アイル

さよなら運命の人-2(R18)

「あのさ……一応理由を聞くけど。何でヴィクトルは僕のベッドの中に入ってきてるわけ?」
「何故って、勇利がこのベッドで寝ているからじゃないか」
「いつもそれ言ってるけど、全然答えになってないよね」
 なんかすごく哲学的で意味が分からないんだけどと真顔で返すと、そのままの意味なんだけどなと肩を竦められてしまった。
 おかげで勇利は、自分がとんでもなく間抜けなことを聞いているような気さえしてくる。そしてこれ以上いくら彼とこの論議をしたところで、平行線を辿るだけだというのはこれまでに何度も経験済みだ。ついでに言うと、結局最後に根負けするのは必ず勇利の方なのである。
 したがってその日もそこで全てを諦めると、一度目を閉じて。それから数秒経過し、いくらか気持ちが落ち着いたところで再び目を開ける。
 そして目の前に座している男の頭の天辺から足下までざっと目を這わせ、毎度のごとく全裸なのを確認すると、額に手を添えながら呻くような声を漏らした。
「またそれなんだから」
「裸はいいぞ。シルクの寝具だと、この滑らかでひんやりした肌触りが気持ちよくて最高なんだ。勇利もそんなジャージなんて無粋なポリエステル素材をわざわざ着てないで、この感触を楽しめばいいのに」
 心底理解出来ないといった表情で勇利が着ているジャージの袖部分を指先でつままれるが、正直余計なお世話である。
 彼の美しいスケーティングは真似したいと思うが、こういうところまではご遠慮願いたい。したがって彼の手から逃げるようにベッドから抜け出すと、部屋の隅に置いてあるチェストに向かう。そしてその中から面積の小さな黒い布――ヴィクトルの下着を取り出した。
 ちなみに何故そんなプライベートなものが勇利のチェストの中にあるのかというと、単純に彼の部屋まで一々取りに行くのが面倒だったので、少し前から数枚拝借して置かせてもらっているというだけだ。だから決してやましい気持ちからではないということだけは、はっきりと明言しておく。
「勇利は用意周到だなあ」
「用意周到なんじゃなくて、必要に迫られた結果だよ。ていうかその原因は、ヴィクトルなんだからね? この下着もどうせ履いてくれるんなら、脱がないでこっちに来てくれればいいのに」
「へえ……ってことは、下着を履いてこの部屋に来たら、怒らないで添い寝をしてくれるんだ」
「はいはい。人の揚げ足取ってないで、早くこれ履いて」
 深層心理を見抜かれたみたいで一瞬ドキリとするものの、すぐに我に返ると手に持っていた下着を照れ隠しにやや乱雑に差し出す。するとそんな勇利を見ながら、ヴィクトルは軽快な笑い声を上げていた。
 その様子から、ただ単にからかわれているだけというのは明白であった。

 そんなこんなで。単なる師弟関係――のわりには明らかに濃すぎるスキンシップを勇利が仕掛けられているのは、二度目のグランプリファイナルを終え、ロシアのサンクトペテルブルクにあるヴィクトル邸にて、年明けに日本へ向かうための荷造りをしつつ、束の間の休息を取っている時のことだった。
 しかしながら勇利はというと、先のようにヴィクトルが暇さえあればきわどいちょっかいを出してくるせいで、心の底から休まる時間は実際のところほとんど無い。
 とはいえだ。ヴィクトルがスキンシップ過多気味なのは出会った当初からのことであるし、思えば日本の実家にある温泉では、彼と裸の付き合いまでしている。
 だから添い寝もその延長のことだと思えば……ということは、毎度頭の中で念仏のように繰り返し唱え、何とかこの状況を切り抜けようとはしている。
 ただ勇利はヴィクトルへの恋心を自覚してから一年が経過した今でも、その想いはまるで色褪せておらず。もはやそんな思いこみで、どうにかなるものではないのだ。
 ということは、もしかして添い寝をするほどの関係になったのかと言うと、そんなことは全く無く。ヴィクトルの仕掛けてくるスキンシップは全て、完全に彼の気まぐれでしかない。なおかつ勇利自身想いを告げるつもりが毛頭無いからこそ、現状にほとほと困り果てているのであった。
 しかし当のヴィクトルは、そんな勇利の気持ちなどまるで気付いていないのだろう。
 勇利が毎回勘弁してくれと必死に頼み込んでも、まるでどこ吹く風といった様子で。のんきな様子で笑いながら、寒くなってきたから人肌恋しいんだよねとか自分勝手なことを言いながら右から左に流すのみであった。
「はあ……ほぼ毎晩安眠妨害されてるせいでかなり寝不足気味だし、そろそろ本当に勘弁して欲しいんだけど」
 それによくよく考えてみると、去年の寒い時期はこんなこと一度も言われたことが無かったのにという感じである。にも関わらず、今年は何故こんなにも大騒ぎをしているのやら。さっぱり訳が分からないのに、これよみよがしに再び大きく息を吐く。
(――いや、でもちょっと待てよ?)
 あるいは勇利が鈍感なせいで全く気付いていなかっただけで、去年はそういう存在がいた可能性だってなきにしもあらずなのだ。
 ただしそうなると、そういう相手がいるにも関わらず勇利にセックスをしようと持ちかけてきたことになる。しかしあの時のことを思い返してみると、ヴィクトルは勇利のフェロモンの香りをはっきりと嗅ぎ取っているような発言をしていたのだ。
 ということは、勇利自身にも少なからず責任があることになるわけで。そうなるとそれで気分を悪くするのもお門違いかと考え直す。
 したがってだから発情期ってやつは嫌いなんだと頭の中でぼやきつつ、ベッドの上に仰向けの格好で勢いよく倒れ込んだ。
「ヴィクトルもさ、僕なんかと添い寝してないで、綺麗な女の人とでも添い寝しなよ。心配しなくても、ヴィクトルのプライベートに立ち入るつもりなんて、毛頭無いし」
「心外だなあ。俺は誰彼構わずこんなお願いをするほど、軽薄じゃないつもりだけど。勇利だからこそ、言っているんだよ」
 とかなんとか言って、過去パパラッチされたデートシーンで彼の横に立っていた人は、皆綺麗な女性だったではないかという感じである。そして勇利は相変わらずまだ頭上に耳が付いているので、最終的な性別が決定する前段階ではあったものの、外見上はどこからどう見ても立派な男であった。
 つまり彼の趣味趣向から大きく外れているのは明白である。したがって適当なことを言ってるなあと思いながら胡乱な視線を彼に向けると、右手が伸びてきて。不意打ちで顎下をこしょこしょとくすぐるように撫でられたせいで、年甲斐もなく甘えるようにゴロゴロと喉を鳴らしてしまった。
「まったく。最初のころはあんなに初々しかったのに、最近はつれないことばっかり言うんだから。俺のことをそうやって簡単に袖にするのは、勇利くらいなものだよ。
 ――でも、まだ耳が付いたままなんだよね」
「んん……っ、ぅ」
 ヴィクトルの言う通り。勇利の頭上には先の折れた猫耳が、さらに尻には太い尻尾が未だにくっ付いたままだ。そしてそんな調子なので、もちろん一年前のあれから、発情期らしいものは一度も経験していなかった。
 ちなみに野生の猫と同じようにゴロゴロと喉を鳴らす行動は、耳付き独特の仕草の一つである。そして先にも述べたが、そもそも耳付きの人間は二十代になるとほとんどいない。
 つまり今の勇利のように二十五歳にもなって人前で喉を鳴らすことはとても恥ずかしいことなのだとそこでようやく気付くと、それまでのうっとりとした表情はどこへやら。途端に尻尾の毛をぶわりと逆立てながら顔をひきつらせる。
 そしていつの間にかだらしなく開いてしまっていた唇を右手で隠しながら、ヴィクトルがいるのとは反対側へ身体を向け、顎下に添えられていた指先から何とか逃れた。
「うん? 気持ちよさそうな声出してたのに、なぜ逃げる?」
「い、いや。だって、ね」
 この年で喉を鳴らす人っていないから恥ずかしいしとぼそぼそと口にすると、二人きりなんだから気にすること無いのにと笑われてしまう。しかし勇利にとってはそれが問題というか。やっぱり好きな人の前では、みっともないところは極力見せたくないと思うのは、普通の心理だろう。
 とはいえヴィクトルにはぐちゃぐちゃな泣き顔まで見られているので、今さらではあるのだが。ただそんな風にみっともない顔を晒す原因は、大体がスケートに関することなので今回の件とはまた別次元の問題なのである。
 ともかく寝る前なのに微妙な空気にしてしまって不味ったなと、頬をやや赤く染めながら挙動不審にきょろきょろと目線を泳がしていた時のことだ。
 そこでヴィクトルが何かを思いついたのか、そういうことかと独り言を口にしたのにおずおずと顔を向けると、彼の口元には綺麗な弧が描かれていた。
「思ったんだけど。勇利がいつも逃げるのって、日本語の『いやよいやよも好きのうち』っていうやつなんじゃない?」
「一体どこでそんなしょうもない日本語を……。ていうか全然そういうのじゃないから」
 そもそも今の顎を擦られたのだって、もっとやって欲しいなんて考えてないしと思い返しながら、すぐにはっきりと否定の言葉を口にする。
 しかしヴィクトルはそれでも納得していないのか、自身の顎を指先で擦りながら考えるような素振りをしていて。それにものすごく嫌な予感を覚えつつも渋々と何故そう思ったのと先を促すと、彼は待っていましたと言わんばかりに勇利の肩に手を添えるのだ。
 そして次の瞬間には向かい合う格好になるよう上体を軽々と反転させられ、瞳を覗きこまれていた。
「本当に? 俺は、勇利が本心からそう思っているとは思えないんだけどなあ。だってさっき顎の下を撫でてあげた時だって、最初は素直に喉を鳴らしてたじゃないか。それって、気持ち良いからだろう?」
「ちょっ、ちょっとっ――ん、んんっ、ぅ」
 そこでこんな風にねというように再び指先が頬に這わされ、それが顎までツーッと下りていく感覚に、これは不味いと慌てて身体を後方に引こうとする。
 しかし用意周到なことにもう片方の手を尻に添えられていたせいで、その手に自ら押しつける形になってしまって。
 おかげで驚いたのと、微妙にいたたまれないのとでヴィクトルの手の中から逃げそびれてしまい、結局与えられる緩やかな刺激にくんくんと小さく鼻を鳴らしてしまう。すると今度は耳元に唇を近付けられ、吐息をふっと吹きかけられた。
「勇利、身体は嘘を付けないんだよ。勇利のことだから、いつも我慢ばかりしているんだろう? だからたまには、ご褒美をあげても良いんじゃないのかなって思うけど。心配しなくても、耳を落とすことはしないから」
 甘い声音で囁かれたその言葉は、蜂蜜のようにべっとりとした粘度があり、勇利の脳裏にこびりついてなかなか剥がれない。
 もちろん頭の中では、ご褒美って何だとか、耳は落とさないってどういうことだとか、そんな疑問の言葉がグルグルと回っている。でもその一方で、いつもの添い寝とは明らかに異なる色を含んだ空気感に、少なからず高揚感を抱いている自分もいて。
 でもこれ以上は明らかに不味いと、なけなしの理性の声にしたがって目の前の厚い胸板を両手で押し返そうとする。
 ところがそんなときに限って、それまで尻の上部あたりに添えられていた手が、尻の丸みを確認するかのように殊更ゆっくりとそこを撫でるのだ。
 それに思わず息をのんで全身を強ばらせると、これ幸いといわんばかりに両足の間に膝が割り込んでくるのである。そして互いの体温と息遣いをはっきりと感じ取れるほどに身体を密着させられたのに、頬を真っ赤に染め上げながらパクパクと口を開閉した。
「ちょっ、ちょっと! いくらなんでも近すぎだってば!」
「そう? 去年のグランプリファイナルのエキシビションの練習をしてた時だって、このくらい近かったじゃないか。あの時の勇利は、最初に少し照れてただけで、すぐに慣れてた気がするんだけど……それなのに今日は随分と恥ずかしそうだけど、どうして?」
「――っ、」
 そこでさらに顔を寄せられ、首を小さく傾げられる。
 しかもそれを今にも唇同士が触れてしまいそうなほどの超至近距離でしてくるあたり、下心までバッチリと見透かされているような気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
 その証拠に、股間部分にさらに強い力加減で腿を押しつけられて、陰茎全体を軽く押し上げるように圧迫してくるのだ。
「は、うう……っ!」
「ふふ、可愛い声。その調子その調子。我慢ばかりしていたら、よくないからね」
 エキシビションの練習の時は、まだ己の恋心を自覚していなかったのもあってすぐに練習に集中することが出来たというだけだ。
 ただそんなことを馬鹿正直に言えるはずもないので、あの時はヴィクトルもちゃんと服をきていたじゃないかとか、エキシビションのための練習時間がほとんど無かったから、恥ずかしがっている余裕も無かったんだとか。そんな苦し紛れの言い訳を必死に絞り出す。
 しかしそもそも十二月はグランプリファイナルに全日本と大きな試合が立て続けにあるので、いつも気付くと禁欲生活を送っている状態だ。もちろんそれは今年もそうで、そんな状態のところにこんな風に直接的な刺激を加えられてしまってはひとたまりもない。
 おかげで言い訳を口にするどころか、面白いほど呆気なく勃ってしまった陰茎から、先走りがトロリと溢れ出る気配がしたのにただただ焦る。
 でも布越しに与えられる焦れったい刺激は、あまりこういったことに慣れていない勇利にとっても受け入れやすいもので。なけなしの理性でこんなの駄目だ駄目だと思いつつも、ずぶずぶとその快楽の沼にはまりこんでいってしまう。
 そしていつの間にか身体の中がその熱で一杯一杯になってしまっているのに気付くと、たまる一方のそれを少しでも吐き出そうと、遠慮がちに小さく熱い息を吐いた時のことだ。
 それまで様子を伺うようにゆっくりと動かされていた太腿にさらに力をこめられて。まるで押し潰すかのようにグーッと力を加えられた途端にこみ上げる熱の感覚に、反射的に下肢をブルリと震わせながら目の前の肩口に額を押し当てた。
「うっ、あ、ああっ!? それぇ……っ」
「気持ちいいだろう?」
「はぁっ……う、ん。きもちひ」
 頭の片隅で、何て恥ずかしい台詞を口走っているのだと理性が大騒ぎしているのをかすかに感じる。
 でも思いがけず下半身直撃の刺激をくらってしまったせいで、目の前まで一気に近付いてきた絶頂感にもう釘付けだ。
 陰茎からは次から次へと先走りが溢れ出て止まらないし、しかもその最中もヴィクトルの足は動き続けているので、下肢からクチュリと卑猥な音が微かに漏れ聞こえてひどく興奮を煽られる。
 そしてこみ上げてくる射精感に突き動かされ、一度でも腰をゆさりと前後に揺らしてしまうともう止まらない。
「ん、んん……っ! あ、あ、いいよぉ……っ」
「そうそう。こういうことは、頭でゴチャゴチャ考えるんじゃなくて、そうやってもっと素直に楽しんだ方がいいよ。こういう経験でも演技の幅も広がるしね。それになにより、単純に気持ち良いだろう?」
 ヴィクトルが耳元で何か囁いているのが聞こえる。しかし彼の胸元にしがみつきながらへこへこと腰を動かし、その逞しい太腿に陰茎を擦り付けるのに夢中でほとんどその内容を理解出来ない。
 はたから見たら、その姿はとんでもなくみっともないものだろう。でも勇利自身は頭の芯がジンジンと痺れたようになっていて、この状況に最高に興奮しているのでそれどころではない。
 そして頂点は、もう目の前だ。
 そこで身体の内側で渦巻いているムズムズとした感覚をぶつけるかのようにヴィクトルの首筋にかじり付いてあぐあぐとそこを甘噛みして。さらに雄猫が交尾をする時のように、本能的にヴィクトルの体をうつ伏せの格好に引き倒し、マウンティングの格好を取ろうとしたのだが。
 同じオス同士なので敏感にそれを察したのか。即座に首根っこを摘まれて引き剥がされてしまい、逆に勇利の方がベッドの上に仰向けの格好になるよう押し倒されてしまうのであった。
「こーら、そっちは駄目だよ。一応勇利も耳付きとはいえ男の子の見た目だし、相手のことを押さえつけたくなる衝動は分からないでもないけどね」
「う(゛)う(゛)ーっ」
「よしよし、怒らない怒らない。ちゃんと気持ちよくしてあげるから、少しだけ我慢だ」
 それから玩具を奪われた子猫のように癇癪を起こしている間に、あれよあれよとズボンと下着を膝まで引きずり下ろされてしまう。そしてむずむずとした感覚がするのに下肢に目を向けると、ヴィクトルの右手に自身の勃起した陰茎を掴まれ、亀頭を覆っていた皮を剥かれてしまっていた。
「勇利のここ、綺麗なピンク色で可愛いね。勇利らしい」
「ん、ううっ、は、あっ……さきっぽ、いいよぉ……っ」
 ここだけの話、勇利はオナニーの時にも亀頭の粘膜に直接触れたことはほとんど無く、竿を扱いて達するというのが常だ。理由は単純で、粘膜への直接的な刺激が強烈すぎるからだ。
 しかしつまりそれは、裏を返せば亀頭への刺激の耐性がまるで無いということで。ヴィクトルに未だ漏らしっぱなしのようになっている先走りを、親指で軽く拭うようにされただけで大げさなほどに腰が震えるのが止まらない。
 さらにはそうやって大量の透明な先走りの液体をそこから溢れさせてしまったせいで、下着やらズボンまで汚してしまって。良い年齢のくせに、小さい子のようにまるで我慢が出来ないだらしない己の下肢が恥ずかしくてたまらない。
 しかしそれと同時にこの状況にひどく興奮を覚えてもいて、その興奮に引きずられて思わずさらに足を大きく開いて腰をくねらせている姿は、発情しているようにも見えるだろう。
「ふふ。勇利の恥ずかしいところが、俺からも丸見えだって分かってるのかな。普段はそんな素振りを全く見せないのに、スイッチが入るとこんなに大胆なんて、知らなかったよ。本当、反則というか……そういうの、大好きだよ」
 ヴィクトルは今まで見たことが無いうっそりとした笑みを口元に浮かべながら、勇利の頭上にある獣の耳を執拗なまでに指先でゆるゆると撫でている。
 その仕草がまるで言外に耳を落としたいと言っているかのように感じるのは、自意識過剰だろうか。
 そして熱に浮かされた頭では、それが単純にとても魅力的なことに思えて。気付いた時には、こみ上げる衝動のままヴィクトルの下肢に誘うように腰を押しつけていた。
「ん、んん……ねえ、ヴィクトルぅ」
「っと、勇利っ?」
 内なる衝動に促されるがままヴィクトルの腰に両足を巻き付けて引き寄せると、勇利がまさかそんな大胆な行動に出るとは夢にも思っていなかったのか。ヴィクトルにしては珍しく、やや慌てた様子で名前を呼びながら、思わずベッドに手を付いてしまっている。
 彼にはここまでずっと翻弄されてばかりだったのもあり、その様子を見ているだけでちょっぴりしてやったりな気分だ。
 そしてその感覚に、少なからずオスとしての征服欲的なものを刺激されているのか。うっかりと味を占めてしまい、それならもう少しだけ冒険してみようと唇を舌でペロリと舐め上げた。
 ちなみにこの時勇利は、未だに洋服が一切乱れていないヴィクトルの狼狽える姿を、もう少しだけ見られたら良いな程度に軽く考えていた。
 したがってまずはヴィクトルの腰に絡めていた足にさらに力をこめ、互いの下肢同士を密着させる。そしてその状態で擦り合わせるように腰を回し――すると思いがけず、陰茎全体をゴリゴリと強烈に刺激される感覚に思わず喉元を大きく晒しながら嬌声を上げた。
「――っ、あ!? は、ううっ」
「こら、ゆうり。それ以上は――……っ、く」
 当初の思惑通り、ヴィクトルが余裕の無さそうな声を上げているのが聞こえる。
 しかし思いがけず彼の陰茎がガチガチに勃起していたせいで、考えていた以上の刺激を自分自身も受けてしまったから大変だ。
 おかげでヴィクトルの焦っている様子を見て楽しむなんて余裕はまるで無く、むしろガクガクと下肢を震わせながら大量の精液を漏らしてしまい、情けないやら恥ずかしいやらだ。
 しかも射精を終えると、それまでの逆上せたようになっていた頭の中がすっきりと晴れ、ここまでの己の醜態が脳裏に一気にリプレイされるオプション付きである。
 そこで何をやらかしたのか理解すると、両手で頭を抱えながらガックリとうなだれた。
「ううっ。やってしまった」
 今さら過去の行為をどうすることも出来ないので、ただただ後悔することしか出来ない。
 そして普段であれば絶対にしないような行為の数々に、どうしてこんなことをと自問自答を繰り返して。そこでふと一年前のことを思い出すと、もしかして発情期になりかけているのではないかと思いついたのに、ゴクリと喉を鳴らした。
「まさか、」
 というか、そうであって欲しいというのが本音というのもあるかもしれない。だってそうでなければ、ついにヴィクトルへの恋心を抑えきれずに、素面状態で先のようなとんでもない行動をするようになってしまったということになってしまうのだ。
 でも前回と違って、今回ヴィクトルは発情期なんじゃないのかと突っ込まれなかったなと思いながらおずおずと視線を上げると、彼はやや荒い息を吐きながら少しばかり乱れた前髪をかきあげていた。
「……あ」
 その様子は純粋に、格好良いなあと思う。
 そしてそんな気持ちがぽっと生じたのをきっかけに、好きという気持ちが次から次へと湧き上がり、際限なく膨れ上がって。ついには胸の内が一杯になってしまい、好きという言葉が喉元まで勝手にこみ上げてくる感覚にはっとすると、慌てて横を向きながらゴクリと喉を鳴らす。そうしてその言葉を、無理矢理腹の奥底に押し込んだ。
 最初はペアリングとその痕を眺めているだけで、十分すぎるほどに満足していた。そしてこの気持ちは、いつか思い出に昇華されるんだろうなとぼんやりと考えていたのに。
 実際には昇華されるどころか、たった一年ほどでさらに欲張りな気持ちに進化している事実に頭を抱えるしかない。
 そしてヴィクトルに本心を吐露したくなる衝動に駆られるということはつまり、本心ではさらに先を求めているのではないだろうかと、そこでふと気付いてしまう。
 しかしその瞬間、不安感から無意識にまさぐっていた右手の指輪に爪がぶつかり、カツリと小さな鈍い音がして。その音をきっかけにヴィクトルが揃いではめてくれているこの指輪の下に件の痣があるのを思い出すと、それまで全身を包んでいた熱が面白いほど一気に引いていくのを感じた。
「あ……ごめん。僕、恐らく発情しちゃってるよね」
「ああ、分かるようになったんだ」
 えらいえらいと頭上の耳ごと頭を撫でてくる手から逃げつつ、やっぱりと思う。
 それと同時に、どうやら自身の発情のトリガーとなるのは、己の許容量をオーバーする快楽を与えられた時ではないかとぼんやりと思った。つまり前回は告白をされた直後の急接近、今回は陰茎部分に直接ちょっかいを出されたことといった具合だ。
 しかしそんなことは、今の勇利にとっては些末な問題である。だって今回うっかりと自分自身の想いを口にしかけてしまったということは、それだけ本格的な発情期に近付いてきているような気がしたからだ。
 そして本格的な発情期になってしまったが最後。理性が完全に失せてしまい、余計なことまで口走ってしまうのは目に見えているので、そろそろこの件について真面目に考えないと不味いなとようやく焦りはじめる。
(ともかく、まずは発情抑制剤を買わないとだよな)
 一年前に初めてそれらしい症状が出た時に、ヴィクトルからの指摘を受けてちゃんと薬を買わねばとは思っていたのだが。ちょうどあの時は、グランプリファイナルに全日本と試合が目白押しで、なおかつヴィクトルとのその後の関係についても不透明だったのもあり、うっかりと失念してしまったのだ。
 というのは表向きの理由で、苦くて不味いから出来れば飲みたくないというのが本音だったりするのだが、それはここだけの秘密だ。
 ともかくあれから一年経過した今でも抑制剤を持ち歩いていないと知られてしまったら、何をしているのだと呆れられてしまう。
 それにこうして二回目の発情期の兆候を実際に体験し、さらにその症状も前回よりもやや進んでいるとなると、そう呑気に構えてもいられない。
 というわけでここにきてようやく腹を括ると、年末年始の移動時に間を見て今度こそ買おうと心に決めた。
(あとは――)
 目の前にいるヴィクトルが、ちょっかいを出さないでいてくれるのが一番なんだけどなあと思いつつチラリと彼の方へ視線を向けると、どうしたのというようにニコリと笑みを向けられる。それからあやすように顎下をくすぐられて気持ち良い……ではなくて、これに騙されてはいけないのだ。
 そこで気付かぬ間にゴロゴロと喉を慣らしていたのに気付き、慌ててその手を押しのけた。
「あーあ、気持ち良さそうなのに」
「だっ、だからっ、こういうのは恥ずかしいから止めてって言ってるじゃないか!」
 何回言えば分かってくれるのと口にしながらベッドの中に逃げ込むと、ごめんついかわいくてと、毎度の全く悪いと思っていない謝罪のことばをかけられる。それを聞きながら、そういえばヴィクトルはいつもこれなんだと思い出してぐぬぬと唸り声を上げた。
 勇利のような奥手な人間は、ヴィクトルにとっては物珍しいのか。勇利が嫌だと言えば言うほど、追いかけてくるところが彼にはある。
 その理由は分からないが、恐らく祖先である猫の狩猟本能を刺激しているのかなと勝手に考えて無理矢理納得している。そして勇利自身、そうやって追われるのも満更でもないのが困るというか。
 つまりこの状況を作り出している原因は、何もヴィクトルだけではなく、はっきりノーと言えない勇利自身にもあるのだ。
 そんな自分の狡さに気付いて思わずズボンの中から自分の尻尾を取り出すと、その先っぽをガジガジと噛む。そして気付いた時には、いつものようにそのまま寝てしまうのであった。


■ ■ ■


 それからほんの数日ほど、勇利とヴィクトルの二人はそれぞれの国内大会に出場するために離れ離れになることになる。それにヴィクトルが、自分がコーチなのに着いていられないなんてと最後まで心配していたのは言うまでもない。
 しかしそれについてはヴィクトルの現役復帰が決まった際に話し合い、勇利が以前日本にいた頃に世話になっていたコーチに代理を頼むことで解決済みの問題だ。
 したがって大丈夫だからと力強く宣言をし、ヴィクトルとはサンクトペテルブルクの空港でしばしの別れを惜しむのと同時に、互いの健闘を誓い合った。

 そして予定通りの時間に日本へ降り立った勇利であったが、そのままホテルへ足を向けるのかと思いきや。
 その前にずっと気になっていた用事を済ませるべく、空港の中にある薬局へまずは足を向ける。それからその中の一角に設けられている、発情抑制剤の薬が並べられているコーナーで立ち止まった。
「えーっと……あったあった。この抑制剤だ」
 先日にうっかりと発情しかけてからは特に、早く買わねばと思っていたものなのでようやく手に出来てほっとする。しかしそれと同時にどことなく緊張感に包まれているのは、この手のものを自分で購入するのが生まれて初めてだからだろう。
 だから本当はこんな騒がしい場所にある薬局ではなく、町中のきちんとした薬局で間違えないようにゆっくりと購入したかったというのが本音だ。
 ただここ最近はヴィクトルのおかげで以前に比べて格段にメディアに露出する機会が増えてしまったせいか。町中でマスクをして歩いていても何故か正体がすぐにバレて声をかけられてしまうので、この手のものを購入するのは気が引ける。というわけで、それならとあえて人目の多い空港の薬局で購入するかと奮起したわけだ。
 ちなみに以前ヴィクトルにも言われたが、スポーツ選手の飲み薬にはドーピング問題が常についてまわる。したがって今回抑制剤を購入するにあたり、どこのメーカーの物が問題無いかは、事前に担当医に確認済みなのでそこら辺の問題はきちんとクリア済みだ。
 ただここまでして間違えて購入しては元も子もないので、何度もパッケージに書かれている薬名を確認して。それから、よしと気合いを入れてレジへ向かう。
 そしてそこで、勇利は二十五歳にして初めて自らの手で抑制剤を購入したのであった。

戻る