アイル

さよなら運命の人-6

 そして迎えた世界選手権当日。勇利はついに表彰台の頂点に上ることが出来た。
 そこで表彰台の上でヴィクトルと握手を交わしながら、優勝おめでとうと言われた瞬間のことを一生忘れることは無い。
「次は勇利が五連覇する番だ」
 前シーズンのグランプリファイナルの時、ヴィクトルの現役復帰と引き替えのように出された覚えのある言葉にハッとしてそのスカイブルーの瞳を見つめると、その表情はいつになく真剣なもので。演技以外の場面ではあまり見せることのない王者の風格に、目が釘付けになってしまう。
 しかしその口元に緩やかな弧が描かれるのと同時に、ヴィクトルもあの時のことを覚えていてくれたのかと嬉しい気持ちがこみ上げてきて、気付いた時には顔を綻ばせていた。
 ファイナルの際に五連覇と言われた時には、その大会で二位だったのもあり、あまりにも突拍子の無いことを言われたのにひどく驚いたし、随分と無茶な要求をするなと動揺した覚えがある。
 でも今その言葉から感じるものは、あの時とは少しだけ印象が違う。
 それを言葉にして表現するのは難しいが、背中を軽く押されたかのような……というのが近いだろうか。そのせいか、その気持ちを受け取るのと同時に、ごく自然に頷いていた。だからもちろんその場のノリや、自惚れといった気持ちから頷いたわけではない。
 ただそうやって背中を押される際に、同時に別の何かを渡されたようにも感じたのは、きっと気のせいではないだろう。そしてそれが何かに気付きかけたせいで、切ない気持ちが急激にこみ上げてくるのを感じた。
「ああ……そう、か」
 それはヴィクトルだけではなく、勇利だって、ユリオだって。それだけではなくプロのスポーツ選手ならば誰しもが通る道だ。
 ただそれを言葉にするだけの勇気はまだ無かったので、結局泣き笑いのような変な表情をしながら彼に抱きつき、額をその肩口に擦り付けながら口を閉ざす。そして彼にコーチになってもらってからのおよそ二年近くのことを脳裏に蘇らせながら、その思い出にただただ浸った。
 そうやってヴィクトルと抱き合うのはかれこれ正月以来だったのだが、そんなことはもはやどうでも良かった。


■ ■ ■


「ああっ……もう! なんで寝ちゃったんだろう」
 表彰式の翌日。
 勇利はエキシビションを終えてすぐにヴィクトルの部屋へ直行するつもりだったのだが。少し休もうと自室のベッドに転がったのが運の尽きだ。
 それまで張りつめていた緊張の糸がプツリと切れてしまったのか。そのままうっかりと爆睡してしまい、次に目覚めた時に携帯電話の時計を確認すると、バンケット開始時間を大幅に過ぎていたのに文字通り飛び起きた。
 しかも携帯電話の通知画面には、ピチットやクリス、それに意外にもユリオなどから大量のメッセージが届いており、さらにヴィクトルからも。一件だけだったが、着信も入っていた。
 そして久しぶりのヴィクトルからのコンタクトに嬉しさがこみ上げてくるのを隠し切れず、口元を緩ませながら画面を落とす。それから大慌てでバンケット用のスーツに着替えはじめた。

「あっ、ゆうり~! やっと来た」
「ピチットくん! さっきはメッセージいれてくれてありがとう」
「いつもバンケットに顔出してるのにおかしいなって思って。どうかしたの?」
「えっと……大した理由じゃないんだけど。気付いたら、部屋で寝ちゃってて」
「ははっ! それならメッセージ送ってよかった」
 メディア対応とかで忙しいのかもって思って送るのちょっと迷ったんだよと言われたのに、ただただ平謝りをするしかない。
 とはいえバンケットへの参加義務は無いので、遅刻や欠席をしたからといって怒られるとかそういうことは一応無い。ただヴィクトルからそういうのも大事だとよく言われていたので、やはり後ろめたいというか。
 加えて今回は優勝したのもあり、悪目立ちしていること間違いなしだろう。
 そこでやっちゃったなあと改めて反省しながら会場内をきょろきょろと見渡し――しかしその中に目的の人物の姿が見当たらないのにすぐに気付くと、目を数度瞬かせた。
「あれ……? もしかして、ヴィクトルってまだ来てない?」
 でもそれなら、バンケットの開始時刻に、その所在を確認するかのように勇利の携帯電話に電話をかけてきたのも不思議な話しだ。したがってそれに首を傾げていると、ピチットが彼ならテラスの方にいると思うよと口にした。
「あ、そうなんだ。ヴィクトルがそんな場所にいるなんて珍しいね」
 いつもなら会場に入るや否や写真攻めにあうので、動き回る暇も無いのだ。
 ということを考えながら、早速今夜部屋に訪問する約束を取り付けようと、テラスの方へ視線を向ける。そして一歩足を踏み出したのだが、そこで思いがけず肩を掴まれたのに振り返った。
「あれ? ピチットくんまだ何かあった?」
「あーっと……たぶん、今は彼のところに行かない方がいいと思うんだ」
「どういうこと?」
 もちろん訳が分からなかったので、即座にその理由を問う。しかし何でもすぐに口にするピチットにしては珍しく、戸惑った様子で視線をきょろきょろと動かしているのである。
 それでも諦めずに彼の答えを待っていると、腹を決めたのか。一つ頷き、ちゃんと話すよと口にした。
「面倒だからはっきり言っちゃうけど。ヴィクトルが今回はすごく美人な女の人を同伴してきたんだよ。でも彼って、こういう席で特定の人を贔屓するのって今まで無かったじゃないか。だからちょっと周りがザワザワしてる感じで。
 ――とは言っても、二人とも普通にお酒飲みながら立ち話してるだけなんだけどね。ただほら、美男美女だから絵になるっていうか。そのせいでヴィクトルに写真を頼み辛いせいか、代わりに彼の方に人が集中してすごいんだよ」
 そこでピチットの指し示した方へ視線を向けると、そこにはいまだ女子を中心に写真攻めにあっているユリオの姿があったのに、思わず大変そうだなあと呟く。そしてそれと同時に、だから彼から珍しく早くバンケットに来いとメッセージが入っていたのかと納得した。
「彼、いつも逃げてるけど、その暇も無いみたいで最初からずっとあんな感じ。
 で、ヴィクトルの方だけど。ちょっと前にその美人の女の人とテラスに出て行ったんだ。でも今の時期ってまだ寒いし、そんな場所に二人で行くって……ねえ?」
「ああ……なるほど」
 つまり一人だったら酔っぱらいの酔い醒ましで、二人だったらそういうことだと言いたいのだろう。それを理解した途端に、試合の余韻で高揚していた気持ちがしおしおと一気に萎んでいくのを感じる。
 そしてそれと同時に、高揚感に任せて昨日の表彰式の後、そのままの勢いでヴィクトルの部屋へ行かなくて本当に良かったと思った。
 ちなみに本当は行く来満々だったのだが、慣れないメディアの対応にひどくもたついてしまい、大分夜も更けてしまったので諦めたのだ。
 昨晩は本当に興奮状態で、ヴィクトルに己の胸の内を正直に言えそうな気分だった。それだけに寝て起きていくらか冷静になってしまったのに、タイミングを逃してしまったなあと少しばかりへこんでいたのだが。まさかのバンケットの席で、彼がそういう女性を伴っているとなると話は全く別だ。
 そして会場内のその他の人たちと同じく、ヴィクトルの珍しい行動に戸惑っていた時のことだ。
 壁際の大窓付近が少しばかりざわついたのにどうしたのだろうと視線を向けると、横に立っていたピチットに袖をクイクイと引っ張られ、耳打ちをされた。
「ほら、噂をすれば。たぶんヴィクトルが戻って来たんだよ」
「え」
 ピチット曰く、ヴィクトルは女性を同伴しているらしいので、実際にその光景を目にするのは少しばかり勇気がいった。
 でも思えば、今までだってゴシップ誌に女性とのキスシーンまでパパラッチされていたし、それに比べればなんてことないだろうと己を奮い立たせて人々の視線が集中している方へ目を向ける。
 そして見覚えのある銀髪が目に入ったところで、ゴクリと喉を鳴らし、しかしそれらしき女性の姿が見えないのに首を傾げた。
「あれ?」
「あ。そっちからだとヴィクトルの身体の影になってちょっと見辛いかも」
 こっちなら見えるよと腕を引っ張られたのに思わずよろけると、男二人のそんなやりとりは目立つものだったのか。
 ヴィクトルの視線がふとこちらの方へ向き、さらに目が合って思いがけずニコリといつものように微笑まれたのにドキリとする。さらには右手を軽く上げて手を振られたのにすっかり毒気を抜かれてしまい、つられて勇利も右手を上げかけたのだが。
 まるでそうして勇利が油断した瞬間を見計らったかのように、彼の脇からスラリとした綺麗な女性が顔を出す。そして彼女は勇利と目が合うと、ヴィクトルを真似てか。軽く右手を上げたのが目に入るや否や、勇利は胸元まで上げかけていた手を慌てて下げ、勢いよく腰を直角に折り曲げていた。
 理由は言うまでもなく、そこにヴィクトルと揃いの痣があるかどうかを見るのが恐ろしくてたまらなかったからだった。
 しかしピチットはそんな事情を知る由もない。したがって勇利のその姿を見ると、軽快な笑い声を上げながらその背中を軽く叩いた。
「あはは! 久しぶりに見たよ、勇利のジャパニーズお辞儀」
「えっ? あ、はは……つい、条件反射で」
 もちろんそんなの嘘だ。でも日本人お得意の誤魔化し笑いを浮かべ、頬を指先で掻きながら顔を上げる。
 それからチラリと横目でヴィクトルのいる方の様子を再び伺ってみたのだが。そこにはもう二人の姿が無かったのに、安堵感と不安感という相反する奇妙な感情が生まれるのを感じながら首を傾げた。
「――あれ? 二人は?」
「勇利がお辞儀してる間に外に出て行っちゃったよ。ホテルの部屋に戻ったんじゃないかな?
 ところでさっきの女の人、元モデルの人らしいよ。ヨーロッパの方のフィギュア関係の番組でよく起用されてるんだって、さっきクリスが教えてくれた」
「あ、そうなんだ。なんか……一瞬のことで信じられないっていうか、夢みたいだ」
「分かる分かる、その感覚。二人とも絵に描いたような美男美女! って感じだったもんなあ。スーッと通り過ぎていかれたら、現実感があまりないよね。
 それにしても、ヴィクトルはすごいなあ……あんな綺麗な女性と並んでも、まるで見劣りしないんだもん。ボク、あんな人と並んだら負けちゃってダメだよ」
「そうかなあ、ピチットくんって華があるタイプだから」
「いきなりそう言われると、お世辞でも嬉しくて照れちゃうなあ。でも嬉しい。ありがとう。勇利は色気があるよね」
「ええ?」
 お返しというようにかけられた言葉に、思わずたじろいでしまう。彼はその場しのぎのお世辞を言うタイプではないというのは、今までの付き合いでよく分かってはいる。ただ勇利自身は相変わらず耳付きなので、色気と言われてもいまいちピンとこない。
 しかしそこで正月以降発情期の前兆のような身体の熱っぽさが未だ抜けきっていないのを思い出すと、彼の言う色気というのはその影響のせいかなとぼんやりと考えた。
 なにせあのヴィクトルも勇利のフェロモンの香りを嗅ぐと手を伸ばしてきていたのだ。
 ただ彼のことだからその手の経験も相当豊富だろうし、実際のところからかっていただけの可能性も無きにしも非ずだが。というかこの場に女性を連れてきているところを見ると、その可能性大だろう。
 そしてそんなことを今さら未練がましく考えている自分自身も嫌で、己に言い聞かせるようにお似合いのカップルだったねとあえて口にした。

 それから勇利はいつものようにピチットと記念の写真を撮ってからひとまず別れると、ウエイターからカクテルの入ったグラスを一杯もらう。そしてその中身を味わうことなく一気にあおり、そのまま毎度のヤケ酒に走りかけた。
 しかしそこでそういえば発情の症状が抜けきっていなかったのを再び思い出すと、二杯目のグラスを傾けていた手を元の位置に戻した。
「……あれ? これ、もしかして駄目なやつなのかな」
 ここ最近は常に服用していたのであまりその感覚は無かったが、抑制剤も歴とした薬なのでアルコールと併用するのは恐らく不味いはずだ。
 でも直前にうっかりと衝撃的なものを目にしてしまったのもあり、やっぱり少しでも良いから酔いたい気分で。抑制剤は寝るギリギリに飲むようにすれば、あと一杯くらいなら大丈夫だろうと結局自分の欲望を優先させてしまう。
 それからテラスの方へ再び視線を向け、散々悩んだ末にそちらの方へ歩み寄る。
 たださすがに二人のいたテラスを間近で見るだけの勇気は無かったので、隣のテラスにそろそろと足を踏み入れた。
「うっ……さすがにコートを着ないで外に出るのは、この季節だときついな」
 テラスに一歩踏み出してガラスの扉を閉めると、会場内の喧騒が途端に聞こえなくなる。それとそこに誰もいないせいだろうか。
 それまで胸の内でざわめいていた色々な感情が面白いくらい一気に静まり返り、その代わりにもの悲しいような気持ちが胸の内にサーッと広がっていくのを感じた。
「ヴィクトルは、さっきここにいたのか……」
 残念ながら、勇利にはこの場所の面白さがよく分からない。でもそういう人と一緒にいたら、この雰囲気もロマンチックなものに感じるものなのかもしれないなと、半ば自虐的に考えた。
 しかしいずれにせよ、二十五歳にまでなって耳付きでいるような人間にはまるで縁の無い話だ。
 そこで何気なく空を見上げると、街明かりに照らされた夜空の中で三日月がその存在をはっきりと主張していた。
「今夜は月が綺麗に見える。雲が無いせいかな」
 街中なのに珍しいなと思わず声を上げ、もしかしたらヴィクトルたちもこんな話をしたのかなあとぼんやりと考える。
 それから日本語で月が綺麗と言うのは、好きという意味だということを思い出すと、視線を空から足下のコンクリに落とす。
 そしてそこで初めて二人は恋人同士なのかなと考え、その途端に胸の奥底から苦いものがこみあげる感覚に、たまらず手に持っていたグラスの中身を再びあおった。
 でもそもそも勇利だって、ヴィクトルがベッドの中に侵入してくるたび、添い寝相手が欲しいなら女の人をあたりなよと言ってきているのである。にも関わらず、それがいざ現実となった途端にこんな風にショックを受けているなんて随分と自分勝手な話だ。
 というかショックを受けているということは、少なからず自分が彼にとっての特別であると感じていたということで。しかしその一方で、ヴィクトル本人は勇利のことを何とも思っていないのだ。
 だからこそこの場にあの女性を伴ってきて、いつもと何ら変わりのない様子で手まで振ってきたのだろう。
「はは……そう、だよな。そうだって、分かってたのに。ばかみたいだ」
 自分みたいな冴えない眼鏡の男が、ヴィクトルみたいな世界中からモテまくりの人の、特別なんかになれるはずが無い……というのを何度も自分自身に言い聞かせてきてもなお、結局このザマなのがみっともなくて恥ずかしい。
 恋愛慣れしていない童貞は、すぐにこういう風に勘違いしてしまう。だからあんな風に思わせぶりに触れてくるのは、止めてと何度もいったのに。
 しかしすべては後の祭りであった。

 それからどのくらいぼんやりとしていただろうか。定かではないが、手すりに飲み干したグラスを乗せ、さらにもたれかかりながら街明かりをボーッと眺めていると、テラスに繋がるガラス扉が開かれる音が聞こえてきたのをきっかけに意識を現実に引き戻される。
 そして振り返ると、そこには勇利と同じ年代と思われる見知らぬ女性が立っていた。
「勝生勇利選手、で間違いないですよね」
「あ、はい。そうですが」
 年齢的にもしかしたらどこかの国の選手かと一瞬思った。ただ女子の試合の方も時間の許す限り見ているが、目の前の女性の顔に見覚えはない。
 それに暗いので分かり辛いが、よくよく見ると筋肉も必要最低限しか付いていない。ということは連盟の関係者か、あるいは誰かのサブコーチかなと考える。
 そしてそこで再び名前を呼ばれたので顔を上げると、その女性と目が真正面から合って。少しばかり困ったように首を傾げられたのをきっかけに、女性相手にとんでもなく不躾な視線を送っていたことに気付くと慌てて謝罪の言葉を口にした。
「う、わっ!? ごっ、ごめんなさい! もしかして、どこかの国の選手かなって思ってっ」
「いえ。こちらも身分を名乗らず、申し訳ございません。私はこちらのホテルのスタッフをさせて頂いている者の一人なのですが……実は明日、こちらのホテル上階にございますバーで、プロスポーツ業界の関係者を集めたパーティーが開催されることになっているのです。そこで突然で誠に恐縮なのですが、ご都合がよろしければ勝生選手も是非ご参加いただければと思いまして、お声掛けさせていただきました」
「パーティー、ですか? でもなんだって、そんな急に」
「実はこちらのホテルのオーナーが、無類のスポーツ好きでして。ただ皆様のお話を伺いますと、なかなか気軽に話せる相手が周囲にいらっしゃらないというお話をよく伺いますので、コミュニケーションの場を設けられればと、定期的にそういったパーティーを開かせていただいているのです」
「はあ、そうなんですか」
 大体バンケットの席で話すことといえば、スケートに関することが主で、あとは個々人で記念の写真撮影をして盛り上がっている感じだ。
 それがまさかの。プロスポーツ業界の人たちが参加するパーティーという、いかにも怪しげなパーティーに誘われたのに、思わず口を開けて呆けた表情を晒してしまう。
 すると女性は他にも親しくされているスケーターもよくご参加されていますよと、さらなる誘い文句を告げた。
「えっ? 他、っていうと……」
「口外無用のパーティーですので、残念ながらわたくしの口からは今申し上げた以上のことはお伝え出来ないのです。ただスケート以外の交友関係も大きく広がるかと思いますので、よろしければ。
 開始時間は夜の九時となっておりますが、基本は自由に出入り出来ますので。九時以降のお時間であればお好きな時間にぜひいらしてください」
 そう口にした女性の表情は、パーティー会場の光を背に受けているせいでよく見えない。
 ただそのせいでミステリアスな雰囲気に、より拍車がかかっているようにも感じられた。そして当然、それと同時に怪しさも倍増である。
 ただそれを指摘するだけの根性も無いので訝しい表情をしながら首を傾げていると、女性はこれで用は済んだとばかりにさっさと身を翻し、来た時と同じくあっという間にパーティー会場の中へとその姿を消してしまった。
「……行っちゃった。何だったんだろう」
 カチャリと静かな音を立てながら扉が閉じられると、それまでまるで聞こえなかった木々のざわめきの音に初めて気付く。そしてそのおかげで、それまで張りつめていた緊張の糸が少しだけ解れるような感じがした。
 女性と話したのは、時間にするとほんの数分程度のことだったと思う。しかしまるで魔法にかけられたかのような、そんな奇妙な体験だった。
 ただその場にほんの少しだけ残っている嗅ぎなれないバニラのような甘ったるい香水の香りが、今の出来事が現実なのだということを証明している。しかしそれも次の瞬間には、すぐに風に流されていってしまった。

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