アイル

ロシアの英雄と東洋人の醜聞-7

『ハロー、勇利。左足のギプスが少し前に取れたから、そろそろ通常の練習を開始する予定だってニュースで見たんだけど、それって本当?』
 そんな電話がヴィクトルからかかってきたのは、グランプリシリーズの初戦を終えた翌日の夜のことであった。
 ちなみに日本に帰国してからというもの、勇利にはヴィクトルから数日おきに連絡があった。
 それに最初はひどくビクついていたものの、毎回近況を聞くだけの他愛の無い会話だったのもあり、ここのところはすっかりと油断していたのだが――ここでまさかの不意打ちである。
 しかも今一番痛いところを突かれたのもあり、咄嗟に誤魔化し損ねて動揺して口ごもってしまったのが不味かった。そんないかにもな反応で、ヴィクトルは確信を得たのか。
 やっぱり本当だったんだと口にすると、不満げな様子で鼻を鳴らしてみせた。
「俺は勇利のコーチだよね。なのに何故今の状況を教えてくれなかったの?」
「あーっと……その、グランプリシリーズの真っ最中で集中してるところだろうし、余計なことで気を散らすのも悪いかなって」
 もちろんそれも本当だ。だからこそ、スラスラとそれらしい言葉が口から紡がれる。
 でも半分は嘘で、そのもう半分の理由はもう予想がついているかもしれないが、ロシアに……もっというとヴィクトルの元に、今は戻りたくないからだった。
 ただそんなこと、本人に直接言えるはずも無いだろう。
 したがってごめんなさいと先の言葉の最後に小さく呟いてから顔を俯けると、そっかとただ一言返された。
 その声音は一点の曇りも無く澄んだもので。そのせいか何もかも見透かされているように感じてしまい、焦燥感と罪悪感に苛まれるのは嘘ばかりついているせいだろう。
 そんな勇利の心境にどこまで気付いているのか。定かではないが、ヴィクトルは小さく息を吐き、何も言われない方がこたえるんだと口にした。
「だから……今度から、何かあったら、一言でいいから教えて欲しいんだ」
 その時、分かったという言葉の代わりに、もうフィギュアスケートそのものが駄目なんだと思わず口走りそうになる。
 しかしヴィクトルはスケートのことを心の底から愛しているのが、その滑りからよく分かる。そんな相手に、どうしてそんなことを言えるだろうか。
 したがってグッとその衝動をおさえこむと、そうだねと苦し紛れに言葉を濁らせ、その日は電話を切った。


■ ■ ■


 そんな電話があった日を境に、ヴィクトルからの連絡がパッタリと途絶えたのに、ホッとしつつもどうしたんだろうとやきもきとしていた十一月の初旬。
 その日も勇利は家族の目から逃げるように昼頃に起きると、まずは洗面を済ませる。そして誰もいない台所をこそこそと漁って白米を茶碗によそうと、その上に冷蔵庫に常備されている生卵を乗せ、さらに醤油を少々垂らせば、手抜き朝食兼昼食の完成だ。
 とはいえこれでも一応は現役のアスリートなので、はっきりいってお世辞にもほめられた食事内容では無い。
 でも今はそれを咎める人物はいないのだ。それに何もかもがどうでも良くなっていたのもあり、卵かけご飯を居間でテレビを見ながら、機械的に口の中へ詰め込むというのがここ最近の日課になっていた。
 そして今日も今日とて、ぼんやりとテレビを眺めながら卵の絡まった米を口の中へ放り込んでいると、天気予報士の男性が、今日は一段と冷え込むために通勤時にはマフラーやコートが必要だろうと熱心な口調で話しているのが耳に飛び込んできた。
「へー、まだ十一月頭なのにもうコートか」
 なんでもこの時期にしては珍しく真冬並みの寒気が上空に流れこんでいるらしく、その影響で気温が例年よりもかなり低いらしい。
 しかし日課の朝晩のランニングもすっかりとご無沙汰なので、勇利にはまるで関係無い話しなのである。
 長年のクセでつい反応してしまったが、そういえばそうだったとそこではたと気付くと、茶碗の中にほんの少しだけ残っていたご飯を一気にかきこむ。
 それから食器類と歯磨きを手早く済ませ、再び逃げるように自室へと引きこもった。

「勇利ー、あんたにお客さんだよー」
 そんな姉の声が階下から聞こえてきたのは、暇つぶしにベッドに寝転がりながらスマートフォンのパズルゲームをしていた時のことである。
 そこで何気なく画面上部に表示されている時計を確認すると午後三時過ぎで、起きてからまだ数時間ほどしか経っていなかったのに大きく肩を落としながら顔を上げた。
「僕にお客さん?」
 事前に会いたいという連絡は無かったので、飛び入りでやって来た誰かだろう。となると対象人物はかなり絞られ、可能性があるのはミナコ先生と……あとは優ちゃんか西郡だ。
 ただいずれもフィギュアスケートに関わる人物で、お見舞い、なんて称して今回のケガのことを聞かれるのはほぼ間違いない。
 したがって正直なところ人と会うのはかなり気が進まなかったが、今さら居留守を使うのも大人げが無さすぎだろう。
 そこで諦めて大きくため息を吐くと、ベッドからのろのろと立ち上がった。
 そして渡り廊下からゆ~とぴあかつきへと向かい、事務所の影からおずおずと顔を出すとまさかの。そこに絶対いるはずの無い、自身のコーチであるヴィクトルの姿があったのに、目を大きく見開きながら数歩後ずさった。
「やあ勇利、久しぶり。電話ではそこそこ話していたけど、こうやって直接会うのは一ヶ月ぶりくらいかな。元気にしてた?」
「えっ? えっ? なんで、ヴィクトルがここにっ」
 だって彼は、十一月の中頃に日本であるグランプリシリーズ第四戦に向け、サンクトペテルブルクで最終調整の真っ最中のはずなのである。
 それがどうして日本の長谷津なんて場所にいるのか、さっぱり訳が分からないのも無理は無いだろう。
 ついに白昼夢でも見るようになったのかと目元を手の甲で擦っていると、その手首を掴まれる。それから騒ぎを聞きつけて厨房から顔を出した母親に、彼は軽く手を振ってみせた。
「勇利、かりるね」
「あらあら、誰かと思ったらヴィッちゃん! 勇利ばよろしゅうね」
「まかせてー!」
 母親の話す日本語を、ヴィクトルがどこまでちゃんと理解しているのかは相変わらず謎だ。しかしそれらしい答えを片言の日本語で返しながら、半ば引っ張るような形で玄関の外へと連れ出されてしまう。
 そして冷たい外気が頬を撫でたところで勇利はようやく事態を把握すると、その場に踏ん張ってそれ以上敷地の外に出るまいと抵抗を試みた。
 しかしかれこれ一ヶ月以上トレーニングを怠っており、さらに足の方も病み上がりで未だ思いきり力をこめるのが怖い状態の勇利が、本気のヴィクトルにかなうはずもないだろう。
 というわけで腰に手を回されてあっという間に抵抗を無力化されたせいで、半強制的に先に進むしかなくなる。
 そうして引きずるようにしてトレーニングの際によく利用していた長谷津城まで連れて行かれる様子は、まるで散歩途中に抵抗を示している犬のようであった。

 そして揉めていたのもあって、普段よりも倍近く時間がかかって長谷津城のベンチのある場所に到着する頃には、さすがの勇利も観念して大人しくなっていた。
 しかし半ば無理矢理に外に引っ張り出されたのが極めて不本意だったのもあり、ヴィクトルの腰掛けている場所からあからさまに離れて座っていたのはご愛敬である。
「はー、やっぱりこっちは暖かいね」
「僕は寒いです」
「ああ、気付かなくてごめん。俺のコートとマフラー、良ければ使って。このくらいの気温なら、俺はジャケットがあれば十分だから」
「えっ、でも」
 別にそういうつもりで口にしたわけでは無かったので、思わず呆気に取られてしまう。
 しかしヴィクトル曰く、サンクトペテルブルクの現在の気温は、昼間でも0度前後なのだそうだ。というわけで、寒いと言っても何だかんだと昼間の気温が十度前後はあるこちらの気温は、感覚的にはまだまだ冬には遠いらしい。
 そしてその言葉が嘘でないことを証明するように、コートやマフラーといった防寒具の類は、先ほどから身に着けることなくずっと手に持っているのだ。
 したがって少しの間考えた後、言われた通りにそれらをありがたく受け取り、身に着けさせてもらうことにした。
 彼のコートとマフラーはふわふわで軽くて、恐らく上質のカシミヤとかいう素材のものに違いない。それを部屋着のジャージの上から着ていることを思うと、なんだか妙に笑えてしまう。
 つくづく、生きる世界や、感覚の違いというものが浮き彫りにされているような気がした。

「――さて、前置きはこのくらいにして、と。俺が何のためにここに来たのか薄々勘付いているだろうから、最初から本題にいくけど。まずは左足の調子はどう?」
 そう切り出されたのは、勇利がぼんやりと借りたコートの余った袖部分を眺めていた時のことである。
 そして彼の言葉につられて顔を上げると、思いがけず顔を真正面から見合わせる形になってしまう。その表情は常と変わらず柔らかなものであったが、視線は鋭く、電話の時のように逃げられそうにないと本能的に悟った。
「調子は……まあ、ぼちぼちかな。足の方は予定通りギプスも取れたし、痛みも無いよ。ただかれこれ一ヶ月くらいろくに動かしてなかったせいか、違和感が未だに抜けないけど」
「そう、なら良かった。違和感の方は、しばらくの間は仕方ないね。それで、トレーニングはどんな感じで進めているの?」
「あー……」
 ついに痛いところを突かれたという感じだ。
 しかしやっていないものはやっていないし、それにもうどうにでもなれというどこか投げやりな気持ちも今はかなり大きくなっていた。そこで少し間を置いてから、小さく首を横に振る。
 するとそれを目にしたヴィクトルは、不思議そうな表情を浮かべながらどういうことと疑問の言葉を口にした。
「そんなに足の違和感が大きい? それなら病院でもう一度精密検査をちゃんとしてもらった方が――」
「そういうんじゃないよ。全然、そういうんじゃない。ただ単純に、気が乗らないだけ」
「あんなに暇さえあれば練習してた勇利が、意外だな。動けない日が長く続いちゃったから、休み癖がついちゃった?」
「休み癖か……うん、そういうのもあるかもしれない。今まで毎日練習してきたのに、足の怪我のせいで一気に駄目になっちゃったからなあ。それを思うと、なんだか……疲れちゃって。まるでやる気が出ないんだ」
 そういうのってない? と呟くように口にしながら乾いた笑いを零す姿を、ヴィクトルは何も言わずにただただ見つめている。その瞳はどこまでも澄み渡っており、今の自分の濁りきった瞳にはひどくこたえる。
 そして最後には耐えきれず、勇利から視線をふいとそらした。
「ここのところ、滑っててもちっとも楽しくなかったから。だから少しだけ、休もうと思って」
 そう口にしたのは、ヴィクトルの視線に怖じ気づいてつい漏らしてしまった本音だ。
 そしてそれを聞いたヴィクトルは少し驚いた様子で小さく肩を揺らし、今シーズンは休養するということかとたずねてきたのに、勇利は思わず俯けていた顔を上げた。
「それは――」
 その言葉は、勇利が考えていたよりもはるかに踏み込んだものであった。でもよくよく考えてみると、とても良い案にも思えてくる。
 だってそうしたら、彼は勇利のために無駄にジャンプを跳ぶ必要も無くなるので、足の不調も良い方向へ向かうに違いない。それにこうやってコーチとして勇利の世話を焼く必要も無くなるので、彼は自身の練習に集中することが出来るのだ。
 なるほど。考えれば考えるほど、良いことずくめである。したがって気付いた時には、コクリと小さく頷いていた。
「……うん。休養、するよ」
 そう言葉にすると、実感がじわじわと湧いてくる。
 しかしそれと同時に、急激に喪失感と寂寥感のようなものがこみ上げてくるのを感じ、無意識に指先で右手の指輪をくるくると回すようにして弄り――それをきっかけに、休養するとなるとこの指輪も不要になるということに気付いて小さく声を漏らした。
「ああ……そういえば。しばらくスケートを休むとなると、この指輪もいらなくなるのか」
 もともとお守り的な意味合いで身に着けていたものなので、その目的が無くなると不要な物だろう。
 何より男の自分がいつまでもはめたままでいるのは気持ち悪いかなと思ったので、その場で指からするりと抜き取ってしまう。
 すると胸の真ん中にぽっかりと穴が空いたかのような奇妙な感覚が広がったが、それに気付かないふりをしてズボンのポケットに外した指輪をねじこむ。
 それからヴィクトルも外してくれて構わないからと、なんてこと無いふりを装って口にした。
「俺は外さないよ。はめたままでいる」
「えっ? でも」
 この指輪を渡した当初は、大会前で気持ちが高ぶっていたのもあり、その意味をさして深く考えることは無かった。
 でも一段落したところでよくよく考えてみると、男同士でペアリングはちょっと普通じゃないということにすぐに気付いた。だからきっとヴィクトルもこれをいきなり渡された時は、ひどく驚いて困ったに違いない。
 それでも今まで何を言わずに身に着けてくれて。それだけで感謝の気持ちで一杯だから、もう気を使わなくても大丈夫だからと言おうとしたのだが。
 そこでヴィクトルが不意に右手を眼前にかざしたために、その言葉が声となって紡がれることは無かった。
「勇利はさ、この指輪をくれた時におまじないって言っていただろう? だから今度は、俺がそのおまじないに助けてもらいたいと思って」
「ヴィクトルが?」
 でも今までの彼の成績は、こんな物が無くても輝かしいものなので、にわかには信じられない。
 そう思ったのもありまじまじと顔を見てしまったせいで、考えていることがバレてしまったのだろう。
 彼は不服そうな表情を浮かべながら肩を竦め、一年のブランクがあるって忘れたのと口にしたのに、そっかと答えた。
「うん、そう。俺は滑るよ、この指輪をはめてね」
 嬉しいような、切ないような、奇妙な気持ちだ。
 でもそんな言葉を聞いてもなお、自分が指輪をはめ直す気には到底なれなかった。
 そんな風にして空気を読めない自分のことを、ヴィクトルはひどく白状な男だと思ったに違いない。



 それから二人は、少しだけ前後に距離をおきながら歩いて実家まで帰る。
 そしてヴィクトルは、今も彼が突然日本にやって来た時のままになっている二階の元宴会場に一泊だけし、翌日早朝にはロシアへと戻って行った。
 彼のその動きから、本当に忙しい合間を縫ってここまでやって来てくれたのだということがよく分かる。
 それを思うとただただ申し訳ない。この調子だと、コーチ契約の件も来シーズン以降は分からないなとふと思った。
「いや、それ以前に来シーズンも僕はスケートやってるのかなあ……」
 また滑りたいと思える日が来るなんて、今は到底思えないのに脳裏に引退という単語がチラついた。

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