アイル

ロシアの英雄と東洋人の醜聞-12

 新プログラムがおよそ形になってきた六月。勇利は休養によって鈍った感覚を取り戻すべく、普段よりも早めに本格的な滑り込みに入る。
 そしていつものようにヴィクトルと食堂で昼食をとっていた時のことだ。
 食事の際にいつも少し離れたところに座っているユリオが、クソッ! と大きな声で悪態をついたのでどうしたのかと思ったら。彼は珍しく勇利とヴィクトルたちがいるテーブルまでズンズンと大股で歩み寄って来ると、テーブルの上に持っていたスマートフォンを勢いよく置いた。
「あれ? ユリオどうしたのいきなり」
「見ろよこれ! JJのヤツこれよみよがしにこんな動画上げやがってっ」
「うん? なにこれ。動画?」
 テーブルの上に置かれたスマホの画面を覗きこむと、SNS画面が表示されている。
 そこでユリオがタイムライン上に表示されていた動画の再生ボタンをタップすると、突然画面の端の方からJJと思しき人物がスピードに乗って画面中央に滑りこんでくる。そこでスケートリンクで撮影した動画かと気付いた直後のことだ。
 前向きに踏み切ったので、まさかと思ったら。見間違いでなければ、四回転半回ってリンクの上に降り立ったのに目を大きく見開いた。
「――えっ!? こっ、これっ、うそっ!?」
「へえ、驚いた。これ、四回転のアクセルじゃないか。着氷は少し乱れているけど、回転も足りてるね」
 まさかと思ってもう一度再生しようとしたところで、ヴィクトルの言葉が重なってくる。
 そしてそこでやっぱり気のせいじゃなかったと確信を得ると、口をあんぐりと開けながら嘘だろと再び呟いた。
「試しに跳んだら成功したとか書いてるけど、あの野郎、今度の大会でアクセル入れてきかねないぞ」
「可能性はあるなぁ。……そっか、四回転アクセルか」
「ちょっ、ちょっと待って。まさか」
 ヴィクトルの口振りが、どことなく思わせぶりに感じるのは気のせいではないだろう。そこで目元をひきつらせながら視線を向けると、彼は口元に指先を添えながら考え込んでいる様子だ。
 そして勇利と目が合うと、笑顔を浮かべながら俺も試してみようかなと口にした。
「ええっ! ちょっと、そんな簡単に言ってるけど大丈夫なの?」
「まあ、試合に取り入れようと思って、以前に少し練習してたことはあるから。初めてってわけじゃないしね」
「てことは、まさか跳べるの?」
「うーん、そう言われると微妙かな。成功率もさして高いってわけでは無かったし。それに着氷の衝撃がすごく大きいから、結局今はそこまで無理することは無いかなと思って途中で止めたんだ」
 なんて具合に何気ない様子で話しているが、この調子だと練習でクリーンに着氷したことが何度かあるのは間違いないだろう。
 彼は豊かな表現と美しいスケーティング、そして確実なジャンプで見事にプログラムをまとめ上げる。まさに絵に描いたようなオールランダーというやつだろう。
 そのくせジャンプ一つをとってみても、こうしてスペシャリストなのだから、やはり異次元というか規格外というか……格好良い。
 そして以前の勇利であれば、やっぱりヴィクトルはすごいなあと感動するだけで終わっていただろう。しかし今は違う。
 膝の不調の話しを聞いている手前、心配な気持ちがむくむくと頭をもたげるのに、思わず視線を手元に落としてしまう。それから少し迷いながらも、その気持ちをぽつぽつと吐露していた。
「あの……四回転のアクセルがなくても、ヴィクトルなら大丈夫じゃない? 僕も何回か挑戦したことはあるけど、それでも膝の負担大きそうだなって思ったくらいだし」
「あれ? 勇利も跳んだことあるの?」
「あ、いや。僕の場合は、完全におふざけでだよ」
 デトロイトにいた時、ピチットにのせられて数回跳んだのだ。
 もちろん成功するはずもなく、回転足らずで尻餅をついたが。そんな状態でも衝撃の大きさは感じたので、うかつに手を出さない方がよさそうだなと思ったのだ。
 しかしヴィクトルはそれに対して肩を竦めながら、守りに入るのは趣味じゃないからなぁとはっきりと答えた。
「最近はみんな色んな種類の四回転を跳ぶようになってきたしね。そろそろ次の段階に進むべきかなって考えてたところだし、良い機会だと思うんだ。
 ――あとは単純に、四回転のアクセルっていうだけですごくワクワクしない?」
「それは……まあ」
 その気持ちは、すごく分かる。
 四回転のアクセルは、一応基礎点を設けられてはいる。ただ、見ている人たちは言わずもがな。選手の中でも、四回転のアクセルなんて無理だろうという空気があるのだ。
 それを、JJのこの動画が一気に打ち破ったような気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
 だって現に、ヴィクトルだけでなく勇利までも刺激されているのだ。
 それに負けじといった様子でユリオが身を乗り出してくると、公式戦で一番に成功させるのはオレだからなと声高らかに宣言する。
 そして足音荒く元居た場所へ戻っていくと、物凄い勢いで残りの食事を口にかきこみはじめた。
「四回転アクセルか……」
「あの様子だと、ユリオもやる気満々みたいだね。勇利はどうするの?」
「もう……ズルイよ」
 今の時点では、そもそも跳べるかどうかすら分からない。
 でも確かに、想像するだけで胸が躍っているのは確かであった。

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