そんなこんなで、勇利は前日の夜遅くまで引っ越しの荷造りでドタバタとしていた。
しかし何だかんだと言いつつ数時間ほどで作業を終え、翌日の午前中にはヴィクトルの運転する車に荷物を乗せてもらい新居へと移動する。
それから三個のスーツケースと一個のリュック。さらに数袋の紙袋を部屋の中へ運び入れて引っ越し作業を無事に終えると、その日から早速一人暮らしを開始するのであった。
そうして表面上は何事もなかったかのように、数日ほど経過したある日。
勇利はその日の午後の練習メニューである氷上練習と筋トレを終えると、トレーニングルームのベンチに一人腰掛ける。
そして今日のメニューも一通り終えたし、そろそろ帰ろうかとぼんやり考えていると、背後からややぶっきらぼうな声音で、おいと声をかけられる。
それにおずおずと顔を上げると、そこに金髪の少年の姿があった。
「ユリオの方から声かけてくるなんて珍しいね。どうかした?」
「この後ヒマなら、ちょっと付き合えよ」
「それは構わないけど」
ただ彼の浮かべている表情は、明らかに不機嫌なもので。その様子から察するに、何かしら文句を言われるのはほぼ間違いないだろう。
しかし勇利にはその心当たりが全く無いので、よく分からないなと思いつつ首を傾げたのだが。その態度が、彼にとってはさらに気に食わないものだったのか。
眉間に刻まれていた皺の本数がさらに一本増え、チッと舌打ちまでされてしまった。
「もー……なんなのさ、いきなり。僕何かしたっけ?」
「そういうんじゃねーよ。それよりヴィクトルに寄り道するって声かけなくていいのか」
「ヴィクトル? あー……実は僕、先週の日曜から近くのアパートで一人暮らしを初めたんだ。で、ヴィクトルと家が別々になってからは、一人で帰ってるから問題無いよ」
方向も逆だしねと付け加えると、片眉を上げられる。それから一人暮らし始めたって噂、本当だったのかと言われたのに肩を竦めてみせた。
その口振りから、ユリオが自分に声をかけた理由が何となく察せられる。しかしトレーニングルームの中には自分たち以外の者も当然いるので、それ以上言及することはしなかった。
それから二人は少し距離を取りながらも並んでロッカールームへと向かうと、そそくさと身支度を整える。
そして施設の外に出たところで、それまで何となく全身で感じていた、チクチクと突き刺さるような視線からようやく解放されたのに勇利はふうと小さく息を吐き、横に立っているユリオの方へチラリと視線を向けた。
「――で、どこに行くつもり?」
「あー……そういえば決めてなかったな。遠くに行くのも面倒くさいし、一番近いオレの部屋でいいか」
「ん、了解」
そういえばユリオの部屋に行くの、初めてだから楽しみだなあと何気なく口にする。すると彼は、嫌そうな表情を浮かべながら、勝手に部屋の中を漁るなよと先に釘を刺された。
なんて具合に他愛の無い会話をしていると、あっという間に彼が現在暮らしているクラブの寮へ到着する。そして数階ほど階段を上がったところで、唐突にユリオの動きが止まった。
「あ、ヤバイ」
「なに。忘れ物?」
「いや、そうじゃなくて。部屋に飲み物が全く無いから、買わないといけないんだった。先に部屋の前で待っててくれ」
「付き合おうか?」
「いらねー。この建物の一階に自販機があるから、すぐ戻る」
「了解。で、ユリオの部屋ってどこ?」
「この階段上がりきった階の、一番奥の部屋」
彼はそう大声で口にしながら猫のようにしなやかに身を翻えし、階下まで一気に駆け降りていく。
その後ろ姿を少しの間眺め、姿が見えなくなったところで教えられた場所へ向かうべく階段の一番上まで上がりきった時のことだ。
目の前に影が差した直後、肩口が何かとぶつかるような軽い衝撃が走ったのに、慌てて階段の手すりを掴んで身体を支えた。
「っと、ごめ」
「あ、ワリー……って、何でおまえがここにいるんだよ」
「!」
謝罪の言葉が、途端に嫌悪感に満ちた声音に変貌したのに嫌な予感がするなと思ったら。目の前に件のリンクメイトの青年が立っていたのに、思わず内心で頭を抱えた。
すっかり気を抜いていたが、そういえばここはクラブ所有の寮なので、同じクラブ所属の人間がわんさかといる場所なのである。
ただし階下にはユリオがいて、もうしばらくしたらここまで上ってくるのは間違いない。そして揉めている現場を見られるのは、どう考えても得策ではないだろう。
(ユリオの性格だと、間違いなく首突っ込んでくるだろうしな)
大会前の重要な時期に、こういうことに巻き込みたくはない。それに彼はシニアに上がりたてにも関わらず優秀な成績を残しているので、ただでさえやっかみの対象になりやすいのだ。
したがってひとまずこの場をおさめるのが最優先だと気持ちを切り替え、再びごめんと口にしたのに。焦っていたのもあって、心ここにあらずな雰囲気があからさまに出てしまっていたのか。
運が悪いことに、目の前の男の表情はさらに不機嫌なものに変化していくのであった。
「はあ? そっちからぶつかってきたくせに、何だよその態度」
「あ、いや。気分悪くしちゃったなら、謝るよ。悪かった」
ちょっと急いでてと口にしながら、さりげなく彼の身体の横をすり抜けようとする。
しかし逃がすまいというように、背後から伸びてきた手に腕をつかまえられて。それからグッと後方に引っ張られた瞬間、たたらを踏んだのだが。足先に何も触れなかったのに、不味いと思った時にはもう遅い。
『まずっ!』
咄嗟に日本語を口にしながら、手すりを再び掴もうと必死に手を伸ばす。
しかしその指先は空を切り、その直後。全身に今まで経験したことが無いような激しい衝撃が走った。
それからどのくらい経った頃合いだろうか。
定かではないが、身体の動きが止まっているのに気付くと、おずおずと目を開ける。そして辺りの様子を伺ってみると、階段の踊り場に仰向けの格好で転がっていることが分かった。
ということは、二十段ほどある階段の一番上から下まで、一気に転げ落ちたのだろう。
そこで視線を階段の最上段に向けてみると、呆然と階下の自分のことを見ている青年の姿が目に入る。
彼はこの状況に驚いているのか。ひどく真っ青な顔をしており、勇利と視線が合うとひどく怯えた様子で全身をブルリと大きく震わせた。
「おまえが……おまえが悪いんだからなっ!」
そしてまるで捨て台詞のようにそう口にすると、彼はその場からどこかへ走り去って行ってしまった。
その行動は決してほめられたものでは無いだろう。
しかしその焦り具合から、どうやらこれは偶然の事故らしいということが分かった。
「はあ……まいった。なんか全身痛いし。ほんと、最近は何だかついてないなー……」
リンクメイトから向けられる嫌悪感から逃げるように、引っ越しまでしたというのに。その結果が、まさかのこれである。
神様は意地悪だ。
なんてことを現実逃避に考えるが、そんなことをぐだぐだと考えたところで痛みが引くわけではない。
というかそうして意識の外へ追い出そうとすればするほど、痛みが増してくる。
特に左足の甲から足首にかけてが、時間を追うごとに酷くなっていっている気がする。
それにものすごく嫌な予感がするのに何とか上体を起こして手の平で様子を伺うように恐る恐るさすっていると、手すりの影からひょこりと見覚えのある金髪頭が覗いた。
「――っと、あぶねーな。誰かと思ったらカツ丼かよ。そんなところに座り込んで何やってんだ」
「ああ……ユリオか。ちょっと、階段で足を滑らせちゃって」
「滑らせたって……はあ!? おまえ、何やってんだよっ!」
まさか階段の上からここまで落ちたんじゃないだろうなと思いがけず直球でたずねられたせいで、咄嗟に誤魔化し損ねて目線を泳がせてしまう。
するとユリオは声を荒げながら、なに馬鹿やってんだよと肩を両手で揺さぶってきた。
「グランプリシリーズまで一か月切ってるのに……ほんと、何やってんだ!」
「はは……ね、何してるんだろうね、僕は」
「全然笑い事じゃねーよ。はー……もう、大怪我だったらどうすんだよ。まあとりあえず、今は病院に早く行ったほうが良いな。と、その前にヴィクトルに電話して、どうするか聞かないとか」
おまえのコーチって、そういえばアイツだしなと呟きつつ、彼はポケットからスマートフォンを取り出す。そして慣れた手つきで画面をタップし、端末を耳に押し当てた。
そうして彼の意識が自分から離れたのを良いことに、勇利は恐る恐るその場で立ち上がってみる。
しかしとてもではないが、左足に体重をかけられるような状態ではないのに、先ほどの嫌な予感が当たっているような気がしてならなかった。
「ヴィクトル、まだリンクにいるからこれからすぐ来るって――って、なに勝手に立ち上がってんだよっ! ケガ人は、黙っておとなしくしてろ」
「えっ。あ、うん」
かといって今さら床の上に再び座るのも難しいのにどうしたものかと固まっていると、呆れた様子で大きくため息を吐かれて。肩を貸してもらう格好で、階段に座るように促された。
それからしばらくすると、階下から階段を駆け上ってくる音が聞こえてくる。それにユリオと顔を見合わせながら、もしかしてと言い合っていると予想通りだ。
階段の手すりの影から、珍しく額に汗を浮かべて焦った様子のヴィクトルが姿を現す。
そして階段に腰掛けている勇利の姿を見つけると、ホッとした様子で大きく息を吐いて。しかしすぐに駆け寄ってきて目の前に膝をつき、心配そうな表情をありありと浮かべながら名前を呼ばれた。
「――勇利。階段から落ちて足を怪我したってユリオから電話で聞いたけど、どっちの足?」
「えと、左足なんだけど」
「そっか……重傷じゃないといいんだけど。まあここで素人がいくら話していても仕方がないし、まずは病院に行って検査をしてもらおう」
そこでヴィクトルは身体を反転させ、背中を向けてくる。
だがその意図することがよく分からないのに目を瞬かせていると、脇に立っていたユリオが、おぶされってことじゃねーのと教えてくれた。
「そう。ユリオの言うとおり、そういうこと」
「えっ、ええっ!? いっ、いくらなんでもそれはっ」
勇利はヴィクトルよりも七センチほど身長が低いとはいえ、成人男子だ。それを担いで階下までおりるのがかなり大変だということは、容易に想像出来る。
というか下手したらヴィクトルまで巻き込んでケガをさせてしまいかねないだろう。
それだけは絶対に、勘弁だ。
したがって大慌てで首を振り、大丈夫だからと連呼した。
「肩を貸してもらえれば、自力で歩けるから」
「ダーメ。そうやって無理して悪化したら大変じゃないか。心配しなくても、前にペア演技でリフトの練習をした時だって、一度も落としたことなんて無いだろう? それに氷上より地面の方が断然踏ん張りもきくんだから、全く問題無いよ」
さらに駄目押しというようにコーチ命令だよと笑顔で告げられてしまっては、それ以上勇利に拒否権があるはずもなく。
渋々と彼の肩口に両手を添えるようにそっと乗せると、その手を掴まれて首に巻き付けるようにグッと引っ張られる。その勢いに負けて上体をヴィクトルの背中に預けてしまうと、一瞬後に全身が浮遊感に包まれて。気付いた時には、彼に背負われていたのにひどく焦った。
ただ胸元から感じる彼の体温がじんわりと暖かく、何故か分からないがギュッと胸を締め付けられるのだ。
それにすっかりとやられてしまうと、すぐに借りてきた猫のようにすっかりとおとなしくなるのであった。
そうしてヴィクトルは先の宣言通り。しっかりとした足取りで階下に到着すると、停めてあった自身の車に歩み寄る。そしてユリオに頼んで後部座席のドアを開けてもらうと、そこに勇利のことを寝かせた。
それからユリオを助手席に座らせ、自身の運転する車で病院へと向かうのであった。
「やあ、ヴィクトルじゃないか。この間来たばかりだというのに、今日はどうしたんだい?」
そして病院の診察室に入室して早々医者が口にしたその言葉は、勇利の胸にズブリと深く突き刺さる。
その瞬間に広がった痛みは、左足から広がっている鈍痛よりもよほど勇利を苛んだ。
――左中足骨骨折。
病院で問診やらレントゲンの撮影を行い、その結果出た答えはこれであった。
幸いヒビが入っていた程度だったので、早ければ一ヶ月ほどで練習を再開しても良いということだったが、当然すぐに本調子に戻るという訳では無い。したがってここで無理をしてグランプリシリーズに出るのは避けた方が良いだろうということであった。
その説明を医者から聞いている時のヴィクトルの表情はひどく辛そうなもので、当事者である勇利よりもショックを受けている様子であった。
正直なところ、勇利はそれまではこの状況にひどく驚いたのもあり、どこか現実を受け入れきれていなかったせいか。他人事のようにこの出来事を受け止めていた。
しかし彼のその表情を目にした瞬間、ああ自分の身に起こったことなのかとようやく理解することが出来た。
それからヴィクトルの家に来たら良いという誘いをやっとの思いで断り、越してきたばかりのワンルームのアパートに到着したのは夜の八時過ぎのことであった。
「はー……つかれた」
ほんの数時間の間に、次から次へとショッキングな出来事が起きたせいだろうか。体力には自信がある方なのに、今日はさすがに限界だとすぐにベッドの上に横になって目を閉じる。
すると脳裏に、リンクメイトとの小競り合いと、階段から落下した時の映像が、まるで走馬燈のように思い浮かぶのだ。
それにハッとして目を開け、ため息を吐きながらやっちゃったなあとぼやいた。
「グランプリシリーズ、棄権か」
あと少しで、ヴィクトルとあの舞台で再び戦えると思ったのに。これでしばらくの間はお預けだ。
ただその一方で、この状況に安堵感を覚えている自分も心の隅っこにひっそりといるのである。
そのせいか、今の状況にひどくショックを覚えているはずなのに、涙が溢れてくることはなかった。
「白状というか、無責任というか……最悪だよな、こんなこと考えてるなんて」
ヴィクトルを初めとして、これまでお世話になってきたヤコフなどのコーチ陣やユリオなどのリンクメイト。それに何より、ロシアでの滞在費などを何も言わずに出してくれている家族など、多くの人に迷惑をかけているというのに。
怪我をして良かったと、少しでも思っている身勝手さが嫌で嫌でたまらない。
でもその言葉も、結局は心の表層を撫でているだけの形式的な言葉だということは、自分自身のことなのでよく分かるのが辛かった。
「なんか……疲れたな」
あのニュース記事がいつまでも脳裏にこびりついているのと、リンクメイトと上手くいっていないせいもあり、無意識に人の目ばかり気にしているせいか。ここのところは身体がすっかりと硬くなってしまい、滑りも演技もいまいちで。おかげでずっと義務感で滑っているような感じだった。
なんというか、氷上にいてもちっとも楽しくないのだ。
ただこんなことはヴィクトルに出会ってから初めてのことだったので、ひどく戸惑いを覚えたのは言うまでもない。
ずっとずっと憧れていたヴィクトルにコーチをしてもらい、さらに現役復帰までしてもらっているという夢のような状況なのに、有り得ないだろう。
だからその事実をどうしても認めたくなくて、あえて気付かないフリをしてきたのに。
しかしケガをしてしまったのをきっかけに、心の奥底にしまい込んでいた本音を、こうして掘り起こしてしまったのが不味かった。
その言葉をきっかけに、ギリギリのところで心の均衡を保っていた、支えのような物が外れてしまったのか。
頭の中で何かがガラガラと大きく崩壊を始め、それまで必死に守ってきた気力と自信と誇りと、そして何よりもフィギュアスケートが好きという気持ちが、根元からバッキリと折れていくような気がした。
そしてそこで頬をひやりとした物が伝う感覚が走ったのに、指先を這わせ――それから再び眼前に手を持ってくると、そこが濡れている様子をどこか他人事のようにただただじっと見つめた。
そして足を負傷した数日後、結局勇利は日本へ戻ることになった。
理由は単純に、日本の医療機関でも精密検査を受けた方が良いだろうと日本のスケート連盟から助言を受けたからだ。
無論勇利はそれに反対意見などあるはずもなく。というか、その時は脳裏にフィギュアスケートのことを思い浮かべるだけでも息苦しさを覚えるようになっていたのもあり、むしろ救いの言葉に思えたというのが本音だ。
そんな調子で自分のことに一杯一杯だったのもあり、飛行場まで見送りに来てくれたヴィクトルが、どんな表情を浮かべていたのかも全く覚えていない。
そしてそのことにすら、勇利は気付かなかった。
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