アイル

ロシアの英雄と東洋人の醜聞-9

 鏡で自分のだらしない身体を目の当たりにした翌日の早朝。勇利はいつものようにきっちりと練習着のジャージに着替える。すると自然に頭の中でカチリとスイッチが入り、完全にダイエットモードに切り替わるから不思議なものだ。
 そして最初は走りやすい道から。ということで家からアイスキャッスルはせつまでの道のりを、軽く走ってみることにしてみたのだが、案の定と言うべきか。リンクに到着した頃には、息が切れるどころかへとへと状態になってしまう。
 おかげでろくに立っていることすらも出来ずに、入り口の階段前の地面にベッタリと座り込んでしまった。
「はぁ……はぁっ…………ぁあ(゛)ー~~……ほんと、キッツイ。吐きそうだよ、もー……これが分かってるのに、どうしてこう毎回毎回同じことを繰り返しちゃうかなあ」
 相変わらず学習能力が無いのに、自己嫌悪の嵐だ。
 でもこのきついダイエットを終えると、今まで散々悩んでいたことがいつの間にかどうでも良くなり、心も身体も嘘みたいに軽くなるのである。
 特に二年前にヴィクトルの元でダイエットをしていた時は、滑ることを禁止されていたせいか。数週間ぶりに氷上に一歩足を踏み出した時の多幸感は今でも忘れられない。
「――そう、なんだけど」
 しかしそうしてスケートのことを思い出した瞬間、もやもやとしたものがこみ上げてきたのに眉をかすかに寄せる。
 それから気を紛らわせるように立ち上がり、きついのを承知で再びノロノロと走り始めた。
 今はまだ、何も考えたくなかった。


■ ■ ■


「あっ! 勇利くん久しぶり。元気してた?」
 唐突にそう声をかけられたのは、ここのところの朝夕の日課であるアイスキャッスルはせつまでのランニングをしている時のことであった。
 まさか施設の外まで優ちゃんや西郡などの顔見知りが出てくることは無いだろうと思っていたので、完全に油断していたとしか言いようが無い。したがって思わず大きく肩をビクつかせてしまうものの、このまま無視をするわけにもいかないだろう。
 そこで諦めておずおずと声のする方へ顔を向けると、階段の上に笑顔を浮かべた優ちゃんが手を振っていた。
「ああ……優ちゃん。久しぶり」
「ちゃんと話すの、春のアイスショーぶりかな。怪我したって聞いて心配してたんだけど、トレーニング始めてるみたいで良かった。滑りに来たんでしょ? 入って入って」
「えっ! あっ、ちょっ、待っ――」
 もちろんそのつもりは全く無かったので、待ってくれと口にしようとする。しかしその前に彼女は身を翻し、さっさと建物の中へ入っていってしまうのだ。
 それに呻き声を漏らしながら顔を覆い、大きな大きなため息を吐く。そして渋々と目の前の階段を上り、優子の背を追いかけるのであった。

「さっきまでうちの子たちもここにいたんだけど、なんか今日は早く帰るって言いだしたから豪に家まで送ってもらってるのよ。勇利くんがリンクに来たって聞いたら、残念がるだろうなあ」
「あ、ああ、そっか。もう遅いしね。
 ――あの、それでさ。わざわざ声かけてもらったのに悪いんだけど。実はその、今日は滑りに来たってわけじゃなくて、ランニング中に通りがかっただけなんだ。だから自分のスケート靴とか持ってきてなくて」
「やだ、そうだったの?」
 早とちりしちゃってごめんと謝られたのに、慌てて首を振る。
 それからまあそういうことだからと、誤魔化しの言葉を口にしつつその場を後にしようとしたのだが。優子はそこで勇利に背中を向け、貸し靴の置いてある棚の前を行ったり来たりし始めるのだ。
 それに嫌な予感がすると思ったら。しばらくして目の前にやや使い込まれた感じのある白い貸し靴を差し出されたせいで、結局その場から逃げ損ねてしまうのであった。
「その靴が一番良い状態のやつだと思うから、良ければ使って」
「あ、うん。ありがとう。貸し靴か」
 スケート教室に通うようになってからはずっと自分の靴を履いているので、こうして実際に手に取るのはかれこれ十数年ぶりくらいだろうか。物珍しいのもあって思わずしげしげと眺めてしまう。
 そして何だかんだと言いつつも興味を惹かれたのもあり、自らの足でリンクまで向かうのであった。

「靴、どう? 履けそう? 足痛めちゃったら大変だし、合わなかったら無理しないで」
「まあ少し滑るくらいなら……大丈夫かな」
 色々な人が履いているせいか。おかしな癖が付いている感じがあるし、ブレードの位置も自分のものとはまるで違う。それになにより、靴自体が重たい。だからお世辞にも、足に合っていると言えないのは確かだ。
 ただそれと同時に、妙に懐かしさと高揚感を覚えるのは何故だろうとしばし考え――幼い頃、初めてスケート靴を履いた時のことをふと思い出し、小さく苦笑を漏らした。
「勇利くんどうかした?」
「いや。初めて滑った時のこと、思い出して」
 スケートリンクに向かうと、大抵数人くらいは上手い人がいて、格好良くスピンとかジャンプとかしているのはちょくちょく目にする光景だろう。そして勇利が初めてリンクに向かった時もそうだった。
 数人のグループがリンクの中央で慣れた様子で滑っており、しかも彼らは勇利と年の近い小学生前後の子どもたちだったのだ。
 それに競争心を刺激されたのもあり、それなら僕もと貸し靴を履かせてもらってから、意気揚々と氷上に繰り出したのだが。まあ最初から上手く滑れるはずもないだろう。
 というわけでフェンスの出入り口付近で早速派手に転んで尻餅をついたのは言うまでもない。
 するとグループの中から女の子と男の子が近付いてきて。二人は座りこんでいる勇利の目の前にピタリと止まると、女の子の方が手を差し出してくれたのだ。そしてそれが優ちゃんだったというわけだ。
 ただそれがあまりにも突然のことだったのもあって口をポカンと開けて呆けていると、彼女の脇に立っていた男の子にのろまとド直球の言葉をかけられ、それを口にした少年が西郡だった。
「ああ、あの時の。懐かしいな……勇利くん、まだまだ私よりも全然小さくてかわいかった。それとあの頃は私の方がスケート上手かったから、ちょっと威張れた」
「ははっ。うん、そうだった。優ちゃんも西郡もすごくうまくて、羨ましかった」
 それで早く二人に追いつこうと、一生懸命練習したのだ。そしてちょっとしたことでも出来るようになると嬉しくてたまらないのに、よく二人に自慢していたのである。
 いつの間にかすっかりと忘れてしまっていたが、そういえばそんな時もあったなと思う。
 一つ一つの思い出が、ちょっぴりむず痒くて、でもキラキラしていて。甘い甘い砂糖菓子みたいだ。
 それから気付いた時にはその時の記憶をなぞるように氷上に滑り出し、スケートをはじめたての頃に習ったことを一通りさらっていた。
「さすが、弘法筆を選ばず。貸し靴でも見事なスケーティング」
「優ちゃんも出来るでしょ」
 何言ってるのと返すと、彼女はフェンスに寄りかかりながら軽快な笑い声を上げる。そしてそれにつられるように、気付いた時には勇利も笑っていた。
 何のしがらみもなく滑るのは、純粋に楽しくて。それを思い出せたのが嬉しくて嬉しくて、ちょっぴり泣けてしまった。



 それから優ちゃんは西郡が車で迎えに来ると言うので、アイスキャッスルはせつで別れる。そして勇利は家まで、いつものようにランニングで戻った。
「ただいまー……」
「ああ、勇利。おかえり。今日はゆっくりやったね」
「うん、ちょっと」
 久しぶりの氷の感触に、自分でも気付かぬうちに気分が高揚していたのか。今日はリンクで滑ってきたんだと口が滑りかける。
 しかし幸か不幸か、そこで食事処からミナコ先生の顔がひょこりと覗くのだ。
 それから恐らくはビールが入っていると思われるグラスを持った手で、手招きをされたのにゲッと声を漏らした。
「あっ! 勇利、今ゲッって言ったでしょ」
「いやぁ~……気のせいです」
 それじゃあ夜も遅いんでと適当な理由を口にし、さっさと自室まで退散しようとしたのだが。
 彼女はドスドスと足音荒く玄関までやってくると、勇利が勢いに押されて呆気に取られているのをこれ幸いと、ニヤリと口角を上げながら手首をつかまえてくる。
 それから半ば引きずるような格好で、食事処の座席まで連行されてしまうのであった。
「会うの久しぶりね。左足怪我して休養っていうから、ずっと心配してたのよ? 電話してもちっとも出ないし。
 でもまあ、その様子だとトレーニングもぼちぼちしてるみたいだし、安心したわ。あと走ったり筋トレばっかりしてないで、そろそろこっちのスタジオにも顔出しなさいよ」
「ええ……?」
 明日待ってるからねと勝手に予定を入れられ、返答に困ってしまう。
 ただ満面の笑みを向けられると心配してくれていたんだなというのが分かって、それ以上は何も言えなかった。
 それもあって何となく自室に戻り辛いなと思いながら目線をふらふらと彷徨わせていると、店の客と思われる館内着を身に付けた初老の男性が二人のところまで近付いて来る。そしてミナコ先生にテレビのリモコンを手渡した。
「ほらよ、姉ちゃん。こっちの番組終わったから、チャンネル権戻すよ」
「あっ、どうも~」
「ちゃんねる権……?」
 勇利にとっては、何のことやらさっぱりだ。
 したがって首を傾げながら先の言葉を復唱すると、彼女は眼前にリモコンをかざしながら肩を竦めて。さっきこれをかけた勝負に負けちゃったのよと口にした。
「はあ、なるほど」
 曰くジャンケンで三本勝負をしたのだが、見事に全敗してしまったのだそうだ。
 そう言いながら全身で悔しさを表現している姿は、二十代の自分よりもよほど人生を楽しんでいるように見える。
 それから彼女は気分を切り替えるようにビールを一気にあおり、鼻歌交じりにテレビのチャンネルを変えた。
「おっ、やってるやってる。グランプリファイナルのフリー! ま、残念ながら途中だけど。私はライストでリアルタイムでチェック済みで、これも自宅で録画済み。勇利は見た?」
「あ、えっと……まだ、です」
「え~、そうなの? 珍しいじゃない。今回は特にあんたのコーチのヴィクトル、かっ飛ばしてたわよ。一年のブランクがあるなんて信じられないくらい――っと。ちょうどこれから滑るみたいだし、それ見た方が早いわね」
 その声につられて画面に視線を向けるものの、なんだか通しで見るのが怖いと感じるのは、脳裏に彼の足の怪我の件がチラついているせいだろう。
 そしてそれに気付いてしまうともう駄目だ。やっぱり後で見ますと適当な言い訳をしてその場を立ち去ろうとする。
 しかし横から伸びてきた手に腕をつかまれたせいで、それが叶うことは無かった。
「――勇利。スケートは、楽しい?」
 そう口にしたミナコ先生の瞳は鋭く、まるで何もかも見透かしているみたいで咄嗟にその手を振り払えない。それまでベロンベロンに酔っぱらっていた姿は、一体どこにいったのやらという感じだ。
 その真っ直ぐな視線に、これは逃げられないと本能的に悟ったせいだろうか。気付いた時には、まるで自分の気持ちを整理するかのように、ポツポツと今日あった出来事を話していた。
「今日さ、ランニングでアイスキャッスルに行ったら優子ちゃんに見つかっちゃって。それで久しぶりにリンクで滑ったんだ。でも自分の靴なんて持っていってないから、貸し靴を貸してもらったんだけど。
 そしたらさ、その靴が全然自分の足に合ってないし、重いし、すごい滑り辛くて」
「あんたタダで借りておいて、贅沢」
「ははっ、うん。ほんとそうだよね。
 でもさ、その感覚が嫌ってわけじゃないんだ。なんか、それをきっかけに初めてリンクに来てスケートした時のことを思い出したせいかな。ただ滑ってるだけなのに、楽しくて楽しくて……ああ、スケートって、そういえばこんなに楽しかったんだよなって」
 久しぶりに思い出せたのが嬉しかったんだと呟くように口にすると、握られていた手首にギュッと力をこめられる。そして良かったじゃないと笑顔を向けられた。
「私も勇利が楽しそうに滑ってるところ見るの、好きよ」
 そこでテレビから観客の大歓声が聞こえてきたのに顔を上げると、どうやらヴィクトルが氷上に出てきたところのようだ。
 彼がリンク中央でポーズを取ると、それまでの大歓声が嘘のように辺りが静寂に包まれる。それから曲が始まるのと同時に右手を伸ばされると、その薬指に金色の指輪がはめられたままだったのに胸がきゅっと締め付けられるような気がする。
 それに思わずズボンのポケットに手を突っ込み、そこにいつも入れている対の指輪の存在を確認するようにぐっと握りしめた。
「ああ……」
 彼のスケーティングは相変わらず美しく、さらに強烈に魅了される演技に本能を刺激され、胸をかきむしりたいような衝動に駆られる。そしてそれと同時に無性に滑りたいという思いが湧き上がり、何故自分はこんな場所にいるんだろうと思った。
 ただ自分が競技者として滑るということは、ヴィクトルの足を再び酷使させるということでもあるのだ。
 それを思うと、苦いものが胸の内にジワリと広がる感覚に視線を床の上に落とした。

 そうして一年のブランクなどまるで感じさせない滑りを披露したヴィクトルは、昨シーズンにユリオと勇利が出したショートとフリーの歴代最高得点をちゃっかりと塗り替える形で、シリーズ全勝優勝を飾った。
 ちなみに二位はユリオであったが、表彰台の上で苦虫を噛み潰したような表情を隠すことなく浮かべていたのは言うまでもないだろう。

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