃すはずも無いだろう。
 でもその時には、こんな美人と付き合っているなんてさすがヴィクトルだなあと憧れと尊敬の眼差しを向けていたのに。
 それがどうして、一転してこんな負の感情を抱くようになってしまったのか。まるで訳が分からない。だってこれでは……本当にそういう意味で、彼に恋をしているみたいというか。
 そしてそこで久しぶりに思い浮かべた「恋」という単語に驚き、思わず息をのんだ。
「――っ、」
 十代の頃に優子に抱いていた淡い薄桃色の感情を恋とするならば、これはそれ以来の感情だ。実に数年ぶりに胸の内に広がる甘酸っぱい感覚に、喉元と胸のあたりがきゅっと締め付けられる。
 しかしそれと同時に胸の内にああそうなのかとストンと落ちるものがあるのも事実で。
 そのように感じるのは、恐らく自分自身でもヴィクトルに対する憧れの感情が、憧憬という一言では片付けられないほどに大きくなっているのを無意識に感じ取っていたからだろう。
 ただしそんな恋心の中に明らかに肉欲がちらほらと顔を覗かせていることにすぐに気付くと、やや茶色がかった黒い瞳を小さく揺らした。
(こんなの、だめなのに)
 恐らくは直前にろくでもないことを考えていたせいだろうが、たったそれだけでこのザマとは。これだから恋愛事に不慣れな童貞は困るのだと自分で自分にきつい突っ込みをいれ、真横にいるヴィクトルに動揺を悟られないように努める。
 しかしそんなものは悪足掻きだといわんばかりに、唐突にヴィクトルのスカイブルーの瞳が眼前に迫ってきて。おかげでやっとの思いで取り繕っていた仮面をいとも簡単に引き剥がされてしまったのに、挙動不審にパクパクと口を開閉していた時のことだ。
 彼は首筋に顔を近づけてくると、鼻を小さく鳴らしながらそこの香りを嗅いできたのに、勇利は口元をひきつらせた。
「えっ? えっ?」
 ホテルにチェックインしてからまだシャワーを浴びていないし、ヴィクトルみたいに香水を付けているわけでもない。だから移動時にかいた汗のせいで、臭いこと間違い無しなので居たたまれないなんてものではない。
 というかそれ以前に何故そんなことをしてくるのやらである。
 したがって慌ててヴィクトルの両肩を手で押すと、意外にも呆気なく彼の身体が離れていって。それに胸を撫で下ろしたのも束の間。
「――うん、やっぱり気のせいじゃない。勇利、発情してる?」
「はっ、はつじょうっ!?」
 そこでまさかの。予想の斜め上をいくとんでもない言葉をかけられたのに、勇利は思わずヴィクトルの言葉を馬鹿みたいに復唱してしまった。

 ヴィクトルが口にしたはつじょうとは、いわゆる発情のことだろう。
 これは祖先である猫の特性の一つであり、人間に進化した今でも引き継がれているものだ。そして基本的に女性にのみ見られる症状の一つなのだが。
 頭上の猫耳が落ちる前――つまり性別が完全に分化する前の十代中頃。ちょうど第二次性徴期の頃合いに、雌雄問わずに誰しもがこれを経験する。そしてこの発情という症状をきっかけに、耳を落とす者が多かった。
 しかしながら勇利は、生まれてこのかた二十四年もの間、一度も発情というものを経験したことが無い。だから未だに耳が付いているのは仕方がないというのは、自分自身を慰めるための常套句の一つであるのだが……まあ、それはともかくとしてだ。
 発情期を迎えることに関しては、正直半ば諦めかけていたところがある。それだけにこの歳にしてようやくそうではないかと言われたのに、安堵感を抱かなかったと言ったら嘘になる。
 しかしすぐそこにヴィクトルがいて、なおかつグランプリファイナルを直前に控えている今の状況下でとなると話は全く別だ。
「なんだって、こんなタイミングで……っ!」
 でも今のところは発情期らしい症状なんて全く無いし、となると大会も問題無く出られるかなとブツブツと独り言を呟く。
 というか義務教育時代に習った教科書の知識によると、発情期というやつは理性ではどうにもならないほどの強烈な衝動のはずなのだ。加えて発情時のフェロモンを男性が嗅いでしまうと正気を保つことが難しくなるので、互いに十分に注意しなければならないと習ったはずなのだが。
 現在勇利は普通に話せているどころか、身体の方もほぼ普段と全く変わりが無い。それに目の前に座しているヴィクトルだって、普段と変わった様子はまるで無いのである。
 したがって発情期と言うわりにはいつも通りの状況なのに違和感を抱くと、胡乱な表情をありありと浮かべながら目の前の男に視線を向けた。
「あのさ、僕のことまたからかって遊んでない?」
「心外だなあ。こんな大事なことで、からかうわけ無いじゃないか」
「ええ……?」
「でもまあ、厳密に言うと本格的な発情期っていうわけではないだろうけどね。ただ時期が近くなると、それっぽい香りがすることが多いんだよ。それに勇利は香水とか付けないだろう? だからそうじゃないかって思ったんだ」
 そこでまだはっきり匂ってるわけじゃないんだけどと口にしながら、再び頭上の猫耳に手を這わされて。耳の根元の毛を逆立てるように指先でゆっくりと撫で上げられると、その瞬間にゾクリとした覚えのある感覚が下肢に広がったのに思わず背中をピンと伸ばした。
「う、ひっ!?」
「ていうかその様子だと、本当に全く気付いてなかったのかな。普通は体温が上がって落ち着かない感じがするから、わりとすぐに分かると思うんだけど……とかなんとか言いつつ、俺自身も大分昔の話だからあんまりよく覚えていないんだけどね。
 でもまあ、勇利ってまだ可愛い猫耳も付いたままだし。そういう反応をされると、本当にこういうことが初めてみたいに見えるっていうか」
 そういうのも新鮮で興奮するねと独り言を呟くように口にしているのを、どこか他人事のように聞く。
 そして頭上の耳に添えられていた指先が、今度は毛並みを整えるように撫でつけてくれるのを享受しながら、無意識にごろごろと甘えるような声を喉から漏らして。それから確かにいつもよりも落ち着かない感じがあったのは確かだなあと、ぼんやりとする頭で考えた。
(おかげでヴィクトルの毎度のスキンシップにも、なんか変な気分になっちゃうし)
 さらにはそれをきっかけに、彼に抱いている恋心にまで気付いてしまったのだ。
 そしてうっかり、そんな風に恋愛絡みのことを思い出してしまったせいだろうか。その相手からこうして思わせぶりに触れられているのだという事実を認識すると、途端に体温がグッと上昇する感覚に目元がほんのりと熱くなる。
 でもこれ以上は、主に下半身的な理由で色々と不味い感じがする。だから身体の中にたまる一方の熱を少しでも追い出さなければと無意識に唇を薄く開くと、それまで思わせぶりに耳の付け根を撫でていた手が、不意に頬を伝って口元まで下りて来るのを感じる。
 しかしその途中で件の痣が偶然目の端に映ると、それが目の奥に強烈に焼き付いて。その瞬間にそれまで霞みがかっていた視界が、一気にクリアになるような感覚を覚えた。
「ああ……」
 今はその存在が明らかになってはいないものの、その指輪のような痕を持つ者がこの世にもう一人いるのだ。そしてその相手がヴィクトルの運命の相手なのである。
 それは薄桃色で、一見すると本物の指輪のようにも見える綺麗な痕なのに。勇利にとっては、自覚したばかりの恋心をギリギリと締め付けてくる鎖のように思えてくる。
 おかげで今にも溢れ出しそうなほどに高揚していた気分が、面白いほど一気に萎んでいって。それと同時にそれまでの明らかにその場の雰囲気に流されていた自分自身の醜態を思い出し、途端に羞恥心がこみ上げてくるのを感じる。
 そして次の瞬間には、いつの間にか唇をなぞっていたヴィクトルの手を、手の甲で脇に軽く押し退けていた。
「あの、ごめん。こういうのは」
「……ん? 駄目なの?」
 急にヴィクトルの動きを遮ったので、理由くらいは聞かれるかもしれないと思ったのだが。意外にもすんなりと手を引いてくれたのに、少々肩透かし感を覚える。そしてその直後に、勇利は真面目だなあと軽い口調で口にしているのが聞こえてきた。
 その口調から察するに、彼は性に開放的なタイプの人間で、先の行為も彼にとっては戯れの延長のような行為なのだなと薄っすらと感じた。
 とはいえ勇利に出会う前のヴィクトルの恋愛遍歴はかなり華々しいものだったので、それも予想通りのものではある。
(それに……そもそもそういう考えの人の方が圧倒的に多いしな)
 恐らくは頭上の耳の有無で、即座にセックスの経験が有るかどうか分かってしまうのと、あとは男女ともに発情期という性に極めて奔放になる特殊な時期を経験するせいか。この世界の大人は、性に関して開けっ広げの人がとにかく多かった。
 ただし勇利はその発情期を経験したことが無いので、彼らとはまるで真逆の貞操観念がガッチガチに固い人間になってしまったのだが。
 なんてことをヴィクトルのことをぼんやりと眺めながら考えていると、唐突に肩を押される。そして気付いた時にはベッドの上に仰向けの格好で倒れ込み、顔の両脇に手を置く格好で覆いかぶさられていた。
「えっと……ヴィクトル?」
 当然、何がどうしてそうなったのか。さっぱり訳が分からない。
 したがってすぐに驚きに目を見開きながら顔を上げると、ヴィクトルは目があった瞬間に目蓋をスッと細め、思わせぶりに首を小さく傾けるのだ。
 その仕草は何気ないものにも関わらず洗練されたもので、思わず見とれてしまう。しかしその直後に口にされた言葉は、その様子とは正反対の内容であった。
「勇利も発情期になりかけてるみたいだし。せっかくだから、俺がこの耳を落としてあげようかって思ったんだけどな」
「!?」
 そこで彼のまとっていた雰囲気が、先ほどまでの余裕を含んでいた空気感から一転。壮絶な大人の色気を含んだものに変化したのは、きっと気のせいではないだろう。
 さらにはまさかの、セックスへの誘いの言葉である。
 もちろん勇利は、こんなことは生まれて初めての経験なので驚いたなんてものではない。
 おかげで直前にようやく凪いだ感情が再び大きく波打ってしまい、思わずゴクリと喉を鳴らしてしまう。
 ヴィクトルには運命の相手が他にいて、だから自分自身のこの恋心は不毛だ。それに改めて気付いて、流されかけていた気持ちにようやく一区切りついたところだったのに。
 まるでそんな心の緩みも全てお見通しだと言わんばかりの絶妙なタイミングでの揺さぶりに、面白いくらいに翻弄されてしまう。
 おかげで彼に耳を落としてもらえるのならば、一度くらいは関係を持ってもいいだろうか。なんて馬鹿な考えまでちらりと思い浮かんでしまう始末である。
「――って、いやいやいや、ちょっと待って」
 しかし胸に手を当てながら大きく深呼吸をし、かき乱された気持ちを再びなんとか落ち着ける。そしてこの平凡と地味という言葉を絵に描いたような耳付きの勝生勇利という男に対して、相手に不自由しないであろうヴィクトルがそのような言葉をかけてきた不自然さに思い至る。
 それをきっかけに彼が先ほど甘い匂いがすると口にしていたことを芋づる式に思い出すと、そういうことかと合点がいく感覚がした。
(つまり……ヴィクトルは、僕の発情臭に流されてるってことだよな)
 本格的な発情では無いとは言っていたものの、香りに反応していたのは確かだ。だから先ほどの言葉に、それ以上の理由は一切無い。
 つまりここまでの一連の行動は、彼にとっては遊びの延長線上のようなものにすぎないのだ。
 そしてそれは、所詮その程度の存在でしかないのだと遠回しに言われているような気がして。それに気付いた瞬間、胸がズキリと痛むような気がした。
 でも、そもそもそんな風に感じること自体がおかしな話なのだ。
 だってヴィクトルと勇利は、ただのコーチと生徒で。それこそ紙切れ一枚の契約書の上に成り立っている関係にすぎないのだから。
 そんなの今さら改めて考えるまでもなく分かりきっていることだけに、それらしい言葉をちょっとかけられただけで、ほんの一瞬でもその気になりかけたのが急激に恥ずかしくてたまらなくなってくる。
 だからわざとらしいのを承知で、真正面から合っていた目線を無理矢理引き剥がして横にそらした。
「勇利?」
「あーっと……いや。ほら、これ以上本格的に発情しちゃって、大会に影響が出ちゃっても困るからさ。専用の薬、飲むよ」
「専用の薬って、抑制剤のこと?」
「そうそう、それ。でも僕、まさかこんな風になるとは思ってなかったから持ってなくて。薬局に買いに行かないとなんだ」
 ちなみに薬を持っていないというのは、本当のことだ。とはいえ十代の頃までは、親から持っていなさいと手渡されたのもあって、惰性とはいえ一応きちんと持ち歩いていたのだが。二十代になると、だんだんと面倒になってきたというかなんというか。
 まあそんな言い訳を言っても仕方が無いので、とりあえずちょっとごめんと、ヴィクトルの胸元を押して彼の身体の下からいそいそと抜け出す。そしてこれまたすんなりと脱出出来たのにほっと胸を撫で下ろしていたのだが。
 立ち上がろうと一歩足を踏み出そうとしたところで右手首を軽く掴まれたのに顔を上げると、ヴィクトルは俺の薬をあげるよと口にした。
「えっ、でも」
「そこら辺で売っている薬を適当に買って飲んだら、ドーピング検査に引っかかるかもしれないだろ? 俺のはちゃんと問題の無いやつだから」
「あ。そういえばそっか」
 まさかの恋心の自覚に、初めての発情の兆し。さらにはヴィクトルからのセックスの誘いと、有り得ない事態が一度に起きたせいで、ドーピングという重要な問題をすっかり失念していたのにはっとする。
 するとしっかりしてというように、背中を軽く叩かれて。それからヴィクトルは何事も無かったかのようにベッドから立ち上がると、部屋の壁際に置いてあったスーツケースの中からピルケースを取り出して目の前に差し出してくれる。
 それに礼を述べつつ受け取ろうとしたのだが。掴む前にスッと頭上に持ち上げられたせいで、伸ばした手は虚しく空を掴んだ。
「あっ」
「今度から、薬はちゃんと持ち歩かないと駄目だよ。特に勇利は耳付きなんだから、定期的に飲んで発情の時期をコントロールしないと。まあ、今回は幸いにして兆候程度だったみたいだけど。もしも思わぬ場所で本格的に発情しちゃったら、最悪全く知らない人とセックスすることになっちゃうかもしれないんだからね。
 それに大会の会場で、お客さんの中で発情しちゃう人がいないとも限らないんだよ? まさか試合中に抑制剤を飲んで無い、なんてことは無いよね」
「……」
 すべてヴィクトルの言う通り、そして予想通りだ。
 自分にはどうせ発情期は来ないだろうと高をくくっていたのもあり、抑制剤絡みの件に関して勇利は完全に無頓着である。
 したがってぐうと喉を鳴らしながらごめんなさいと口にすると、手の平で頭をポンポンと軽く叩かれてしまった。
「まさかそんなはず無いと思ってたから今まで確認してこなかったけど、そのまさかとは。試合中に抑制剤を飲めって言う決まりがあるわけじゃないけど、何があるか分からないんだから自衛しないと」
「はい……」
 そこでようやくケースを手渡してくれたので、ややしょんぼりとしつつその中から錠剤を一粒取り出し、口内へ放り込んだ。
 抑制剤を飲んだのはこれが生まれて初めてのことだったが、舌の上に広がる味はひどく苦いもので。出来ればもう、飲みたくないと思った。

 それから時差ぼけを解消するためにすぐにベッドの中に潜り込んだのだが、なかなか眠りにつけなかったのは言うまでもないだろう。
 ただ身体の方は長旅で少なからず疲労していたのか。このまま永遠に眠れなさそうだと思っていたはずが、次に気付いた時には数時間も経過していたのに、思っていたよりも図太い自分自身の神経にやや呆れる。
 そしてスマートフォンを取り上げてSNSをチェックしていると、JJが恋人の女性とお揃いで付けている指輪の写真が偶然目に入って。
 その瞬間にふと脳裏に閃くものを感じた翌日には、勇利もヴィクトルと揃いのペアリングを購入していた。


■ ■ ■


「凄いもの、渡しちゃったよなあ……」
 それから勢いでペアリングを購入し、ヴィクトルに手渡した日の夜。
 ヴィクトルが部屋のシャワーを浴びている隙に、勇利はベッドに寝転がった格好で眼前に右手をかざす。するとそこにはめられている見慣れぬ金色の輪っかに天井のライトが反射し、キラキラと美しく光輝いていた。
「試合中も付けられるし、お守りっぽくていいなって思ったんだけど。やっぱりちょっと変な感じだ」
 恐らくは、普段アクセサリー類を一切身に付けないせいだろう。その光景も着け心地も、ひどく違和感がある。
 ただなんだかんだと言いつつも、胸の内に満たされる感覚が広がっているのも事実で。意味もなくその指輪を眺めては、胸の奥底からひっそりと湧き上がってくる幸福感に浸った。
 そしてある程度の満足感を得たところで、視線をチラリとシャワールームの扉の方へ向ける。それから音を立てないように細心の注意を払いながら上体を起こすと、人間と猫の耳の両方をそばだてた。
「ヴィクトルは……この感じだと、まだしばらく出てこないかな」
 微かに聞こえてくるシャワーの水音は、まだ勢いが良い。
 そこで視線をシャワールームの扉に固定したまま、おずおずと左手を右手の薬指に這わせる。そして先ほどまで飽きずに眺めていた金色の指輪を、今度はゆっくりと外し――するとそこにヴィクトルの右手の痣と似たような痕がついていたのに、ほうと小さく息を吐いた。
「もしかしたらって思ってたけど、やっぱりだ」
 実際にその薄桃色の痕を目にすると、思った以上に高揚する感覚を覚えてじわじわと頬が赤くなっていくのが分かる。
 しかしあまりにその痕に集中していたばかりに、左手から指輪が滑り落ちて。ベッドの上にぽすりと落ちたところで、はっとして目蓋を数回瞬かせる。
 それから気まずい気持ちを誤魔化すように、意味も無く小さく咳払いをしながら指輪を拾い上げて指にはめ直した。
「はあ……試合前に何やってんだか」
 冷静になってここまでの己の行動を思い返してみると、初めて恋というものを知った小学生のごっこ遊びのようで、自分自身で恥ずかしくなる。
 そしてそれを二十代半ばの成人男性がやっているのだから始末におえない。というか、正直ちょっと気持ちが悪い。
 しかしそう思いながらも、指輪をやっぱり外そうと微塵も考えないあたり、もうどうしようもないだろう。
「でもこの指輪がお守りにいいかもって思ったのも、本当なんだよな」
 ただそれに付随する形で、それ以外の色々な感情が複雑に絡み合っているというか。
 そしてそれらが絶対にどうにもならないということが分かっているからこそ、決して満たされない感情をこうして一人でひっそりと思い返しているのである。
 そこでちょうどこんな具合にと思いながら再び右手を目の前にかざし、親指で少しだけ指輪の位置をずらす。しかしそこには先ほど見た綺麗な円状の痕は無く。薄桃色が広がったせいで、輪郭がぼんやりとした圧迫痕しか残っていなかったのにちょっぴり眉根を寄せてしまった。
「あーあ」
 揃いの痕をまた見られると少なからず期待感を抱いていたのもあり、思いがけずこれは偽物なのだと突きつけられたみたいでガックリくる。
 恐らく直前に一度付け外しをしたので、指輪の痕が周りに広がってそんなことになってしまったのだろう。それもあいまり、まるで回数制限のある魔法みたいに思えた。
「本物だったらいいのになあ……」
 そうしたらこんな思いをしなくて済むのにと思う。
 でもすぐに考え直すと、目元を腕で覆いながらやっぱりこれでいいやと力無く呟き直した。
「本物そっくりだったら、勘違いしちゃいそうだ」
 だからきっと、このくらいの紛い物具合がちょうど良い。

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