アイル

ロシアの英雄と東洋人の醜聞-1

『ヴィクトル・ニキフォロフの選手生命を脅かす日本人選手の存在』
 そんな見出しが大きく書かれた新聞がロシア国内で発行されたのは、勇利がサンクトペテルブルクに練習拠点を移してから四ヶ月ほど経過した九月初旬のことであった。
 とはいえ勇利には、もともと新聞を購入する習慣は一切無い。したがってその新聞が発行された日もいつも通り過ごす。
 そして昼休憩時に昼食を食べようと食堂へ向かい、ヴィクトルやユリオなどの毎度の面子がやって来るのを待っていた時のことだ。
 リンクメイトのミラが近付いてくると、心配そうな表情を浮かべながら声をかけてきたのに首を傾げた。
「勇利。あの変な記事がのせられた新聞だけど、こっちでは有名なゴシップ紙だから気にすること無いわよ」
「えっと……何の話?」
「あ、あれ? 私の気のせい、かな?」
 なんでも無いわと口にしながら肩を軽く叩かれるものの、そう口にしたミラの目は明らかに泳いでおり、何かを隠している様子なのは明らかである。
 しかしそうやって隠されれば隠されるほど、気になるのはごく自然なことだろう。もちろんそれは勇利も例に漏れず、おもむろに自身のスマートフォンをポケットから取り出すと、早速SNSで自分の名前を検索してみる。
 そしてすぐにそれらしいニュース関連のアカウントがヒットすると、ヴィクトルの選手生命を脅かす存在として自分の名前が出されていたのに目を大きく見開いた。
「えっ、なにこれ」
 寝耳に水の話しなのもあり、ひどく混乱したのは言うまでもない。
 そこでとりあえず詳細な内容を確認しようと、表示されていたアドレスをタップしてニュースサイトへ飛んでみる。するとヴィクトルは今年の夏頃から足に違和感を覚えており、専門の機関で定期的に治療を行っていると書かれているのだ。
 それに勇利は、血の気が引いていくような感覚を覚えた。
「僕、このこと全然知らなかった」
「あ、ああ。私も知らなかったわよ。ただ大変な怪我なら、当然普段の練習も休むはずでしょ? でも今日だっていつも通り練習してたし、ジャンプも普通に跳んでたじゃない。ってことは、そんなに気に病むことは無いんじゃないかしら」
 これだからゴシップ紙のニュースなんてあてにならないのよねと、ミラはフォローしてくれる。
 ただ次のシーズンに向け、勇利は今跳べる四回転の精度を上げるだけでなく種類を増やそうとしていたのもあり、ヴィクトルに何度も四回転を跳んでもらい、手本を見せてもらっていたのだ。
 しかし昨年と異なり、今年はヴィクトル自身も選手として練習をしなければならない訳で。よくよく考えてみると、彼にかかる負担が倍になっているのは明らかなのである。
 ということに今さら気付き、顔を真っ青にした直後。入り口付近がザワついたのに顔を上げると、ヴィクトルが部屋の中に入ってくるのが目に入る。
 そこで勇利は手に持っていたスマートフォンをズボンのポケットに押し込みながら、表情が見え辛いように少しだけ顔を俯けた。
「ミラ。僕がこの件について知ってるって、他の人に言わないで欲しいんだ。特にヴィクトルには、絶対に」
「それは、構わないけど。気になるなら、本人に聞いてみるのも手じゃない?」
「まあ……そうだとは思うんだけど。ただここのところ今までになく調子がいいから、あまり波風を立てたくなくて」
 というのは表向きの理由で、ヴィクトルに心配をかけたくないというのが本音であった。
 ヴィクトル自身、先のニュースが出ていることを知っているかどうかは分からない。
 ただしその情報を仕入れた彼のファンが、遅かれ早かれ彼自身に心配の言葉をかけるのは確実だ。そしてそのことを勇利が知っているとヴィクトルが知ったら、優しい彼が気を揉むのはほぼ間違いない。
 しかしただでさえコーチと選手という二足の草鞋で忙しい彼を、これ以上煩わせるのは勇利の本意では無いのである。
 だからこうしてミラに口裏を合わせてもらい、あえて気付いていないふりをしようとしたというわけだ。

 そんなこんなで。この日を境に、勇利はヴィクトルに四回転ジャンプの手本を見せてくれと一切言わなくなった。
 だが幸いにして練習の方も調整時期に入っていたので、そのことにヴィクトルが違和感を覚えることはなかったのか。さして突っ込みを入れられることは無く、いつものように一日二日と経過していく。
 そうしてそのニュースは勇利の心に大きなしこりを残しながらも、ひとまず何事もなく普段の生活に戻っていくかと思いきや。
 気付かぬ間に生じた小さな波紋は、日が経つにつれて周りを巻き込んであっという間に大きなものへと変化していくのであった。

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