アイル

ロシアの英雄と東洋人の醜聞-6

「勇利お帰り。お医者さん、足どうだって?」
「ロシアの病院で言われたのと同じだったよ。中足骨とかいう足の甲あたりの骨の骨折だって。小指の方じゃないのと、ヒビだから早ければ一ヶ月程度で普段通りになるんじゃないかって」
「そう、一ヶ月なの。ならその間、温泉にでも入ってゆっくり休んだらよか。今までずっと練習練習で、疲れたやろ」
「うん……そうだね、しばらくゆっくりするよ」
 というか正直なところ、先のことなんてまるで考えられないというのが本音だ。
 ほんの数か月ほど前の夏頃までは、世界選手権五連覇という目標がはっきりと見えていたのに。今は目の前が真っ暗になって何も見えない。
 でもすべては、ヴィクトルの足を削った代償のようにその時は感じていた。


■ ■ ■


「勇利ー、グランプリシリーズやってるけど見ないの? あんたのコーチのヴィクトル、このあと出てくるってよ」
 そう姉の真利から声をかけられたのは、日本に戻ってきてから三週間ほど経過した十月下旬のこと。いつものように夕食を終え、自分の食器類を台所で片付けていた時のことであった。
 ただこの大会は初めての師弟直接対決になるはずだったので、言われるまでもなくその日時をしっかりと覚えていた。
 ただなかなか直接見る勇気が出ないのに、返事すらも出来ずにどうしようと流し台の前に棒立ちの格好で佇んでいると、声が聞こえていないと思ったのか。
 台所の扉の影から姉の顔が覗き、早く来なよと再度催促されてしまっては……結局逃げることも出来ず。口内に苦い物が広がるのを感じながらも、居間のローテーブルの前に腰掛ける。
 それから渋々とテレビ画面に視線を向けると、ナショナルジャージを身に着けたヴィクトルの姿が映っていた。
 彼が普段まとっているどこか甘くて柔らかな空気は、すっかりとなりを潜めている。
 その代わりに瞳の奥には闘志の青い炎が揺らめいており、テレビ越しに目が合った瞬間に何もかも見透かされたような気がしたのに肩を大きく揺らした。
「ごめん。僕、やっぱりいいや」
「え?」
 姉は、勇利が幼い頃からヴィクトルに憧れてきたことを知っている。だからまさかそんなことを言い出すなんて、夢にも思っていなかったのだろう。
 驚いた様子で振り向くものの、その直後にテレビのスピーカーからとんでもない大歓声が聞こえてきたので、そちらに興味を惹かれたのか。相変わらずすごい人気だねと独り言を漏らしながら、再びテレビ画面へ視線を向ける。
 一方で勇利にとってその大歓声は、日本まで逃げ帰ったことを責める声のように聞こえ、さらに追いつめられるのを感じた。
 したがってついに顔を俯けると、逃げるようにして二階へ上がる。
 そして自室へ引きこもり、ベッドの上に寝転びながら顔の上に両腕を乗せた。
「はあ……こんな状態で、リンクに戻れるはず無いよなぁ」
 ケガした足だが、実は数日前にギプスが取れている。そしてその際、医者から氷上で軽く滑るくらいならもう問題無いという言葉をもらったのだ。
 さらに完治するまで定期的に病院で検診を受けるのであれば、ロシアでの練習もオーケーという許可まで出ている。
 しかしとてもではないが、練習を再開しようという気分になれそうもなかった。だってそれはつまり、ヴィクトルの足に再び負担をかけるということになりかねないのだ。
 それもあってか。最近ではスケートのことを考えるだけでもひどく苦しい。
「あんなに好きだったのに、どうしてこんなことになっちゃったんだろう」
 年齢も年齢だし、そろそろ潮時ってことなのかなと続けた言葉は、その時は決して本心だった訳ではないと思う。
 ただいつの間にか心に巣食っていた投げやりな気持ちが、いっそそれでいいじゃないかとそそのかしているのをはっきりと感じた。
 その呟きは、思いがけず自身の脳裏に鋭い爪痕を残しつつ、冬の気配を感じる冷たい空気の中に霧散していった。

戻る