アイル

ロシアの英雄と東洋人の醜聞-8

 ヴィクトルがロシアへ帰国後。勇利は自分で連盟の方へ連絡をし、今シーズンは休養をしたいと申し出た。
 もちろん理由をあれやこれやと聞かれたのは言うまでもない。
 でもヴィクトルの足の件や、スケートが楽しくないということを言っても、所詮それは己の我が儘にすぎず、理由になるはずもない。
 したがって良心は痛んだものの、怪我をした左足の違和感がまだ残っているからと、それらしい理由を口にしてお茶を濁した。
 そしてそれでひとまず一段落と思いきや。
 しばらくして再び連盟から連絡が来るようになると、そちらの方面に強いトレーナーを紹介しようかから始まり、ロシアのコーチの元に行った方がいいのではとか、あれやこれやと突っ込みを入れられる。
 しかしどの提案にも気が抜けた返事をしていたので、これではいつまで経っても埒があかないと思ったのか。コーチであるヴィクトルに連絡を取ると言われ、その日を境に連盟からは事務的な連絡しか来なくなった。

 そんな調子で合間合間に連盟とのやりとりを挟みつつも、相変わらずの自堕落な生活を数週間ほど過ごしているうちに季節はあっという間に通り過ぎていって。
 気付いた時にはグランプリシリーズの第六戦まで終え、残りは十二月初旬開催のファイナルを残すのみとなった十一月最後の週。
 勇利は夕飯時に二階から一階の台所に降りていくと、親が作り置きしておいてくれた夕飯を取り上げる。そして先に夕飯を食べ終え、居間でテレビのニュース番組を見ながらお茶をすすっていた姉の横に腰掛けて自分も食事を始めた。
 ちなみにこうしたニュース番組の合間に挟まれるスポーツコーナーでは、当然現在開催中のグランプリシリーズ関連の話しを取り上げられることが多い。したがってここ最近の勇利は、スポーツコーナーが終わった時間を見計らって階下に下りてきていた。
 しかし今日は何かしらの理由で、いつもと放送内容が異なっていたのか。不意打ちでスポーツコーナーが開始したのに、口元を思わずひくつかせる。
 さらにはそれだけでなく、こんな時に限って冒頭から自分の休養に関するニュースを読み上げられ、挙げ句の果てには去年のグランプリファイナルのフリーの映像まで流されたからたまったものではない。
 そこで耐えきれずにゲホゲホと大きくむせてしまうと、斜め横に座っていた姉に胡乱な表情を向けられた。
「何やってんのよあんた」
「げほっ、ご、ごめ。いきなりだったから、驚いちゃって」
「この時期になると、毎年の恒例行事でしょうが」
「確かに真利姉ちゃんにとってはそうかもしれないけどさ……」
 そもそも僕はシーズン中はほとんど日本にいないんですけどとげっそりとした顔で口にすると、姉は今さらそれに気付いたといった様子で、あーと間の抜けた返事をした。
 そうこうしている間に演技映像が終わると、画面がスタジオに切り替わる。
 そしてスポーツコーナー担当のキャスターの人が、初めての大きな怪我なので心配ですねとか、きちんと直してまた素晴らしい演技を見せて欲しいですねとか、無難なコメントでまとめ上げたところで、別のニュースへと切り替わっていった。
「へえ。今回はずいぶん長い間家にいるから、どうするんだろうとは思ってたけど。結局休養するんだ」
「あ……うん。お母さんには言ってたんだけど、真理姉ちゃんに言うのうっかり忘れててごめん。まあ今回は足の骨折だから、ちょっと心配で。もう少し様子をみた方がいいかなと。
 えと、そういうわけでしばらく時間があるから、ぼちぼち家のこととか手伝おうかなーって……」
 そう最後に口にしたのは、実家に戻ってきてからというもの、自分のことに一杯一杯になっているのをいいことに、随分と長い間勝手気ままに過ごしていたのに今さらのように気付いたからだ。
 だからせめてもの罪滅ぼしと、慌てて手伝いの申し出をしたのだが。姉はそんな取って付けたような申し出なんて不要だと言わんばかりに、肩を竦めながらいきなり何言ってんのと即座に突っ込みを入れてきた。
「あんたの頭の中がスケートのことで一杯なのは、今に始まったことじゃないでしょ。そんな心配しなくても、何かやって欲しいことがあったら言うし。
 だからさ、しっかり考えなよ。いくつか選択肢はあると思うけど、あんたがちゃんと考えて出した結果なら、それがベストだって私は思うよ。お母さんもお父さんも、きっとそれは同じ。だって家族なんだから。結局さ、あんたが楽しいって思えるなら何だっていいんだよ」
 普段の姉は、口数が少ないくせに。こういう時に限って多弁で、しかも核心を突いてくるのだ。
 それが不意打ちだったのもあり、咄嗟に取り繕えなくて。分かったと当たり障りなく口にしようとした言葉は、結局声にならずにみっともなく空気を小さく震わせただけだった。
 正直、恥ずかしい。でも姉の優しさが乾ききってカサカサになった心にジワリと染みこんでいき、ギリギリのところで少しだけ救われたような気がした。
「ところで話しは変わるんだけど。あんたさ、そろそろちょっとでも走るとかした方がいいんじゃないの」
「へっ」
「なんか、帰ってきた時に比べると太ってきた気がするんだけど」
 いきなりの言葉に少々驚くものの、自覚はなきにしもあらずだったのもあり、目の奥あたりに感じていた熱いものが、あっという間にスーッと引いていく。
 そして手の平で恐る恐る腹周りの肉をさすりながら、そういえば最近体重計に乗っていないなと冷や汗を垂らした。

 それから夕食の食器類を片付けた後、お客さんが少ない時間帯を見計らって店の方へ向かうと、久しぶりに温泉へ入らせてもらうことにする。
 もちろんその理由が、直前に姉から太ったと言われたせいなのは言うまでもなく。ぱっぱっと服を脱ぎ捨てて脱衣場の隅に置かれている体重計の上に恐る恐る乗ってみると、体重が数キロほど増えていたのにため息を吐いた。
「嫌な予感は薄々してたけど、やっぱり増えたか」
 常ならば、今のような強いストレス下に置かれると自分はまずヤケ食いに走る。でも今回は、そんな気力も湧かなかったのもあり、朝食と昼食が合体することで一食減っている状態だった。
 だからもしかしてと淡い期待を抱いたのだが。よくよく考えてみると、一日中ろくに動かずにゴロゴロとしており、さらに合間合間に菓子類をつまんでいたので、当然の結果かもしれない。
「でもまあ、思ったよりはマシだったかな」
 ただ数値以上に肉付きが良くなった気がするのに、鏡に映っている己の身体を眺める。さらに腹周りに微妙に付いている贅肉を、ほんの少し前まで筋肉だったはずなんだけどなとぶつぶつと呟きながら指先で挟む。
 そこで脂肪は筋肉よりも軽いことをふと思い出すと、だから以前よりも太って見えるのかもしれないなとぼやいた。
「はあ……明日からちょっと走ろうかなあ」
 もともと自分の容姿にまるで頓着する方では無いとはいえ、直前にテレビでベストな状態の時の自分の姿を見てしまったのもあり少々気になる。
 それにスマホのゲームにもいい加減飽きてきたところなので、いいタイミングかもしれない。
 そこで気合いを入れるように両頬を叩くと、軽快な音が辺りに響く。
 それをきっかけにそれまでだらけきっていた気持ちが、少しだけ引き締まるような気がした。

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