アイル

ケーキがフォークに嫌われた日-1

「ねえヴィクトル、私ケーキなの。あなたフォークなんでしょう? よければ――」
「ああ、ちょっと待って。悪いんだけど、俺はケーキに興味が無いんだ」
 そんな話声が廊下の一角から聞こえてきたのは、あと少しで昼休憩が終わる時のことだった。

 ヴィクトルが勇利の元へやってきてからおよそ一年後。勇利は練習拠点をロシアに移すことにした。
 そしてそうなると、言葉も食生活も、何から何まで今までとガラッと変わるので、慣れるまでがなかなか大変だ。
 それでも勇利は試合の遠征やら何やらで海外を点々とする生活をそこそこ送ってきているので、一か月もすれば新しい環境にもおよそ慣れてきて。ようやく周りの状況にも目が向くようになったところでまず気付いたのは、ヴィクトルはともかくもてるということだった。
 まあ大会やアイスショーの際に彼が女性からもらう黄色い声援は明らかに他より大きかったし、投げ入れられるプレゼントの数も勇利とはまるで違った。だから相当もてるんだろうなというのは、恋愛事に疎い勇利でも分かってはいたのだが。
 ただ彼が日本にいる際には、意外にもいきなり告白されたりという色恋絡みのイベントは一切無かったので、さほど意識することは無かったのである。
 ところがである。ロシアに移動した途端にその状況は一変して。昼食時に彼が女性から一緒に食事をとろうと声をかけられるのなんて、もはや日常茶飯事。それどころか、現在進行形で目の前で繰り広げられている告白の光景も、決して珍しいものではない。そしてロシアにやってきてからの数か月の間に、勇利はすでに数回ほどこのような状況にエンカウントしていた。
 ということは、実際のところはかなりのペースでこの手の誘いを受けているのはほぼ間違いないだろう。
 今までの人生で一度も告白されたことが無い勇利にとっては、まさに夢のような境遇である。
 そしてそうやって彼に誘いの言葉をかけている女性達は、決まって自らが「ケーキ」であると口にしていた。
 ――ケーキ。
 そう呼ばれる者達の身体は、文字通りケーキのように甘く美味しいものらしい。
 そんな「ケーキ」と対になる存在として「フォーク」と呼ばれる存在がおり、彼らはその「ケーキ」の味しか感じ取ることが出来ないのだそうだ。そしてヴィクトルは、そのフォークであると公言していた。
 つまり今勇利の目の前にいる二人は、まさに選ばれた存在なのだ。そしてそんな運命性を、ヴィクトルに告白している彼女達も感じているからこそ、自身がケーキであると口にしているのだろう。
 ケーキでもフォークでも何でもない、平凡な人間でしかない勇利にとって、そんな二人はひどく運命的な関係に思える。しかしヴィクトルは、毎回必ず先のようにケーキに興味は無いのだと言ってその告白を断るのだ。
 そして今回もそうだったのに、勇利は無意識に止めていた息を小さく吐きながら胸を撫で下ろした。
(ああ……良かった)
 他人がふられているところを見て安堵するなんて、自分自身でも性格が悪いと思う。でも今心の奥底にひっそりと抱いているヴィクトルへの気持ちが報われることは決してない。だからこのくらいは大目に見て欲しかった。
 ちなみに勇利自身がこの甘酸っぱい恋心に気付いたのは、ほんの数か月ほど前。グランプリファイナルの大会直前に、ヴィクトルへ指輪を渡してからのことだった。
 指輪を渡した後に、皆と合流したレストランで結婚やら婚約やら、普段の勇利にはまず縁の無い単語が飛び交って。そのことをその日の夜にホテルの部屋で思い返していたところで、それまで自分がヴィクトルに抱いていた行き過ぎた憧れのような気持ちは、恋心にも似ているなあとふと思ってしまったのである。
 そして一度恋というものを意識してしまうと、もう駄目だ。もともと筋金入りのヴィクトルオタクだったというのもあり、その気持ちが「恋心に似ている」から「恋」そのものへと完全に変化するのはあっという間だった。
(気持ちは……負けないと思うんだけど)
 しかし男であるという時点で、すでに彼女達とは同じ土俵に立つことが出来ない。
 だからヴィクトルに自らの気持ちを素直に口に出来る彼女達が、正直なところとても羨ましくて。いつもヴィクトルが女の人に告白されている光景を目にするたび、心の奥底から苦い物がこみ上げるのを感じていた。

■ ■ ■

 そんなこんなで、思いがけず告白現場に遭遇してしまった日の午後。勇利が練習にさっぱり集中することが出来なかったのは言うまでも無いだろう。
 そしてそんな状態でいつまでも滑っていても、意味が無いのは火を見るよりも明らかだ。
 というわけで勇利は定刻になるとさっさと練習を切り上げ、リンクサイドで練習を見てくれていたヴィクトルの元へと向かった。
「ヴィクトル、今日はもう上がるから」
「珍しいね。集中出来ないみたいだったけど、心配事?」
「あー……まあ、ちょっと。疲れがたまってるのかな」
 当然ヴィクトル本人に告白現場を見てしまったから、なんて言えるはずもない。したがってエッジに付いた氷を拭うふりをしながら話を切り上げ――しかしそうして注意力散漫だったのが不味かったのか。
 指先に鋭い痛みが走ったのに慌ててブレードから手を離すと、グローブを付けている右手の人差し指の先部分が、スッパリと真っ二つに割れてしまっている。そしてその間から指の腹が覗いており、肌色に一筋の赤い線が走っていたのに力なく肩を落とした。
「ッ、てて……久しぶりにやっちゃったな」
 今日は何から何までついていない。
 グローブを付けていたおかげで、幸いにして大惨事にはならなかったが。
 それでもしばらく指先を見つめていると血がプクリと膨らんできて、地味にズキズキとした痛みがそこから広がる。
「はあ。ねえヴィクトル、悪いんだけど指切っちゃったからタオル取ってもらえるかな」
「――ごめん。ちょっと、」
「え?」
 取って欲しいとお願いした件のタオルは、ヴィクトルの目の前のフェンスの上に置いてある。だからさほど大変なことを言った覚えは無いと思うのだが、それに対する答えは予想外にも謝罪の言葉で。
 しかもヴィクトルは慌てた様子で踵を返すと、言葉少なにその場から立ち去ってしまった。
 完全に置いてきぼりの形になってしまった勇利は、伸ばした手が空を切ったところで顔を上げる。そしてあっという間に小さくなっていく彼の後ろ姿を、口を開けたままただただ見つめることしか出来なかった。

「おいカツ丼。そんなところにいつまでも突っ立ってたら、邪魔なんだよ」
 それからどのくらいそこに立ち竦んでいただろうか。
 リンクから上がれねーだろと言われながら背中を軽く押されたところでようやく我に返ると、自分がフェンスの出入り口部分を塞いでいたことにようやく気付いてハッとする。
 そしてリンクサイドに慌てて上がって脇に退きながら振り返ると、そこには不機嫌な表情をしたユリオが仁王立ちしていた。
「ご、ごめん。ボーッとしてて。ユリオも今日はもう上がるの?」
「別に」
「珍しいね、上がるんだ」
 相変わらずの反抗期の少年そのものの答えにはもう慣れっこなので、一々突っ込みを入れることは無い。ブレードの氷を拭ってリンクサイドに上がってきたということは、つまりはそういうことなのだろう。
 ただユリオは、勇利と同じように毎日居残って練習をするタイプだ。それがこんな風に定刻に上がるなんて珍しいなと思いつつぼんやりと彼のことを見つめていると、その眉間に徐々に数本の皺が刻まれる。
「おまえ、ケーキなんだな」
「えっ?」
 その直後に口にされた言葉は、勇利にとってはまさに青天の霹靂としかいいようがないもので。しばらくの間その意味を理解出来ず、再びその場に固まってしまうのであった。

「ちょっ……ちょっと、待ってよユリオ。いきなり何を言いだすのさ」
「ああ、やっぱり自分でも気付いてねーのか」
「い、いやいや。だって気付くもなにも、なんで今さらケーキだなんて」
 ていうかそういうユリオこそフォークなんだと呟くように口にすると、目の前の少年は特に隠すこともなく淡々とした様子でまあなと答えた。
 でもそれなら余計に訳が分からない。だってケーキは、フォークと違って生まれついての先天的な特性なのだ。
 ユリオと勇利は日本で一時期同じ屋根の下で暮らしたこともあり、さらに一緒に風呂まで入ったこともある。もしも勇利が本当にケーキであるとするならば、その時に指摘されてもおかしくないだろう。
 というか、そうならない訳がない。
 それがどうして、一年も後にこうして指摘をされたのか。
(――もしかして、ユリオがフォークに変異したのがつい最近だからとか?)
 でもこれでは、ヴィクトルからもケーキであることを指摘されなかった理由にはならない。
 考えれば考えるほど、ますます訳が分からなくなって混乱する。そしてそれを察したのか。ユリオは肩を竦めながら、ブレードで切ってしまった指先を指さしてきた。
「恐らく、その血のせいだろうな」
「血?」
「ああ。カツ丼はもともとの体臭がほとんど無いから、今まで全く気付かなかったけど。でも恐らく体液の匂いの方が濃い体質なんじゃないのか? その指切った時、オレがリンクの隅の方で滑ってても気付いたくらいだからな」
 そこで右手を取られて鼻先を寄せて匂いを嗅がれながら、やっぱり濃いと指摘される。
 しかし肝心な勇利自身は、そこの匂いをいくら嗅いでみても血液独特のややサビ臭いような香りが少しする程度で、ユリオの言う甘い香りとやらはまるで感じないのだ。
 したがってケーキであると言われてもまるでその実感が湧かないのにぼんやりとしていると、呆れた様子で掴まれていた右手首をさらに引かれた。
「とりあえず、その傷手当してやるからちょっと来い。いつまでもその匂い撒き散らしてたら、気が散るんだよ」
「えっ、あ……うん」
 それからリンクサイドに置かれているベンチに座らされ、少し席を外したと思ったら。どこからかメディカルバッグまで持ってきてくれると、中から絆創膏を取り出して指先の傷口に貼り付けてくれた。
「わざわざありがとう」
「べつに、臭いから仕方なくだよ。ていうかさっきヴィクトルそこにいたよな。どこ行ったんだよ」
 アイツもメディカルバッグ取りに行ったのかと言われて、首を傾げながら苦笑を零すしかない。
 よく分からないが、急用でも思い出したのか。彼は急にこの場からいなくなってしまったのだ。
(――あれ? でもちょっと待て。そういえばヴィクトルも……フォークじゃないか)
 そして勇利は今、ユリオにケーキだと言われたのだ。目の前にいたヴィクトルが、それに気付いていないはずが無いだろう。
 つまり先ほどのヴィクトルの反応は、勇利がケーキであると気付いたからではないかと考えると、色々と辻褄が合う気がする。
 それと同時に昼に目にした告白の光景が脳裏に思い浮かび、ケーキに興味は無いのだと口にしていた彼の言葉が胸に突き刺さった。
 勇利は、自分自身がケーキでもフォークでもない平凡な人間だと思っていた。だからフォークであるヴィクトルの運命のような存在であるケーキと呼ばれる人々のことが、昔は羨ましくてたまらなかった。
 しかしロシアにやってきてから、偶然ヴィクトルが告白されているところに遭遇して。彼がそのケーキに興味が無いのだと知ってからというもの、そうではなくて良かったと正反対のことを考えるようになった。
 なんともまあ、ご都合主義的な思考回路だろう。そんな調子だから、まるで断罪させるかのようにいつの間にかヴィクトルが興味の無いというケーキへと、体質が変化してしまったのかもしれない。
「ヴィクトルにも、僕がケーキだって気付かれちゃったかな」
「そりゃああんな目の前にいたら、フォークだったら誰だって気付くだろ。リンクの隅にいたオレまで分かったくらいだぞ」
「そう、だよね」
 藁にもすがる思いで口にした言葉に対するユリオの答えは、やはり予想通りのものだったのにガクリと肩を落とすしかなかった。

 そしてそれから。しばらくの間放心状態でぼんやりとしていたのだが、ユリオがいい加減に付き合いきれないといった様子でベンチから立ち上がったのをきっかけに、ふと意識が現実に引き戻される。
 そして目の前のリンクで、ヤコフの指導を受けながら滑っているギオルギーやミラの様子が目に入ったところで、そもそもヴィクトルにとって自分自身はただの生徒でしか無いことを思い出して。そうだよなあと力無く呟いた。
「なんだよ、さっきからウジウジして気持ちワリーな。ケーキだっつっても、もうガキじゃないし。そうそう攫われることなんて無いだろうから、そんな悩むようなことでも無いだろ」
「いや……まあ、それはそうなんだけど。ただヴィクトルって、ケーキのことがあまり好きじゃなさそうな感じだから。嫌われちゃったらどうしようかなって思ったというか。ほら、コーチ、やってもらってるし」
「はー……おまえまでそれかよ」
 結構思い切って先の言葉を口にしたのだが。それを聞いたユリオは心底面倒くさそうな表情を浮かべると、付き合うだけ損したといった様子で額に手を添えながら天を仰いでいる。
 そしてその返答はまるで、今まで似たような質問を何度もされてきましたと言わんばかりのもので。思わずどういうことだと重ねて尋ねると、彼は面倒そうに身体を起こしながら有名な話だよと答えた。
「ヴィクトルがケーキに興味無いって言うの、アイツが告白断る時の決まり文句だからな。アイツの好き嫌いなんてさらさら興味ないけど、ミラがよく人の耳元でベラベラ喋ってるから耳に入ってくんだよ。
 でもま、カツ丼とヴィクトルはただの生徒とコーチでそういう付き合いって訳じゃねーし。そもそもヴィクトルの性格的にも、そんな下らない私情とか挟むタイプじゃないだろ」
「う、ん」
 勇利自身もそうは思うのだが。
 ただ先ほど勇利の言葉を無視する形でリンクサイドから立ち去っていった様子が気になるというか。今まで一度も見た事が無い反応だったので、どうしても一抹の不安が過ぎるのだ。
(でもまあ、僕より付き合いが長いユリオが大丈夫だって言ってるし……)
 それにこんなところでいつまでも一人でウダウダと悩んでいても仕方が無いのも事実だ。
 したがって大丈夫大丈夫と何度か胸の内で繰り返しながら、気分を切り替えるように勢いよくベンチから立ち上がった。
「僕の考えすぎ、だよね。まあとりあえずそんなことより、ケーキについてちょっと調べてみるよ」
「念のためにフォークに気を付けるくらいで、それ以外は別に調べるようなことも無いと思うけどな」
「フォークに気を付けるねえ……」
 今のところ勇利の身近にいるフォークは、ヴィクトルとユリオだけだと思う。しかしヴィクトルはフォーク嫌いで、ユリオの方は……まだ勇利よりも背が小さいし、どちらかというと弟のような感覚なので気を付けるというイメージがそもそも湧かない。
 おかげでいまいちピンと来ないのに、ユリオのつむじを見つめながら生返事をしていたのが不味かったのか。今に見てろよと言わんばかりに脛を軽く蹴られた。

 そんなこんなでリンクを後にした二人は、練習着から普段着に着替えるために更衣室へと向かう。
 そしていつもは大体この場所でヴィクトルと落ち合い、さらにタイミングが合えば嫌がるユリオも伴って帰るのだが。部屋の中に目的の人物の姿が全く見当たらないのに、勇利は目を瞬かせた。
「――あれ?」
「いねーな、ヴィクトル」
 ユリオは近くに居た着替え途中のリンクメイトを捕まえると、早速ヴィクトルの所在を尋ねている。そしてその答えは、二人のそれまでの予想とはまるで正反対のもので。彼がこの部屋に入るのと入れ違いで出て行ったというものであった。
「そっか。今日は、先に帰ったんだ」
「なんか急に用事が出来たとかじゃないのか?」
「そうだね。そうかもしれない」
 ただしその場合、ヴィクトルは必ず勇利の携帯電話に連絡を入れてくれる。そこで勇利はスマートフォンを取り出して確認してみるものの、ヴィクトルからの着信やメッセージは一切無かった。
 なんとなく避けられているような気がする。
 でもそれを口にしてしまったら本当に現実になりそうに思えたので、何も言わずに着替えるのに専念した。

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