アイル

さよなら運命の人-8

 どんなにショックなことがあろうとも、皆に等しく太陽は上る。
 というわけで翌朝勇利は、前日にカーテンも閉めずに眠ったせいで太陽の光をもろに浴び、その眩しさにたまらず目を覚ました。
 ただしベッドにもたれかかるおかしな格好で寝ていたのと、あとは規定量よりも抑制剤を飲んでしまった挙げ句にアルコールを摂取し、さらに発情期が近付いてきているせいか。寝起きの表情は、常よりも明らかにげっそりとしたものだった。
 正直、とてもではないが朝食を食べるような気分ではない。
 かといって部屋にいてもネガティブなことしか考えないのは目に見えていたので、しぶしぶとホテル一階にあるラウンジに向かう。そして取り皿にウインナーと卵とパンという申し訳程度の食材を乗せ、毎度のごとく隅の方の目立たない席に腰かけたところでユリオに声をかけられた。

「おい、カツ丼。向かいの席、いいか」
「あ、ユリオおはよう。一人だからどうぞ」
 ただよくよく考えてみると、昨晩彼には色々と恥ずかしい現場を見られ、挙げ句の果てには巻き込んでしまったのを思い出す。したがっておずおずと顔を上げ、ごめんと謝罪の言葉を口にした。
「何でいきなり謝ってんだよ」
「いや、ほら。昨日の夜のことで。ユリオに耳を落としてもらったって、ヴィクトルに思われちゃってるから」
「あー……あのことか。別に構いやしねーよ。それに今はオレも特定がいるわけじゃないし。面白いし、しばらくあの傲慢なオッサンを勘違いさせときゃいいんだよ」
「傲慢なオッサンって……」
 なんともまあ随分な言われようである。しかし勇利にとって彼はずっと憧れで、それに何だかんだと言いつつも特別な感情を今でも抱いているので少々面白くない。
 したがって思わず格好良いじゃないかと呟くように口にすると、しみじみとおまえらって本当面倒くさいよなと言われてしまった。
「で? カツ丼はこれからヴィクトルとどうするつもりなんだよ」
「どうするって言われても……どうもしないよ。昨日の女の人とも付き合ってるみたいだし、僕の出る幕なんて無いじゃないか」
「あの女なら昨日途中で帰ってたぞ。しかもヴィクトルに無断で」
「えっ。僕がバー出る時にはいたのに」
「じゃあそのあとに出てったんじゃねーの。ヴィクトルのやつ、完璧にあの女の存在忘れてたからな。そりゃ誰だって怒って帰るだろ」
 あのヴィクトルが置いてきぼりにされてるなんて超レアだよなとユリオは爆笑しているが、勇利にとってはまったくもって笑い事ではない。だってその原因は、間違いなく昨晩のいざこざのせいなのだ。
 それに気付くと、ただでさえ青い顔をさらに青くしたのは言うまでもないだろう。
 泣きっ面に蜂とはまさにこういう状況のことなんだろうなと思う。ヴィクトルには、もう徹底的に嫌われてしまったとみてほぼ間違いない。
 ただそうすることで、未だに往生際悪くくすぶっている恋心を消し去ることが出来そうだなと思えばまあ……いくらか気分はマシだろうか。
 ただそうなると来季以降のコーチ契約継続は、もう無理だろうなと考えていた時のことだ。
 店内の入り口付近が不意に大きくざわついたのに、もしかしてと思いながら顔を上げると案の定だ。ヴィクトルが店内に入ってきたところだったのに、思わずその姿を目で追ってしまう。
 ちなみに今日はオフ日だからか。Vネックのセーターにパンツという軽装だったが、そんなラフな格好にも関わらず洒落て見えるあたりさすがヴィクトルという感じであった。
「そういえば、こういう感じのヴィクトルを見るの久しぶりかも」
「はあ? どういう意味だよ」
「うーん……雲の上の人っぽい感じっていうのかな。ずっと近くにいたから麻痺しちゃってたんだけど。こうやって離れて見てると、やっぱりヴィクトルって違うよなあって」
 分かるかなと言うと、分かりたくないと即座に返されてしまった。
 でもまあ、確かにユリオはあまりそういうのは気にしなそうだなと思う。何せシニアの大会初挑戦時に優勝と豪語していたくらいだ。下克上上等、超実力主義、なんて言葉が似合いそうだ。
 ただきっとそんな風に考えられるのは、ユリオもヴィクトルと同じく選ばれた側の人間だからなんだろうなとも思った。
 それが羨ましくて、思わず小さく苦笑を零しながらユリオとヴィクトルへ交互に視線に向け――するとその瞬間にヴィクトルがふと顔を上げ、勇利の方へ顔を向けてきたせいで、真正面からバチリと目が合ってしまう。
 それに驚いて小さく身体を震わせると、彼は少しだけ困ったような表情をしながら手を軽く振ってくれたのに少なからず安堵する。
 しかしそれと同時に昨日の一件があったのに何故という困惑の感情も胸の内に広がったのもあり、それに対して手を振り返すことは出来なかった。
 そしてそのせいか、彼がそれ以上二人の方へ近付いてくることはなく、反対側の席の方へ歩いて行ってしまった。
「ケッ。のんきに手なんて振りやがって」
「まあ僕にしてみれば、手を振ってくれただけでもびっくりだけどね」
 昨日のゴタゴタのことを考えると、無視をされてもまったくおかしくないと思うのでむしろ驚きだ。
 ただ先ほど手を振ってくれた姿にどことなく違和感が走ったような気がしたのに、その後ろ姿を思わずじっと見つめる。するとそこでタイミング良くヴィクトルが右手で髪の毛をかき上げる仕草をし、その薬指に揃いのペアリングの存在が見当たらないことに気付いた瞬間、周囲の音と情景が一時停止したかのような衝動に襲われた。

「おい、カツ丼。目開けたまんま寝てんのかよおまえ」
「――あ、」
 それから再び音が聞こえ、周囲の情景が動き出したのは、テーブルの下で無造作に伸ばしていた足のつま先を、ユリオの足にポンと軽く蹴られた時のことだった。
 ただ自分でも一瞬何が起きたのか訳が分からず、上体をビクつかせながら周辺をきょろきょろと見渡してしまう。すると目の前に座っていたユリオが、テーブルに肘を付いた行儀の悪い格好をしながら、思いきり怪訝な表情を浮かべていたのに慌てた。
「あっ。ごめん、ボーッとして」
 昨日あんまり寝られなかったから寝不足かなと口にしながら、視線を下に向けてあははと乾いた笑いを零す。
 ただそこで視界の中に右手の金色の指輪が目に入ったのをきっかけに、先ほどヴィクトルの右手にそれが無かったことを思い出すと、途端に誤魔化し笑いすら顔から一気に失せていく。
 それからやや呆然とした表情で視線を泳がせながら、胸の内に次から次へと浮かんでは消える、何でとか、やっぱりとか、そんな断片的な言葉をただただ繰り返す。そしてそんな不安な気持ちを少しでも拭おうと、自分の右手にはまっているヴィクトルと揃いの指輪の表面を無意識に繰り返し撫で、再びヴィクトルが歩いていた場所へ目を向けたのだが。そこにはもう、その姿は影も形も無かった。
「ヴィクトルのやつ、その指輪外してたのか」
「……やだな。ユリオも気付いたの?」
「カツ丼がさっきから自分の指輪弄くり回してるからそうなのかって思っただけだよ」
「えっ? あ、ああ……そういうことか」
 指摘されて初めて己の無意識下の行動に気付くと、机の上に乗せていた両手を慌ててテーブルの下に隠す。
 しかし今さらそれを隠しても意味が無いのは言うまでもなく。それに気付いてさらに気分を落ち込むのを感じながら、半ばヤケのような心境で自分自身にも言い聞かせるように外してたよと認めた。
 すると途端に全てがどうでも良いような衝動に襲われ、全身からへなへなと力が抜けて半ば倒れ込むようにテーブルの上に突っ伏した。
「――っ、おい! カツ丼、おまえっ、皿の中に顔面突っ込む気かよっ!」
「うう……」
 ユリオはあぶねーだろと怒りながらも、勇利の目の前にあったトレーを慌てて取り上げてくれる。おかげで顔面に朝食がべっちょりと付いてしまうということにならなくて済んだが、正直今の勇利にとっては、それすらもどうでも良くて。何も考えずに、すべてを放棄してただただ眠りたい気分だ。
 そしてそんな様子を見てさすがに呆れたのか。ユリオは大げさな仕草で肩を竦めながら、それはもう大きなため息を吐いていた。
「おまえらなあ……二人とも好き合ってるなら、それで良いだろ。何で二人して頑なに否定しあってるのか意味わかんねーんだけど。しかもせっかくこのオレが昨日は一肌脱いでやったのに、余計にこじれてやがるしな! はー……マジで、良い年して恋愛初心者かよ。昨日から今日の流れは、どう考えても嫉妬からの仲直りセックスをするっていうのが常識だろ」
「ああ、だから」
 昨日はヴィクトルにキスされたのに驚いて頭が一杯一杯だったので、深く考える余裕は無かった。でもこうしてユリオに改めて指摘されることでそのことを思い出しながら、あのキスのフリにはそういう意味があったのかとようやく理解する。つまり分かりやすく一言でいってしまえば、ヴィクトルを挑発したとかそんなところだろう。
 それからまさかの。ヴィクトルがユリオのそんな安い挑発に乗り、珍しく嫉妬のようなものを露わにしながらキスを仕掛けてきたのだ。
 そしてその現場を目の前で見ていたからこそ、勇利とヴィクトルが好き合っているとユリオは口にしているのだろう。
 確かにあの瞬間は勇利自身もグラリときたし、否定したところでそう思った事実は無くならないから、もうそれは認める。それとヴィクトルが昨日一緒にいた女性とやらと、揉めて別れたらしいというのも認める。
 この二つの事実から考えたら、確かにユリオの言うとおり。もっと上手く立ち回れば、勇利にもチャンスがあったのかもしれない。
 しかし、しかしだ。仮にそうだとしても、指輪をすでに外されてしまった今となっては、もうどうしようもない。それに結局のところ、勇利の右手に痣が無い時点でこの恋の終わりがはっきりと見えているのである。
 それが分かっていてなお、自分の想いを告げられるほど勇利は強くはない。
 だから、もう――
「もう、いいんだ」
 ここまで手を尽くしてくれて、さらに勇利と関係を持ったという不名誉な事実をかぶせてしまったユリオにはただただ申し訳ないと思う。
 でもこれ以上は期待させるようなことは教えないで欲しいと、両腕の中に顔を深く深く埋め込んだ。
「よく分かんねーな。そんなに、その痣ってのは気にするほどのもんか? 確かに揃いの痣があると、運命だの何だのって聞くが。でもそんな相手を見つけるのなんて、どう考えても非現実的だろ。少なくともオレはそんなもんどうでも良いと思ってるけどな」
「ああ、てことはやっぱりユリオも痣があるんだ」
 彼もヴィクトルと同じく人目を惹く特別な存在であることは明らかなので、胸の内に広がるのは羨望の気持ちだけだ。
 しかしそれと同時に、ユリオも痣を持っているからこそ、そうやって楽観的に考えられるんだろうなとも思った。だって約束された相手が、いることに違いはないのだから。
 そしてユリオの言う、揃いの痣を持っている相手を見つけるのが非現実的というのも、確かに道理だ。
 ただしヴィクトルは、すごくすごく有名人で。加えて痣の件も、ここ最近はペアリングに隠れてしまっているので以前に比べると話題に上ることが少なくなってきているとはいえ、それでもファンサイトを見れば、必ず乗っているパーソナルデータの一つだ。
 となると、それこそ揃いの痣の持ち主が名乗り出るのも、時間の問題だろうなと考えてしまうのも大げさではないだろう。
 したがって曖昧な笑みを口元に浮かべることで、先のユリオの助言をふんわりと流した。
「いろいろ、ありがとう。でもこれで良かったって思ってるのは本当なんだ。いつまでも今までみたいな中途半端な関係でいられる訳が無いんだし、そろそろ区切りをつけないとって思ってたところなのは事実だから」
 ただ慣れないこと続きだったせいで、恥ずかしいところを一杯見せちゃってごめんと口にしながら、貼り付けたような笑みを浮かべてみせる。そうして朝にも関わらずいつの間に欝々としてしまったその場の空気を、なかば無理矢理に振り払った。
 ユリオは相変わらず呆れた表情を浮かべていたけれど、それ以上この件に触れてくることが無かった。
 それはきっと、彼の優しさだろう。



「――あれっ? 勇利、なんで耳がまた生えてるの!?」
 そう声をかけられたのは、朝食を食べ終え、部屋に戻るためにユリオと共にホールでエレベーターが来るのを待っていた時のことだった。
 勇利は思いがけず自身の名前を呼ばれたのと、さらにその後に続いた言葉の内容が内容だったのもあり、慌てて声がした方へ顔を向ける。するとリンクメイトのミラと、あとはあまり話したことは無いが、イタリアの女子選手のサーラ・クリスピーノが、目を丸くしながら歩み寄ってくる姿が目に入った。
「昨日の夜は耳が無かったのに、どういうこと?」
「う、えっ! どっ、どこで見てたの」
「昨日の夜、私とサーラと、あとミケーレとエミルの四人で外に食事に行ったの。それでその途中、ホテルの廊下で偶然勇利のことを見かけたのよ。ね、サーラ」
「そうそう、そしたらなんと! 頭の耳が無いんだもの。奥手そうな勇利がようやく耳を落としたんだって知ったら何だか嬉しくなっちゃって、そのあと皆で乾杯しちゃった」
「それで次はミケーレねって発破をかけてたの」
「あ、ああ、そうなんだ」
 しかしながら昨晩頭上の耳が無いように見えたのはユリオの匂いのおかげであって、実際にはいまだ生えたままなのである。
 ただしその事実を彼女たちに知られてしまったが最後。あっという間に周りにその噂が広がってしまい、そうなるとヴィクトルの耳に入るのも時間の問題だろう。
 そしてここまできて今さらそうやって振り出しに戻るのだけは勘弁して欲しかったのもあり、勇利は咄嗟に付け耳だよと答えていた。
「ああ、付け耳ね。そういえば前にそういうのがあるっていうのは、聞いたことあるけど……でも何でそんなものを今さら付ける必要があるの? せっかく耳が落ちたのに」
「いや、ほら、なんていうのかな。この年齢まで耳が付いてたから、逆に今さら落ちたって周りに知られるのが恥ずかしいというか……それにちょっと落ち着かないっていうのもあって」
 もちろんこんなの場当たり的な嘘なのは言うまでもなく、隣でユリオが呆れた表情をしているのも相まって非常に気まずい。
 したがって目線を泳がせながらもじもじとしていると、よく分からないがミラとサーラが少しばかり興奮した様子でカワイイと連呼しながら肩をバシバシと叩いてきた。
 今ほど女の人の考えることはよく分からないと思ったことは無いかもしれない。
 ただそんな反応に救われた部分もあるので、されるがままになっていたのが不味かったのか。唐突にミラが付け耳に触っても良いかと訊ねてきたのに、口元をを思いきりひきつらせた。
「へっ? 耳っ?」
「うん。付け耳って聞いたことはあるけど、実際に見るのって初めてだからどんなものなのかなって。本物じゃないなら構わないでしょ?」
 よほど親しいとか、それこそ恋人同士や家族でもなければ、他人の耳に触れることはまず無い。
 だから触りたいと言われて一瞬驚いてしまうものの、現在頭上に付いているものは、ミラの言うとおり偽物という設定で。となると嫌と断る方がいかにも怪しい。
 しかし実際には本物なので、思わず救いを求めるようにユリオの方へ視線を向けるものの、彼はそっぽを向きながら関わりたくないオーラを前面に出しているので助けは望めなそうだ。
 そこで全てを諦めて小さくため息を吐く。そしておずおずと頭を下げると、女性二人は物珍しそうに手を伸ばしてきて、おっかなびっくりといった様子で表面の毛を指先で撫でつけるように恐る恐る触れられたところまでは良かった。
 しかしだんだんとその動きが大胆になっていくような気がしたのに、そろそろ勘弁してくれないかと口にしようとした時のことだ。
 制止の声をかけるのが一歩遅れてしまったせいで、継ぎ目もまったく分からないわと口にしながら耳の根元に指先を這わされ、さらにそこをツーッと撫でられたからたまったものではない。
 おかげでズボンの中に押し込んでいる尻尾の毛を大きく膨らませながら息をのんでしまい、反射的に未だ頭に添えられている指を振り払うように耳を動かしかけてしまう。
 しかしその直後、タイミング良くユリオに腕を引かれたおかげで、何とか二人の指から逃れるのに成功した。
「――おい、カツ丼。エレーベーター来たから乗るぞ」
「ふ、えっ?」
「あっ! ちょっと、ユーリっ!」
「変態ババアはこっち来んな」
「はあっ!?」
 腕を引かれながらエレベーターの中に走りこむと、ユリオのいきなりの行動に呆気に取られた表情を浮かべたミラとサーラが、ホールに佇んでいる姿が目に入る。
 しかしその直後に吐かれたユリオの暴言に気色ばむと、すぐにいつもの調子を取り戻したのだろう。眉間に数本の皺を寄せながら一歩足を踏み出してきたのに、思わずヒッと喉を鳴らしながら、慌ててユリオの袖をグイグイ引っ張って謝るように促す。
 しかし女性陣にとっては生憎と、男性陣にとっては幸運なことに。そこでエレベーターの扉が閉じたので、彼女達がそれ以上追って来ることは無かった。
「はあ……もう、なんてこと言うのさ。でもまあ、ユリオのおかげで助かったよ。ありがとう」
「おまえ、馬鹿だろ。付け耳って言うくらいなら、触らせんなよ」
「あー……うん。次から気をつけるよ。まさか触りたいって言われるとは思わなくて」
 ただすっかりと信じている様子だったので、身体を張ったかいはきっとあるだろう。
 何しろ彼女たちの伝搬力はすごいので、今頃もう他の誰かに勇利が付け耳をつけているということを話しているかもしれない。そしてそれがヴィクトルの耳に入るのも時間の問題だろう。

 それから廊下の途中でユリオと別れて部屋に戻った勇利は、いつものようにチェックアウトのための荷物整理と部屋の整頓を始める。
 しかし予定していたよりも随分と簡単に片付いたのに首を傾げつつ腕時計を確認すると、整理を初めてからまだ一時間ほどしか経っていなかったのに目を瞬かせた。
「あれ? いつもは何だかんだいって二時間近くかかるんだけどな」
 しかしそれはヴィクトルの荷物整理を勇利も手伝っていたからだとすぐに気付き、いつの間にか彼の存在が自分自身の生活の中に大きく入り込んでいる事実に切ない気持ちがこみ上げてくる。それに肩を大きく落とし、そのまま脇のベッドに倒れ込んだ。
「はー……一人か。でもヴィクトルにコーチになってもらう前はずっとそうだったんだから」
 だからなんてこと無いだろと呟くことで、自分自身に言い聞かせる。
 そこでそういえばコーチ契約の件も話し合わなければいけないのを思い出すと、さらに気が滅入るのを感じながら深い深いため息を吐いた。
 最も重要な大会である世界選手権は数日前に終わったので、あと残っている大会は数週間ほど後にある国別対抗戦だけだ。そしてその少し前の四月上旬、つまり今ごろからスケート界はシーズンオフに突入する。
 ただしシーズンオフになるといっても休むわけではなく、いつもと同じように練習をこなし、さらに次のシーズンに向けての新プログラムについて考えなければいけない。
 そして勇利はもともと自分自身の考えを言葉にしてはっきりと口にするのが苦手なのもあって、これが特に時間がかかるのである。となると、コーチを変えるのならば一日でも早く動き出す必要があるのだが。
「――それは、頭では分かっているんだけど」
 先ほどヴィクトルの指輪が外されていた事実が相当効いていて、しばらくは普通に話すのすら、ちょっと無理そうだなあと思う。
 ほんの数日前、表彰台の上に立った時には気力も体力もこれまでになく充実した状態で。五連覇をすると再び約束をし、それはヴィクトルの元でだと決めていたのに。
 それがまさかの急転直下。今期の契約の残り時間であるほんの数週間すら、危うい状態になるとはという感じである。
 本当に、人生は何が起こるか分からない。
「でもこのまま延ばし延ばしにして、後で大変な目にあうのは僕自身だし。早くコーチ契約を終わりにしようって、言わないと」
 そして終わりという単語を口に出すと、それをきっかけにその実感がじわじわと湧いてくる感覚に目を閉じた。
 何でこんなことになっているのだろうと思う。自分の恋心を胸の奥底にひっそりと押し込めて、ヴィクトルからのちょっかいも以前のように流せていればこんなことにはならなかったのに。
 しかしこんなことは今まで何度も考えてきたことで、今さらどうにもならないことなのだ。
「それに、結局最後は嫌われた形だし……普通に別れるよりは、すっぱり諦めがつくかな」
 そこで自身の右手を眼前にかざすと、窓から差し込んでいる太陽の光が指輪の表面に反射して鈍い光を放つ。そしてそれが目の奥に突き刺さるような感じがした。
 最初は滑らかだった表面も、いつの間にか細かな傷がついていて月日の流れを感じる。その表面を反対の手の指先で撫でると、走馬灯のようにヴィクトルが突然日本にやってきてからのおよそ二年間の記憶が脳裏に蘇った。
「二年間、楽しかったなぁ……」
 小さな頃から大好きで、ずっとずっと追いかけてきた憧れの人物が隣にいるだけで有り得ないことなのに。それがまさかの、マンツーマンでのコーチまでしてくれて、さらに現役復帰までしてくれたのだ。
 彼は勇利と出会ってからの二年間という時間のほぼ全てを、勇利に奉げてくれたといっても過言ではないだろう。本当に毎日が夢みたいで、今までの人生でこんなにもあっという間に過ぎていった時は無かった。
 そしてきっと、彼は今シーズン限りで引退をする。
 そんな彼の教えに、呼びかけに、自分はどれだけ答えることが出来ただろうかとふと考える。
 でも今、ヴィクトルは揃いの指輪を外していて。
 それが全ての答えのような気がした。
「一瞬でも、楽しいって思ってくれたかな」
 それで勇利と共に過ごした時間のほんの一欠片だけでも、彼の記憶に残ってくれれば……それだけでも嬉しいなあと思う。
 とはいえここまで徹底的にこじれた関係になってしまった今となっては、それすらも難しいかもしれないが。
 でもいつまでもこんな風に感傷にひたっていても、離れ難くなるだけだ。
 そこで意を決して指輪の縁に指先を引っかけ、一思いに引き抜く。するとそれまで綺麗に色付いていた周りの景色が途端に色あせ、それまでの夢のような時間が一気に醒めるような気がした。
「はは、ばかだな」
 たかが指輪を外しただけで、世界が変わった訳でも何でもないのに。どれだけこの金色の円環に依存していたのだろうと他人事のように思う。
 しかしそうして努めて冷静を装わなければ、そのまま消えて無くなりたい感覚に引きずられてしまいそうで、怖くてたまらない。
 だからこの現実を受け入れたくないと思っている己を、何とか説得しようと恐る恐る指輪を外した右手に再び目を向けると、そこに薄桃色の指輪の痕があるのが目に入った。
 そしてそれを目にした瞬間、心臓をギュッと手で掴まれているような感覚が走ったのに、身体を横に向けながら背中を小さく丸める。それから気付いた時には、爪を立てながらガリガリとそこをかきむしっていた。
「こんなの、だめだ」
 以前は、このままその痕が消えなければ良いとすら思っていたのに。
 今はそれが視界に入った途端に彼への想いを思い出してしまうから、今すぐにでも消さなければいけないという強迫観念に駆られているのを感じる。
 頭の片隅では、こんなものしばらく放っておけばすぐに消えるのに、何て馬鹿げたことをしているのだろうと思ってはいる。でも心が見たくないと、大声で訴えているのだ。
 そしてそれに促されるがまま必死にそこに爪を立てていると、やがて肌に赤い線がいくつも浮かび上がって薄桃色の痕が薄れていく。そしてその痕が薄れていくにつれ、荒立っていた心の波がいくらか穏やかになるのを感じた。
 これで、ヴィクトルとはさよならだ。

 そしてヴィクトルもまた同じような気持ちで指輪を外していたということを、勇利は知らない。

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