アイル

ロシアの英雄と東洋人の醜聞-2

 例のニュースが出てから数日後も、勇利は何事も無かったかのように少し早めにリンクへ向かう。
 そして自分のグループの練習時間になると、いつものようにひとまずヴィクトルに指示を仰ごうとしたのだが。彼はどこかで誰かにつかまえられているのか、リンクサイドにあるはずの姿が全く見当たらない。
 それにまたかと思いながら小さく息を吐き、近くに立っていたリンクメイトの青年に彼の所在を何気なくたずねる。
 しかしそれに対する彼の答えはひどく素っ気ないもので。ちょっと用事があるからと口にすると、その場からさっさと立ち去ってしまうのだ。
 そのくせ少し離れたところに立っていた別のリンクメイトと、すぐに談笑を始めたのに目を瞬かせた。
「えーっと……」
 勇利は人の機微に疎いと常々言われている。しかしさすがにここまでわざとらしい態度を取られて、何も気付かないほど疎くはない。
 そしてこれってもしかして避けられているのではないだろうかと思いながら、何気なく周りに視線を巡らせ――すると多くのリンクメイトが、勇利と目が合う前にスッと視線をそらすのに今さら気付いてひどく戸惑った。
「あ、れ? 僕、なんかしたっけ」
 ロシアにやってきたばかりの頃にも、もちろん遠巻きにされている感じはあった。
 それでもその時に感じていた視線は今のような嫌悪感を含んだものでは無く、新参者への好奇心が大半であったように思う。
 それからかれこれ数ヶ月ほど経過し、ヴィクトルやユリオ、それにミラなどのおかげでいくらかこのリンクの仲間たちとも馴染んできたかなというところだったのに。それがどうして、いきなりこんなことになったのやらだ。
 全く思い当たりが無いのに、ひどく戸惑いを覚える。
 しかしヴィクトルやミラなどの顔馴染みのことを考えたのをきっかけに、数日前に自分がヴィクトルの選手生命を脅かす存在として記事にされていたことをふと思い出す。そしてそれに腑に落ちる感覚を覚えたのに、思わず口元を手の平で覆った。
「なるほど、そういうことか」
 ミラには、あの記事が掲載されていた新聞はゴシップ紙だから気にするなと言われた。
 だが普通に考えて、勇利の練習に付き合うだけではなくヴィクトル自身の練習も行っていた彼の足に、大きな負担をかけていたのはちょっと考えればすぐに分かることなのである。にも関わらず、そんな簡単なことにすら気付けなかった自分が情けなくて、恥ずかしくてたまらない。
 加えて勇利にとって、ヴィクトルは未だに憧れの存在なのだ。そんな人にとんでもないことをしでかしてしまったという事実は、勇利の心に色濃く影を落としている。というか、正直受け止めきれていないというのが本音であった。
 だから今でも真実をヴィクトルに直接聞けずにおり、一人悶々と悩みながら自分自身を責め続けている。
 そしてこのリンクに拠点を置くほとんどのスケーターは、勇利と同じく彼の滑りに憧れを抱いている者が多い。となるとゴシップ紙であったとしても、先のような記事を見て、多くのリンクメイトたちが勇利のことを疎ましく思うのも無理は無いだろう。
 いや。むしろ、当然の結果であると思えた。
「はあ」
 もともと社交性のある性格ではないのもあり、このロシアの地で自ら進んで声をかけるのは、ヴィクトルやユリオくらいなものである。あとは国際大会で何度か顔を合わせたことがある、ミラやギオルギーにたまに声をかけられるくらいだろうか。
 だから他のリンクメイトから冷たい視線を向けられたところで、直接的な実害があるわけでは無い。それでもいざ疎まれているという事実に気付いてしまうと、ひどく居心地が悪くて息苦しい。
 しかもそのそもそもの原因が、自分自身の無神経さ故にヴィクトルに迷惑をかけてしまったせいなのである。
 それを思うと、目の奥がジワリと熱くなる感覚を覚えたのに慌てて顔を上げた。
「最近ずっとこんな調子で、ダメだな」
 そこで気を紛らわすように身体を翻すと、ヴィクトルがやってくるまでまだ安定していない四回転フリップと、新たにプログラムに取り入れた四回転ループのジャンプを無心にさらった。
 しかしそんな風にひどく精神状態が乱れていて、上手く跳べるはずもなく。何度も着氷に失敗するたび、腰から下に広がる鈍痛が強くなっていく。
 その痛みは、ヴィクトルになかなか真実を聞けず、そのせいで謝罪すらも出来ない自分の弱さの代償のように感じられた。

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