アイル

ロシアの英雄と東洋人の醜聞-10

 結局勇利は中途半端な気持ちをズルズルと引きずりながら、全日本に出場せずに年を越す。そして世界選手権などの主だった大会にも全て参加せず、その代わりにアイスキャッスルはせつで一人もくもくと滑るのであった。

「勇利ー、今度のアイスショーの件でちょっと話しがあるんだが」
 そう西郡から声をかけられたのは、翌年の四月。いつものようにリンクで練習させてもらっている時のことであった。
 ただその言葉の中にアイスショーという単語があったので、嫌な予感しかしない。したがって勇利は胡乱な表情をありありと浮かべながら、西郡のことを遠巻きに眺めるだけにとどめた。
「あっ、おい。おまえ無視しやがって。心配しなくてもおまえにアイスショー出て欲しいとかじゃねえぞ」
「ええ……?」
 それじゃあ何だという感じだ。
 ただきちんと話しを聞くまでは引いてくれそうも無かったので、渋々と西郡の立っているフェンスまで近付いていった。
「それで、用件って?」
「おう、練習中に悪いな。実は今年もここでアイスショーを開くことになったんだが、宿の件で報告があって。参加メンバーのヴィクトルとユリオの宿泊場所だけ、おまえの実家で頼むわ」
「ええっ!? なっ、なんでっ」
「ヴィクトルの方から、去年と同じように今年もそうしてくれってメールが来たんだよ。ま、そんな嫌がることも無いだろ。おまえのコーチとリンクメイトじゃねーか」
「そりゃあ、そうだけど」
 ユリオの方は、もともとさして個人的に連絡を取り合うような仲でもないのでともかくとしてだ。ヴィクトルの方は、コーチということもあってか。結構マメで、今でもメールや電話などの連絡が定期的に来ている。
 しかしここだけの話、昨年末にヴィクトルが来日して以降それらに一切返信しておらず、通話にもほとんど出ていなかった。
 ただ一応言い訳をしておくが、競技会での彼の滑りを見てからは、話しは別だ。ひどく触発されたのもあって、返信を真面目に書き、あとは送信ボタンを押すだけという段階まで何回もいったのだ。
 しかしいざボタンを押す段階までいくと、臆病な心が顔を覗かせ、自分の都合が良い時だけ返信するなんて、最悪だなと耳元で囁いてあと少しを邪魔するのだ。
 そしてそうこうしている間に一ヶ月二ヶ月と時が過ぎ、気付いた時には四月になっていたというか。まあそんな感じだ。
 というわけで、同じ屋根の下に長時間一緒にいる状況になるのは気まずいのである。
 しかし西郡は勇利のそんな微妙な反応などまるで意に介した様子は無く。もう決定事項だからよろしく頼むなと軽い調子で口にすると、軽く片手を上げながらさっさとその場を立ち去っていってしまった。

 それなら実家の方で何かそれらしい理由をつけて、なんとか回避出来ないかとうんうんと考えたのだが。帰宅して早々、母親が嬉しそうな表情を浮かべながら近付いてくるのだ。それから今度のアイスショーの時にヴィッちゃんたちがうちに泊まるんだってと教えてくれたことで、先手を打たれたことを悟るのであった。
 その時西郡がおまえの考えなんてお見通しだよと言わんばかりに、高笑いをしている様子が脳裏に思い浮かんだ。


■ ■ ■


「勇利ぐんっ、ほんと怪我が治って良がっだばい……おい、勇利くんが休養って聞いたとき、心配で心配でっ。お見舞いに行こうかすごく迷ったんですけど、コーチに今は勇利くんにとって大事な時期だから止めろって止められてっ……うう~っ」
「あー……なんか、随分と心配かけちゃったみたいでごめん。でももう、いつも通りだから」
 なんて具合に勇利が南を宥めていたのは、件のアイスショーが数日後に控えた夜。ゆ~とぴあかつきの食事処で、南の他にクリスやオタベックなどの顔見知りを呼んで食事をしている時のことであった。
 ちなみに彼らよりもほんの少し前に到着したヴィクトルとユリオも、当然この食事会……という名の宴会に参加している。
 そんなこんなで、勇利はヴィクトルにいつ話しかけられるだろうかと始終ビクビクしていたのだが。そんな勇利の心配とは裏腹に、ヴィクトルはもう一人の年長組であるクリスと焼酎の飲み比べをしながら、部屋の中心で楽しそうに笑っていた。
 だから願ったり叶ったりな展開であるはずなのに、心の隅っこでそれをちょっぴり面白くなく思っている自分もいるのだ。
 でもろくに反応を返さない人間に、話しかけようと思うはずもないということは、考えるまでもなく当然のことだろう。
 そしてせっかく皆が楽しんでいる席で、そんなことをうだうだと考えているのが嫌でたまらないのに、その場から逃げるようにゆっくりと立ち上がった。
「勇利くん?」
「だいぶお皿も空いてきたみたいだし、ちょっと片付けてくるね」
「ならおいも――」
「一人で大丈夫だよ。南くんはお客さんだし、ゆっくりしてて」
 それから極力目立たないよう音を立てずに皿類を回収し、部屋の外へ出て厨房へと持っていった。
 ただし実際には食事処の中に厨房へと続くカウンターがあるので、外へ出る必要は無い。つまり一連の行動は、皆のいる食事処の部屋を出るための口実であった。

 とはいえさすがに皆がいる状況で自室に籠もるのはどうかと思ったので、母屋一階の居間から庭に面した扉を開けて外に出る。そして縁側に腰掛けると、遠くから皆の笑い声が聞こえてくるのに、胸がきゅっと締め付けられた。
 それならと気を紛らわすように空を見上げたのだが。こんな時にかぎって、生憎の曇り空で月がまったく見えないのに大きなため息を吐いた。
「はー……こんなところで一人で何やってんだろ」
 ヴィクトルの家から逃げて、ロシアから逃げて、そして連絡から逃げて。
 今度は目の前の現実からも逃げている情けない有様に、ため息しか出てこない。
「そろそろこれからどうするか考えないと、また取り返しがつかないことになっちゃうのに」
 もう四月も後半なので、次のシーズンに向けて皆本格的に新しいプログラム作りを初めている頃合いだろう。だからもし復帰をするならば、そろそろ本当にデッドラインだ。
 しかしすぐに首を振ると、思わず両手で頭を抱えた。
「でもそうすると、ヴィクトルの足が……」
「――こんなところで、一人で頭抱えてどうしたの」
「うわあっ!?」
 耳元で聞き覚えのある甘い声が聞こえたのに、まさかと思ったら。肩口からにゅっとヴィクトルの顔が覗いたから驚いたなんてものではない。
 したがって思わず大きな声を上げ、わざとらしいほどに飛び上がる。
 しかしそれと同時に自分が口にした直前の言葉を思い出すと、今さらながら慌てて右手で口元を覆い、視線をうろうろと彷徨わせた。
「えと、これは、その」
「復帰時期について悩んでる?」
「えっ? あ……まあ……はい」
 彼の口振りは以前とまるで代わらず、これまでぐだぐだと悩んでいたのが馬鹿らしく思えるほどだ。
 ということは、先の足に関する独り言も聞こえなかったのだろうかと考えながらチラリと視線を向けると、思いがけず真正面からバッチリと合う。
 それから彼は、眉を下げながら苦笑を漏らした。
「コーチと選手を同時にするっていうのは、なかなか難しいものだね。結局今回は、勇利のコーチをちゃんとすることが出来なくて悪かったって思っているんだ」
「そっ、そんなこと無いよ! だってヴィクトルは自分の練習もあるのに、グランプリシリーズの途中でわざわざ日本まで来てくれたじゃないか。十分すぎるよ、本当に。それなのに……」
 それなのに、自分ときたら。
 左足の骨折という一見するとインパクトのある怪我をしたのをいいことに、さして重傷でもなかったくせに、貴重なワンシーズンを棒に振ったのだ。しかもヴィクトルの足に、傷まで付けて。
 それを思うと、申し訳なくて申し訳なくて。
 気付いた時には、両手で膝をぎゅっと握りしめながら深く頭を下げていた。
「ずっと、黙っててごめんなさい。ヴィクトルが何も言わないのを良いことに、四回転をたくさん跳ばせて。それで足の調子を悪くしたって。だから僕は……っ」
 復帰なんて軽々しく言ったら駄目だと思うんだと途中まで口にしかける。しかしそれはヴィクトルに責任を押しつけているようにも感じたので、それから先の言葉はグッと飲み込んだ。
 するとそれまで斜め後ろに膝立ちしていたヴィクトルが横に腰掛けてくると、まるで独り言を呟くように、ぽつりぽつりと言葉を零した。
「俺がなんだか勇利の様子がおかしいなって思いだしたのは、去年の秋頃だったかな。勇利の滑りに生気が無くなったように感じたというか……あまり楽しくなさそうだなって思ったんだ。
 とはいえこれも、さして明確な根拠があるわけではないんだけど。ただ勇利って滑りに感情がかなり乗る方だから、何となく、ね。
 でもこれでようやくその理由が分かったよ。勇利、俺が病院に通ってるっていうニュース記事を見て、それをずっと気にしてたんだ」
「……うん」
「そっか」
 そこでヴィクトルは一息つくように、背後に手をつきながら天を仰ぐ。そして吐息混じりの声で、足の調子が悪かったのは本当だよと呟くように口にした。
 そしてその瞬間、勇利は自身の側頭部をガンと殴られたような衝撃が走るのを感じた。
「ああ、」
 そうだろうなと、前々から予想はしていた。とはいえこうして本人に直接それを言われるダメージといったら――筆舌に尽くし難い。
 したがってたまらず背中をさらに丸めて小さくなり、膝を握りしめていた手の甲に額を押しつけた。
「こんなことになるなら、ヴィクトルの競技復帰とか、コーチ続行のお願いとか、言わなければ良かった。こんな形でヴィクトルに迷惑をかけたくなんか無かったのに」
「そうやって勇利が気に病むことは無いよ。そもそも現役復帰することも、コーチをすることも、自分で考えて決めた結果なんだから」
「そんなの綺麗事だよ。僕の我が侭のせいで膝に負担がかかったのが怪我の原因だってことくらい、考えるまでもなく明らかじゃないか」
 こんなの、ヴィクトルに八つ当たりしているのと代わりない。良い年して、小さい子どもみたいに自分の感情をぶつけて馬鹿みたいだ。
 そうじゃなくて、自分にとってヴィクトルは、小さい頃からずっとずっと追いかけてきた憧れの存在で。だからもっとヴィクトルのスケートを見たいんだと言いたいだけなのに。
 でも何ヶ月も胸の内にためこんできた思いを、一度口にしてしまうともう止まらない。
 そして好き放題言ったところで、再び目の前の現実から逃げるかのように上体を深く深く折り曲げようとする。
 しかしそれを許さないと言った様子で、横から伸びてきた手に肩をつかまえられたせいで、それが叶うことは無かった。
「まあ……色々と言いたいことはあるんだけど。とりあえず、今日は勇利が何を考えていたのかちゃんと知ることが出来て良かった。教えてくれてありがとう。ここ数ヶ月はメールをしても電話をしても、まるで反応が無かったから、どうしようかと思っていたんだ」
 ユリオがいなかったら年明けくらいにこっちに来てたよと何てことない様子で言われたのに、思わず肩を揺らす。
 だって年が明けたらと軽く言っているが、その頃にはヨーロッパ選手権があり、さらに少し後には世界選手権が控えているのだ。
 そんな時に日本に来るなんて、冗談でも有り得ない。
 したがって焦りながらごめんなさいと謝罪の言葉を口にすると、気にするなというように軽く笑いながら肩を数度叩かれた。
「勇利がこっちで練習している間の写真を、定期的に俺に送ってくれたユリオに感謝しないとだね」
「えっ?」
 そこで彼はズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、ユリオとのやりとりの画面を見せてくれる。するとそこに練習着の自身の姿が映っているのだ。
 それに驚いてヴィクトルの顔を凝視すると、彼は器用に片眉を上げてみせた。
「何のタイミングだったかは、よく覚えていないんだけど。勇利の様子が分からないから心配だって話をしたら、たまに練習の時の写真を送ってくれるようになったんだよ」
「えっ、なんで僕の写真が? しかもこれ、ちゃんとアイスキャッスルはせつだし」
 もしかして昔の写真を引っ張り出しているのかと思ったが、そもそもユリオはそういう悪戯はしなそうだ。
 となると別の誰かが勇利の写真をユリオに送っていたことになるわけだが……そこでそういえば、リンクで練習をしている時にちょこちょこと優子が顔を出していたことを思い出す。そして彼女は、ユリオとたまにメッセージのやりとりをしているようなことを以前に話していたはずだ。
 つまりはそういうことかと理解すると、目元を手の平で覆った。
「そっか、優ちゃん経由か」
「そうそう、確かそんなこと言ってたな。今度会った時にお礼を言わないとね。
 ――と、連絡が滞った件はともかくだ。それより、俺の怪我について色々と勘違いしているようだから、はっきり言っておくけど。勇利が原因というのは、ノーだからね」
 それを言われた瞬間、空気がピンと張りつめるのを感じる。それと同時にいつの間にか気持ちが緩んでいたのも分かり、罪悪感が心の奥底にジワリとにじむ。
 しかしヴィクトルは全てお見通しだというように手を伸ばしてくると、安心させるように頭を一度だけぽんと軽く叩いてくれた。
「勇利も、俺が数年前から引退するんじゃないかって言われていたのは知ってるよね。その原因は、よくある膝の不調だよ。まあほとんどのスケート選手は足に大なり小なり何かしらのトラブルを抱えているけど、俺の膝もそういうものの一つ。
 それで今までは一日に跳ぶ回数をコントロールしたり、マッサージを重点的にして、だましだまし付き合ってきたんだ。もちろん去年だけじゃなくて、ずっと前からそう。だから昨日今日はじまった話じゃないんだよ、病院通いなんて」
 そこで一度言葉を切ると、彼は右膝に手を添えて労るようにゆっくりと撫でる。そして変に心配かけたくなかったから勇利には説明していなかったけどと口にすると、ほんのりと憂いを帯びた笑みを浮かべてみせた。
「ただそれで随分心配かけちゃったみたいで、悪かったよ。何か気になることがあったら教えて欲しいって去年に言ったけど、どの口がそれを言うんだって感じになっちゃったね。
 でも何だかんだと言いつつ、この状況にそう悲観してるってわけでもないんだ。俺にとっては、この膝も長年フィギュアスケートをしてきた勲章みたいなものだから」
 とはいえたまにイライラすることもあるけどねと茶化した様子で口にし、軽い調子で笑い声を上げている。しかし勇利は、その言葉に対して、何と返答すれば良いのかまるで分からなかった。
 ヴィクトルは、勇利がジャンプを強請ったことと怪我は関係無いと言ってくれた。それでも、やっぱりその要求が彼の膝を少しずつでも削っていたのは確かだろう。
 でもこれ以上その話しをしつこく引っ張るのも、なんだか違う気がして。
 馬鹿みたいに瞬きもせずにヴィクトルのことをただただ見つめていると、それに気付いたのか。思わせぶりにゆっくりと瞳を覗き込まれた。
「ところで勇利。こうやって足の不調抱えている俺に、グランプリシリーズであっさりとフリーの最高点を抜かれたわけだけど。悔しくないの?」
「っ、」
 そう口にしたヴィクトルの姿はひどく堂々としており、まさしく氷上の王者である。
 その様子はそれまでの雰囲気とは明らかに一変しており、わざと煽られていることは明らかだ。
 しかしその輝きに圧倒され、魅了されるのと同時に、競技者としてのプライドをチクチクと刺激される。
 それに思わず小さく身震いしながらその瞳を真っ直ぐに見つめ返すと、満足そうな笑みを浮かべながら目を細められた。
「ふふ、良かった。もうこの際だから言ってしまうけど。恐らくは勇利も薄々感じている通り、俺が競技者として勇利と同じ氷上に立てる時間はそう長くない。その時間を、俺は勇利と限界まで滑りたいんだ」
 そう言われて、嬉しくないはずがないだろう。でもそれと同時にどうしようもなく切なさが胸の内に広がるのに、唇を噛みしめた。
 ヴィクトルは、勇利にフィギュアスケートの極限を魅せてくれた神様みたいな存在だ。
 そのせいか彼だけは何もかもが他の人とは別次元の中にいて、いつまでもその高みにいるのではないかという錯覚を覚えていた。
 だから、そんな彼に怪我をさせるなんて有り得なかったし、引退なんて考えたことも無い。いや、考えるのが怖くて、あえて考えないようにしていたというのが正しいだろうか。
 しかし彼が自らの口から長くないと口にした途端、一気に現実に引き戻されて。突然夢から醒めてしまったせいで、少しばかり混乱しているような気がした。
 ただそんなものは、すべて身勝手な思いこみでしかないということも、理性では痛いほどによく分かっている。そして最後をどうするかを決めるのは彼自身であって、他の人間がとやかく言う権利は無いのだ。
 したがってこみ上げてくるすべての感情を飲み込み、泣き笑いのような複雑な表情を浮かべながら一つ頷いた。
「それとあと一つだけ。そうやって頷いてくれたっていうことは、今期も俺とのコーチ契約を続行するってことでいいのかな」
「――はい。お願いします」
 もちろん異存など有るはずも無いので、即答する。
 すると唐突に人のズボンのポケットに手を突っ込んできたので、何かと思ったら。やっぱりずっと持ってたんだと口にしながら、中から何かをつまみ出すのだ。
 それにまさかと思いながら目の前に差し出された彼の手の平を見ると予想通り。自身の指から外してから、ずっと持ち歩いていた金色の指輪が乗せられていて少々気まずい。
 しかしヴィクトルはそんな勇利の反応などさして気にした様子もなく。膝の上に乗せていた勇利の右手を手に取ると、あの時のように再び薬指にそれをはめてくれた。
「おまじない。今度は最後まで、一緒だ」
 その時タイミング良く空の雲が割れ、その隙間から月が顔を出したのか。彼の色素の薄い肌や銀糸が月の光に柔らかく照らされている様子は、息をのむほどに美しく、それ故に儚さをはらんでいるように感じられた。
 それはまるで、決して長くはない自分たちの競技人生のようだとふと思うと、涙が一筋流れた。

「あらあら、二人ともこんなところにおったの」
 背後からそう母親に声をかけられたのは、相変わらず二人並んで縁側に座りながら、勇利がロシアにいなかった間のリンクでの出来事や、久しぶりに出た大会の様子などを、ヴィクトルに教えてもらっている時のことであった。
「あれ? お母さんどうしたの」
「明日リンクでショーの練習があるから、今日はそろそろみんな帰るって南くんが」
「あ、そうなんだ。じゃあ行かないとだね。……――あ、ヴィクトル。なんか皆もう帰るらしいから、先に行っててくれるかな? すぐに僕も追いかけるから」
「ん? うん、分かった」
 何故と突っ込まれるかなと思ったのだが。意外にもすんなりと聞き入れてくれると、母親の横をすり抜け、部屋の外へ出て行ったのに内心ほっと胸をなで下ろす。
 そして彼の背中が完全に見えなくなったところで、不思議そうな表情を浮かべて勇利のことを見つめている母親と真正面から向き合う。それからガバッと音がしそうな勢いで腰を直角に折り曲げた。
「去年は大変な中ロシアまで行かせてもらったのに、足の怪我をして……しかもそれが完治した後は、ヴィクトルに迷惑をかけているんじゃないかって悩んで、結局足の怪我を理由にズルズル日本に滞在したっていうのが、本当のところなんです。だから、そのせいで結果を出すことが出来なくて本当にごめんなさい。
 それで本当に自分勝手なお願いで申し訳ないんですが、あと一年、ロシアに行かせてもらえないでしょうか」
 今度は悔いが残らないように全力で最後まで滑りきって結果を出しますと、絞り出すように口にする。
 ただその言葉がかすかに震えていたのは、自分でも随分と自分勝手なことを言っていると十分理解しているからだった。
 もちろんあとで場を設けて、きちんとした状況下で両親に話しをしようかとも思った。でも先のヴィクトルの言葉が再び脳裏に蘇ると、いてもたってもいられなくて。気付いた時には洗いざらい吐き出して頭を下げていたというわけだ。
 ただ一連の告白を聞いた母親は、珍しく微動だにしないのだ。
 したがってとてつもない緊張感の中で返答を待っていると、しばらくして肩に手を置かれる。そしてそれに促されるかたちでおずおずと顔を上げると、意外にも彼は安堵しているような表情を浮かべていたのに言葉を詰まらせた。
「そう。そしたらまた勇利が滑ってるところ、見られるね。またしばらく会えなくなるのは寂しいけど、元気になったみたいで良かったわ。言いにくかったと思うけど、ちゃんと話してくれてありがとうね。また何かあったら、いつでも好きな時に帰っておいで。
 あ、そうそう。それと、あとでお父さんにもロシアに行くって教えてあげてね。きっと喜ぶけん」
「……うん。ありがとうございます」
 母はいつもこうしてそっと手を差し出してくれる。
 その優しさが、いつも以上にひどく心に染みた。

 それから再び礼の言葉を口にし、ヴィクトルの後を追って店の方へ向かう。すると皆食事処から玄関へ移動し、各々下駄箱から靴を取り出しているところだった。
 そして年長者らしく、皆が靴を履き終えるのを脇に立って待っていたクリスと目が合うと、彼は片手を上げて勇利を出迎えてくれた。
「ああ、やっと戻ってきた。そろそろ俺らはお暇するよ」
「居間の方でちょっと話しこんじゃって、ごめん。明日の練習頑張って。本番楽しみにしてるから」
「ふふ。その様子だと、次のシーズンから完全復活かな」
「どういうこと?」
 クリスの言っている意味がわからず首を傾げると、彼は自身の右手を指さすのだ。それから来た時はしてなかったから、少し心配してたんだよと言われたのに、思わずカーッと頬を赤らめた。
 さすがクリスだ。よく気が付くというか、目敏いというか。気恥ずかしいのにたまらず数歩後ずさると、いつの間にか背後に立っていたヴィクトルの胸元に、思いきりぶつかってしまう。
 しかも身体を支えるために腰に手を添えられたせいで、抱え込まれるような格好になってしまったのに驚いてヒッと小さく声を漏らし、頬だけでなく耳まで真っ赤に染め上げた。



 そんなこんなで。数日後のアイスショーを無事に終えると、ヴィクトルとユリオはロシアへあっという間に戻っていく。
 そんな二人に勇利も一緒について行きたいところだったが、荷物やビザの準備、それに連盟にも連絡を入れる必要があったのでそういうわけにもいかず。
 かれこれ二週間ほどしてから、二人を追いかける形でロシアへと旅立つのであった。

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