アイル

ロシアの英雄と東洋人の醜聞-13

 七月には、新プログラムのお披露目もかねて日本国内のアイスショーに一度参加した。
 それから昨年の大会をまるまる休養した影響で全日本のシード権を失っているため、九月には再び中四国九州選手権大会へと出場する。そして自分だけが周りよりもとんでもなく年上なのに肩身の狭い思いをしつつも、危なげなく優勝を勝ち取るのであった。
 その翌月の十月。いよいよグランプリシリーズが開幕すると、本格的な戦いの開始だ。
 ちなみに勇利は期日までに復帰宣言をしたため、過去の成績から無事にグランプリシリーズ二枠に選出される。そしてアサインされたのは、第四戦フランス大会、第六戦日本大会であった。ついでにヴィクトルの方はというと、第一戦アメリカ大会、第四戦フランス大会にアサインされていた。
 つまり第四戦はヴィクトルと同じ大会に出られるということだ。
 それに勇利は最初ひどく喜んだものの、選手という役割しか無い勇利はともかく、選手兼コーチであるヴィクトルの方は話が別である。
 したがって当日の滑走順が、前後にならないようにと願っていたのだが。勇利は持ち前のくじ運の悪さをここで見事に発揮してしまうと、ヴィクトルの直後を引き当ててしまうのであった。
 こんなことなら、以前のように世界ランキングの低い順に滑る方式の方がまだマシだっただろう。
 おかげで演技に集中することが出来ず、この大会での成績はヴィクトルが第一戦に引き続いて一位、勇利は三位に終わった。
 そして第六戦の方はというと、こちらはユリオと大会が一緒になり、結果はユリオが一位、勇利は僅差で二位となった。

 そんな調子であと少しのところでどうしても頂点に手が届かないのに、ひどく悔しい思いをしながらもひとまずファイナルに無事に駒を進める。
 そして今度こそと思ったのだが。
「――なのに、なのにっ! なんでヴィクトルは、ここで四回転アクセルを跳ぶのっ!?」
「ふふ。勇利、酔ってるなあ。偶然かもしれないけど、ファイナルのバンケットってなんかいつもそんな調子だね」
「う~……らって、ヴィクトルがっ……四回転アクセルは、練習時の成功率が五割を割ってるから本番では跳ばないと言ってたのに……なのに! なんでファイナルで跳んで、あっさり成功させるかなあ!?」
 当然他もノーミスで、自ら出した最高得点を軽々と更新しての優勝だ。
 そして勇利自身の結果はというと、今度は夢のファイナルの舞台でのヴィクトルとの決戦という状況に興奮し、動揺したせいか。集中力を欠いたせいでジャンプで少しのミスが出てしまい、二位のユリオに競り負けて三位であった。
 家族には結果を出すと言ってきている手前、なんとか台乗り出来たとはいえ、二年前の最高位の二位より下がってしまったので悔しくてたまらない。
 それをふと思い出して深い深いため息を吐いていると、唐突にヴィクトルが耳元に唇を寄せてきて、内緒話しをする時のように密やかな声を呟いた。
「でも、興奮しただろう?」
「~~ッ、したよ!」
 これだからイケメンと言われる人種は性質が悪いのだ。故意か偶然かはよく分からないが、こうして不意打ちでその魅力をぶつけてくるのだ。
 おかげで同じ男なのに妙にドキドキしてしまって、非常に恥ずかしい。
 でもそれと同時に煽られているのでプライドもチクチクと刺激されていて、だんだんと訳が分からなくなってくる。
「あ~……もうっ!」
 すでに酒で酔っているのもあり、考えがまるでまとまらない。
 そこでとりあえず次こそはヴィクトルに勝つぞと心に誓うと、悔しい気持ちを誤魔化すべくヤケ酒に走るのであった。

「ほら、勇利。ホテルの部屋に着いたから起きて」
「んあ……?」
 そう声をかけられたのに目を渋々と開けると、そこはいつの間にかホテルの一室だった。
 先ほどまでバンケットの会場でシャンパンを浴びるように飲んでいたはずなのにと、頭上に疑問符を浮かべながら室内をきょろきょろと見渡していると、その様子から考えていることをおよそ察したのか。ヴィクトルは小さくため息を吐きながら肩をすくめてみせた。
「さっきまで会場にいたんだけどね。勇利ってば、またお酒を飲み過ぎちゃったんだよ。それで会場の隅っこで寝始めちゃったから、部屋に戻ってきたっていうわけだ」
 覚えてるかなとたずねられるものの、まるで覚えていない。ただ眠いことだけは確かなので、とりあえずコクリと頷いてみせる。
 それから目の前のベッドに自力でよろよろと近寄ると、その上に倒れ込んだ。
「んん……ねる」
「あっ、こら。スーツ皺になっちゃうから、脱がないと駄目じゃないか」
 しかし泥酔している人間に、そんな高度なことが出来るはずも無いだろう。
 したがって無視して目を閉じたのだが。身体をひっくり返され、まずは上着を。それからネクタイ、ベルト、ズボン、そして最後にワイシャツを脱がされる。
 寝ている勇利に言わせてみれば、安眠妨害も良いところだ。
 でもそうやって世話を焼かれると、なんだか子どもの時に戻ったみたいというか。なんだかんだといいつつ満更でもないのもあり、おとなしくされるがままになっていると、クスリと苦笑を漏らされ、手が掛かる王子様だと言われてしまった。
「とりあえず、脱がせたスーツ類はハンガーにかけておくからね。
 それで、勇利は寝るときにナイトウェアを着てないと嫌なんだっけ。ベッドの上に置いてあったのは、どこにやったの?」
「ナイトウェア……」
 そこでパジャマのことだよと言われてようやく意味を理解すると、ゆっくりと応接セットのテーブルの方を指さす。
 すると早速窓辺に置いてあるテーブルの方へ、歩み寄って行く気配がしたのだが。それから一向に音沙汰無いのに渋々と目を開けてみると、立った格好のまま本のようなものを読んでいるのが目に入る。
 そしてそんなヴィクトルの全身を、柔らかなオレンジ色のルームライトが照らしているせいだろうか。
 どこか浮き世離れして見えるのを、ぼんやりと見つめながら目を瞬かせた。
「ヴィクトル……?」
「ん? ああ、ごめんごめん。勇利がこういう雑誌買うの、珍しいなと思って。つい」
「んん?」
 これってゴシップ系の内容じゃないっけとかざされたのは、セレブニュースというタイトルの雑誌であった。
 ちなみにその雑誌はショートプログラムの前日、息抜きにホテルの周りを散歩している時に近くの売店で購入したものである。
 そして彼の言うとおり、普段の勇利はその手のものは一切興味が無い。しかし表紙にヴィクトルの名前が踊っているのが偶然目に入り、気付いた時には手にとっていたというわけだ。
「それ、ヴィクトルが出てたから買ったんだよ」
「ふーん……そっか。中身はもう読んだ?」
「うん」
 購入してきたその日に、しっかりと読了済みだ。ただしヴィクトルの箇所だけだが。
 ちなみに中身はなんてこと無い、ヴィクトルに長身美人の新恋人が出来たというゴシップネタで、ヴィクトルと見知らぬ女性が思わせぶりに抱き合っている写真が掲載されていた。
 さらに記事の本文には、ここところ彼に恋人の影が無かったのは、日本のフィギュアスケート選手である勝生勇利のコーチをしているせいだろうとも書かれており、思いがけず自分の名前が登場したのにちょっぴり驚かされたのも記憶に新しい。
 それまで勇利は、スケート関連以外のニュースで海外で名前を出されることなど一度も無かった。
 しかしおよそ一年前のニュース記事の件といい、彼がコーチになった途端に海外のメディアに取り上げられるようになったので驚きである。
 それだけヴィクトル・ニキフォロフという存在は、色々な人を魅了しひきつける存在なのだろうが、まあそれはともかくである。
 ヴィクトルに恋愛についてまで気を使われるのは、当然勇利の本意ではない。
 ということを考えていたのを思い出すと、もそもそとベッドの上に起きあがった。
「ヴィクトル、僕に気を使って恋人をずっと作らなかったんだよね? 僕はそういうの気にしないし、これからは好きにしてくれて構わないから」
 その言葉に一切の他意は無く、純粋な気持ちからだった。
 しかし何故かヴィクトルは少しばかり焦った様子で勇利の方へ足早に近付いてくると、ちょっと待ってと即座に突っ込みを入れてきた。
「どこから訂正すれば良いのやらだけど、そもそもこの記事自体が間違ってるからね」
「はあ」
「この記事の写真の女の人は、海外のアイスダンスの選手だよ。ここのところは、同じ大会に出るたびにアピールがすごくて困っていたんだけど、この時はいきなり抱きつかれて。もちろんすぐにはっきり断ったんだけど、運悪くその瞬間を撮られたんだと思う」
「へえ、そうなんだ」
「……ねえ勇利、俺は真面目に話してるんだけどちゃんと聞いてる?」
 そう面白くなさそうに口にしているヴィクトルの姿は、結構貴重だ。
 でも勇利は言ってしまえばただのスケートの生徒でしかないので、ヴィクトルの恋愛関係に口を出すつもりなど毛頭無いし、ヴィクトルだって気にしないでいいのだ。
 そんなの当たり前のことなのに。
 そういう態度をされると、なんだか特別に見られているみたいでちょっぴり嬉しい。
 そして大量のアルコールのおかげで普段よりも理性のストッパーが緩くなっているのもあり、思わず気分が高揚するがまま、素直に小さく笑い声を漏らしていた。
「あはは、なんか焦ってるみたいに見える。変なヴィクトル。僕はただのヴィクトルのスケートの生徒ってだけなんだから、プライベートにまで口出すようなことはしないよ」
「そりゃあ、そうかもしれないけど。でも少しくらい嫉妬してくれてもいいじゃないか」
「嫉妬かぁ……まあヴィクトルに仮に恋人がいるとして、その人にしか見せない恋人としての顔があるんだとしたら、なんとなく羨ましいような気はするけど。
 でもさ、その人はその人で僕みたいに氷上でヴィクトルと本気のスケートで語り合えるってわけじゃないだろうし。どっちを取るかって言われたら、僕はスケートの方が嬉しいから。だからいいや」
 そこで目を閉じながらベッドに仰向けの格好で倒れ込む。そして夢見心地の気分で、僕にとってはいまだにヴィクトルがコーチをしてくれているのは夢みたいなんだよと呟いた。
 それからしばらくしてベッドがギシリと音を立てると、身体がかすかに沈むような感覚を覚えたので閉じていた目蓋をおずおずと開ける。すると思いがけず、ヴィクトルが上体に覆い被さるような格好になっているのである。
 その状況がよく分からないのに目の前のスカイブルーの瞳をただただ見つめていると、頬に手を添えられる。
 さらに存在を確かめるかのように唇をゆっくりと親指でなぞられた直後。よく分からないが、熱い塊のようなものが喉元までこみ上げてくるのを感じたが、その正体が何であるかは深く考えてはいけないような気がした。
「夢なら、永遠にさめなければいいのに」
「そう……だね」
 いきなりの急接近にひどく動揺してしまい、それ以上の意味のある言葉はとてもではないが口に出来ない。
 そして生まれこの方この手の接触を一度も経験したことが無いせいか。ひどく酔っていたはずなのに、この日の出来事だけは一切忘れなかった。


■ ■ ■


 ファイナルを終えた二人は、その後ひとまずそれぞれの国内大会に向けて最終調整を行うため、ひとまずロシアのホームリンクへと帰国する。
 そして十二月末のほぼ同じ日程に、勇利は全日本選手権、ヴィクトルはロシア選手権に出場するのであった。
 ただし日程がほとんどかぶっている状態だったので、さすがのヴィクトルも勇利のコーチとして帯同することは出来ない。それになんだかんだと世話になっているヤコフコーチも当然無理だ。
 そこで今回は変則的に、リンクでたまにお世話になっているサブコーチ的な人物にお願いすることになった。
 というわけでいつもと異なるパターンのため、どうなることかと少しばかり緊張していたせいか。身体が固くなってしまい、ショートの方で若干ミスをして出遅れてしまう。
 しかしその日の夜にヴィクトルが電話をかけてくると、開口一番。俺は一位だったけど勇利はどうだった? なんて具合にいい感じにあおってくるのだ。
 おかげで単純にも闘争心をいたく刺激されると、翌日のフリーの演技で巻き返し、パーソナルベストを更新する。そして一位をようやく勝ち取るのであった。
 そんなこんなでその年の大会をひとまず良い形で終えると、数ヶ月ぶりに九州の実家へと一時的に帰省した。

「ただいまー」
「ああ勇利、おかえり。ヴィッちゃん、今回はお仕事で来れなくて残念ねえ」
「なんか、撮影の仕事があるみたいで。って言っても、年始は休みが取れそうだから、その時にこっちに来るって息巻いてたんだけどね。それ以外の休みは、フルで仕事を詰め込まれて本当大変そうだからさ。実家はお正月の準備で忙しいってことにして、僕がロシアに行くことにしたよ」
「あらあら、そうなの。ロシアからこっちに来るだけでもえらく大変だものね、それがよかよか。長期で休みが取れたら、また温泉に入りに来てねって言っておいてね」
「うん」
 というわけで、勇利は実家にかれこれ五日ほど滞在する。ただし今回は以前のように家でダラダラすることは無く、ほとんど一日中アイスキャッスルはせつにいるか、トレーニングを行っていた。
 とはいえさすがにロシアに向かう大晦日の日は家でゆっくりとしていると、昼食時にまさかの。お節料理が出されたのに目を瞬かせた。
「まだ大晦日の昼なのにいいの?」
「ちょっと早いけどね。出来立てだし、せっかくだからってお母さんが。あんた明日にはいないんでしょ?」
「うん。予定では今日の夕方の便でロシアに戻る予定」
「ふーん、そっか」
 年末年始に大変だねと言われるものの、好きでやっていることなのでどうということはない。
 ただこの忙しい時期に唐突にやって来て、少なからず家族に迷惑をかけている自覚はある。したがって落ち着かなくてごめんと口にすると、苦笑混じりにほとんど家にいなかったじゃないと言われた。
「今回は外で何してたの。練習?」
「あ、うん。ちょっと四回転を何とかしたくて」
「もしかして、それってアクセル?」
「――っ!? なっ、なんで、それをっ」
 四回転アクセルを練習している話は、メディアにも今のところ出ていないはずだ。
 それがまさかの。一発で言い当てられたのに目を白黒とさせていると、プッと吹き出された。
「グランプリシリーズのファイナルでヴィクトルが跳んでたからさ。あんた前にヴィクトルのフリープログラムを真似して滑った動画、ネットに上げてたくらいだし。たぶん刺激受けてるだろうなって思ったら案の定だなって」
「一応言っておくけど、あの動画を上げたのは僕じゃなくて優ちゃん家の三姉妹だからね」
「はいはい。まあジャンプの練習頑張って。公式戦で見られるの楽しみにしてるよ」
 そこで真利はひらひらと手を振ると、店の方を手伝うためか。居間を後にするのであった。
 ただなんだか落ち着かないのは、ヴィクトルにも秘密にしている特訓を即刻見破られたからだろうか。せっかく驚かせようと思ったのになと思いつつ、口の中におせち料理を放り込む。
 それを飲み込んだところで店に続く渡り廊下まで走って行くと、その途中を歩いていた姉の背中に向かって、みんなには秘密だからねと大声で告げた。

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