アイル

さよなら運命の人-9

 そうして世界選手権の日を境に、ヴィクトルとの関係は完全にこじれてしまった。おかげでそれ以降の彼とのやりとりは、正月以降の数ヶ月間よりさらにビジネスライクで味気ないものになったのは言うまでもない。
 ただ幸いにもヴィクトルと出会う前のコーチとの関係は大体そんな雰囲気だったので、相手がヴィクトルであるという点にのみ目を瞑れば、その形態には慣れていたので特に問題が発生したりということは無かった。
 というわけでそんな状態で二人は国別対抗戦を迎えたわけだが、勇利は大会でのフリーの演技後に大変なことになってしまう。
 というのも、観客の一人がどうやら発情期になってしまったらしいのだ。しかもそんな時に限って抑制剤を飲んでいなかったせいで、てき面に発情臭にやられてしまったのだ。

「は、あっ……まずいな、これ」
 表彰式とプレス向けの対応を終えたところでようやく解放されると、勇利は真っ先に男子のロッカールームに飛び込む。そして自身のカバンに常時入れてある抑制剤を慌てて飲んだ。
 しかし錠剤という形態のせいか、すぐに効く気配がまるでなく。それどころか時間が経過するにつれてどんどん身体が熱くなるのについに音を上げると、ズルズルと床の上に座り込んだ。
 ちなみに世界選手権までは発情期の前兆症状にひどく悩まされていたが、例のペアリングを外した辺りの日を境に、面白いほどピタリとその症状は止まっていた。
 それはまるで、彼への恋心を諦めたのだと言っているみたいで。切ない気持ちになったものの、そうはいいつつもやはり発情期への恐怖心は少なからずあったので、以前と同じ穏やかな身体の状態に戻ったのに安堵も覚えていた。
 そんなこんなですっかりと油断していたのもあり、ここ最近は抑制剤の服用を止めていたのだが。それがまさかの、他の人の発情臭につられてこんなことになるとはという感じである。
「ああ、もう……最悪だ。こんなことならさっき薬を飲んでおけば良かった」
 演技前、身体が少し熱っぽかったのでおかしいなとは思っていた。ただ自分の順番があと少しのところだったというのもあり、集中を途切らせたくなかったのでそのまま放置してしまったのだ。
 それがよりにもよって演技の始まる直前、さらに濃厚な発情臭がどこからかふわりと漂ってきて。それにつられるように勇利自身の体温もさらに上昇してしまい、その熱が発情期特有のものだと気付いてしまったのだ。
 おかげで焦燥感からジャンプはすっぽ抜けまくるわ、そのくせ妙に色をなしたおかしな滑りになってしまうわで、この日のフリーの演技は本当に散々だった。
「せっかく、昨日のショートは良かったのに」
 それでそのままその波に乗って、ヴィクトルにコーチについてもらう最後の大会を、最高の形で終えようと思っていたらこのザマである。
 おかげでせっかく同じチームの南を始めとして他の皆が良い演技をしてくれたのに、年長者の勇利が大幅に足を引っ張ってしまったせいで、結局日本チームは三位に終わってしまったのだ。それが申し訳ないやら情けないやらで、今でも穴があったら入りたい気持ちで一杯である。
 それもあって演技後、皆に謝り倒していたら再び抑制剤を飲み損ねてしまい、その結果さらに発情の症状が悪化してこんなことになってしまったというわけだ。
 ちなみに他の選手に関しては、こういうことがあるかもしれないので抑制剤を皆飲んでいるのか。勇利のように無様なことになっている人は、他に一人もいなかったのが情けない気持ちにますます拍車をかけていた。
「はー……もう本当、良い年して何やってんだよ。僕は」
 観客側も発情することで周りに迷惑をかけるのはNGという暗黙のルールがある。そんな曖昧なルールに甘えていたのと、抑制剤を飲まない習慣がすっかりと定着してしまっていたせいで、最後の最も重要な場面でこうしてその問題点が表面化するとは。
「ほんと、意識が足りなすぎだ」
 以前ヴィクトルにも注意されていたのにと心底悔いるものの、終わってしまったものはもうどうしようもない。
 したがってひとまず身体の中で渦巻いている熱を何とかおさめようと、無駄に深呼吸をしてみたり、ペットボトルの水をガブガブと飲んでみる。
 しかしどんなことをやってみても一向に体内の熱が治まる気配が無いのに一人焦っていると、外の廊下からドタドタと派手な足音が聞こえてくるのとほぼ同時に、今回の大会で大活躍だった南が慌てた様子で部屋の中に飛び込んで来た。
「ゆうりくん、ここにおらすと!?」
「ああ……みなみくんか」
「ああっ……勇利くん、顔が真っ赤ばい! やっぱり体調悪かったとね!?」
 演技前、いつもよりも顔が赤いからおかしいと思っていたのだとフォローしてくれるが、今回のこれは明らかに自分自身のミスなので、すぐに迷惑をかけてごめんと謝罪の言葉を口にする。
 そして情けないのに眉を下げながらも、抑制剤を飲んでいなかったせいで発情期っぽいのだと正直に事情を話した。
「えっ……? はつ、じょう?」
「うん、発情。恥ずかしいことにね。見ての通り、二十五にもなって耳付きだからさ。発情期のこと、完全に甘く見てたよ」
 はははと乾いた笑いを零すものの、そうして小さく身じろぎをしただけでも心臓が大きく脈打つような感覚が走ったのに、思わず床の上に片手を付く。
 そして本能的にこれ以上この場所にとどまるのは不味い気がしたので、よろつきながらも何とか立ち上がる。それから南の手を借りて何とか近くの男子トイレへ逃げ込み、個室の中へ立てこもった。

「あ、あの、おい、誰か人を――」
「ちょっと、待って。大丈夫だから。薬飲んだら、ちゃんとおさまるから」
 でも抑制剤はすでに飲んでいて、それでこの有様なのだ。はっきり言って全く効いている気配が無い。
 ということは今さら追加して飲んだところで、ほんの気休め程度にしかならないだろう。というか用量オーバーなので、あまり褒められた行為ではない。
 でも生まれて初めての経験なので、薬も効かないような状態になった時にはどうすればいいのか全く分からないのだ。だから今、すがれるものは抑制剤しかない。
 こんなことなら、発情期についてそのうちちゃんと調べようとのばしのばしにしていないで、真面目に確認しておけばよかったと思う。
 そこでそういえば南はこういう時の対処法を知らないだろうかと、期待をこめた眼差しを向けたのだが。生憎と南もこんな状況に出くわすのが初めてなのか、勇利本人よりもよほど狼狽えた様子で、どうしようどうしようと口にしながら慌てふためいていたのに、肩をガックリと落とした。
 こうなったら最後の頼みの綱は、やっぱり抑制剤しかない。
 したがってポケットに無造作に突っ込んでいたそれを取り出そうとしたのだが、この状況に焦っているのか、あるいは発情期の影響か。定かではないが、指先が想像以上に震えてしまったせいで、ピルケースをよりにもよって便器の中に落としてしまったのに思わず南と顔を見合わせた。
「ゆ、勇利くん、薬が――一体どうすれば。ていうかおいもこのままだと、ちょっと、その、不味いっていうか」
「……うん?」
 普段は元気一杯な様子の南の、珍しく気弱な声音に思わず目を瞬かせてしまう。
 そこで初めて目の前の南の姿をまじまじと見ると、いつの間にか彼はユリオと同じほどに身長が伸び、今では勇利と並ぶほどの背の高さになっていることに今さらのように気付いてはっとする。
 そしてその頬は常よりも赤らんでおり、明らかに落ち着かない様子できょろきょろと辺りを見渡している姿は何かの衝動を必死に押さえ込んでいるかのようだ……ということに気付いたところで、勇利は自分自身が耳付きであり、さらに耳付きのフェロモンは雌雄問わずに相手を誘ってしまうことを思い出すと、今さらのように冷や汗がどっと溢れるのを感じた。
 ただ幸いにして南の頭上には、勇利と同じく耳が付いていたのでそういう経験が無いというのが分かる。したがって大丈夫大丈夫と繰り返し自分自身に言い聞かせ、高ぶった神経を落ち着かせた。
「ご、ごめん、僕の発情に巻き込んじゃって」
「あっ、いやっ! おいもちゃんと薬飲んでるはずなのに、なんかこんなことになっちゃってすみません。とりあえず、ヴィクトルコーチを呼んで来ますっ」
 南は勇利の謝罪にはっとした様子で顔を上げる。しかし勇利と目が合うと、バッと音がしそうな勢いで顔を横に背けながら、大げさな仕草でばたばたと胸の前で両手を振ってみせた。
 それから勇利の答えを聞かず、まるでその場から逃げだすかのように身を翻したのだが。勇利としては、この場にヴィクトルを呼ばれるのは非常に困るのだ。何故ならヴィクトルは勇利の耳が落ちたと思っているのだから、この現場を見られたら最後。全てが嘘だったとバレてしまう。
 とはいえ既にこれ以上も無く避けられている感じなので、それを知られたところでどうということも無いかもしれないが。念には念を――というのは表上の理由で、これ以上嘘を知られて軽蔑されたくないというのが本音だ。
 したがってドアを開けて一歩足を踏み出しかけていた南の腕を両手で掴み、必死にその動きを止めた。
「本当に、まって。ヴィクトルを呼ばれると、むしろこまるんだ」
「えっ? でもコーチ、なのに」
 南の表情には、何故という疑問の言葉がありありと浮かんでいる。
 ただその理由を話すわけにもいかないし、というか話せるような状況では無いので、小さく首を傾げながら曖昧な笑みを浮かべて誤魔化す。するとそれを見た南は、まるで瞬間湯沸かし器のように瞬時に頬を染め上げ、ひどく狼狽えた様子で目をグルグルとさせていた。
 その様子はどこか既視感があるような気がしたのもあって目が離せずにいると、ふと脳裏にヴィクトルのことをずっと追いかけてきた過去の自分自身の姿が過ぎり、そういうことかと思わず苦笑を漏らした。
(そういえば、前シーズンの九四国大会で憧れって言われたんだっけ)
 それに母親が以前、南は勇利が大会に出る際に自宅の食事処で行われるパブリックビューイングに毎回必ず顔を出しているのだと言っていたのも思い出す。そしてそれをきっかけに、ほろ苦いものが胸の内に広がるのを感じた。
 勇利自身、もともとヴィクトル以外のことにはあまり興味が無い。加えて九四国大会はヴィクトルと望む初めての大会だったというのもあり、常以上に周りに目が向いていなかった。
 にも関わらず、未だに一心に向けてくれる南の視線には一切の揺らぎが無く、ヴィクトルへの想いをつい最近無理矢理断ち切った勇利には、それがただただ眩しい。
 それもあり、気付いた時には思わず胸の内に浮かんだ言葉を呟いてしまっていた。
「南くんって、僕と似てるね」
 恐らくそろそろ二十歳前後で、周りの人間もかなり耳が落ちてきていると思うのだが。それでも未だに耳付きなところも。あとは自分で言うのもかなり照れくさいが、憧れの人に一途なところも。
 そしてそこでふと、向けられている瞳の奥に熱をはらんだ炎が揺らめいているのに気付くと、甘くて、でもちょっぴり苦い感情が胸の内に広がるのを感じた。
 それが彼にとってどういう感情なのかは分からない。昔の勇利みたいにまだ形を為しておらず、憧憬という感情にひとくくりにされているかもしれない。
 でも今の勇利はそれが恋心と紙一重だということを、身をもってよく知っている。そしてその感情を向けられるのは、素直に気分が良い。
 それから気付いた時には、腕を伸ばしてその頬に指先を這わせていた。
「ゆっ、勇利くん?」
 南は勇利の指先が触れるや否や、小さく身体を震わせ、全身を硬直させている。その様子はこういったことに慣れていない様子が丸分かりで、微笑ましいなあとどこか他人事のように思った。
 ただそこでふと、何故こんなことをしているのだろうという疑問が今さらのように湧き上がってくるのを感じる。そしてそこで何となく、ヴィクトルとの一件ですっかりと傷心だったのもあり、純粋な南の好意という心地良いものに流されているのだろうなと気付いた。
 だから自分が今しているこの思わせぶりな行為は、南の好意に付け入っているだけの最低なものであると言えるだろう。
 ――それが分かっているのに。
 駄目だ駄目だと思っても、結局手の動きを止めることが出来ない。
 そして本能に促されるがままに頬から顎にかけてを指先で思わせぶりに辿ると、そのたびに南の上体がビクリと震えるので、何だか小動物の相手をしているみたいで案外可愛いものだなと思った。
 もしかしたら、ヴィクトルもちょっかいを出してきた時はこういう気分だったのかもしれない。
 そこでだんだんと興に乗ってきたのもあってよたよたと立ち上がると、南のジャージの裾を引っ張って自分と入れ替わりで便座に座ってもらう。
 ただ思いのほか足下が覚束なかったのもあって、南の膝の上にストンと腰掛けてしまうと目の前にグルグルと目を回した様子の南の瞳があり、さらにその下にある唇は薄く開かれているのだ。
 そんな思わせぶりな状況に、思わずこの体勢ってキスしやすそうだなと考えてしまったのが運の尽きである。
 次の瞬間には、彼の両肩を掴みながら覆いかぶさるような格好で顔を近付けていき――あと少しで唇同士がふれそうだったのに。そこで不意に誰かに肩を掴まれて後ろにグイと引かれたせいで、結局それが叶うことは無かった。
「勇利、駄目じゃないか。そうやって後輩を襲うのは感心しないな」
「あっ、ああっ! ヴィクトルコーチ、良かった! 勇利くんがっ」
「……ん?」
 南の口にしたヴィクトルという言葉をきっかけにおずおずと振り返ると、そこにまさかの。ナショナルジャージを身にまとったヴィクトルの姿があり、常に余裕のある彼にしては珍しく息を大きく乱していたのに目を瞬かせる。
 そしてそれと同時に耳付きとははっきりと異なる匂い立つような雄の色気をはっきりと感じ取ったのもあり、気付いた時には南の膝の上から立ち上がりながらその首筋に擦り寄っていた。
「びくとるぅ」
「勇利から来るなんて、珍しいね」
 目の端にうつったヴィクトルの表情は、勇利が擦り寄った途端に驚きから困ったような表情へと変化していく。それをきっかけに、こんな場所で見境なく盛ってしまったとんでもなく恥ずかしい姿を見られてしまったのを自覚すると、焦燥感が今さらのように脳裏にじわりと広がっていく。
 おかげでそれまでの霞がかった思考回路がほんの少しだけ理性を取り戻してクリアになっていくのと同時に、これまでの自分の行いをつぶさに思い出してひどく打ちのめされるのを感じた。
 本当に、ヴィクトルの言う通りだ。いくら発情のような症状になっているとはいえ、口答え出来ないような後輩に手を出そうとしていたなんて本当にあり得ない。
 しかもその発情も、自己管理の甘さが原因なのだ。
「ごっ、ごめん! みなみくん、ぼく、どうかしてた。何て謝ったらいいか」
「へっ!? いえっ、そんなっ! そもそも何もされていないんでっ!」
 ややもたつきながらも再び南の方へ向き直って何度も頭を下げると、南は逆に恐縮しきった様子でフォローしてくれる。
 こんなに慕ってくれる後輩になんてことをしてしまったのだろうと、ただただ反省するしかない。
 加えてヴィクトルにまでこんな現場を見られてしまったのだと改めて考えると、絶望感のようなものがじわじわと胸の内に広がるのを感じながら、小さく息を吐いた。
 何をやっているのだと、ひどく呆れられてしまっているだろう。でもこればかりはそう思われても仕方がないし、何も弁明出来ないのにガックリと肩を落とした。
「はあ……」
 ただただ情けない。
 でもよくよく考えてみると、現在の二人の関係性はマイナスに振り切れているので、今回の一件で軽蔑されるという項目が新たに追加されるだけなのだ。
 だからこんな風に大げさなほどに焦っていること自体、未だヴィクトルに未練たらたらなのだと気付くと、気分を切り替えるように小さく頭を振りながら駄目だなあと呟いた。
「えっと……とりあえず僕はホテルに戻るから」
 それで薬を飲んでから冷たいシャワーでも浴びてみて、身体の中でくすぶっている熱が吹き飛べば良いなあと考える。それも全く効かず、さらに症状が酷くなる一方だったら、最悪病院の救急外来に行くしかないだろう。
 そこまで考えたところでじゃあそういうことだからと口にすると、ドアを押さえる格好で立っていたヴィクトルの横をすり抜けようとしたのだが。その直後に思いがけず腕を掴まれ、ドアの前まで引き戻されてしまったのに視線を左右にうろつかせた。
「ねえ勇利。それ、どうするの?」
「どうって……薬を飲むよ。駄目そうだったらちゃんと病院に行くし」
「そう言いながら、また別の人を誘うのかな」
「なっ、」
 まさかそんな真似するわけないじゃないかとすぐに反論しようとする。
 しかし直前に南に誘いをかけていて、なおかつその現場をヴィクトルに見られているとなると、そう言われても仕方がないだろう。
 ということにすぐに気付くと、瞬間的にカッと生じた憤りの熱が面白いほど一気に消失していき、全てがどうでもいい気分になってくる。
 そしてそんな投げやりな気分のまま、まるで吐き捨てるかのようにだったらどうだって言うのさと答えていた。
「別に、僕がどうしようとヴィクトルには関係ないじゃないか。それに心配しなくても、変な噂を立ててヴィクトルに迷惑かけることもしないから安心して」
「じゃあユリオに相手をしてもらうの? ていうかユリオっていう相手がいるのに、南を誘うなんて意外だな」
 もしかしてそういうのが好きなタイプなのと耳元で囁かれる。さらにはそんなことをするくらいなら俺にしておきなよと続けられた言葉に、身体の芯が熱くなるのを感じた。
 しかしその一方で胸の中は一気に冷え切り、どうしてこんなことになっているのだろうという混乱の言葉もまた、同時に渦巻いていた。
「はは……なに、つまらない冗談言ってるのさ。迷惑かけたくないし、ユリオのところへは行かないよ。今回南くんを巻き込んじゃったのは、僕の不注意のせいで本当に単なる偶然だから。
 ていうかヴィクトルこそ一体どうしちゃったのさ。そういうこと言わないタイプだと思ってたからびっくりしちゃったよ。ああ、でもあれか。僕が発情期っぽい感じだから、前みたいにフェロモンに流されちゃってる?」
 トイレに来ただけなのに、巻き添えにしちゃってごめんと苦笑いをしながら謝る。
 ただヴィクトルの様子からして、先の言葉が恐らくは本気だというのは百も承知の上だ。
 でもそういって笑って誤魔化すことで先の言葉を無かったことにしなければ、ヴィクトルとの関係が再び決定的に変わってしまいそうに思えたのだ。
 実際のところ、その変化がどういった形に変容するのかは当然分からない。しかし以前のようにヴィクトルとなあなあな関係に落ち着く可能性は高いだろう。
 そしてそれだけは、どうしても避けたかった。
 だってそんな関係に戻ったところで、去年の一年を繰り返し、最終的にその関係が再び破綻するのなんて目に見えている。それをまた体験するくらいなら、今の他人行儀な状態のままの方がよほどマシだろう。
 したがって気付いた時には、先のように咄嗟にはぐらかす言葉を口にして。それにきっと、ヴィクトルも乗ってくれるだろうと思ったのに。
 ヴィクトルは再び困ったような表情を浮かべながら、そんなに心配すること無いよと口にした。
「勇利は、この間の世界選手権の時に耳が落ちていたじゃないか。だから今そうやって発情期みたいになっちゃってるのは、耳付きの時の単なる余韻だろう? あれから二週間程度しか経ってないんだから、そんなものに引っ張られて、ヤケを起こすことは無いよ。
 まあいずれにせよ、俺は大会前に抑制剤の薬を飲んでいるから、前みたいに流されているわけでは全くないけどね……――って言ったら、勇利はどうするのかな」
「え、あ」
 ヴィクトルに耳が落ちていると勘違いさせていることをすっかりと忘れていたのもあり、瞬間的にそのことを思い出して内心かなり焦る。冷静に考えてみると、先のフェロモンに流されているのかという問いかけは、際どいなんてものではないだろう。
 ただ幸いにしてそれ以上は突っ込まれなかったので、首の皮一枚繋がったが。
 しかし問題はそこではない。だってせっかく先のヴィクトルの言葉を流そうとしたのに、それにまったく乗ってこなかったのだ。
 それどころか、薬を飲んでいるからフェロモンに流されているわけではないと言ってくるということは……つまりそれだけ本気ともとれるわけで。
 そこでそれまで頑なに逸らし続けていた視線をゆっくりとヴィクトルの方へ向けると、その表情は先ほどまでの困惑したものではなく、どことなく緊張をにじませたものに変化しているのに気付く。
 その様子から先の言葉は冗談では無いらしいことに気付いてしまい、今度は勇利の方がひどく混乱してしまった。
 そしてその真意をはかりかねてそれ以上一言も発せずにただただ固まっていると、まるで抱え込まれるような格好でホテルのヴィクトルの部屋まで連れて行かれてしまうのであった。

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