アイル

ロシアの英雄と東洋人の醜聞-4

「あのさ、ヴィクトル。いつかいつかと思いつつ、延び延びになっちゃってたんだけど。そろそろ一人暮らしを始めようと思うんだ」
 そうして勇利が引っ越しの件をヴィクトルに切り出したのは、九月最後の日曜日。夕飯を食べ終え、いつものように食後の紅茶を、テーブルに座って楽しんでいる時のことであった。

「えっ? 一人暮らしって……そりゃあ構わないけど、なんだってまたそんないきなり」
「いやあ、ロシアに来たばっかりの時は、右も左も分からなかったからさ。ヴィクトルの好意に甘えちゃって、この家に世話になってしまったんだけど。でも、もともとはクラブの近くで一人暮らしをしようと思ってたんだ」
 だから実は物件もこっちに来る前から目星を付けててと口にしながら、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。そしてクラブの近くにあるという、家具付きのワンルームアパートの物件情報のページを見せた。
 ちなみにこれらはすべて本当のことで、あとは実際に物件を見せてもらい、それから契約しようという段階まできていたのだ。
 しかしそこで思いがけずヴィクトルに、俺の家ならクラブにもっと近いし、家賃もタダだよという甘い言葉を耳元で囁かれて。それでその言葉につられて、最終的には今のような状況に落ち着いたというわけである。
 ――ということを、数日ほど前にふと思い出して。駄目元でその物件について再度調べてみたところ、幸いにしてまだ埋まっていなかったのだ。
 それをこれ幸いと、こうして再び利用させてもらおうとしているというわけである。
 そんなこんなで、真実を適度に含めたウソというせいもあってか。勇利が発する言葉は、つかえることなくスルスルと出てくる。
 そしてその様子から、本気度を悟ったのか。ヴィクトルは少々訝しい表情を浮かべながらも、頭ごなしに否定してくることは無かった。
「まあ勇利がその方が良いって言うなら、反対はしないけど。でもあと少しで大会が始まるっていうのに、何だってまたこんな急に」
「いやあ、ロシアに来てからちょうど半年くらい経って、大分こっちの生活にも慣れてきたなって思って。それに今を逃したら、また数ヶ月は動けなくなるからさ。幸い、越すって言ってもさして荷物があるわけじゃ無いし」
 日本からロシアにやって来る時に持ってきた荷物は、大きなスーツケース三つと、あとはリュック一つきりだ。
 それらを移動させれば良いだけなので、荷造り時間を含めても、半日ほどもあれば引っ越しが完了してしまうだろう。
 そして目星を付けていた部屋の方も、実は先週末に見せてもらって特に問題無いことを確認済みなのだ。
 したがってあとは契約書にサインさえしてしまえば、一応はいつでも入居オーケーの状態なのである。
 ということを常よりもやや早口で説明すると、ヴィクトルは少しばかり驚いた様子で目を軽く見開く。それから右手で目元を覆い、大きな息を吐いた。
「はあ……まったく。もうそんなに話を進めているなら、俺は何も言わないよ。
 そうだな、とりあえず移動日が決まったら声をかけて。車で荷物を持って行くのを手伝うから」
「あっ、うん。ありがとう」
 ヴィクトルに一切相談せずに自分勝手に話を進めたので、もう少し何か言われると思っていたのだが。案外すんなりと了承してくれて、少しばかり肩すかしだ。
 それに安堵する反面、やはり寂しくもあって。何ともいえない複雑な心境が、胸の内でポツリと生まれるのを感じる。
 しかしそもそもは自分から引っ越しをすると言い出した結果なので、そんな風に思うのも随分と自分勝手な話しなのである。
 だからそんな気持ちを誤魔化すように張り付けたような笑みを浮かべると、来週末には越すよと口にした。


■ ■ ■


 それから次の日には契約書にサインをし、すぐに荷造りを始めようと思っていたのだが。
 何故か今さら気乗りしなくなってしまって。練習で疲れたしと適当な言い訳をしながら荷造りを延び延びにしていると、あっという間に引っ越し前日の夜となってしまう。
 そしてその日の夕食の席でヴィクトルから荷造りは終わっているのかとたずねられたことで、ようやく重い腰を上げて荷物整理に手を付けた。
「はあ……自分から引っ越すって言い出したくせに、何やってんだか」
 契約を交わして後戻りは出来ない状態になったところで、ようやくこの家から出て行くという実感が湧いてきたせいだろうか。
 ヴィクトルに引っ越しの件を話すまでは、頭の中は引っ越しをするんだという強い思いで一杯だったのだが、今は違う。胸の奥深くに小さく生じた寂しいという思いが日に日に大きく膨らんでおり、恐らくはそれが荷造りをする手の動きを鈍らせていた。
 でも今さら賃貸の契約を反故にすることなんて出来ないし、それに相変わらずリンクメイトの視線は冷たいもので、だから全て仕方がないことなのだ。
 そう自分に言い聞かせるようにぶつぶつと独り言を呟き、無心に片付けの手を進める。
 しかし衣類をまだ一山残したところで、手持ちのスーツケースが全て満杯になってしまったのに小さく息を吐いた。
「たった半年で、こんなに荷物が増えたのか」
 デトロイトにいた時には、数年いてもこんなことは無かったのにと思う。
 そこでそれらがヴィクトルからプレゼントと称して買い与えられた洋服であることに気付くと、その時の記憶が鮮明に脳裏に蘇る。すると甘酸っぱさと切なさがない交ぜになったような、奇妙な感情がこみ上げてきたのに瞳を揺らした。
「ああ」
 自分でも知らぬ間に、ヴィクトルにどっぷりと依存しているのだと目の前にはっきりと提示されているみたいだ。
 それはどこかくすぐったさを感じさせるもので。でもこの事実をリンクメイトの人たちに知られてしまったらと思うと、それだけで途端に息苦しくなってくる。
 したがって思わずすがるように、右手にはまっている金色の指輪に指先をはわせた。
 しかしそういえば、この指輪も男同士でペアリングをはめるとはどういうことなのかと新聞でごもっともな指摘をされていたことを思い出すと、見えないように手の平で覆い隠した。
 本当は、この指輪も外した方が良いのだろう。でもまだその勇気が出ないのに、今の勇利にはこれしか出来ることが無かった。
「――とりあえず、入りきらない物は紙袋にでも入れよう。たしか、もしもの時のために何枚か置いてあったよな」
 そしてそう口にすると、逃げるように部屋を後にした。

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