アイル

さよなら運命の人-7


 翌日の夜。勇利は再びヴィクトルに選んでもらった濃紺のスーツに身を包み、ホテル上階にあるバーの前に佇んでいた。
「なんか、結局勢いで来てしまった」
 目的はもちろん、昨晩バンケットの際にテラスで誘われた怪しさ全開のパーティーとやらに参加するためだ。
 とはいえ誘われ方もいかにも怪しげであったし、普段であれば興味すら持たなかっただろう。ただ今回は、ヴィクトルがバンケットの席に女性を同伴してきたので、ヤケクソな気分に引きずられるような形で来てしまったというか。
 それと今朝、朝食時にヴィクトルがラウンジにその姿を現さなかったからというのも大きい。
「あれってつまり……そういうことだよな」
 そこでやや視線を落としながらバーの入り口の扉に目を向けると、はめ込まれている装飾ガラスに薄っすらと自分の姿が映り込んでいるのが目に入る。その中の自分は、珍しく髪の毛をきちんと後ろに撫でつけるようにセットし、さらに眼鏡も外した完全余所行きモードだ。
 でも精一杯背伸びをしている雰囲気はどうしても隠しきれておらず、昨日目にした女性のような華々しさも無い。それに気付くと、しょんぼりとしながら視線を床の上に落とした。
 とはいえ勇利はヴィクトルの周辺にいる取り巻きの人間のうちの一人で、それ以上でも以下でもない。ということを何度も自分自身に言い聞かせる。
 ただ思いがけず二人の関係を目の前で見せつけられてしまっては……それを何事もなかったかのように流せるほどの大人でも無いのも事実で。だから一日くらい羽目を外してこのやりきれない気持ちを発散させたかったのもあり、気付いた時には入り口の扉をくぐっていた。

「わあ……」
 室内はオレンジ色のダウンライトに照らされているものの、やや薄暗いせいでどこか怪しげな雰囲気だ。
 そもそもバーなんて洒落た雰囲気の場所には今まで一切縁が無かったので、思わず物珍しいのにきょろきょろと辺りを見渡してしまう。
 すると従業員と思われる男性がすぐに近付いて来て、どこの席が良いかと聞かれたので、目立たない一人席をと答えた。
 それから勇利は案内された壁際の席へ皆の方へ背を向けて座り、店員のおすすめというカクテルをちびちびと飲む。
 しかしほんの数口ほどで眠くなってきたのにゴシゴシと目を擦りながら、まいったなあと呟いた。
「昨日、あんまり寝れなかったから眠い」
 もちろんその寝不足の原因は、改めて言うまでもないだろう。
 それと大会直後というのもあってか。普段よりも身体が明らかに高揚していたので、念のために抑制剤を規定の一錠ではなく二錠飲んでいたことを思い出し、そのせいもあるかもしれないと小さく息を吐いた。
「たしか、抑制剤って副作用で眠くなるんだっけ」
 今までは全く気にならなかったのだが。飲む量を増やすとこうもはっきり変わるものなんだなと思いながら、カクテルを口内に流し込み……そこではたと薬に酒という飲み合わせが不味いことを思い出すと、昨日に引き続いてまたこのパターンかとガックリと肩を落とした。
「うっかりしてた」
 せっかく久しぶりに発散しようと思っていたのにと内心ぼやく。かといって今の状態で抑制剤を飲まないわけにもいかないので、こればかりは仕方がない。
 ただヤケ酒が出来ないとなると、この場に来た意味は全く無いだろう。
「はあ……やっぱり、慣れないことはするもんじゃないな。部屋で大人しくしてれば良かった」
 そしてこうなるとこの場に留まっている意味はまるで無いので、部屋に戻って毎度のごとく不貞寝でもしようかなと思いながらソファから立ち上がりかけたのだが。
 そこで思いがけず肩を叩かれたのに顔を上げると、見知らぬ男性が脇に立っている。そしてその男性は勇利と目が合うと、人好きのしそうな笑みを口元に浮かべながら、何故か隣の席に腰掛けてきた。
「君、一人なんだよね。良ければ、一緒にどうかな」
「えっ?」
 突然のことであったし、もう帰る気満々だったのもあって呆気に取られてしまう。それに何より、この男性のことを勇利は知らない。
 ただせっかく話しかけてくれたのに邪険にするのもなんだか申し訳ない。
 それによくよく考えてみると、実家でも別々にやって来たお客さん同士が酒の入った勢いで世間話をしているところをよく見るので、そんなものだろうかと考える。
 それなら今飲んでいるお酒が飲み終わるまでならと答えると、つれないなあと笑いながら手が目の前まで伸びてきて。それに反射的に目を閉じると、どうやら額に垂れていた前髪を後ろに撫でつけるように手を這わされたのに肩を揺らした。
「あ、の……?」
 何度も言うが、この男性とは初対面である。にも関わらず何故そんなことをしてくるのか、理解がまるで追いつかないのに身体の動きを止めてしまう。
 するとそれをこれ幸いというように指先がさらに髪の毛をかき分けるようにして頭上まで進み、そこに生えている猫耳の根元をくすぐるようにされたからたまったものではない。
 その瞬間にそこから広がった寒気のような感覚に文字通り飛び上がり、グラスを持っていない左手で頭上の耳を押さえながら、男性がいるのとは反対側に上体を大きく傾けながら距離を取った。
「なっ、何をいきなりっ」
「ああ、やっぱり耳付きの反応はいいね。慣れてない感じがたまらない。――ところで、その右手の指輪は恋人とのペアリングかなにか?」
「へっ? ち、ちがっ! これは単なる、お守り的なものというか」
「ふぅん……そう。なら気にすることは無いね」
 どことなく含んだものを感じる言動に、薄気味の悪さを感じる。
 というかそこそこ人目のあるところで、こんな思わせぶりな言動を取るなんて。随分と勇気があるなと思いつつ周辺に視線を向けると、店内の明るさがいつの間にか一段階落とされていたのにそこでようやく気付く。
 そのせいか、会場の中はさらに独特なアダルトな雰囲気を醸し出しており……というかよくよく見ると客人同士の距離感が明らかに近く、中には恋人同士のような深いキスをしている人たちまでいたのに慌てたなんてものではない。
 もちろん生でそんなのを見たのは初めてなのもあり、途端に心臓がバクバクと大きく脈打ちだす。そしてそうやって煩く鳴っている心臓を少しでも宥めようと胸の上に手を置きつつ顔を正面に戻した。
「えっ? えっ? なんでこんなところで」
「その様子だと、もしかして何も言われないでここに来ちゃったのかな。これはそういうのも有りなパーティーなんだよ」
「そういうって、」
「端的に言ってしまうと、セックスだけどね。でもまあ、一応それがメインって訳でもないんだけど。ただ一組がそういう感じになっちゃうと、周りも流されてそういう雰囲気になりがちではあるかな」
 昨晩声をかけてきた女性は、そんなこと一言も口にしていなかった。だから単純に、交流を図るような場だと思っていたのに。
 それがまさかの、自分がもっとも苦手とする類の社交場に足を踏み入れてしまったのに焦ったなんてものではない。
 これは不味いと、男性への挨拶もそこそこに急いでこの場から立ち去ろうとする。しかしソファから立ち上がりかけたところで右腕を掴まれてしまい、遠慮の無い力加減で引っ張られたせいでバランスを崩してしまう。
 おかげで隣のソファに腰掛けていた男の上に、背もたれに両手を付く格好で勢いよく倒れ込んでしまった。
「わっ!?」
「逃げるなんてひどいなあ。でも怖いなって思うのは最初だけだよ。それに君……発情しかけてるよね。恐らく抑制剤を飲んではいるんだろうけど、近くに寄ったらかすかに甘い匂いがする」
「――っ、」
 きっちりと着込んでいるスーツから見える首筋は、数少ない剥き出しの肌部分だ。そこを指先でツーッと辿られると、ゾクリとしたものが背筋に走る。
 でもそれはヴィクトルに触れられた時の高揚感から来るものとは明らかに異質なもので、恐怖からくるものだ。
 それを感じ取った瞬間、即座に男の上から身を引こうとしたのだが。そんなのお見通しだと言わんばかりに、腰に添えられていた手に力をこめられたせいで男の上体の上に完全に沈み込んでしまう。
 しかもその勢いを殺しきれずに肩口にうっかりと鼻先をぶつけてしまい、その瞬間に漂ってきたまとわりつくような甘ったるいムスクの香りにたまらず眉間に深く皺を寄せた。
「う、えぇ」
 男性には悪いが、その香りも理屈抜きでちょっと生理的に無理なのに思わず嘔吐いてしまう。
 そしてそれをきっかけに我慢の限界点を突破すると、同じ男として悪いとは思いつつ、急所に膝で一撃でも入れようかと算段を立てはじめた時のことだ。
 唐突に背後から肩を力強く引かれたおかげで、ようやく男の腕の中から脱することに成功する。
 それに胸を撫でおろしつつ、手を貸してくれた相手に礼を言おうと背後を振り返り――するとそこにいたのが、まさかのユーリ・プリセツキーであったのに勇利は目を点にした。
「おい、オッサン。オレの連れに手ぇ出すなよ」
「ああ……なんだ。一緒に来ている人がいるなら、そう言ってくれればいいのに」
 男性はユリオの姿を一瞥すると、途端に勇利を拘束していた腕の力を抜き、やれやれといった様子で肩を竦めている。ただ勇利の方は、まさかこんな場所で未成年のユリオと鉢合わせるとは夢にも思っていなかったのもあり、せっかくの男と離れるチャンスだというのに、膝上に腰掛けた格好のままただただ固まってしまう。
 するとその様子を見かねたのか。ユリオは面倒臭そうな表情をありありと浮かべながら舌打ちをし、勇利の腕を引っ張って無理矢理立たせてくれる。それから半ば引きずるような格好で部屋の隅へと連れて行かれた。

「おい、カツ丼。人がせっかく声かけてやったのに、なにボーッとしてんだよ。それともまさか、あのオッサンとセックスしたかったのか?」
「い、いやっ、それは有り得ないからっ! ユリオのおかげで助かったよ、ありがとう。ただまさかこんな場所でユリオに会うと思わなかったから、ビックリしちゃって」
 勇利の親しいスケーターとなると、かなり限られてくる。その中でもパーティーに顔を出しそうな面子となると、クリスあたりが可能性としては一番濃厚かなと思っていたのだが、それがまさかの。まず最初に除外した、ユリオがいるとはという感じである。
 そこで改めてまじまじと彼のことを見ると、少し前まで中学生のような雰囲気だったのに。いつの間にやら、私服時の勇利よりもはるかに大人びた風貌に変化していることに改めて気付かされる。そしてその頭上には、すでに耳が無かった。
 それに思わず手を伸ばして手の平で髪の毛を撫でるように確認していたせいで、考えていることが筒抜けになってしまったのだろう。呆れた表情をありありと浮かべながら、何やってんだと突っ込まれてしまった。
「うっ……ご、ごめん。一年でこうも変わるのかと思っちゃって」
「おまえが変わらなすぎなんだよ」
「僕がっていうか、アジア人全般こんなものだと思うけど……。ところでちょっと気になったんだけど。ユリオ、まさかお酒飲んでないよね」
 確かロシアの飲酒年齢は十八歳からのはずだ。しかしユリオは先日十七歳になったばかりなのである。
 そこで彼が右手に持っていた透明の液体の入ったグラスを凝視していると、心底辟易とした表情を浮かべながら、おまえはオレの親かよと文句を言われてしまった。
「チッ。おまえも年々ヴィクトルみたいに煩くなってくのな。心配しなくてもこんな人目のある場所で、そんなヘマするわけねーだろ。ただの水だよ」
「こんな人目のある場所って、まさかユリオ……」
「だから飲んでねーっつーの! それよりカツ丼こそ人のこと言えないだろ。耳付きのくせにこんな場所にのこのこ顔出すってことは、ヴィクトルがなかなかナマでやってくれなくて耳が落ちないから焦れたってとこか」
「ちょっと待った」
 上手い具合に酒の件を流されたような気がしなくもないが、それ以上に突っ込みを入れたいことが山盛りすぎて、思わず彼の言葉を途中で切る。そしてきっぱりと否定の言葉を口にした。
「どこ情報か知らないけど、ヴィクトルが僕なんかとなんて有り得るわけ無いじゃないか」
「はあ? ってことは、セックスフレンドとかかよ」
「ん、なっ!?」
 彼はまだ十七歳で、つまりは勇利よりも八歳も年下だ。加えて一年前のまだ少年の面影を色濃く残している姿の記憶も新しいだけに、その口から紡がれるセックスフレンドという言葉の破壊力の凄まじさといったらない。いつの間に、そんな言葉まで恥ずかしげもなくすらすらと口にするようになったのやらだ。
 でも思えば彼の頭上にすでに耳は無く、ということはそういう経験に関しては、勇利よりも一歩進んでいることは明らかである。
 それにカーッと頬を染め、しかしその一方でユリオのそういった事情について考えてしまった罪悪感にも苛まれ、さらなる混乱の渦に意識を突き落とされる。
 そして気付いた時には胸の前で両手をばたばたと振りながら、最近はそういうのは無いんだと真実を口走ってしまっていた。
「大体、今年に入ってからヴィクトルと僕が微妙な感じだっていうのは、ユリオも知ってるだろ」
「へえ。ってことは、去年あたりまではマジでセックスフレンドだったってことか。ヴィクトルはともかく、カツ丼はそういうの駄目そうなのに意外だな」
「あっ」
 そしてそこで言い訳をするつもりが、まさかの。さらなる墓穴を掘っていることに気付くものの、全ては後の祭りであった。
 正月前の無意識に調子に乗っている時期だったら、周囲から自分達の関係がそういう風に見えることにひっそりと自己満足感に浸っていたかもしれない。しかし今となってはただただ虚しいだけで、思わず未だ手に持ったままのグラスを両手で握りしめた。
「はあ……。ともかく、今はヴィクトルとそういう関係ってわけじゃないから。ていうかもともと、その、せっ、セックスフレンドっていうのかどうかも、微妙な感じだし」
「はあ? 何だそれ」
「いや、なんていうか、そのままの意味だけど。そもそもヴィクトルとはちょっと触り合う程度のことしかしたことが無いし。それもヴィクトルが僕のフェロモンに流されてって感じで」
 それでも勇利の中では、十分に普通以上の関係ではあるのだが。
 ただこのパーティーの様子からも分かるように、耳が無い人間は性に奔放な人が多い。だからヴィクトルにとっては、そんな触れ合いもきっと猫をかまって遊んでいる程度の感覚しかなかったはずだ。
 ということを思い出して慌てて言い訳をぼそぼそと口にしていると、面倒臭そうにはいはいと流されてしまってとても心外である。
「ちょっと、ユリオ。人が真面目に話してるのに適当に流してさあ……まさかとは思うけど、ヴィクトルが昨日一緒にいた女の人には絶対このこと言わないでよ」
「心配しなくてもおまえらのことなんてちっとも興味ねーよ。それに昨日の女のことも、俺は全然知らねーし」
「ならいいけど……」
「それよりヴィクトルがバンケットにあんな女を連れ込んだことといい、おまえがこんな柄でもないパーティーに一人で来てることといい、この間からやってるヴィクトルとのケンカ、まさかまだ継続してやがるのか」
「あー……」
 そこでそういえば、世界選手権前に私情を大会に持ち込むなとユリオに言われたのを思い出す。それでその時の勇利の計画では、優勝を手土産にヴィクトルに来期もコーチ契約を継続して欲しいとお願いするつもりだったのだ。
 しかしそれがまさかの。ヴィクトルが女性連れだったせいでその後の計画が全て頓挫し、ヤケになってこんなパーティーにまで足を踏み入れて。
 挙げ句に見知らぬ男に迫られるという不名誉な体験までするという一連の出来事を思い出したせいで、勇利は背後にどんよりとした影を背負いながらユリオから目線を外した。
 こうして改めて思い返してみると、自分自身の限界に挑戦をし、苦労をして優勝をもぎ取ったわりには、その後の展開がなかなかに踏んだり蹴ったりである。
 そしてそこでユリオがとどめの一言。ヤケ酒でもしようと思ってここに来たのに、襲われかけて凹んでるとか何やってんだよとズバリな指摘をしてきたのに、ガックリと肩を落とした。
「どうせまた下らないことで、ヴィクトルとすれ違いでもしてんだろ。酒で誤魔化そうとしないで、さっさと話し合いでもしろよ」
「話し合いは……しようとは思っていたんだけど」
 でも今の心理状態では、とてもではないが無理だ。
 とはいえコーチ問題に関してはいつまでもずるずると引きずるような問題でもないので、今月中には何とかなってると思うと答えると、やれやれといった表情をしながら肩を竦められた。
 はっきり言って、これではどちらが年上か分かったものではない。
「まあオレは関係ないし、正直どうでもいいけどな。
 それよりおまえ、ヤケ酒するのはいいけどなんてこんな場所にノコノコ一人で来てんだよ。ここ、そういう目的のやつも多いから、おまえみたいなやつは良いカモだぞ」
「カモって、失礼な。大体、そういうけどユリオだって人のこと言えないだろ。まだ十七歳のくせにこんないかがわしいところに一人で来たら駄目じゃないか」
「オレはそもそも耳が無いから別に良いんだよ。それにここは互いの身分を詮索しないって決まりだからな。変に絡まれないし、良い時間潰しになるから顔出してるだけだ」
「あのねえ」
 ユリオはその優秀な成績と端麗な容姿も相まってか、その人気は急上昇中で、いつの間にかヴィクトルの人気に肉薄するほどだ。
 ただしとてもコアなファンが多いためか。オフ時にもファンの女の子たちによく追いかけ回されているだけに、その気持ちは分からないでもない。
 でもいくらそうは言っても、ふとした瞬間に子どもっぽい年相応の表情が時折見え隠れするので、それを目にするとハラハラとしてついお節介心が覗いてしまう。
 ただいくら注意してもどうせ言うことを聞かないのは目に見えている。したがって結局勇利の方が折れると、嫌がられるかもしれないが、なるべくそばで様子を伺うしかないなとひっそりと心に誓った。
「ともかく……危ないし、遅くまで長居は駄目だからね」
「うっわ、いきなり保護者面してウゼー」
「はいはい、それでいいよ。事実、ユリオより八歳上だしね」
「へー。そのわりには、さっきまで男に襲われかけてたのはカツ丼の方だけどな」
「……」
 全くもって正論で、なおかつそれを助けてくれたのはユリオなだけに、すぐに言い返すことが出来ないのが辛いところだ。
 でもそれを言うならユリオだって未成年だし、それに何より勇利よりはるかに美形なので危ないだろう。
 というわけでユリオだって危ないじゃないかと言い返すと、思いきり鼻で笑われてしまった。
「オレはちゃんとしたスーツさえ着てれば、そこそこの年齢に見えるから問題無いだろ。それに耳も付いてねーし」
「ぐう……さっきの人も耳がどうとか言ってたけど。こういうのって、耳が有る方が面倒臭いって嫌がられるものだと思うんだけど」
「バッカだなぁ、おまえ。耳付きってことは未経験ってことだろ。この世の中には初物食いが趣味っていう変態野郎がいるんだよ。しかもおまえ年齢のわりに童顔だから、さっきみたいにそういうのが趣味のやつがウジャウジャ寄ってくるんだろ」
「ええ……?」
 未経験だの初物だの童顔だの。とんでもなく貶されているのは間違いないのだが、ユリオなりに心配してくれている結果のそれらの言葉というのは分かるので何も言い返せない。
 ただそれらの言葉の直撃を食らったせいで、思ったよりもダメージを受けたのは確かで。やや虚ろな表情をしながら早く耳を落とそうと無意識にぼそりと口にすると、今さら焦ってどうすんだよとごもっともな言葉を再びくらってしまう。
 その言葉もまた胸に深く突き刺さり、大げさなほどに大きくガックリと肩を落としていると、さすがに気の毒に思ったのか。ユリオは一つ大きく息を吐いてから、仕方ねえなと口にしながら向かい合って座っていたテーブルの上に身を乗り出してきた。
「耳丸出しでこの会場の中をうろつかれて、襲われてもオレの寝覚めが悪いしな。特別に耳が見えなくなるように偽装工作をしてやってもいいけど、どうする?
 っていっても効果はせいぜい半日持てば良い程度だから、明日の朝か昼くらいには消えるけどな」
「なにそれ。そんなの聞いたこと無いんだけど」
 偽装工作というからには、実際にそういうことをするわけではないだろう。しかし尻尾はともかくとして、頭上にあるこんなに目立つ耳を見えなくする方法なんてまるで思いつかない。
 そこでそういえば帽子をかぶる方法があったなと思い出してパッと顔をあげると、帽子じゃねーからなと真顔で返された。
「もったいぶっても仕方ないからはっきり言うが、ようはオレの匂いをおまえに付けるって方法がある。濃い匂いで相手の目をくらませて、頭の耳が見えなくなるよう錯覚させるイメージだな」
「へー、そんなもので耳が見えなくなるんだ。そういうのあんまり興味も無かったから、全然知らなかった。ってことは、もしかして皆やってたりするの?」
「中にはやってる人間もいるかもしれねーけど、ほとんどいないだろうな」
「そっか」
 でもまあ、そもそも二十代まで耳付けてるような物好きなんていないしねと笑うと、そういう問題じゃないと呆れた表情で即座に突っ込みを入れられてしまった。
「そもそもこの匂い付けの方法は、猫の遺伝が強く出てるフェロモンの香りが強いタイプの人間じゃないと出来ないんだよ。でもそういう人間の数はめちゃくちゃ少ないから、ほとんど知られてない。オレも自分以外だとヴィクトルくらいしか知らねー」
「あ……そうなんだ」
 痣の件といい、すべてがまるで別世界のおとぎ話のようで、まるで実感が湧かない。
 でも二人とも常にスポットライトの中心にいるかのような鮮烈なオーラを放っており、それは人を惹き寄せてやまず、明らかに他の人間とは違う。
 だからやっぱり自分とは生きる世界がまるで違うんだなと考えると、ヴィクトルとは釣り合わないのだという事実を改めて目の前に突きつけられているかのようで。ズキリと胸が痛むような感覚が走ったのに、視線を下に向けた。
「それより匂い付けをするってことは、そいつとはそれなりの関係って思われることになるからな」
「それなりってことは、つまりは恋人とか?」
「まあオレとカツ丼だと恋人ってとられるだろうな」
「はあ、そうなんだ。別に僕はかまわないけど」
 少し前の思い上がっていた時期だったら、ヴィクトルに勘違いされたくないなあと迷っていたかもしれない。しかし今は例の女性の登場によって恋心を砕かれていたのもあり、即座に問題無いと返す。
 ただそう口にするのと同時に、ズキズキと痛んでいる胸をさらに抉られ、鋭い痛みが走ったような気がしたのに思わず言葉をつまらせてしまった。
 でも今さら未練がましく足掻いたところで、この気持ちはどうしようもないじゃないかと改めて己に言い聞かせる。
 それでも縋りそうになる気持ちを無理矢理断ち切るかのように、むしろユリオの方が支障が有りそうだけどと、ふと思い付いた言葉を何も考えずに口にしていた。
「オレ?」
「あー、ほら。ユリオも恋人とかいるだろうしさ。そうだとしたら、迷惑かけるのも悪いっていうか。だからそんなに気を使ってくれなくても大丈夫だよ」
 それにこの後すぐに自室に戻るつもりだからと続ける。しかしそれと同時に、これではユリオのことを気遣っているようで、心の奥底ではヴィクトルに未練たらたらなのを吐露しているみたいだとそこではたと気付く。
 そして案の定、それを見つめるユリオの様子は探るかのようで。その居心地の悪さに思わず口をつぐんで目線をきょろきょろと彷徨わせていると、嘘が下手だよなと言われたのにドキリとしてしまった。
「オレは今恋人とかいないから、カツ丼が気にすることねーよ。それよりおまえ、本当はヴィクトルのことが――」
「いいんだ」
 今その言葉は最後まで聞きたくなかった。だからわざとらしいのを承知で途中で遮ると、やっぱりなというように鼻を鳴らされる。しかしそれにはあえて気付かないふりをした。
 一気に色々なことが起きたせいで、まだ心がざわめいている。だからもう少しだけそっとしておいて欲しい。
 しかしユリオは、それからしばらくの間本音を探るかのようにじっと見つめてくるのだ。
 そのあんまりの居心地の悪さに思わず痣が無いからだよと口にしたのは、彼がヴィクトルと同じく、猫の血を色濃く受け継いでいる貴重な存在であると教えてくれたからだ。
 そしてそれを聞いた直後、ユリオの目が大きく見開かれて。何故それをと少しばかり驚いた口調で訊ねられたのに、ああやっぱりと思いながら小さく息を吐いた。
「この話、ユリオも知ってたんだ。でもヴィクトルから教えてもらっただけで、僕にはそれが無いから……それで意味が分かるだろ?」
「ああ……」
 迷信なんてまるで信じなそうなユリオが何も言い返してこないということは、つまりはそういうことなのだろう。それは、勇利の恋心がさらに粉々にされた瞬間であった。
 そしてそれをきっかけにどこか自暴自棄な気持ちになると、結局ユリオの提案に乗り、彼の匂いを付けてもらうということになった。
 しかしそれを人前でやってしまっては、全く意味が無い。ということでバーの奥にあるお手洗いの個室で付けることにした。
 ちなみにその匂い付けの方法とやらはいたって簡単で、ユリオが自身の首筋に手を這わせ、それを勇利の首筋にベタベタと擦り付けるだけである。とはいえ匂いの分子なんて目に見えないので、端から見たら何をやっているのやらだろう。
 したがって思わず恋人同士もこうやって匂い付けをするのかと訊ねると、思いきり胡乱な表情をされてしまった。
「はあ? 普通はセックスに決まってんじゃねーか。でもま、とりあえず匂いを付けるならこれでも十分だろ。ただ仮だから、せいぜい持っても半日程度だからな」
「え、あ、うんっ。そうなんだ」
 思いがけず再び直球のワードをぶつけられたのに酷くたじろいでしまう。
 しかしユリオなりに色々と気を使ってくれて、わざわざこんな面倒なことをしてくれているのだ。ということを一拍置いてから思い出すと、口元を緩めながらありがとうと礼の言葉を口にする。するとちょうど匂い付けの作業の終わり際だったのか。首筋を手の平で軽くバチリと叩かれ、不機嫌な様子でフンと鼻を鳴らしながら個室の外へ出て行ってしまった。
 ただし髪の毛の隙間から見えている耳がほんのりと赤く染まっていたので、それが照れ隠しというのはバレバレだ。ここら辺が片手落ちでまだまだ子どもなんだよなあと思ったが、それは勇利だけの秘密である。

 それから二人は再び元居た席に戻ると、ウエイターから水をもらう。そして何事も無かったように、今度は再来週に行われる国別対抗戦について話し始めた。
 ちなみにユリオ曰く、お手洗いから出てきた時点で周りの人間からは勇利の猫耳が見えなくなっているらしい。ただし勇利自身ではきちんと見えているし、当然触ることも出来るので、いまいちその実感が湧かない。
 それに内心首を傾げながら辺りの様子を伺い、そこで初めて周囲の人たちの視線が自分たちに集まっているのに気付くと、落ち着かないのに身体をもじつかせた。
「あのさ……さっきより明らかに注目されてる感じがするんだけど。本当に、他の人から耳が見えなくなってるの?」
「ああ。間違いなく取れて見えてるな」
「ええ……? でも普通耳が取れたら、興味失うと思うんだけど」
 それが逆に注目を集めるとはこれいかにという感じである。
 しかしそれに対してユリオは鼻で笑うと、やっぱりさっき言った意味が分かってなかったのかと口にした。
「……んん? つまりどういうこと?」
「周りの連中は、カツ丼とオレがさっき席を外してる間にセックスでもしてきたんだろうなって思ってんだよ」
「ゲホッ!! な……なっ!?」
 予想の斜め上をいく答えに、口に含んでいた水が器官に入ってむせてしまう。そしてそんな様子の勇利を見ながら、ユリオはまるで他人事のように汚ねぇなと彼らしい感想を述べていた。
 だが勇利にしてみれば、あまりにも話が飛躍しすぎていて何が何やらという感じだ。
「い、いやいやいや、ちょっと待って。いきなりそこまで考える?」
「はあ? 何言ってんだおまえ。そもそも耳が落ちるのは、セックスで中出しするか、されるかしかねーだろ」
「あっ」
 そこでうっかりと失念していた重要なことを思い出すと、ポカンと口を開ける。それから数秒の間にその頬をみるみる赤く染め、それから目の前のテーブルに突っ伏した。
 無論そんな勇利の様子を見て、ユリオが今さら気付いたのかと呆れたように肩を竦めていたのは言うまでもない。そしてその時に彼が浮かべていた表情はひどく涼しげなもので。これがすでに耳の無いオスの余裕というやつなのかもしれないと思うと、少し悔しかった。
 そしてそれにぐぬぬと小さく唸り声を漏らしていた時のことだ。
 出入り口付近がざわついたのに何気なく振り返って視線をそちらの方向へ向けると、そこに見覚えのある銀髪に長身の男性と、スラリとした体型の女性の姿があったのに、勇利は小さく息をのみながら全身を強ばらせた。
「――ッ!」
「ん……? ああ、誰かと思ったら、ヴィクトルと例の女じゃねーか」
 勇利が振り返ったので、ユリオもそちらに目を向けたのだろう。女連れでこんな場所まで来るなんて悪趣味だなと呆れた様子で感想を口にしているのが聞こえてくる。
 しかし勇利の方は、正直それどころではなく。ヴィクトルに見つからないように、背中を小さく丸めながら顔を正面に戻した。
「なんで……ここにヴィクトルが」
 今回は女性を同伴していたので、こんな場所に来るとは夢にも思っていなかった。だからこそヤケ酒をするつもりでこのパーティーに参加したのに。それがまさか、鉢合わせるとは。
 そこでこそこそと座っていたソファから立ち上がると、ユリオの腕を掴んでトイレに向かって歩を進めた。
「おい、カツ丼! いきなり人のこと引っ張って何だよ」
「えっ、あ、いや。ちょっと、ヴィクトルと顔を合わせるのが気まずくてつい」
「はあ?」
 それを聞いたユリオは訳が分からないといった様子で眉間に思いきり皺を寄せている。でも勇利自身もこんな行動を咄嗟にとってしまった意味が分からなかったので、それ以上何も言うことが出来ずに口ごもるしかなかった。
 だって、ユリオの言うとおりだ。別に悪いことをしている訳でも無いし、こんな風にこそこそする必要性なんてまるで無いのだ。それなのに何故こんなに焦っているのかよく分からない。
 ただなんとなく……そうしてヴィクトルと女性が並んで立っている光景から目を背けることで、ようやく平常状態に戻りつつある自分自身の心を守ろうとしているのだろうかと思った。
 しかしそもそもユリオは人前でコソコソとするタイプの人間ではないので、そのままおとなしく勇利の言うことを聞くはずもないだろう。
「そうやって、逃げる方が後で気まずくなるから止めろ」
「そりゃあ、そうかもしれないけど」
「理屈はいいから、来いよ」
 それから勇利がもたもたとしている間に逆に手首を掴まれると、あっという間に元居た場所に再び連れ戻されてしまう。そしてそもそもバーという立ち歩いている人間が少ない場所で、男二人でそんな行動を取っていたら目立たぬはずもなく。
 それまで同伴していた女性と話していたヴィクトルの視線が、ふと勇利たちの方を見る。そして二人の存在にすぐに気付くとパッと顔が綻び、手を振られる――というのがいつものパターンだ。
 しかしこの日はその手が胸元まで上げられたところでその動きがピタリと止まり、手を振られる代わりに目が大きく見開かれる。それからその瞳がみるみると曇り、彼にしては珍しく眉根が寄せられて。
 それから同伴していた女性に断りを入れること無く、大股で勇利立ちの方へ歩いてきたのにとても驚いた。
「ユ、ユリオ……なんかヴィクトル、すごく怒ってない?」
「珍しくめちゃくちゃ怒ってるな」
「だ、だよね」
 昨シーズンのグランプリファイナルの時に、ホテルで彼のことを泣かせてしまった日以来。およそ一年ぶりに見る彼の怒りの感情に、足が震えて逃げることも出来ない。
「なっ、なんであんなに怒ってるか分かる?」
「目の前の現実が受け止められないんじゃねーのか」
「それじゃあ全然分からないから、もったいぶらないでもっと具体的に!」
 お願いだからとユリオの肩を揺さぶるたび、ヴィクトルの眉間の皺が深くなっていくのに勇利は気付かない。
 しかし一方ですぐにそれに気付いたユリオは、ヴィクトルにちらりと流し目を送りながら、嫌みなまでに口角を上げてみせた。
 もちろんそれがわざとなのは、言うまでもないだろう。

「やあ、勇利にユリオ。こんな場所で会うなんて奇遇だね」
「えっ! あっ、うん」
 そうこうしている間にヴィクトルは二人の傍までやって来ると、勇利の隣のソファにゆったりと腰掛ける。
 その仕草も表情も声音も、全ていつも通りで。ここに来る間での間に見せていたあの負のオーラは一体何だったのだという感じだ。
 おかげでひどく困惑してしまい、常よりも明らかに挙動不審気味になっていると、目の前に腰掛けているユリオに怪訝な目線を送られてしまった。ただ勇利自身でもそれが分かっていてどうにかしようとしてのこの結果なので、もうこれ以上はどうしようもない。
 そしてそんな調子でヴィクトルの一挙手一投足に大げさなまでにビクついていると、それまで肘掛けに乗せられていた右手が伸ばされて。反射的に目をギュッと閉じると、何故だかよく分からないが顎下を指先でくすぐられたのに、戸惑いの視線を向けた。
「えっと……ヴィクトル?」
「いけない子だな、勇利は。この後すぐに国別対抗戦があるのに、こんな場所で油を売って。しかも頭にあった可愛い耳が無いじゃないか。ああ、それともあれか。今回の世界選手権で優勝して、羽目を外したい気分だったのかな」
 そしてその言葉をきっかけに、先ほど珍しく怒っている様子を露わにしていたのは、勇利の頭上に耳が無いのに気付いたからなのかとようやく気付いた。
 でも、ただの生徒の耳が落ちたくらいで何故あそこまで怒ったのかは、正直よく分からない。したがって疑問符を頭上に浮かべながら恐る恐るヴィクトルの顔を再び見上げると、彼はゆっくりと目を細めてみせた。
「まさか……ユリオとそういう関係だったなんて、まるで気付かなかったから驚いたよ。それならそうと、早く教えてくれれば良かったのに。たまに手を出しちゃってたし、迷惑かけちゃっただろう?」
「――えっ!? いやっ! これはそうじゃなくて!」
 ヴィクトルはユリオの香りに惑わされているだけで、実際のところは現在進行形で頭上にきちんと耳が生えている。
 それをきちんと主張しようとするものの、今なお顎下を撫でられているせいで腑抜けてしまって上手くいかない。したがってぶるぶると勢いよく頭を振ると、ヴィクトルの手の中からなんとか抜け出した。
 正直、久しぶりのヴィクトルの手を振り払うのはちょっと名残惜しい。それにヴィクトルもそんな風に全力で拒否をされるとは思っていなかったのか、少し驚いたような表情をしている。でもこのままではいつまでも話が進まなそうなので許して欲しい。
 そして真実を口にしようと息を吸い込み――しかしそこで件の女性の存在が目の端に映ったのをきっかけに、果たして彼に真実を告げる必要があるのだろうかという考えが脳裏を過ぎったのにその動きを停止させた。
 今ヴィクトルは、勇利が大会に集中せずに耳を落とすようなことをし、さらにはこんな場所で酒を飲んで遊びほうけていることに対してコーチとして怒っているのだと思う。
 それならいっそ、このまま自分自身がそんなしょうもないことをする人間なのだと呆れられていた方が、冷たくあしらわれるのではないだろうか。
 それはいまだにヴィクトルへの想いを完全に捨て去ることが出来ない自分には、とても名案に思えた。
 でもそれだとユリオに迷惑がかかってしまう……というか今まさに迷惑をかけているということに気付くと、慌てて目の前に座っているユリオの方へ顔を向けた。
「――あっ! ごっ、ごめん、僕のせいでユリオに迷惑が」
「謝る必要なんてねーよ。そもそもオレの方から勇利に声かけたわけだしな」
「えっ? あ、うん。それはまあ、そうだけど」
 その通りではあるのだが。
 珍しく名前をきちんと呼ばれたのに驚いてしまい、間抜けな表情をしながらユリオのことをただただ見つめてしまう。すると彼はまあ見てろと言うように目を細めて。それからヴィクトルの方へ顔を向けると、まるで挑発するかのようにあからさまに口元をニヤニヤと歪めてみせた。
「おい、ヴィクトル。何だってそんなカリカリしてんだよ。そもそもカツ丼だってガキじゃねーんだから、耳が落ちたところでヴィクトルには関係無いだろ。ていうかむしろようやく落ちて良かったな、くらい言ってやっても良いんじゃないのか」
「ちょっと、ユリオ」
「ああ……それともまさか。ヴィクトル、オレに妬いてんのか?」
 あからさますぎる挑発丸出しな台詞の数々に、たまらず手を軽く伸ばしながら制止の声をかけたのだが。ユリオはそんなのまるで無視して言葉を続け、最後にはまさかの妬いているのか宣言である。
 ユリオにはそもそもヴィクトルとは恋人ではないとはっきり言ってあるのに、一体どこからそんな発想が出てきたのやらだ。
 あるいは彼は勘が鋭いので、勇利がそう思ってくれたらなと心の奥底で少しだけ考えていたことまでも読まれてしまったのか。
 でも今は正直そんなことはどうでも良くて、普段とは明らかに異なる空気をどうにかしたい一心である。
 したがって努めて冷静を装って何てことない表情を取り繕いながら、いきなり何言いだすのさとあははと小さく笑いを漏らした。
「ヴィクトルとはただのコーチと生徒の関係だってユリオも知ってるだろ。それなのに何でいきなりそんな変なこと言いだすかなあ」
「別に変でも何でもないだろ。オレにはそう見えたから、それをそのまま指摘してるだけだよ。事実、ヴィクトルにしちゃあ珍しく、ご執心だったからな。それにカツ丼が耳落としたのに気付いた途端にあの怒りようだぜ」
 遠回しに止めてくれと言っているのに。そしてそれに間違いなくユリオも気付いているはずなのに。それなのにさらに勇利を追い込んでくるのに、ひどく混乱する。
 せっかく諦めようとしているのに、どうしてそうやって期待させて、かき乱すようなことを言ってくるのか訳が分からない。もう本当に止めて欲しい。
 その一心でユリオこそ妬いてるみたいじゃないかと、わざと正反対の言葉を口にすると、ユリオはそれまでヴィクトルへ向けていた視線を、ようやく勇利の方へ向けてくれた。
「くっは! オレが妬くって、おまえに? 言うじゃねえか」
 ユリオと勇利の間には、互いにそういう感情は一切無い。だからこれはまるで、言葉遊びみたいだなあとふと思う。
 そして勇利がこの言葉をヴィクトルの前で発してしまったせいで、ユリオにはさらなる迷惑をかけてしまうことになるが、とんでもないことを口走った対価だと思ってもらうしかない。
 そこで改めてユリオの方へ視線を向けると、彼はすでに勇利のことを見ておらず、ニンマリと挑発するような笑みを口元に浮かべながら、ヴィクトルのことを再び見つめていた。
「はは。まさか二人の痴話喧嘩に巻き込まれることになるとは思わなかったからさすがに驚いた。本当、ユリオは面白いことを言うな。でも心配しなくても俺がもともと特定の相手を作るタイプじゃないっていうのは、ユリオも知ってるだろう? もちろん二人を邪魔をするつもりなんて毛頭無いし、好きにすれば良いじゃないか。
 ああ……それとも、もしかしてそういうプレイ?」
「へー、意外に余裕なんだな。それなら、遠慮無く」
 そこでユリオがソファから立ち上がる様子をハラハラとしながら見つめていると、彼はヴィクトルとは反対側の勇利の隣のソファに腰掛けてくる。
 ということは、ひとまずヴィクトルに直接喧嘩を売るつもりでは無いらしいのに安堵したのも束の間。
 何故かいきなり手首を掴まれ、思いがけず強い力で引っ張られたせいで上体がユリオの方へぐらりと一気に傾いたのに目を瞬かせる。そして倒れ込む先にユリオの顔があったから驚いたなんてものではない。
 だってこのままでは、ユリオとキスをすることになってしまう。
「なっ、これっ」
「ばーか。油断してるからこうなるんだよ」
「ええっ!?」
 そうは言われてもという感じである。もともとユリオのことはそういう目で一切見ていないし、それはユリオも同じはずだ。そりゃあ誰だって、まさかいきなりキスをされるとは思わないだろう。
 というか今だってユリオの瞳からは、そんな色は全く感じないのだ。それなのに何故こんなことをしてくるのだろうという疑問の言葉が、頭の中をグルグルと回る。
 そしてユリオの方へ倒れ込むまでのほんの数秒の間に勇利が出来ることなんて大してあるはずもなく。ソファの肘掛けに腕を突っぱねて辛うじて二人の間に距離を作り、さらにギュッと目蓋を閉じた次の瞬間のことだ。そんな些細な抵抗を鼻で笑うかのように、ユリオの顔が勇利の方へあっという間に近付いてきて。二人の間の距離が、ついにゼロになった――と思ったのだが。
 ふわりとかすかな風が顔の両脇をすり抜けていき、その直後に覚えのあるユリオの柑橘系の爽やかな香りが鼻先に漂う。しかしそれ以上いくら待っても、唇には何も触れないのである。
 それを不思議に思っておずおずと目を開けると、すぐ目の前に透き通るようなエメラルドグリーンがあったのにポカンと口を開けた。
「――え、っと」
 つまり唇同士が触れ合う直前で、動きを寸止めされたのだ。ということは、ただキスのフリをされただけなのだとそこで気付く。
 しかし勇利の方は本当にされると思っていただけに、すっかりと怖じ気ついて全身の動きを止めてしまったのもあり、それが今さらながらに非常に恥ずかしい。
 いやまあ、人生に一度しか無い貴重なファーストキスを奪われなくて良かったとは思うのだが。
 ただし案の定目の前のユリオの表情は常よりも歪んでおり、勇利の反応を少なからず面白がっているのは明らかなので非常に不本意というか。これではどちらが年長者なのか分かったものではないので、なけなしのプライドが非常に傷付く。
 しかしどう足掻いてもこの手の経験がユリオの方が上なのは明らかなので、文句を言ったところで鼻で笑われるのが落ちだ。したがってそれよりも何故こんな場所でまるで見せつけるかのようにキスの真似事のようなことをしてきたのかと訊ねようとしたのだが。
 その瞬間にさらに背後から誰かに腕を引かれ、次に目蓋を開いた時に目の前に広がっていた色は、エメラルドグリーンではなくスカイブルーだった。
「勇利は、いつからそんな風になっちゃったのかな。それとも実はもともと? まったく知らなかったから、少しショックだよ」
「ふ、あっ」
 ヴィクトルとの距離が縮まるのと同時に、ユリオよりも甘ったるい、セクシーな香りに全身が包まれる。
 これは、ヴィクトルが普段付けている香水の香りだ。でも鼻腔一杯にその甘ったるい芳香を吸い込むのと同時に、普段は感じたことの無い酩酊感に包まれる感覚に小さく頭を振った。
(なんだ、これ)
 頭の片隅では、この香りは明らかに何かがおかしいと理性が警鐘を鳴らしている。
 香水の香りだとばかり思っていたが、もしかしたらヴィクトルのフェロモンも混じっているのかもしれない。そう考えると、全身を包んでいるふわふわとした感覚にも納得がいく。
 なんだか夢見心地で、ものすごく気分が良くて……おかげでヴィクトルに抱いていた微妙な気持ちとか、それ以前にそもそもここは人前だとか、そういう常識的な考えが少しずつ失せていってしまう。
 そして本能に促されるがままにくんくんと鼻を鳴らしていたせいで、自分でも気付かぬ間にその芳香に完全に囚われてしまい、気付いた時には理性はどこへやらだ。
 しばらくすると恥も外聞も無く甘い香りが強くする首筋に顔を寄せ、そこにすりすりと頬を擦りつけながら懐いてしまう。それから身体の中で渦巻いている劣情に突き動かされるように唇を薄く開き、そこを甘噛みしようとしたのだが。
 その途中で身体を離されてしまい、さらに悪戯が出来ないようにするためか。頬を両手で挟まれてしまったのにもぞもぞと身体を動かしながら小さく唸り声を漏らしていると、宥めるように顎下を指先で軽くくすぐられた。
「おっと……油断も隙も無いんだから」
「なん、でっ?」
「ふふ。何でって……勇利は、俺が誰か分かって無い?」
「ん、うぅー……それ、ら、めぇっ」
 顎下をくすぐられているのは、誤魔化すためだ。でもそれが分かっていてもなお、抗えないのが耳付きの悲しい性である。
 そして指先で何度か撫でられることでその感覚の虜になってしまうと、そこからさらに完全に落ちるのは驚くほどに容易く。ほんの数十秒ほどで全身をどろりと蕩けさせると、ゴロゴロと喉を鳴らしながらヴィクトルへもたれかかり、膝上に腰掛ける格好になってしまう。
「あーあ。勇利、そんなにとろとろになっちゃって……隣にユリオがいるのにいいの? 俺は、ユリオじゃなくてヴィクトルなんだけどな」
「んっ……う、ぅ? びくとる?」
「そう、ヴィクトルだよ」
 後ろの方から、悪趣味という吐き捨てるような悪態をついているユリオの声が聞こえてくる。でもはっきり言って、今はそんなのどうでも良い。
 それよりもヴィクトルの首筋からする良い匂いの方が気になってたまらないので、先ほどからずっとその場所を淡々と狙っているのだが。顎下を撫でられているせいで、そちらに集中出来ないのがもどかしい。
 ただそうしてチラチラと視線を送っていたせいで、ヴィクトルにそれを気付かれてしまったのか。手の動きを止めてくれたのは良かったのだが、今度はクスリと含み笑いを漏らされ、親指で下唇をゆっくりと撫でられた。
「また、勇利は首ばっかり狙って」
「うー……だって、そこからいい匂いがするから」
「前もそう言ってたよね。でも、俺もオスだしなあ」
 首の代わりにこっちならいいよというように、唇が近付いてくる。
 それにそうじゃないときゅっと眉根を寄せてしまうものの、その一瞬後に思いがけず濃密な甘い香りが鼻先にふわりと香ってきたのに頭の芯がジワリと熱くなり、うっとりとしてしまう。
 そして添えられていたヴィクトルの指先に促されるがまま顔を少しだけ斜めに傾けて。それから気付いた時には互いの唇同士が合わさっていた。
「は、んっ……うう」
「ん……ゆうり」
 最初は唇の表面が触れ合うだけの、なんてことのないキスだった。それもあり、ファーストキスという事実よりも、むしろヴィクトルが身じろぎするたびに鼻先に香ってくる芳香の方に夢中になっていた。
 ただ熱い物に唇の狭間をゆっくりと辿られ、それに驚いて口を開いた拍子にそれが口内に侵入してくるとなると話は別だ。
「ふ、ぐっ?」
 おかげでそれまで霞がかったようにぼんやりとしていた頭の中がいくらか晴れ、いつの間にか閉じていた目蓋をおずおずと開く。それから「一体なに」という言葉を発しようとしたのだが。唇を塞がれていたせいで、実際に口から漏れたのはふごふごというみっともない息が漏れる音だけだ。
 ただそれをきっかけに意識がはっきりし、そこであのヴィクトルとキスをしているという事実にようやく気付くと全身を大げさなほどに震わせた。
(なんだ、これっ)
 本当に、何がどうしてこんなことになっているのか、さっぱり訳が分からない。でも今はそんなことよりも、人の目がたくさんあるバーという公の場所でキスをしてしまったという事実の方が問題だろう。
 そしてそれをきっかけにヴィクトルと一緒に来た女性の存在を思い出して視線を恐る恐るそちらの方へ向け――そこで未だ出入り口付近に佇んでいる女性の姿が目に入った瞬間、身体の中でくすぶっていた甘い熱が、頭から冷や水をかぶせられたかのように一気に引いていくのを感じた。
「――っ!?」
 なんということを、しでかしてしまったのだろうと思う。でも今はそんなことをぐだぐだと考えて後悔をするよりも、ヴィクトルから離れる方が先だ。
 したがって慌てて目の前にある胸元を押して正面を向き直りながら、ただただごめんと平謝りをする。
 しかし当のヴィクトルはというと、先のキスのことなどまるで気にしていないのか。思わせぶりに自身の唇を舐めながら、あーあと残念そうな言葉を口にしているのに、勇利は思わず上体をのけ反らせながらグッと息をのんだ。
「せっかくいいところだったのに、どうしたの」
「いや、だからその、人前でこんなことしちゃって申し訳ないというか……謝って済む問題か分からないけど」
 そこでわざと出入口付近の女性の方へ視線を向けることで言外にアピールするものの、ヴィクトルは相変わらずどこ吹く風といった様子で涼しい顔をしている。
 それどころか、再び顔を近付けてきて二人の間の距離を詰めてきて。俺の方から仕掛けたわけだし勇利が謝る必要なんて無いよ、なんてことを軽い調子で口にしているので冷や汗ダラダラなんてものではない。
 つくづく、耳が落ちている人たちのこの手のことへの奔放さにはついていけないと思う。
「と、ともかくっ! こういうのは、これから無しにしようよ」
「そんなにあっさり拒否するなんてひどいなあ、さすがに少し傷つくよ。ユリオとキスをするのは良くて、俺とするのは嫌ってことは、やっぱりそれだけユリオが特別っていうことなのかな」
「そっ、そんなこと言われても」
 なんだか聞きようによっては、先ほどユリオが口にしていた通り。ヴィクトルが妬いているように思えなくもない。
 しかしそもそもユリオとはキスなんてしていないし、耳を落とされたように見えるのも、彼の匂いを擦り付けてもらったからというだけなのである。
 つまりユリオとの間には、ヴィクトルが考えているような事実は一切起こっていない。
 だから慌ててその説明をしようと口を開き、しかしそれを教えてしまったが最後。またヴィクトルの言動の一つ一つを、自分に都合良く勝手に解釈して盛り上がって。それで彼の背後にちらつく女性の影に、いちいちビクつくことになるのだと思うと、それはもうたくさんだと思ってしまう。
 それくらいなら、あえてユリオが耳を落とした相手だということにしておいて、何も期待しないようにしておく方が何倍も精神衛生上良いじゃないかと自分自身に言い聞かせる。だからあえてヴィクトルには勘違いしたままでいてもらおうとこっそりと心の中で呟くと、視線をほんの少しだけ床の方へ向けた。
 まあそうなったらそうなったで、ユリオにさらなる迷惑をかけてしまうことになるかもしれないのだが。
 そこでチラリと横を向いてユリオの方へ視線を向けると、彼は先ほどから横でごちゃごちゃと話している二人のことなどまるで興味がないのか。暇そうに自身のスマートフォンを弄くっていて。そんな無頓着な姿が、せめてもの救いであった。
「ねえ勇利、ユリオなんて止めておきなよ。さっき俺と勇利がキスしてても止めようともしないなんて、ひどいじゃないか」
「いいんだよ、それで」
 別に付き合ってもいないし、そういう意味で好き合っているわけでもないのだから。
 そしてその後に続いた、俺ならもっと大事にするのにという耳元で甘く囁かれた呟きは、必死に聞こえなかったふりをしてあえて何も答えなかった。
 少し離れた場所とはいえ、同伴してきた女性がいるというのに。常よりも熱に浮かされたような表情でその言葉を口にするヴィクトルが、今の勇利にとってはひどく残酷に思える。
 でもそれと同時に先の言葉に身体の芯がジンと痺れ、衝動のままに頷きたいと思っている自分がいるのも事実で。このままでは欲望のままにヴィクトルにすがってしまいそうで、怖くて怖くてたまらない。
 だから明らかに話途中でわざとらしいというのは分かっていたが、そろそろ部屋に戻るからと口にしてソファから立ち上がった。
 ただ酒は一杯しか飲んでいないにも関わらず、その足元は深酒した時のようにひどくふらついており、ほうほうのていでホテルの自室へと逃げ込んだ。

「とりあえず、今回は一人部屋で良かった」
 昨年までは金銭面の問題で、ヴィクトルとはホテルの同室で泊まるということがほとんどだった。
 しかしヴィクトルがコーチになってくれてから、国際大会で毎回表彰台に上っているおかげか。今期に入ってからスポンサーを申し出てくれる企業が出てきてくれたおかげで、以前よりも金銭的にいくらか余裕が出てきたのと、あとはヴィクトルと少々ギクシャクしていたのもあり、今回は別室を取ったのである。それを今ほど感謝したことは無いだろう。
 というわけで、今回はヴィクトルがいつ部屋に戻って来るかとビクビクする必要もないので、そのままの格好でベッドに倒れ込む。それから履いていた靴を行儀悪く床に落とした。
「なんだろう。すっごい酔っぱらってる感じがする」
 バーにいた時はさほど気にするほどでは無かったのだが。部屋に戻ってきて、緊張が緩んだせいだろうか。それによくよく考えてみると、バーに行く前にいつもより抑制剤を飲んだのだ。挙句にその状態でアルコールを飲んだせいもあるかもしれない。
「……っていっても、昨日は全然問題無かったんだけど」
 ただ色々と心配で今回は普段の倍量の薬を飲んでしまったので、そのせいだろうか。
 そこで両手で目元を覆いながら小さく息を吐き、それから勢いよく起き上がる。そして部屋に備え付けられている冷蔵庫から、水の入ったペットボトルを取り出したまでは良かったのだが。
 中の水を飲むために天井を仰ぐような格好になったところで、地面がぐにゃりと揺らぐ感覚に立っていられなくなると、たまらず床の上に座り込んでしまった。
「う、わ……何だこれ。なんでいきなり目眩が」
 おかげで飲もうとしていた水が零れてしまい、スーツの前部分がびしょびしょだ。
 ヴィクトルに選んでもらった数少ないお高いスーツの内の一枚なので、これは不味いと慌ててポケットからハンカチを取り出して軽く拭う。それから再び立ち上がろうとしたのだが。
 今度こそ足に力が入らなくなってしまったのに、途中で立つのを完全に諦める。それから這うようにして何とかベッドの脇まで戻ると、うつ伏せの格好でもたれかかりながらまいったなあと呟いた。
「……うう。なんか、駄目だ」
 時間を追うごとに深酒をした時のような酩酊感がひどくなっているのは明らかだ。
 でもよくよく考えてみると、酒に酔っている……というわりには意識がしっかりとしているし、身体も火照っているというよりも熱があるといったほうが近い。といった具合に、通常とは明らかに異なる点があるのがどうにも気になる。
「大会直後で疲れてるのに、昨日寝不足だったし。もしかして風邪気味だったりするのかな」
 あとはまさか……発情期のせいだろうかとふと考えたのは、直前に思いがけずヴィクトルの香りをたっぷりと嗅いでしまったのを思い出したせいだ。
 ちなみにフェロモンというとメスの方が注目されがちだが、もちろんオスだってフェロモンを発する。とはいえ本来オス同士の場合は、攻撃性を高める方向で作用するはずなのだが。
 ただ勇利はいまだ耳付きでオスとして完全に分化している訳では無いのに加え、怪しい雰囲気になると必ずメスのような扱いをされていた。だから対オスというより、対メス方向に作用してしまったのだろうと考えるとなんだかちょっぴり複雑だ。
 そして一度そう考えてしまったせいだろうか。それまで身体の中でところ構わず渦巻いていたはずの熱が急激に下腹部に集中してきたからたまったものではない。
「なんで、ちょっとしか嗅いでないのにこんな……っ」
 ここ最近は少々危ない気配がしていたのもあり、万が一のために薬を多めに飲んだのに。
 しかしそれにも関わらず見知らぬ男に声をかけられたことを思い出すと、いよいよその時期が近付いてきてしまったのだろうかと内心焦る。
「で、でも抑制剤をきちんと飲んでいれば、発情期はコントロール出来るって薬の説明書に書いてあったし」
 だからきっと大丈夫と、自分自身に言い聞かせるように何度も口にしながらシーツをたぐり寄せる。そしてそれに腕を絡ませ、無意識に下肢に伸びてしまいそうになる腕の動きを必死に押しとどめた。
 身体が、あつくてあつくてたまらない。間違いなく、今までで一番の熱だ。
 もしもこの状態でオナニーなんてしようものなら、身体の中で燻っている熱が薬ではもはやどうにもならないほどに高ぶり、そのまま発情してしまいそうで怖くてたまらなかった。



 そしてそうして勇利が部屋で身体を苛む熱に一人悶えていた頃。ヴィクトルとユリオの二人は、件のバーにそのまま残ってグラスを傾けていた。
「ははっ、結局逃げられてやんの。しかもフェロモンの香りに慣れてないやつに無理矢理自分のを擦り付けるとか、いくらなんでも大人げなさすぎだろ。あいつ、匂いに酔ってフラフラになってたじゃねーか。マタタビ嗅いだ後みたいになってたぞ」
「ずっと目にかけてきたからね。横からかすめ取られて、ちょっと面白くなかったものだから……つい。そう、つい勢いで付けただけだよ」
「はあ? つい? そんなのまったく理由になってねーし。大体あいつのただのコーチでしかないくせに、そこまでするとか傲慢すぎだろ。それにそんな未練がましい真似するくらいなら、何でずっとなあなあな関係でいたんだよ。他の女にうつつ抜かしてないで、さっさと恋人にでもすれば良かっただろ」
 それを今さら独占欲を丸出しにして馬鹿みてーと鼻で笑われてしまい、ヴィクトル的には少々面白く無い。しかし確かに正論な指摘には違いないので、結局何も言い返すことが出来なかった。
 あとは一回り以上も下の少年が口にした「恋人」という言葉をきっかけに、それまで自分の取っていた行動が「恋」に由来するものなのだと今さら気付かされてひどく困惑を覚えていたのもあるかもしれない。
「恋、か」 
 ソファに深く腰掛けて辺りを見渡すと、周辺には熱烈なキスやハグをしている人たちがちらほらといる。しかしその行動の大胆さに反して、彼らから感じる熱量はどれも薄っぺらで、それはヴィクトルにもよく覚えのあるものだった。
 心の底から相手のことを求めている訳ではなく、別に他の人でも構わないと思っているのが手に取るようによく分かる。
 そして勇利に抱く衝動が、それとはまるで異質なものであるということにはっきりと気付いたのは、ついさっき。ユリオが勇利にキスをしているところを見た時のことで。さらにそれが恋という感情らしいと気付いたのは、たった今。ユリオに言われてからだった
「今まで、考えたこともなかったからな……」
 愛というものは相手から一方的に与えられるばかりで、自分自身から誰かに対してそういう感情を抱いたことは一度も無い。でも勇利と出会ってから、それは変わった。
 勇利から与えられる愛は、彼の心そのままに透き通ってキラキラとしていて。これまでに半ば無理矢理に押しつけられ、結局受け取らずに素通りしてきた欲望に満ちたドロついた愛とはまるで違う。
 勇利のそれはガラスみたいに脆く、でもだからこそ繊細で美しい。そして気付いた時には、自分の方から手を伸ばしていた。
 しかし彼に対してヴィクトルが抱いた感情は、今にして思うとこれまで他の人間から与えられてきた欲望にまみれたものと同じものだったのだ。その事実が、ただただひどく情けない。
 そしてこの一年の間に、いまだに耳付きで何も知らなそうな勇利に、発情期の匂いに流されているんだともっともらしいことを言いながら、何度か手を出してきたのだ。
「オッサンの言い訳ほど見苦しいもんはねえな」
「まったく、ユリオの言う通りだよ。俺は今まで、一体何を見てきたんだろう」
 しかも挙げ句の果てには、試合後の高揚感をまとわせた勇利にはっきりとした情動を抱いてしまったのを誤魔化すために、誘いをかけてきた女性の言葉に乗って。そしてその間に、子猫だとばかり思っていたユリオにかすめ取られてしまうなんて。本当にひどく滑稽で愚かとしか言いようが無い。
「ユリオは、いつから勇利とそういう関係なの?」
「そんなことより、ヴィクトルと一緒に来た女がいないけどいいのかよ」
「――あ」
 そこですっかり彼女のことを忘れていたのを思い出して慌てて出入り口の方を振り返ると、そこにその姿はすでに無かった。
 愛は無いと言いつつも、こんな風に相手に失礼な真似をしたことは今まで一度も無いので自分自身でもかなり驚く。そして後で詫びを入れなければと考えながら無造作に前髪をかき上げていると、ユリオはソファから立ち上がってじゃあなと口にした。
「あれ? もう帰るんだ」
「しょっちゅう顔合わせてる人間と、こんな場所でまでいつまでも一緒にいたくねーよ」
「ひどいなあ」
 ユリオはダスビダーニャと別れの挨拶をすると、振り返りもせずさっさとその場から離れていってしまう。
 そしてその後ろ姿が見えなくなったところで、勇利との関係についての質問をあからさまにはぐらかされたことに気付くと、目を閉じながら肘掛けに肘をついた。
「まいったな……あんな露骨な話題そらしにも気付かないなんて」
 二人が恋人同士であるという事実が、思ったよりもこたえているらしいのに驚く。
 でもよくよく考えてみると、詳細な馴れ初めなんて聞かされてもそれはそれでショックだし、まあいいかと力なく息を吐いた。
 それよりもこの行き場の無くなった想いがどうなるのか。いや、どうすればいいのやらである。
 普段は心の奥底に隠している自分自身の薄暗い本性を衝動のままに勇利に直接ぶつけてしまい、拒否をされてしまった今となっては……改めて勇利に己の想いを告げられるほど図太くも無い。それに何より、彼はもうユリオのものなのだ。
 そこでふと右手の薬指に目を向けると、金色の指輪が目に入る。
「そういえば、勇利はまだこれをはめてくれていたな」
 しかし普通に考えて、ユリオはこの指輪に対して良い気分を抱いてはいないだろう。
 それは勇利だって分かっているはずなのだが。それを言ってこないのは、彼の性格的になかなか言い出し辛いのかもしれない。というかその可能性が濃厚だろう。
「そうだな……これも、明日には外そう」
 でも今日だけは、彼の特別でいたいと思うのを許して欲しい。
 かれこれ一年と少しはめていたそれは、常に身につけていたせいか。いつの間にか表面に細かな傷が入っていて、それだけ長い時間を彼と過ごしてきたのだと思うと感慨深いものがこみ上げてくる。
 しかしそんな感情も、胸にぽっかりと空いた穴から次から次へと溢れだし、空虚感を満たしてくれることは無かった。

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