アイル

ロシアの英雄と東洋人の醜聞-3

「それじゃあ勇利、行ってくるね」
「あ、うん」
 さらに一週間ほど経過した九月中旬のこと。
 ヴィクトルは午前の練習を終えると、勇利の腕を掴んで出入り口まで引っ張っていく。そして先のように一時の別れの言葉を口にすると、いつもの調子で軽く手を振ってから施設の前に停められていたマイクロバスへ乗り込んだ。
 それにユリオ、ギオルギー、そしてミラ。他に数人のリンクメイトが続いて。そうして皆が乗り込んだところで、いつの間にやら先に乗車していたヤコフが座席から立ち上がり、メンバーが揃っていることを手早く確認している様子だ。
 それから運転手に一言二言何かを告げるとバスはすぐに発車し、あっという間に勇利の視界から見えなくなってしまった。

「……行っちゃった」
 ちなみに先ほどバスに乗り込んだ面子からおよその察しがつくかもしれないが、ヴィクトルたちはこれからメディアの取材を受けるらしい。なんでもロシア国内のとあるテレビ局から、夕方放映するスポーツ番組のフィギュアスケートの特集に生出演して欲しいという依頼が来たのだそうだ。
 ということを勇利が教えてもらったのは、ほんの数時間前の朝。居候させてもらっているヴィクトルの家の玄関から出た直後のことである。
 しかしなんてことない世間話をするかのように彼の口から紡がれた重要な情報に、勇利がひどく動揺したのは言うまでもないだろう。
 その言葉を聞いた途端に頭をフル回転させると、忘れ物があると適当な言い訳をしてテレビが置いてあるリビングへと駆け戻る。それからリモコンを操作し、教えられた番組の録画予約を急いで入れた。
 そしてそれにホッと胸をなで下ろしたのも束の間。
 玄関に再び戻ると、ヴィクトルは思わせぶりな表情を浮かべていて。そこで本人を目の前にして思いきりミーハーな行動を取ってしまったことにようやく気付き、顔を真っ赤に染め上げてしまったのは記憶に新しい。
「はあ……やっちゃったよなあ」
 おかげで羞恥心から普段のペースがすっかり乱れてしまい、午前の練習は散々だった。
 ただ午後からは先の通りヴィクトルは不在のため、代わりにサブコーチに見てもらうのでいくらか落ち着くと良いのだが。
 なんて独り言を呟きながら天を仰ぐと、排気ガスの苦い残り香が鼻先をかすめていく。それから逃げるように、勇利はそそくさと建物の中へと戻っていった。

 それからとりあえず昼食を取ろうと食堂へ向かうと、ロシア定番のボルシチ、小さめの肉をソテーしたものにサラダ、さらに米をプレートの上に乗せる。途中でフライドポテトなどの揚げ物に目が行くものの、今は大会前なのでグッと我慢だ。
 そしていつもはヴィクトルに連れられて、いつの間にか部屋の中央付近の目立つ席に腰掛けているのだが。今日は一人きりなので、部屋の一番隅っこの壁に向かい合う格好で腰掛ける目立たない席を選んだ。

「後ろ通るよ」
 背後から男性の声でそう告げられたのは、昼食を粗方食べ終えた時のことであった。
 そこでイスが邪魔だっただろうかと、慌てて前に引きながらごめんと謝って顔を上げる。しかしその直後、思いがけず肩口から胸元にかけて濡れた感覚が広がったのに大きく目を見開いた。
「わっ!?」
「あ、ごめん。ぶつかって水が零れたみたいだ」
「えっ? あ、ああ、水なら大丈夫だから」
 これがジュースだったら、ベタベタになって悲惨なことになっていただろう。
 しかし水ならば、とりあえず放置しておいても問題無い。幸い身につけているシャツは、速乾性をうたったポリ素材のシャツなので、氷上で滑っていればすぐに乾くだろう。
 なんてことを考えながら、ズボンのポケットからタオルハンカチを引っ張り出して濡れた箇所を拭っていたのだが。その途中で、水をかけた当の本人はさっさとその場から立ち去ってしまったのに思わず呆気に取られた。
 いやまあ謝ってくれたし、別に構わないのだが。ただ何となく違和感を覚えるというか。
 それもあって思わずその青年の背を目で追いかけると、彼は少し離れた席に座っていた数人の男性グループの中に吸い込まれていく。
 そしてそのグループの人たちは、笑いながら彼のことを迎え入れるのだ。それにひどく違和感を覚えるのと同時に、そういうことかと合点がいった。
「ああ……そっか」
 つまり彼は偶然水を零してしまったのではなく、恐らく故意に零したのだ。
 そしてそんなことをされる原因として考えられる理由は、ただ一つ。少し前に新聞に掲載された、例のニュース記事のせいだろう。
 あれから勇利が、ヴィクトルに四回転を跳んでくれと頼んだことは一度も無い。しかしヴィクトルは、それからしばらくして頼んでもいないのに四回転を跳んでくれるようになったのだ。
 勇利がいきなりジャンプのことを一切口にしなくなったので妙に思ったのか、あるいは単純に良心からか。その真意はよく分からない。
 しかしそんなヴィクトルの優しさは、勇利のことを真綿のようなもので柔らかく、しかし確実に締め上げていた。そして勇利だけではなく、リンクメイトの神経も逆撫でてもいたらしいということに、そこでようやく気付く。
 そうして知らぬ間に、双方の緊張の糸がどんどんと張りつめていって。ついに今、その糸がブチリと切れたのだろう。
『まいったな』
 思ってもみなかった展開に、思わず日本語でそう呟いてしまう。
 それと同時に、嫌がらせとかいじめとかいう単語が脳裏をかすめたのに、思わずシャツの水分を拭っていた手の動きを止めた。
 小学生から中学生にかけての頃だっただろうか。
 クラスメイトにバレエやフィギュアスケートを習っていることを知られたときに、男のくせに女みたいだと馬鹿にされた時のことをふと思い出す。ただその時にはすでにヴィクトルに夢中になっていたので、さして気にはしなかった。
 それでもその出来事が、決して気分が良いもので無かったのは確かだ。
 そして今。あの時のように胸の内に苦い物が広がる感覚に小さく息を吐いた。
『まさか、またこの年齢でこれを経験することになるとは』
 すでに二十代の半ばに差し掛かっているのにという感じだ。
 とはいえ先ほどの相手は恐らくまだ十代半ばから後半で、まだまだ尖っている年頃だろう。そして東洋人である勇利は、こちらの人から見ると実際よりも若く見えるのか。未だにティーン扱いをされることが間々あるので、それもあって彼らから舐められているといったところか。
 ただそもそも彼らがこんな行動に出た原因を考えると、その気持ちも分からなくもない。だって勇利自身でさえ、自分のこれまでの無神経な行動をまだ許せずにいる。
 そしてそれを思い出してひどく打ちのめされていると、まるで追い打ちをかけるかのように、先ほどのグループの中の一人がこれよみよがしな大声を上げた。
「これ以上ヴィクトルの邪魔してないで、さっさと日本に帰れよ」
「っ、」
 ――瞬間、それまで人の話し声で満ちていた食堂の中が静寂に包まれる。しかしすぐに何事も無かったかのように再びざわめきはじめ、それはまるで、先の言葉はここにいる人間の総意であると言われているような気がした。
 なんというか、この空間の中で自分だけが異物みたいというか。東洋人は自分一人しかいないのもあり、疎外感をひどく感じて思わずその場から逃げ出したい衝動に駆られる。
 もちろんこんなの、全て勝手な妄想にすぎないのは分かっている。でも咄嗟にそんな風に考えてしまったのは、自分自身で少なからずここにいない方が良いのではないだろうかと、心の隅で考えていたのもあるだろう。
 だがそれはコーチを続行してくれただけではなく、現役復帰までしてくれたヴィクトルの気持ちを裏切ってもいるのだ。
 だから駄目だと、すぐに頭を振って馬鹿な考えを打ち消した。
「はあ……まだ少し早いけど、自主練でもしてようかな」
 幸い食事ももう終えているので、これ以上この居心地の悪い空間に長居する必要はまったく無い。したがってそそくさと食器類を片付け、食堂を後にする。
 その間中、先ほどのグループのクスクスという小さな笑い声が、背中にベッタリと張り付いているような気がした。

 なんてことが昼休憩中にあったものの、幸いその日はそれ以上のことは無く。気落ちしつつも、いつものように練習を終えて居候させてもらっているヴィクトルの家へとランニングしながら戻る。
 そしてまずは自室に引っ込み、荷物を片付けるというのが常なのだが。今日はヴィクトルがまだいないのをこれ幸いと、いそいそとリビングへと向かってテレビの電源を入れる。すると画面にヴィクトルやユリオなどの見覚えのある面子が映し出されたのに、小さく声を漏らした。
「あ、やった。ギリギリ、間に合ったか」
 とはいえ時間的に見ても、そろそろエンディングっぽい感じなのだが。それでもせっかくの生放送なので、テレビ前に置かれているソファに腰掛け、上体を前のめりにして食い入るように画面を見つめた。
『――それでは最後に。およそ一ヶ月後からいよいよグランプリシリーズが開幕しますが、みなさんの意気込みを教えていただけますでしょうか。まずはヴィクトル・ニキフォロフ選手からお願いします』
『はい。そうですね……一年のブランクを経ての現役復帰ですから、正直なところ少し緊張はしています。でもそれ以上に勇利――ああ、もうご存じとは思いますが、昨シーズンからコーチをしている日本の男子選手なのですが、彼と一緒に戦えるのがとても楽しみでもあるんです。彼から受け取った多くのものを、演技の中から感じ取っていただければと思います』
「ああ……」
 その言葉はとても嬉しいもので、だから有りのまま受け入れようと思うのに。そう思えば思うほど、例のニュースの文字列が色濃く脳裏に浮き上がり、重い枷のように勇利の心にのし掛かるのだ。
 そしてそんな風に思ってしまうことが、たまらなく悲しかった。
「だめだなぁ」
 こんな風にして悪い方向へすぐに考えてしまうのは、きっと昼間にリンクメイトから思いがけず帰れと直接言われたせいだろう。でもコーチと選手という二足の草鞋を履いている状態の彼に、こんな状態の自分の姿を見せては駄目なのだ。
 したがって沈んだ気分を強制的に切り替えるべく、大きく天井を仰ぎ見ながら深呼吸をして平静を装った。
 ただヴィクトルは勇利と違って人の機微にかなり敏いので、いつまでも大きく揺れ動く心の内を隠しきれるとは到底思えなかった。
「そろそろ、一人暮らしについて真面目に考えないとな」
 それからふとそう呟いたのは、ほんの思いつきだ。
 しかしそうやって口に出して改めて考えてみると、それがこの状況をいくらかマシにするための最善の策に思えてきたのにふむと声を漏らした。
「ヴィクトルが散々言いふらしていたおかげで、リンクメイトの皆、僕がヴィクトルの家で世話になってるの知ってるし」
 そういうことも、ヴィクトルのファンの心理を不快にさせているのは、間違いないだろう。
 それなら勇利の方からヴィクトルと距離を置いたら、彼らもいくらか溜飲が下がるのではないだろうかと考えたというわけだ。
 とはいえこれも根本的な解決策ではなく、せいぜいガス抜き程度にしかならないだろうが。それでも、何もしないでいるよりは断然マシだろう。
「まあ、本当は直接止めるように言うのが一番良いんだろうけど」
 そして普段の勇利であれば躊躇無くそれを口にしていただろうが、今回に限っては後ろめたさから出来そうもなくて。だから結局、こうして贖罪のような真似事を真面目に実行しようと考えているのである。
 ただ、これが決して褒められた手段でないことは分かっている。
 何故なら見方によっては彼らの言いなりになっているわけで、下手したら彼らの行為をさらに助長しかねないからだ。
 しかし例え一時しのぎであったとしても、今のこの状況がいくらかマシになるのであれば、正直もう何でも良いというのが今の勇利の本音であった。
 九月に入ってから次から次へと色々なことが起こったせいだろうか。そんな投げやりな気持ちになるほど、まるで余裕が無かった。

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