アイル

ロシアの英雄と東洋人の醜聞-11

 そうして五月の中頃に、勇利は再びロシアの地に降り立った。
 ちなみに昨年末頃に一時的に借りていたアパートは、すでに解約している。したがって最初の頃のように、ヴィクトルの家の一室を間借りさせてもらうということになった。
 ただし今回は以前のようなうやむやな状態で住まわせてもらうのではなく、話し合いの上でそれらがきっちりと決まった。
 そしてロシアにやって来た翌日には、早速リンクでの練習を開始するということになった。
 とはいえ顔見知り以外の一部のリンクメイトとは、色々とあったので特に最初の一週間ほどはやや緊張していたのは言うまでもない。それに始終視線をチクチクと感じたので、注目をあびている感じがなんとも居心地が悪かった。
 ただしばらくして、昼休憩の際に寮の階段で一悶着あったリンクメイトが声をかけてきて。今度は何だろうと戦々恐々としていたら、自分の勘違いのせいで迷惑をかけてすまなかったと意外にも素直に謝られた。
 そしてその日を境に少しずつ状況が好転していったような感じがしたのは、一番気になっていた出来事がひとまずは解決したことで、肩の重荷が下りたせいだろうか。
 クラブの雰囲気に完全に馴染むということは無いにしろ、さして注目されるようなこともなくなり、周りを気にすることなく練習に集中出来るようになった。

 そうして勇利は、心機一転。新たにプログラム作りをはじめた。
 とはいえ去年のプログラムは、七月頃のアイスショーで一度滑ったきりだ。だからそれをそのまま使うという手もあったのだが。今回は復帰を決めてから、ロシアに行くまでの二週間にふっと頭に浮かんだものがあったのでそれにすることにする。
 というわけで昨シーズンのプログラムの方は、せっかくなので今後のアイスショーや大会のエキシビションなどで使うということになった。
 それからというもの、練習を終えて家に戻ってくると、毎晩のように遅くまで新プログラムのイメージを膨らませる。
 そしてある程度の構想が自分の中で固まったところで、少しばかり緊張しながらリビングにいるヴィクトルの元へと相談に向かった。
「あの、休んでるところ悪いんだけど。新しいプログラムのイメージが大体決まったから、相談したくて……いいかな?」
「もちろん」
 今回は早いねと言われるが、ヴィクトルにはこれまで選曲段階から散々迷惑をかけているので、返す言葉もない。
 したがって苦笑いを返しつつ、彼の腰掛けているソファの元へと向かう。そしてその横に腰掛けると、ノートパソコンに繋げた状態のイヤホンを差し出した。
「ショートは、定番なんだけど『シング・シング・シング』がいいなって。それでフリーの方は『これからも僕はいるよ』って曲なんだけど」
「フリーの方は珍しい選曲だね」
 ヴィクトルはなるほどと口にすると、少しの間目を閉じ、イヤホンから流れている音楽に耳を傾けている様子だ。
 その様子をドキドキとしながら見つめていると、しばらくして一つ頷き、はめていたイヤホンの片方を引き抜いた。
「俺がコーチになってからはともかく、それまでの勇利はわりと王道のクラシック曲のイメージが強いから意外な選曲ではあるかな。これを選んだ理由とかはあるの?」
「あ、うん。えっとショートの方は、スケートを滑っている時の楽しさとかを表現出来たらいいなって。フリーの方は……何て言えばいいか難しいんだけど。足を怪我して休んでる間に、色んな人から受け取った気持ちっていうか愛っていうか……そういうものがあるんだ。
 それは普通に過ごしていたら気付かなかったかもしれないけど、確かにそこにあって、僕を勇気付けてくれたんだ。そのおかげで今の自分がここにいるんだっていうのを、表現出来たらいいなって」
 もともと自分の感情を口にするのに慣れていないのもあり、こうやって改めて言葉にすると恥ずかしいのに目線が泳いでしまう。
 しかしヴィクトルはそれを決して笑うことなく、真剣な表情で少し考えている様子だ。
 それから勇利の口にした言葉の理解を深めるためか。再び両耳にイヤホンをはめ、熱心に音楽を聞き始めた。
 そしてかれこれ十分ほど経過した頃合いだろうか。満足した様子で一つ頷くと、なぜか嬉しそうな表情を浮かべながら勇利の顔を見上げてきた。
「その様子だと、振り付けのイメージもあるんだろう?」
「あ……はい。なんとなく、ですけど」
「よし。それじゃあ明日から早速具体的に話そうか」
 楽しみだなあと口にしながら、ヴィクトルは立ち上がる。そしてお風呂で考え事をしてくると断りを入れると、楽しそうにシング・シング・シングの鼻歌を歌いながらリビングを出て行った。
 あの様子だと、今日は恐らくかなりの長風呂になるだろう。
「……ていうか振り付けの件思わず頷いちゃったけど、大丈夫かな」
 全て自らの手で作り上げるヴィクトルに憧れていたのもあって、昔からそこら辺のことを意識してはいた。
 ただそれを主張し、はっきりと口にするようになったのはヴィクトルがコーチになってからなので、まだ慣れないというか。
 おかしいところを笑われたりしないか、ちょっぴり心配だ。
「まあ、ヴィクトルがそういう人じゃないっていうのは分かっているんだけど」
 やっぱり自分の考えを口にするのって、慣れないからなあとぶつぶつと呟きながら勇利もソファから立ち上がる。
 そして気合いを入れるように両手で握り拳をグッと握ると、振り付けのイメージをきちんとした形にするべくいそいそと自室へと戻っていった。
 この様子からも、なんだかんだと言いつつやる気満々なのが分かるだろう。
 そうして勇利はヴィクトルの手を所々で借りながらも、ほとんど自らの手で新プログラムの振り付けを作り上げていくのであった。

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